2016/03/27

桜は美しいだけじゃない。




桜が咲き始めました。
先日見ると5分咲だったので、
来週末が一番の見ごろでしょう。



生命の躍動を感じるこの季節。
毎年ワクワクしますね(´-`).。oO








咲いて歓び、散って惜しむ。
我々は千年前から変わらず、桜を愛しています。



多分、もっと多様な時代になったとしても、
その愛情は変わらないんじゃないでしょうか。



西行法師も本居宣長も桜を愛してました。
本居さんなんて、遺言に絵まで描いています。



死んだら、自分の墓には一流の山桜を植えてくれ、と。



なるほど。本居さんのことを調べれば
染井吉野ではなく、山桜ではないとダメでしょうね。



熊本(阿蘇)にある山桜。




今の日本の桜の大半は染井吉野、
明治に入って広がった新種の桜です。



一番育てやすいということで、植木屋と
文部省が結託して学校を始め、一斉に植えられたものです。



山桜と染井吉野は違います。
僕はよく見に行くので分かりますが、
山桜は花と葉っぱが同時に出てきます。



また、染井吉野と違って一気に散るのではなく
ゆっくりと散っていきます。



昔の日本に咲いていた桜はみんな山桜です。
古来の日本人は、その桜が好きだったんです。



勘違いしている人も多いのですが、
桜は武士の生き方の様に一気に咲いて、
一気に散っていくものなんかじゃない。



もちろん、染井吉野のような潔さも十分に綺麗です。
小林の言うように「低級な桜」とは思えない(笑)



ただ山桜には別の美しさ、気品というものが
あるなということが、この年になって分かってきましたね。



☞☞



「敷島のやまと心を人間はば、
朝日ににほふ山桜花」



この有名な歌は山桜と大和心を歌っています。
におふは(匂う)と言う漢字ですが、
ここでの意味は「色が染まる」ということ。



万葉集の時代での匂うとは、
嗅覚だけじゃなく、視覚や触覚に現れていた。
朝日を浴びた山桜はまさに「匂う」といった感じがしたのでしょう。



古来の太陽は神聖なものです。
神と交わることで花が咲き、それが徐々に散っていく。



まさに我々も同じようなものでしょう。
そこに古来の日本人はもののあはれを
感じていたんじゃないですか。



死と再生の象徴だという端的な言葉で
桜を表現してしまうのではなく、



奥底で「感じる」美しさというものを
我々は確かに感じる、という感性の経験、認識です。



「なるほど、これが私の持っている
美意識であることは間違いない」と実感するんです。







美は語るものではなく、感じるもの。
教科書を開けば載っているというものではありません。


ただ形式にできないけれど存在するという
事実は桜を見れば明らかじゃないか。


宣長はそう言っているように感じますね。
桜が国花である所以は国民性の象徴というよりも、
桜を媒体として自己の精神性を認識することです。



その美意識は誰だって持ってます。
だから相反する「美ならざるもの(醜)」を見たとき、
我々は強烈に違和感を感じ、抵抗するのです。



それが内なる心の声ってやつじゃないですか。



昔の「汚らわしい」という言葉や「下衆(げす)」という
言葉は見た目じゃない。醜悪な精神に嫌悪しているんです。



その判断を根底で支えているのが美意識です。
これは道徳的なものではない我々の持っている
本来の善性だと思ってます。



そしてそれは悪の対義語ではない。
対義語だったら関係性はイーブンですからね。



確かに醜があるからこそ、美は存在するれけど、
美意識は醜を包括している、包みこんでいる



桜の美しさは散っていく姿も含まれています。
生まれては老いていく人間の美しさもまたしかり。




だからこそ美しい、と。
来週が楽しみです。




0 件のコメント:

コメントを投稿