2016/03/31

雑記







今まで姿鏡というものを持ってなかったんで、
通販で買ってみました。







こやつ。














フレームの柄が気に入ってます。
さすがイタリア、形も良い(゜゜)♪













ただ。
















背が低い














これ、立ち鏡じゃない。









全身映るまで下がると、誰か分かんない。







かと言って、手鏡でもない。








・・・・・(。-`ω-)失敗だな










気に入ったら他のことが見えない癖を
治そうと思う、今日この頃。








2016/03/30

対話篇~桜折るバカ、梅折らぬバカ②~





「あー、久しぶりに昼間から飲んだ~」




「なかなか良いもんだろ。怠惰ってやつも」




「あんたみたいになるのはイヤだけどね」




「今の制度がなくなれば、誰だってなるさ」








「さっきの話だけどね、僕はある程度の
分類って、当たってる気がするんだ」




「そうだな。タイプ別診断は結構当たるもんだ」




「でも、君はそれを否定してるよね」




この間の記事、ちゃんと見たか。
完全に否定してないだろ」




「見たよ。この記事と繋げてるんでしょ」




「だったら分かるだろ。さっきのどこに
「わたし」なんてもんが入ってるんだ?」



「入ってないけど・・・ちょっとは入ってる」




「ちょっとって何だ?量か?質か?」




「絡み酒め(笑)」




「君の人生の出来事はいつでも個性的だ。
それはどの人とも同じではない、君だけのものだ」




「うん」




「けれどさっきのようなものが前提に居座ると
人類という種、パターンの方が現れるよな」




「うん」




「それは実に抽象的な「じぶん」じゃないか。
逆を言えば、分析とか分類という方法は
我々の個別的な経験はどうすることもできないのだ」




「(絡むかと思えば熱く語る。。。。
この人と酒の相手をする人は可哀想だな)」




☞☞☞




「そんな事やってると、人を知ることが
だんだん難しくなってくると思うな」



「そうかな、逆に簡単のような気が・・・」




「つまり結論を急ぎたいんだろ。
男か女かみたいに、すぐ区別をつけたい。
悩みたくないから判断材料を持っておこう、と」



「そうじゃないよ。もっと簡単で具体的に
分かりたいって思うことは悪い事じゃないでしょ」



「では医者から風邪って言われたら
症状が具体的に分かっているってことになるか?」



「そうじゃない?熱が出て、体がだるいのは一緒でしょ」



「じゃあ、ノイローゼ患者は?鬱は?」




「みんな精神が・・・・正常じゃないんだよ」




「正常って何だ?何を基準としての正常だ?」




「・・・・・・・」




「ノイローゼや鬱の人と、霊に憑りつかれている
人は一緒のように見えるかもしれないな。
もしかしたらその人は天才で、その精神によって
大きな発明をするかもしれない」



