2010/09/14

歎異抄を開いても・・・



ども、unreveのグッさんです。




以前「仏教は日本を救う」とか書いてましたら、
最近仏教、というか仏像がブームになっているのだとか。



仏像ブーム 若者をひきつける魅力とは- MSN産経ニュース



また、仏教本でもある「歎異抄をひらく」
などは20万部近く売れているとの事、
成功哲学の次は宗教で幸せを得たいのでしょうか?



しかしマーフィーを1000回読んでも
成功できない人がいるように、
歎異抄を読んでも幸せにはなれません。



てなわけで、今日は親鸞の弟子である
唯円が書いたとされた歎異抄について。



個人的な意見ですが盲信なく、です(・ω・)b



○○○



「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」(『歎異抄』第三章)


歎異抄でも特に有名で、よく知られる言葉ですね。
以前はこの言葉を「悪党の方が天国に行ける」と勘違いし、
極悪非道を行う「造悪無碍」と呼ばれる人もいたそうです。



善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる、と。



やれやれ。とんでもない話ですが
影響力のある人の言葉は正確に理解しないと
時として大衆を間違った道に進ませてしまうのは
何時の時代もかわりませんね。



そこで文章全体を読み解いていきます(・ω・)b



善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。

しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、



いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、

本願他力の意趣にそむけり。



そのゆえは、自力作善のひとは、

ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、



弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、

他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。



煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、

生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、

願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、



他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。

よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。



弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、

他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり



ここで本文で出てくる
「自力作善のひとは、ひとえに
他力をたのむこころかけたるあいだ・・・」の部分。



細かい説明、解説は人によって様々ですが、
概念として歎異抄では善人とは自力作善の人、
つまり他人の力を頼らないで生きていて
自分の本質を知らず、自分が善人だと勘違いしてる人です。



阿弥陀仏の救いに身を任せずに、
自分の力で善を積んで悟ろうと、
「自力作善する」意味での善人ってこと。


また、悪人は煩悩具足(心が落ち着かず、
常に悩みの原因となる欲望がある人)の事であって
自分の力では輪廻を離れることができない、
阿弥陀仏の本願力をたのむことしかないと「自覚した人」のことです。




つまり道徳的な意味は関係がなく、
「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」とう言葉の意味は、
阿弥陀仏の本願を頼まずに自分で善業を行っていく人でも往生できる。
ましてや阿弥陀仏の本願を頼っている人が往生できることは当然だ。といった意味なんですね(たぶん)



阿弥陀は全人類すべての人間を
「金輪際助かる縁なき者」と言っていますが
人間が罪人であり、悪人なんだと本人が自覚した時、
そんな自分をも救ってくれる阿弥陀仏の本願を知り「このような罪人である人間でも往生できるんだ!」と、信仰するのだと。


最初から人間は「善い者」と
思ってるからそれぞれが「悪の対象」を作るわけで、
そうじゃなくて人が全員悪いんだけど
「こうやって現世に生まれたんだから良い事をして人生を送ろうね~」ってことです。



「おいおい、自己評価が低すぎるだろ」と思うでしょうが、
その考えの愚かさを、仏教では人間の本質として見抜いたのでしょう。



まあそんな事を書いてしまうと身も蓋も
コンサルタントの仕事もアメブロの自動ペタツールも無くなってしまうのですが



「俺ってスゲー良い事やってる!」という
思いの裏側に潜む「心の狭さ」が自覚ができない人には
ならないように心がけたいですね(^^♪




ではでは、また次回。


Bless youアップ


暖簾分け


日本の退職金の始まりは江戸時代。
現在の三越(旧三井グループ)が始めたという「暖簾分け」が起源だと言われます。



店で働いている奉公人が独立して店を持つ際、
その手助けとして、現物支給でのれんを渡してたのが発祥なんですね。



それが、長年の勤労へ対する報奨として
現物から退職金というお金になりました。




暖簾とはお店の屋号を記すことから
信頼を意味するんですね。





今回はその「暖簾」について。
FCとは暖簾分けだと思っているunreveのグッさんです^^










さて、暖簾分けは料理の世界では特にさかんに行われています、
有名料理人のお弟子さんがオープンさせた店とかよく聞きますよね。



これはその店の味、その店の技術を守って行きたい、という
純粋な継承スタイルだと思うのです。



フランチャイズと書くとビジネス寄りなんですが、
暖簾を分ける、というとなんだか人間味が出てきます^^




成功とか投資の概念だけでは本部と加盟店は
どうしてもステークホルダーの枠が出てくるんですが、




この味・このサービスを自分の住む地域に伝えたい!
という加盟店側の意識なら、ずいぶんと違ってきますよね。




そう考えると暖簾とは、親から子。孫からひ孫へと続いていく
家系図と似たようなところがあります。




何百年と続く歴史が暖簾という形に凝縮される、
これって日本的な情緒があると思うのは僕だけでしょうか^^?



お店が繁盛した。その店にほれ込んで弟子ができた。
その弟子が独立した時、同じ名前(暖簾)で増えていく。



そこに縦割りの組織体系とか中央集権とかはなく、
受け継ぎたい、伝えたいという気持ちだけです。




□■□■□




そこから生まれる「守・破・離」の精神、




「守」とは、師に教えられたことを正しく守りつつ修行し、
それをしっかりと身につける。



そこからの「破」で、師に教えられしっかり身につけたことを
自らの特性に合うように修行し、自らの境地を見つけ、



それらの段階を通過し何物にもとらわれない「離」へ向かう。







うーん・・・実にいーです( ̄▽+ ̄*)ジミジミ






ちなみに蕎麦屋さんって、
昔から暖簾分けの文化が根強い、と言われます。




でも味が同じかというとそんなことない。



しょっぱいものを好む地域とか
甘いものを好む地域とか、


量が多いほうがいいとか、逆に少なくして上品なほうがいいとか。
その地域地域の特性に合わせて商品を作っているので、
結果味も変わっていくらしいですね。



ただ、暖簾の精神が根底にある。
「こういう所を大事にしてる」とか、「この精神でやってる」と。




それって理念共有の一番大事な部分だと思うんです。
だから同じ屋号でもコピーではない、
FCのサービスの統一とは全く違う部分ですが、




僕はこれが一番大事な「お客に対する心配り」だと思うんですよね。
FCにしても同じ事が言えるんじゃないでしょうか?




FCの既成概念をここまでぶっ壊すのは僕くらいなんですが、
実用・現場主義で考えるとこれがベストな気がするんですよね。