2012/06/11

オーダー、フォーム、シェイプ



フランチャイズを展開するプロジェクトの事を
一般的に「FC本部構築」と言いますので、


この仕事はある意味「建築家」だと思っています。
今回はそんな建築についての小話。




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建築家であるルイス・カーンは建築の思想のコアに
「オーダー」・「フォーム」・「シェイプ」といった建築論があります。


オーダーとは秩序を生み出す原動力、
そしてフォームは見えない形式的な本性。


最後のシェイプとは表層的な形態を指します。


つまり建築家は形態といった視覚可能なものだけでなく、
その先にある見えない論理(フォーム)を把握する事が大事だと言う事です。


ルイス・カーンはまるで求道者のようですね、
彼の建築物は、時代の流れに抵抗する中で生まれたのかもしれません。


それは近代化や大量生産・構造主義に対する抵抗であり、
素材そのものに対する、深い審美眼じゃないでしょうか。


構成する見えない不可視そのものを対象とし、
制御しようとする意思、


それはまさに「見えない、理解できない」ものを掴むという
非線形の世界解釈でもあります。







構造設計家であるセシルバルモンドは、
非線形的構造を構造力学へと導入しました。


これは世界でも初めての試みであって、
形態生成と科学と芸術の重なり合い、


不可視の構成ルールという全く新しい創造手法です。



常識として建築とは、全て構造原理から
作られているという「構造合理主義」だったんですが、


必ずしもそうではなかったということです。
あのガウディ(僕も同じ誕生日なんですよ~)も
ゴシックの構造は合理的ではないという結論に達した結果、
あの有名な三次元逆さ吊り模型実験を行いました。


規範と多様、リゾームとツリー。
どちらかだけ選ぶのではなく、融合と言う選択肢。


そういや2026年には
未完の大聖堂「サグラダファミリア」が完成するのだとか、


300年かかると言われたのに・・・・
生きてる間に見れるなんて幸せ者です^^




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何だか分からない。
けれど、そのように感じていた。


何かしらの背景や、科学的な根拠があったとしても、
それ抜きで「良い」と思える何かがあった。

批評も考察もなく、ただ良い。


そう思えることは、大切なことです。






芸術作品の創造は必要を満たす行為ではなく、
必要を創造する行為なのだ。

ベートーヴェンが第五交響曲をを作曲するまで、
世界はそれを必要としていなかった。


今は、それなしではいられない





2012/06/05

自然とは、異なる事なり


さて、unreveでは個性を重視している反面、
守破離といった「型」のFCの継承を説いています。



矛盾しているようですが、そもそも個性とは
「100%の独自」ではない。




人間の遺伝子の約93%は全く同じです。
よって、共通する遺伝子の組換えが起こっても
それを受け継いだ遺伝子には何ら変化はありません。




残りの7%が大事なのです。
この「僅か7%」の違いこそが、多様な個性を生んでいる。




ちなみに、その異なる遺伝子の数は7千個以上と言います。
よって、その組み合わせの累計は2の7千乗。



すごくないですか?



だって「2の100乗」でも、
126穣、7650杼、6002垓、2823京、8993兆、375億、6641万、
752パターンあるんですから(笑)






2012/06/04

金閣寺

眠れないので、
久々に三島由紀夫の金閣寺を開いてみた。


金閣寺 (新潮文庫)/新潮社
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吃音(どもり)である、主人公の溝口少年は、
世界において、己が己であるために「隔離」が必要であった。
逆説的だが、絶対的な存在証明が「世界との断絶」、というわけだ。


自己の意思や感情の表現がうまくできない溝口は、
内に閉じこもり、人から愛されなかった。


溝口は世間と融和することができない(と信じてる)。
そんな劣等感と虚栄心、そして多層的なニヒリズム。



まさに三島文学、というべきだろう。


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普通、誰しも世界との距離を感じれば、
なにかしらその(世間)距離感を補正しようと試みる。


なぜなら(形式こそ違えど)我々にはある種の
帰属意識、共同体の一員だという存在証明が必要なのだ。



しかし彼は放棄した。
否、吃音によって放棄せざるを得なかったのだ。
これは最低限の手段の喪失によるものである。



これを見ると、会話というものが
いかに有効な接続手段であるという事が、よく分かる。



そこから、世界に認められないこと自体が、
彼のレーゾン・デートル(存在証明)になったのだ。
ただ、その確信は永遠的な支えにはならない。



なぜなら、彼は特別な人間ではないのだから。



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「この世界を変貌させるの認識だ」という友人に対し
「世界を変貌させるのは行為なんだ」と反論する溝口、


そして、絶対的な美とされる金閣寺を放火することで、
彼は生きることを決める。


つまりこの物語の溝口は三島であり、
金閣寺や母親とは彼にとっての絶望と希望のシンボルではないだろうか。



絶対的な美(金閣寺)の対極にある、
不治の希望を持つ醜悪な母親とは、「世間」を投影したものである。



この2つは溝口の自己存在の源泉だ。
産んだ母親はこの世界、そして金閣寺とは日本の魂の美意識。



主人公である溝口は、過去の三島そのものなのだ。



溝口が金閣寺を愛するように、
三島は根底にある「日本の魂」を愛していた。



金閣寺に火を付けて得た「生」とは永遠の面影である。
これは多義的、実に多義的な物語なのだ。



読み終わった後にくる、この何とも言えない
哀愁と悲壮感の入り混じった感覚を何倍も希釈すれば、



現代の政治を見て感じるものと、似たようなものかもしれない。



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本であれ、器であれ、思想であれ、
本物と呼ばれるものには、ある共通点がある。



それは、ある固有性が軸にありながらも、
多層的なレイヤーを内包しているというものだ。



そんな薄皮を一枚一枚剥がして行くと
巨大なものが顔を出す。



故に、そういった作品を安易に批判したり、
認めたりする評論家たちを見ると、僕は違和感を覚えてしまう。




これは人生にも当てはまるかもしれない。
もうそろそろ変わる気がするが。