「なに言ってんの、馬鹿々々しい」




「心理学的な知識に寄りかかってると
その違いは分からなくなる。君のように
一笑されるか「異例なケース」だと言われるだろうね」




「・・・・・・・」




「コンサルのノウハウや過去の
成功体験ってやつもそうじゃないのか?
まさに知識に自惚れてしまってるわけだろう」





☞☞





「真面目に話すなら、カントが言うように
科学的な考えってやつは相対的な知識じゃない。
ありゃ、絶対的な知識ってやつだ」




「そうだよ。疑ったら元も子もないよ」




「おっ、90点」




「?」



「まさに科学の元とはその前提なのだ。
科学の知識が絶対なのは対象が物質だった場合だけだよ」




「・・・・・物質」




「例えば質量保存の法則だってそうだ。
孤立系のエネルギーの総量は変化しないのは
その対象が物質においてのみ成立する」




「・・・・・・・」



「自由意思で生活している我々人間が
エネルギーを保存できるわけないだろう」




「でも、僕らの体は物質じゃないか」




「肉体としてはね。だから男女は
絶対的に区別ができるだろ」




「・・・・・・・」




「ただ精神、心は物質じゃない。
物質的肉体は男でも、精神は女性だってこともあるんだ」



「見えるところ以外は
区別できないってことだね」



「だけど人はスパッと分けたい。
見えるものとして把握したいわけだ」




「だからカントは証明したんだ。
本質は学問できないって」




「もちろん人には変わらない本質はある。
ただ、それは常に個別的で揺らいでいる。
バリバリの唯物論者が急に宗教に目覚めたりするだろ」




「社会的なものから作られた性格は
変わるってことだ」




「そっ。僕はそういった違いが分からない知識人を
桜折るバカ、梅折らぬバカと呼んでいる」



「人間の都合で法則を作ってる人だ」




「人間の分際で神をきどっても
人間以上のことはできない。
番号ふって機械みたいに取り扱うくらいだ」




「人が人を定義するって
できないんだろうね」




「そう。僕は本質を話してるんだ、
なーんて堂々と言う奴は大抵
何も分かっちゃいない」



「語れないから
目の前の人をちゃんと見るんだ」




「だからこそ一期一会。この桜を見れるのも
この瞬間しかない。さっ、花見を楽しむぞ」






対話篇~桜折るバカ、梅折らぬバカ①~






「わー、桜だ~満開の桜だ~」




「ふいー、見事なもんだな」




「あっ、一人でお酒飲んでる!」




「花見と言えば酒だろ」




「毎晩飲んでるくせに・・・・」




「日本人は繊細だな、月を見て飲み
桜を見て飲む。こんなこと海外ではどこもやってないよ」




「そだね・・・・あっ、今日は僕も飲みたいな」




「お前が酒なんて珍しいな」







「ふー。ねえ聞いてくれる?」




「何かあると思った。どうした」




「この間、すごく傷つくこと言われたんだ」




「・・・・・」




「あなたはかに座のO型だからこういう性格でしょ、
私とは相性が悪いからすぐ別れるでしょうねって」




「ぶはは」




「笑うな!・・・・・そう言われたら
どうしていいのかな」




「そんな女、相性なんて関係ないよ。
遅かれ早かれ嫌になる」




「そんなことないよ!」




「君を君としてではなく、
タイプや種類として見てるんだろ。嫌になるさ」




「・・・・・」




「血液型という4種、星座の12種。
それと自分の種との関係性で判断する人っているんだな」




「それだけじゃ・・・・」




「そう、それだけじゃない。
しかし前提のフィルターはどっちだ?君か?種か?」




「・・・・・」




「多分後者だろ。山田太郎を見ているんじゃない。
人類の日本人系O型、かに座科なのだ」



「いつから僕は山田太郎になった」



「まだ名前が決まってないから仕方ないだろ。
まあ、そう言う人に限って都合が悪いことが起こると
安心できる人の詳細な知識を持ってくるもんだよ」




「詳細な知識?」




「まさに有名な占い師とか
セラピストが言ってるやつじゃないか」




☞☞☞




「こういったものは昔からある。
人間がいつも変わらないって証拠だな」




「そうなの?」




「平安時代には文字として残されているね」




「それって、紫式部の大和心?」




「紫式部が言ったのは大和魂。
大和心は赤染衛門だ」




「誰それ?」




「大江匡衝の奥さん。大江は平安時代の歌人だよ」




「あんまり有名じゃないね」




「大江の歌う和歌は非常に男性的な歌だったんだ。
例えば、こんな歌を詠っている」



儚くも思ひけるかな乳もなくて博士の家の乳母せんとは




「この乳は知識の知がかかってる。つまり
知識もない女が博士の家の乳母になるとは、
ずいぶんおかしなことを考えたものだ、と」





「・・・・・よく分かんない。皮肉なの?洒落なの?」





「洒落だな。そしてそれに対し、
奥さんの赤染衛門はこう返したんだ」



さもあらばあれ 大和心し賢くば 
細乳に附けて あらすばかりぞ





「・・・・全然わかんない」




「そんなもの、一向に構わないではないか。
大和心さえ賢ければ、乳など出なくとも子供を預けて
良いではないですか、って言ってるんだな」。




「さすが母ちゃん、って感じだね」



「そうだ。固い知識を盲信する男性に対し、
柔軟な知恵を女性は知っていたんだな」



「なるほど。理性派生と感性派生の違いか」



「昔の学問は男性のものだったからな。
そこで赤染衛門は思ったんだ。どうして学問する男はこうも
機転の利かないバカになるのか、ってね」



「男って、昔から頭でっかちだったんだね」



☞☞



「知識と言うもので人を固定してしまう。
これは今も昔も変わらないもんだ」




「だって、頼りやすいもん」




「知識ってやつはレッテルの役割にもなるからな。
それを貼ってさえおけば、考えずに済む」




「考えずに・・・か」





「スミレの花を見つけた時、スミレだと思ったら
もう目の前の花なんて見ちゃいない」




「小林秀雄だ。まだ守破離の守やってんの?」




「仕方ないだろ、余りにも深すぎて
ちっとも破れないんだから」




「もうかれこれ6、7年・・・・」





「うるさい!話が折れたから次回だ!」




「はいはい」



2016/03/27

桜は美しいだけじゃない。




桜が咲き始めました。
先日見ると5分咲だったので、
来週末が一番の見ごろでしょう。



生命の躍動を感じるこの季節。
毎年ワクワクしますね(´-`).。oO








咲いて歓び、散って惜しむ。
我々は千年前から変わらず、桜を愛しています。



多分、もっと多様な時代になったとしても、
その愛情は変わらないんじゃないでしょうか。



西行法師も本居宣長も桜を愛してました。
本居さんなんて、遺言に絵まで描いています。



死んだら、自分の墓には一流の山桜を植えてくれ、と。



なるほど。本居さんのことを調べれば
染井吉野ではなく、山桜ではないとダメでしょうね。



熊本(阿蘇)にある山桜。




今の日本の桜の大半は染井吉野、
明治に入って広がった新種の桜です。



一番育てやすいということで、植木屋と
文部省が結託して学校を始め、一斉に植えられたものです。



山桜と染井吉野は違います。
僕はよく見に行くので分かりますが、
山桜は花と葉っぱが同時に出てきます。



また、染井吉野と違って一気に散るのではなく
ゆっくりと散っていきます。



昔の日本に咲いていた桜はみんな山桜です。
古来の日本人は、その桜が好きだったんです。



勘違いしている人も多いのですが、
桜は武士の生き方の様に一気に咲いて、
一気に散っていくものなんかじゃない。



もちろん、染井吉野のような潔さも十分に綺麗です。
小林の言うように「低級な桜」とは思えない(笑)



