2016/03/18

機微





この仕事はくたびれる。
実に骨が折れることを毎回やっている。



事業規模や経営資源を見極め、
屋台骨を真っ二つに折ってしまうことの
ないよう、当事者のように未来を進めていくのだから
むしろ疲れない方がおかしい。



将棋だって指すのは一瞬、そこに辿り着くまでが長いが、
多分に、そういうことだろう。








最近「やってみないと分からない」という言葉は
先に出すものじゃなく、全てをやり尽くした結果
「自ずから出るもの」だということが分かるようになった。



故に、一定のルートを辿った後は
必ず対話が中心となってくる。



その時に話すテーマは実に様々、
働くとは、何なのか?自立とはどんな状態か?
商売とは?多店舗化の意義や正当性はなんなのか。



そんな哲学的なものまで話すのだが、
こうしたテーマを追求せず、無責任に広げることは
できない。



否、(経験したら分かるだろうが)
できなくなってくるものだ。



ここで言う追究とは学問的なものじゃない。
あくまでもその人が行う個人的な決着ということ。



つまり「知る」ではなく「信じる」ことである。




僕はその決着を導きだす立場である以上、
それに必要な知識と経験と智慧を持つ必要がある。



「教科書通り」の客観的情報は誰でも知っている。
大事なのは、問いの立て方であって、
それが柔軟な認識ってやつだろう。



学んでばかりの人間は、それが出来ない。
「正解を知ること」ばかり焦って求めてしまう。



形式知は人をダメにする。ノウハウだってそうだ。
なぜって、現実に対応する「あなたの」心の働きじゃないだろう。



それは殴られて痛いと感じる経験と同じこと。
この「痛い」って感じる心は主観的でも客観的でもない。



例えば、涙ながらに母親に叩かれたことを
いつまでも忘れられないとする。



それはつまりその時の「叩かれる」と言う経験が、
その後の人生に関わっていると言えるよな。



だったら世間一般の「叩く」という行為とは
全く異なるじゃないか。他の人が同じことを
されても、すぐ忘れる場合だってあるだろう。



それが直接的な経験というもの。
万人として意味を「知る」のではなく、
個人的な経験の中から訴えかけるものを信じることだ。




「後記」



今回書いてるように、僕は必要性がある時だけ
学んでいるのであって、学ぶこと自体は趣味ではない。



人生、楽しい事はたくさんある。
旅行だろ、美食だろ、温泉だろ、恋愛だろ(笑)、



まあ、その楽しさと学びの楽しさは
別物だって人もいるだろうけど、



学びが趣味です、って言ってる人は
ちょっと危なっかしく見えるな。




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