ただ山桜には別の美しさ、気品というものが
あるなということが、この年になって分かってきましたね。



☞☞



「敷島のやまと心を人間はば、
朝日ににほふ山桜花」



この有名な歌は山桜と大和心を歌っています。
におふは(匂う)と言う漢字ですが、
ここでの意味は「色が染まる」ということ。



万葉集の時代での匂うとは、
嗅覚だけじゃなく、視覚や触覚に現れていた。
朝日を浴びた山桜はまさに「匂う」といった感じがしたのでしょう。



古来の太陽は神聖なものです。
神と交わることで花が咲き、それが徐々に散っていく。



まさに我々も同じようなものでしょう。
そこに古来の日本人はもののあはれを
感じていたんじゃないですか。



死と再生の象徴だという端的な言葉で
桜を表現してしまうのではなく、



奥底で「感じる」美しさというものを
我々は確かに感じる、という感性の経験、認識です。



「なるほど、これが私の持っている
美意識であることは間違いない」と実感するんです。







美は語るものではなく、感じるもの。
教科書を開けば載っているというものではありません。


ただ形式にできないけれど存在するという
事実は桜を見れば明らかじゃないか。


宣長はそう言っているように感じますね。
桜が国花である所以は国民性の象徴というよりも、
桜を媒体として自己の精神性を認識することです。



その美意識は誰だって持ってます。
だから相反する「美ならざるもの(醜)」を見たとき、
我々は強烈に違和感を感じ、抵抗するのです。



それが内なる心の声ってやつじゃないですか。



昔の「汚らわしい」という言葉や「下衆(げす)」という
言葉は見た目じゃない。醜悪な精神に嫌悪しているんです。



その判断を根底で支えているのが美意識です。
これは道徳的なものではない我々の持っている
本来の善性だと思ってます。



そしてそれは悪の対義語ではない。
対義語だったら関係性はイーブンですからね。



確かに醜があるからこそ、美は存在するれけど、
美意識は醜を包括している、包みこんでいる



桜の美しさは散っていく姿も含まれています。
生まれては老いていく人間の美しさもまたしかり。




だからこそ美しい、と。
来週が楽しみです。




2016/03/25

自然は贅沢を許さない。




画一化や再現可能性においては、
自らの知恵を絞って試行錯誤する必要などはない。



与えられた大量の課題をこなす処理能力と
それに付随する忍耐力だけが求められるだろう。



付け加えるなら、その事に対する
疑いを持たない従順さと正確さ。




その際、マニュアルは非常に便利な道具となる。
つまり画一化とは個人の創造性を拒絶する行為である。







例えばこれが理想の体重を目指そうとジムに通い、
コーチの作ったメニューをこなす場合なら良いだろう。


受験のように、すでに用意された答えを
解く場合も塾に行けば良い。



しかし当然ながら我々の人生にメニューや
カリキュラムなんてものは用意されてない。



理想の「数」なんてものはないじゃないか。
そもそも理想や幸福なんてものは測れないだろう。



故に、全く同じ結果、同じ理想形を
手に入れたとしても、幸せになるとは限らない。



金を10億持ってても不幸に感じる人だっている。
そこに人間の人間たる所以があるんじゃないですか。



☞☞☞




面白く不思議なことに、我々は全く同じ人間を
見たことがない。双子であっても全く一緒ではないだろう。



雪の結晶だって、それぞれが違う。
同じ形は一つとしてない。



いままで降り積もった雪の一つ一つが
全て違うと思うと想像を絶してしまうのだが、
そんなもの、容易いことなのだ。




作れないのではなく、作らない。
これは自然が暗に伝える働きであり、摂理なのだ。




自然は同じものを決して作らない。
そんな贅沢を許さないのだ。








ただ見れば、そういった異なる結晶は
結晶を結晶たらしめる型、パターンがある。



我々人間だってそうだろう、
(基本的に)目は二つ、鼻は一つ。



食って、出して、寝るという行為も
種として変わらない。あるのは程度の違いである。



つまり全く異質ではなく、同一性と
特殊性という矛盾が自己同一しているのだ。



そんな「あいだ」として存在しているのが、
自然の生命であって、それが宿命というものだろう。



喜怒哀楽という異なる感情を持つのもそう、
死ぬまで葛藤という精神の摩擦が起こるのもそう、
命には必ず宿っているもの(宿命)である。



だったらそれこそ、実体と呼べるんじゃないか。
自然はそれが「理想」だと、無言で伝えてるんじゃないか。




☞☞☞



現在、人は異なるものの中に不変を求め、
不変の中に、違いを求めているような気がする。



それが画一的な理想への追究、
つまり「正解探し」ってやつだろうが、



そこは自然からすれば異なる場所、
許してもらえない領域じゃないだろうか。




個性だ多様性だと言いながら、
向かっているのは同じじゃないか、
それを見て見ぬフリをしているんじゃないか。




異ならないものはそれほど存在しない。
道徳や法律のように、たくさんあるものではない。




それを常識だと認識することは難しい事だ。
なぜならそれは常に定義を逃れ、揺らいでいる。



はさみ過ぎ。。。






無性に「サンドイッチ」が食べたくなりまして。








買い物しようと町までー、
出かーけたーが、






加減を、忘れて。










しめて、2205円なり。





☞☞








てなわけで、男クッキング(・∀・)






まずは









レタスハムチーズタマゴサンド!












略してっ!









誰か略して!







続きまして!








ドラクエのミミックみたいなやつ!





略して!










美味し!








ちょっと焼くのが
ポイントです( ̄▽ ̄)b







☞☞☞







なんでパンに挟むと
こうも美味しくなるんだろ(´-`).。oO








最後に。




沖縄にあるA&Wさん、九州に来てください←














2016/03/24

逆説的魅力






孤独になって一人考えることにより
その殻をやぶって世界が開けてくる、ということがある。



それと同じように、他者と対話することにより
自分と言うものが一層、分かってくる。



これすべて、逆説的な魅力。
一は多であり、多は一へと変じる。

2016/03/22

自分の感受性くらい




カントの言う先験的感性、つまり生まれ持った
イマジネーションというものは、
実に人それぞれだなあと思いますね。



僕は天才じゃないから分からないけれど、
感性の鋭敏な天才が見ていた世界ってやつは
一体どう映っていたのか、見当が付かない。



仕方ない、彼らは意識ではなく精神で
物事を見ているところがある。







ただ、我々も感受性さえ失わなければ
その眼差しをある程度、得ることができるでしょう。



昔の日本には「心眼」って独特な
言葉があるじゃないか。
それは生理学のいう肉眼とはまったく
別の認識方法です。



眼球はこれが水晶体でこれが網膜だと
絵や言葉として説明できるけど、心の眼は
説明できるものじゃない。



しかし、我々は何となくそれが分かります。
まさに、存在しないけど実在していると
認識している証拠です。



人は見た目が大事と言いますが、
それと人を見る目がある人が見ているのが
別物なのは、明らかでしょう。



確かに年を取れば内面が顔に出てきます。
これはどうも間違いない。



しかし、それはハロー効果のような
造形美的な魅力とは違います。



なるほど。
肉眼で見えるものは人をよく騙す。



だからベルグソンは眼があるから
見えるのではなく、眼があるにも関わらず
見えている、と言ってるんです。



そういった認識はいくら機械が発達しても
真似できないんじゃないか。



☞☞☞



そういった感性の働き、使い道ってやつを
早くに知っておけば人生は大きく変わっていくでしょう。



子供だからって甘く見ちゃいけない。
余計な理性が働いてない分、物事を見る目は
我々よりも鋭いものを持ってます。



例えば、我々の小さい頃を思い出せば、
ある程度の年齢になったら親の性格などすぐに
見抜いていた、看破してたでしょう。



親の魂胆など、全てお見通しだった。
ただ力がないから、渋々従ってたんです。



こういった心を大事に守っておけば、
社会に出ても、良い意味での反骨心になる。



しかし多くが大人になると
傲慢な心でその感受性を隠してしまう。



昨今、しきりに子育ての方法が叫ばれてますが、
母親が科学や心理学的観点で子供を見てどうするのか。



本来、母親は子供の様子をチラッと見ただけで
何を考えているのか分かるもんです。



その直観は交わりからくるもの。
母と子の交わりはそれだけ強いんです。



それなのに理性で解釈してしまうわけだ。
最近できたような育児法など、僕は信じませんね。



☞☞



無論、それくらいなら何の問題もない。
まあ、あるっちゃありますが。



問題は、これが極端になるとそんな自分を
正しいと思い込んでしまうんです。
論語で言う「過ちて改めざる」人になる。



よく観察して見れば分かるでしょうが、
そんな自意識で自己を主張している人は
ちょっと気が変になってます。



僕も自意識に負け、足を踏み入れる時が
あるのでよく分かりますが、あの時は非常に
危うい精神状態になってしまいますね。



自己の主張しているものをちょっとでも
傷つけられると、途端に気が狂ったように
人を傷つけてしまう。



仮に自意識が満たされてもすぐ渇く。
ありゃ、一種の薬物中毒みたいなもんだな。
薬じゃなく、自意識が空想の世界を作ってる。



そして、その幻想の中では自分が英雄です。
自らの行為を顧みない、神になってしまう。



今起こってる事件や政治家の発言を見ると、
まさにそのようなものだな、と思ってます。







感受性の使い道を心得ている人は
心の中の設計書を作ることができます。



そして、その設計書に従って表現しようとします。
これは創作の原理です。



彼らは皆、道を歩みながら家を建てています。
そして、そこは誰でも入ることが許されるので、
我々はその中で様々な体験を得ることができます。



そういった人が、芸術家であり、作家であり、
作詞家と呼ばれるんじゃないですか。



だったらベンチャー経営者はみな
経営家と呼んで良いじゃないか(笑)



否、経営の語源は経世済民だから経世家だな。
0から1を創る、やってることは同じです。




「後記」




とまあ感受性は大事だけれど
僕は鋭すぎる人にはなりたくない。
むしろ天才は可哀想だなって思ってます。



あんまり鋭いと気が狂いますからね。
切れ味が鋭すぎて、自分自身を傷つけちゃうんです。



だから丁度いい具合が一番良いんだけど
難しいな、やっぱり。




2016/03/21

最近見た、好きな漫画





知り合いに「ワカコ酒」という漫画を
勧められて、読んでみました(゜゜)











簡単に書くと「女一人グルメ漫画」なんですが、
これがまあ、面白い。










この生き方、すごく好き。
ワカコさん、素朴な幸せが分かってる。




ちっとも派手な生活じゃないし、
目立つようなキャラじゃない。





でも、それが良い。
こんな女性に出会いたいわ(笑)






ちなみにこれなんか、僕とダブるなあ。




酒飲みにはお勧めです。



2016/03/20

歓びは常に自己中心的で自然に派生するもの。




心に浮かんだことを筆に任せて書くことを
随筆と言いますが、



僕のブログはこの「任せる」部分が大きいですね。
こう書いてやろうという計画性が全くない(笑)



まあブログはソーシャルと違って
対話目的ではないので好きにやってますが、



困ったもので、
僕が自分の思う考えを発信すると
どうしても誰かの思想を蹴とばしてしてしまう。
ともすれば反社会的思想にもなってしまう。



もっと整えなくては、と思うんですがね。
なかなかうまくいかないものです。




と、言い訳と前置きはそれくらいにして、
今日はそんな所から。。。。







僕はよく仕事への「情熱」について書いてますが、
情熱は他人が強要できるものじゃありません。



「それは君の情熱が足りないからだ」って言う
熱血漢は、ある意味分かってるけど分かってない(笑)



それを正確に書くとするならば、
自分で歓べるものを認識する」ってこと。
常に自己中心的、自然に派生するものです。



情熱は必ず、この「歓び」を伴っています。
逆を言えば、この土台がないと何も始まりゃしない。


信念の有無だって、歓びの有無ってことです。
そこに「本人の」楽しみがなければ、どれだけ
優れたことをやっても意味がない。



まあ、意味がないと言うのは極端ですけどね。
それが重要な幸福の素材であることは
経験上、間違いないと信じてます。



☞☞☞



得る歓び、会得した歓び、表現した時の歓び。



自分の中にあるもどかしさを整理できたとき、
人は歓びを感じます。芸でも術でもそうですが、
我が物になるとはそんなものです。



こういったものが個人の心の内にあれば、
情熱は絶えることなく、やってることへの信念も
どんどん深まってていくでしょうし、



人と比べてやれ損だ得だとは
思わないはずです。



「なるほど、そうか!」という自己充実感は
誰しも経験したことがあるでしょうが、
その歓びは感じるだけで十分。



わざわざ人を説得しようなんて思いません。



もちろん、それは自閉性や社会的視野の
狭さを招く可能性もあるのだけど、



それがないと、信念に育つことはない。
そもそも「創る」っていうのは、そういう行為です。



逆を言えば、歓びの実感が持続しているのならば、
信じるに値する土台となる、僕はそう思ってます。



☞☞



思えば、こういった歓びというものは
必ず苦しみが伴います。



ここは断言しても良いですが、
苦しくない所に情熱は起こってませんね。



一流と言われる人はそのことを知ってるみたいです。
やれ楽しいな、面白いな、だけでやってる人は誰もいない。



なるほど。何であれ
易しく、単純なものなんてすぐにつまらなくなるもの。
人生だって、容易くクリアできると飽きちゃうでしょう。



だから我々は永遠に問い続ける、と。
志向する道は普遍へと続くのは分かってるけど、
それ自体は決して、掴めない。



それがいつの時代も変わってないってことは、
我々の精神がそういう風にできている証拠です。



それは成長するためのシンプルな原理、
幼児の時からまったく変わってませんね。




「後記」



ここで言う認識とは研究したり、
分析して出てくる知識じゃない。



水をh2oとして認識しても、人間を脳科学、
心理学的に定義したり分析しても、
リアルな実生活ではちっとも役に立ちません。



世間ではそんな解剖学みたいな
ことばっかりやってるみたいだけど、



それは何かしら相手を説得し、
利益を得ることが目的だからでしょうね。



利益がないのに相手を説得する人はいません。
人は他人に雄弁に語ったり説得しようするのは
いつだって、何かしらのメリットがあるんです。



ファンや信者を増やす物質的利益、
自己優越感に浸れる精神的利益、



その為の万人を納得させる「知識」です。
説き伏せりゃ勝ちですからね、そりゃそうです。



もちろん、そんな利益を追うのは我々が持つ、
ごく自然な感情なんですが、



そんなものを土台にすると必ず頭打ちになる。
僕流ですが、そう思ってます。




2016/03/18

信じるとは。





「信じる」って言葉は日常当たり前に
使ってるので疑問すら持たないけど
調べれば全然合理的なものじゃありませんね。


例えば「信念」とか言いますが、
そこには感情もあればイマジネーションもある。
道徳的なものが入ることだってあるでしょう。


そんな様々なものを抱え込んで、
我々はその対象を信じてるんです。
不思議ですね。実際は根拠なんてないんですよ。



なんだか分からないけれど、ここに
物事の本質があるだろうと直感する、と。



例えば年商一千億を超えている企業の
経営者は「神頼み」をしてる人が多いと言います。


会員制で、年間数百万払ってお告げを聞く。
それってもう原理的に説明できないんだけど
実力も人脈も知識もある人が成功できず、
それより劣ってる自分が「なぜか」成功した
という経験を持った人は「それ」を信じているんです。


☞☞


反面「知る」ってのはいたって簡単なこと、
「誰でも同じように成立する情報」を得ることです。


そこに上記のような複雑な感情は入りません。
つまり我々の広大な経験領域を合理的経験だけに
絞ったものを「知識」と呼ぶのです。


それは狭いがゆえに加速的に発展することが
できました。しかし(諄いようですが)
我々はある程度の慣習に従って生きているけど、
背中には膨大な無意識を背負っているんです。


そのごく一部が意識として
合理的に働いてるだけに過ぎない。
そういったものが「感覚的に」分かってる人は
計測した数字ではなく感覚の方を信じます。


常に決定素材は流動している、と。
僕はそんな人が知恵のある人だと思ってます。





極論、人間には二つの道がある。



万人として知識を「知る」という道と、
個人として認識し「信じる」という道です。



個人としての信じることは常に個別的。
それは証明することは不可能なものです。



「僕は魂を信じる」というように、
経験は他の人とはどうしても共有できない。



それが経験的事実ってやつですが、
そんな人間の理性を超えたところに
本質ってものがあるんじゃないですか。




行動を繰り返すことで成功する人もいれば、
成功しない人もいる。



人の忠告を聞いてうまく行く人もいれば
我が道を進むことが正しいと言う人もいる。




怠けて成功、努力して成功。
怠けて失敗、努力して失敗。




多分、自分の好きなようにやって良いんですよ。




それはずいぶん前にカントが証明してます。



「本質は学問では証明できない」と。





「後記」



以前、とある地場飲食チェーンの
事業部長とお話した際、こう話してました。



僕が店長だった時、まったくお客が
入らなかった時期があった。



提供時間は悪くないし接客も良い。
場所も問題ないので、原因が分からない。



ずっと上司から怒られるもんだから、
お祈りとかお祓いにまで行ってましたね。



そんなある時、ふと「店内のBGM」の音量を
大きくしてみたくなったんです。



するとね、お客が増えだしたんですよ。
そこからどんどん売り上げが上がりだしたんです。




一般的な感覚で聞くと
「そんなわけないだろ、馬鹿々々しい」と
言いたくなりますが、



僕はこの話は実に健全な思想だと思ってます。



多分に、その部長さんの経験した秘密は
こういった感受性にあったんじゃないか、と。




機微





この仕事はくたびれる。
実に骨が折れることを毎回やっている。



事業規模や経営資源を見極め、
屋台骨を真っ二つに折ってしまうことの
ないよう、当事者のように未来を進めていくのだから
むしろ疲れない方がおかしい。



将棋だって指すのは一瞬、そこに辿り着くまでが長いが、
多分に、そういうことだろう。








最近「やってみないと分からない」という言葉は
先に出すものじゃなく、全てをやり尽くした結果
「自ずから出るもの」だということが分かるようになった。



故に、一定のルートを辿った後は
必ず対話が中心となってくる。



その時に話すテーマは実に様々、
働くとは、何なのか?自立とはどんな状態か?
商売とは?多店舗化の意義や正当性はなんなのか。



そんな哲学的なものまで話すのだが、
こうしたテーマを追求せず、無責任に広げることは
できない。



否、(経験したら分かるだろうが)
できなくなってくるものだ。



ここで言う追究とは学問的なものじゃない。
あくまでもその人が行う個人的な決着ということ。



つまり「知る」ではなく「信じる」ことである。




僕はその決着を導きだす立場である以上、
それに必要な知識と経験と智慧を持つ必要がある。



「教科書通り」の客観的情報は誰でも知っている。
大事なのは、問いの立て方であって、
それが柔軟な認識ってやつだろう。



学んでばかりの人間は、それが出来ない。
「正解を知ること」ばかり焦って求めてしまう。



形式知は人をダメにする。ノウハウだってそうだ。
なぜって、現実に対応する「あなたの」心の働きじゃないだろう。



それは殴られて痛いと感じる経験と同じこと。
この「痛い」って感じる心は主観的でも客観的でもない。



例えば、涙ながらに母親に叩かれたことを
いつまでも忘れられないとする。



それはつまりその時の「叩かれる」と言う経験が、
その後の人生に関わっていると言えるよな。



だったら世間一般の「叩く」という行為とは
全く異なるじゃないか。他の人が同じことを
されても、すぐ忘れる場合だってあるだろう。



それが直接的な経験というもの。
万人として意味を「知る」のではなく、
個人的な経験の中から訴えかけるものを信じることだ。




「後記」



今回書いてるように、僕は必要性がある時だけ
学んでいるのであって、学ぶこと自体は趣味ではない。



人生、楽しい事はたくさんある。
旅行だろ、美食だろ、温泉だろ、恋愛だろ(笑)、



まあ、その楽しさと学びの楽しさは
別物だって人もいるだろうけど、



学びが趣味です、って言ってる人は
ちょっと危なっかしく見えるな。




2016/03/16

次の一手。。。






ドラクエの「ルイーダの酒場」みたいな
リアル・プラットフォームを作ってみたものの、



とある事情から一気に潰して
はや数年。。。(笑)




元手がある程度できたんで
そろそろ次の一手を思索してる、今日この頃(゜゜)





懐かし






似たようなもん作っても面白くないけど、
全員が首を傾げるようなものでも意味がない。




そこで思いついたアイデア。




うん、これはなかなか良いんじゃないか。
後は。。。。。。。だな。






さて・・・・いつ動こう、どう動こう。





2016/03/14

アクセルとブレーキ。




「変る、変れ、変ろう」。



そう言われても、変わんないよと
言いたくなる今日この頃、



逆説的に言えば、彼らは
変化しないといけないという考え自体に
固執しているんじゃないだろうか。



現在、そのメッセージは一種の
「正しさ」となっているが、そんなわけがない。



無理矢理な「チェンジ!」なんて、もう十分。
そんな抵抗は決して、悪い事じゃない。



だって、それこそ
あなたの求める「変化」なのだから。








変わるものだけが生き残るという
都合のいいダーヴィニズムが目指したものは
現状維持の拒絶なのだろう。



創造は破壊からしかやってこない、と。
ちまたのイノベーションの概念もまた、そこから派生している。



その結果、「常に変化しなければいけない」という
一種の強迫観念のようなものが経営者たちを中心に
蔓延しているのだけれど、



本当に、変化し続けないと生き残れないのだろうか。
常にアクセルを踏んでいないといけないのだろうか。



見れば、社会は強く「安定」を求めている。
それってまさに、変わり続ける社会を
拒絶している証拠じゃないのか。



☞☞



もちろん、逆らい難い時流の中
余儀なく変化せざるを得ないものもあるだろう。



しかし人は本来、安定した土台を求めるもの。
逆を言えば、コアを支えるものが喪失している証拠だろう。



どんな人でも明日どうなっているか分からない
今この瞬間を精一杯に生きよう



一見もっともだが、本当にそう思って生きていけるのか。



複雑で先が見えず、さらに終末感も漂ってるから
そう「思わないとやってられない」んじゃないのか。



どうなるか分からない世界だからこそ、
確かな土台を作るのは大事なこと。



別に大きな偉業をやるわけではなく、
人生を一回性ではなく次世代に渡すバトンとして
考えるだけのことだ。




☞☞




「変わらない理念・暖簾」


「変わり続ける事業・内容・顧客」



これはうちの事務所HPのキャッチコピー
ビジネスだけに限らず、世界には変わるものと
変わらないもの(変えてはいけないもの)がある。



変わらないものは国境を越えても
時代を超えても変わることがない、変わるわけがない。



もちろん、国によって常識はそれぞれ違うけど、
変えてはいけないものは、いつでも、どこの国でも
変えてはいけないのではないだろうか。




常識という言葉は、もともと日本語にはなく、
英語のコモン・センスを訳したものだと小林は言う。



では、その言葉が輸入される以前は
どんな文字を使っていたかというと、「中庸」である。



定義を拒絶し、絶えず疑うことで
「加減」を知っていく、これが本来の常識なのだ、と。





2016/03/12

経験のない言葉は軽い





自分の人生は世間一般の人とは違うけれど、
これくらい豊かなんだよと言葉にする人が増えた。



僕はどうしても社会に適合できないんだ。
でも会社に飼い殺しされている君たちよりも
ずいぶんマシなんだぜ、と。



そう思うのは別に悪い事じゃない。
自分の人生だ、好きなようにやればいい。



ただ、もしそこに「観客の同意」が必要であるならば、
そりゃ自分に嘘をついている証拠だろう。



人に共感されなくては継続できない生き方なんて、
綺麗に仕立て上げたフェイクじゃないのか。






僕はそんな生活が豊かだとも思わないし、
憧れたこともない。



「社会の枠から抜け出す=ひとりで生きていける」
という図式にはならないと思っているからだ。



洋服一枚だって作れやしないし、
食べ物一つだって、育てられやしない。



完全な自給自足など、ありえないわけで、
それらは全て、彼らが批判している社会に
適合している人たちが作っているのだ。



それを好きなだけ使っておいて
「都会は人間の住む場所じゃない」とか
「今の社会は豊かだけど貧しい」だの言ってる
人達を見ると、「良いとこどり」にしか映らない。



ちょっとでも想像力を働かせれば、
そう簡単に現実は批判できないんじゃないのか。



☞☞



この国は年間3万人の自殺者がいる。
約100万人のうつ病患者がいる。




僕の友人は、そんな社会で働いている。
彼らは息子や、娘や、奥さんがいる。
自分以外に守るものがいるのだ。



無論、考え出せば不安にならないわけがない。
ストレスがないわけがない。



時には歯を食いしばらないといけない。
理不尽であっても自分を殺し、頭を下げなくてはいけない。



しかし、だからこそ得るものがあるのだ。



そんな生き方をとやかく言う資格なんて、
誰にもないんじゃないのか。



☞☞



守るものがない人は自由だが弱く、脆い。
だから必ず、たくさんの条件が必要になってくる。



そんな条件付きの精神で人生の何たるかを語っても
現実を乗り越える力などない。共感など一切起きない。



それよりも、我が子を一人前に育て上げた
親の言葉の方がよほど重みがあると、僕は思う。




「後記」


とは言え、極端に頑張り過ぎても良い事はありませんね。
ここらへんのさじ加減は難しいな、やっぱり。




なじみの仕組み





広告宣伝をしてもまったく反応がない
これはどの業界でも起こっている現象ですね。



いくら素晴らしいキャッチコピーで書いたとしても、
素晴らしい商品を取り扱ってたとしても、
発見(認知)されなくては伝えることは出来ない、と。




そして、その認知活動である広告宣伝は
手応えも実感もない。端的に現状把握すれば
こういった感じでしょう。




そんなところから今回のテーマ。




僕の提供しているサービスは
不特定多数の方へ提案するものではないので、
マーケッター的には参考にならないでしょうが、




いつものように、思うように書いてみます(゜゜)









さて、ネットの広告宣伝費がどんどん増え、
他の媒体が年々減っているというデータも手伝ってか、



よしっ、これからはネット広告だ」となるのですが、
そうなると結局、テレビのCMと変わりません。



CMをザッピングする人が多いということは、
企業側からの「提案」を拒否しているってことに他ならない。




昔は認知の度合いと売り上げは比例したでしょうが、
今は知ってても買わない人が大半ですよね。



その結果、現在はアメリカから輸入された
コミュニケーションプランニングが主流となっているようです。




なるほど、「ファンベース」で考えろ、と。



もちろん僕もそういった知人による信頼性からの
集客は非常に納得しているのですが、
この「ファン」の定義が引っかかります。



そもそもこういった紹介的な手法は以前からあって、
行き過ぎた保険業界などはGNP(義理・人情・プレゼント)と
揶揄されたもんです。



さらに言えば、複数の業種の人と
繋がった場合、結局選択肢が増えるだけじゃないかしらん。




美容室をやっている人10人、保険屋さん10人、
飲食店20人と繋がったとしても、体は一つ。




じゃあ、どこを使い「続けるの」か?




そう考えると多層的な要因が急に現れてくるんです。




☞☞☞



思うに、今はキュレーショニングされた
情報が入口なのは間違いないでしょう。



例えば飲食の場合、知人の紹介と
「食べログ」ではどうしても後者が強い。
(もしくは影響力のある人が利用しているとか)




飲食という「味の好み」というものは
数値化できないからこそ、口コミが成立するのであって、




多ければ美味い、少なければそうじゃないと
「思わなければ」、現在の来店動機は起こらないじゃないか、と。




つまり人気店に行ってきたという
経験(コト)が一番に欲しい。




それと同時に、無数にある同業種の中
「ハズレを引きたくない」というリスク回避もあるでしょう。



結果、現在の一見さん(消費者)は、
情報の真偽を確かめる評論家になっているけど、




僕が注目しているのは、その後にくるもの。
いわば「体験」の先にあるものです。







我々は消費だけでなく、何かを継続的に愛用してると
それを人に伝えたくなるものです。



また、それと同時にその話を聞きたいの。
口コミの習性とは、まさにそのようなものでしょう。



その巧みさ、というか伝え方が上手ければ
当然人は集まってくるものですが、
売る側は伝え手を選ぶことはできません。



だったら我々は「その商品を信じる」という
原点に回帰するしかないんじゃないでしょうか。



だから空想を盲信しないよう、
信じる為に疑うんです。


☞☞



これが競争原理得が通用する分野であれば
ライバルと喧嘩して勝ったら選ばれる、それだけです。



しかし商売に関してはそうじゃない。
否、あらゆる価値判断基準なんて
そもそも明確なものなんてない。



画家はどうやって喧嘩してきたのか。
ミュージシャンはどうやって選ばれたのか。



分かりませんよね、そんなもんなんです。
才能があっても、選ばれるとは限らない。



そんな不可思議なものをあえて定義するれば沢山の仮説が出てきますが、



やっぱり、僕は正解が分からないな。
問うことしかできません。



2016/03/10

経営は矛盾のマネジメント


経営とは矛盾のマネジメントだと言われます。
二者択一で迫る論理ではなく、二項統合を目指す
調和的方法論が求められる、と。



論語と算盤という矛盾したものを
内部に持ちなさいといった渋沢栄一氏は
「意見の決定に際し、たくさんの意見を聞いて
その中で最も良いものを選ぶのは至極当然だけど、
その人自身に取捨の見識がなければ、
かえって迷ってしまう」と言ってますが同意、
現在、この取得の見識(見識者)という
考え方を忘れているリーダーが多いと言われますね。



責任を引き受けみんなを引っ張っていく態度は
一見、頼もしいけれど、その迷いなき判断の
気持ち良さに魅入っているだけの場合もあるでしょう。


***


ちなみに当事務所ではこの見識を磨くための
カリキュラム(5つのE)があります。



例えば磨くと尖がってくるでしょう。
だから多くの人の心にグサッと刺さるんです。


反面、受信者(聞き手)はその
見識によって「見極められる」と。


この概念を組織に取り入れたい方はこちらからどうぞ♪





人間はいかに円くとも、 
どこかに角がなければならぬもの、 
余り円いとかえって転びやすいことになる。





2016/03/08

くいだおれ…ない。



イン大阪。
まだ夜は寒いですね(°_°)










久しぶりの味乃家さん。
やっぱ美味いわ。





お好みだけじゃ足りなかった笑






日帰りってイヤだね〜( ̄▽ ̄)

2016/03/04

世界は自分の認識で「全て」作られているのではない




自分の主観を超えて感じた経験を
人はあまり信頼しなくなってる気がしますね。



虫の知らせを聞いた、死んだ母の声を、
何か神秘的な声を聴いた。



大げさなものでなくとも、
自分から離れた力というものは
ごく当たり前に存在するに違いない。



しかし現代はそれを許さないわけだ。
これはスピリチュアルという空想世界の戯言が広がりすぎたことが大きい。



宗教的形而上と自由七科の修辞学が
くっついたようなおかしな理論、
まさに2012年は大半がそれに踊らされたわけだ。




結果、揺り戻しが起こり
非常に科学的な根拠を持った意見が
今の常識を捉えようとしていますが、



実につまらんレトリックばかりが増えてますね。



あらゆる分野の学者が分析し、
もっともなことを言えば、それが
真実だと誰もが認めてしまう。



例えば「そんなもの、気の迷いだよ」という意見。
現代はその気の迷いを「心理的投影」 と言ってますね。



全部あなたの心の中にあるんだよ、と。
投影元を自己だけに限定してしまうんです。



そしてその法則性を盲信し、
あらゆるものに当てはめだす。



ともすれば昔の人が信仰していた太陽も
神秘性を投影したアミニズムだ、と。



天文学者は太陽を構成する物質を細かく説明し、
そこに神秘性がないことを証明し、


量子力学や脳科学やらと結びついて
人間の都合だけで世界を作り出す。



この都合ってやつが今の「認識」ってやつでしょう。



しかしそれは本当に、本当か?
本当に自分が全てを決定しているのか?





☞☞☞



例えば、誰だって朝日が昇るのを見ると
美しいと感じます、今でも初日の出は自然に拝みたくなるでしょう。




じゃあ、この「美しい」と思う心はただの主観か?
聖なるものとして拝んでしまうのは
主観を投影しているだけか?
いち人間の想像力だけで形成されたものなのか?




そうではなくて、実態として存在する
太陽そのものが「実際に」美しいんじゃないのか。




主観を飛び越えた、向こう側にある美しさを
我々は感じているんじゃないのか。



だからその美しさの源泉について、
我々は答えられないんじゃないのか。









しかし知識人はそれを許さないわけだ
投影だ、幼児期の経験だ、脳内の電気信号だと。



だったら歴史上の天才的な芸術家が感じた
美しさは全て、投影という過去の経験の上に
成り立っているということになるが、




あれだけ感受性ある人たちが、自己と向き合った人が
生涯そこに気が付かなかったわけがない。



人間の心の中で発明されたものではなく、
認識によって作られていないものが自然にはあると信じたんだ。



太陽だってそうに違いない。
古代の日本人もそう考えた。だから礼拝したんでしょう。




もちろんそこに学問的根拠はありません。
しかし、まっとうな人はそんな根拠など求めませんよ。
求めるのはいつだって、根底にある事実です。



そしてその根底にある事実は
歴史を見れば一貫している、と。
そう考えているんです。






情報ばっかり喰ってると認識がおかしくなる。
おかしくなるから、自分という体験もおかしくなる。




楽しいという体験をしているのか?
それとも楽しいと言われている情報を体験しているのか?




美味いものを喰っているのか。
それとも美味いと言われている情報を喰っているのか?




「コト」の体験はそれに気が付かなくなる。
気が付かなくなるのはいつだって「ヒト」の方ですよ。



向かう先には





今回の松岡正剛さんの千夜千冊
これ、いつか書いてくれるだろうと
期待してました(゜゜)



確かに、もう情報洪水とか爆発とか
言うどころの話じゃないよな。
地球上の砂浜の砂の数より何倍も多いんだから。



これをただ時代の流れだと片づけるような
想像力のない人間を僕は信用しない。



そこに「嫌な感じ」を覚えないわけがない。
それは常に、便利さの裏に隠れている。



発明した技術に裏切られない
根拠なんて、どこにもないんだ。









とにもかくもビッグデータ時代の技術と思想は、
まだ始まったばかりなのである。
どんなふうにするかは、ほぼこれからだ。  


インターネットとセンシング・テクノロジーが重なり、
高度結合が行き過ぎて「過剰結合状態」になり、
世界が「結合思考感染状態」になってしまったのだから、
こんな事態になってしまったはやむをえないことではあるが、


けれどもここにこそ、われわれの文明と
文化の前途も、コミュニケーション技術の前途も、
そして、それに依拠したいと思うビジネスマン諸君の
BI(ビジネス・インテリジェンス)の前途も、
すべてかかっていると見ておいたほうがいいだろう。



~千夜千冊より一部引用~




どう解釈するかは個人の自由だけど、
僕は(仮に完全にコントロールできたとしても)
決してそれが進歩であるとは思わない。



その前提から向かっていくのは複雑性ですよ。
宇宙だって、もう我々には理解できない
高度な数式の世界になってるじゃないですか。



しかもそこには終わりなんてない。
因果なんて無限に続くものです。



この結果を生み出した原因は?
じゃあこの原因は?だったらこの原因は?



これは足し算の数が変わってるのと同じこと。
1+2=?1+3=?4・5・6・・・・キリないでしょう。



しかし今は正解との関係性を知ることが
「知る」ことになってしまってる。



だったら商売を知るってことは
ビッグデータを上手く使えるってことと
同じになってしまうけど、



だったら機械の方がよほどうまくやりますよ。



☞☞☞



確かに、将棋や囲碁の様に、
いつか人間では完全に勝てなくなる分野も
出てくるでしょう。



しかし我々は白か黒かで決定されていない。
感性に因果など見つからない。



水を知るとはH2Oという化学式を知ることじゃない。
我々はその五感全部で水を知るんです。




これは別に科学を捨てろって話じゃなくて、
しっかり自分の感覚を守ろうってこと。




余計なことかもしれませんけどね、
僕はそう思ってます。






2016/03/03

やめやめ





数週間前から、潜り過ぎたせいで
ちょっと頭が疲れました(゜゜)




つか、今回のは無理なやつだな。
捕まんないわ。




しかたない。
手を付けずに、しばらく放っておきます。








僕は中途半端で引き返せない人間ですね。
良くも悪くも、今回特に思い知りました。




どんな情報でも一回は自分の中を
通ってしまう以上、何でもどんどん通すと
消化が追いつかない。



そこで栄養にもならないのに
消化が悪いものなんて入れてしまった日には
ロクなことにならない。




それが分かってたとしても
溺れる者はつい、へんなの掴んじゃうもんですね。




しばらく何も入れたくないな。
入れたら吐きそう(笑)




☞☞☞



てなわけで、ここ数日間は
好きなお酒を飲みながら、好きな
映画を連続して見て、好きな音楽ばっかり聞いてます。





最近一人遊びばっかりだし、
たまにデートするのも良いか。




だったらちょっとは身なり整えんといかんな。




最近、自分に構ってなかったから
色んなところがモッサリしてますもん。





よしっ、今月は自分磨き月間だ。





素材探し





西洋が「理の文化」に対して、
この国は「道の文化」、理論の究明が目的ではない。




理の文化は物事をすべてバラバラにして
分けて考える分解性を持つ。




人間を細胞レベルにまで分け、
さらに細かくして分子レベルまで分ける。




しかし、そこまで分解しても
もはやそこには肝腎の我々は存在しない。
それは単なる細胞の研究に過ぎない。  




反面、道とは分解ではなくて結合である。  
多種多様なものはそのままに、その連続性を見る。




家族と言うものはこの道の最小単位だろう。
男女が魂で結ばれたものが結魂(結婚)であり、
そこに夫婦の道というものが作られるのだ。




そこで新しい生命が生み出される。
生まれた子供は息子(結子)であり
息女(結女)である。




このように、この国では様々なものを
結合(統合)し、一つの流れとして捉える。



神と人とを生活で結んだ
神ながら(神流れ)の道があり、
神と人とが祈りで結ばれるのが祭である。



そんな祭りを含めた過去と現代の生活を
結んだものが歴史となっている。





結ぶ素材は何か。
継承するからには何かしらの素材とフォームがいる。



2016/03/02

どんどん細かくなっていく世界に嫌気がしてまして




正直なところ、僕は
今の仕事が自分の天職かどうかなんて
さっぱり分からないし、逆に分かりたくもありませんね。
自分の能力だって正確に分析したくない。



誰だって自分の才能と向き合うのは怖いもんです。
それを目の前に出されて、楽しいわけがない。



もちろん、出来るか出来ないかの判断は
必要だけど、それは分析じゃなく続ける覚悟の問題です。



中途半端なところで終わってしまいそうだったら
それは止めた方がいい。僕はそう思ってます。






情熱を分析するのは野暮です。
そもそもそんなもの探して、出てくるわけがない。



昨今、やりたい事を棚卸し、掘り下げたら何か
ステキなものが出てきそうな感じですけど、



多分、そんなものを見つめていく間に、
肝心の「やりたい」という気持ちはどんどん冷めていく気がします。




ある種、決定されたものはどうしようもないもの。




「なぜ我が子がこんなに可愛く感じるのか」なんて、
誰も言葉で説明したいと思いませんし、
説明したところで何の意味も理解もありませんしね。





最近、表現する媒体を模索してます。
僕の力では言葉は細かくなる一方です、




何かもっと、別の何かが。。。