2015/01/28

花伝書「破」

日本人にはアイデンティティがない、

これはずいぶん昔から言われる事です。







しかし、これは厳密には異なります。

本来は、場の空気をアイデンティティより優先させているのです。







ルース・ベネディクトの「菊と刀」でも、

この国に脈々と流れる精神性が露わになっています。







それは美であり醜の根源性でもあります。

ここにこそ、我々に必要な答えが隠されているのです。







全体の俯瞰によってその欠片を探してみましょう。









と言う訳で、リーフ理論、花伝書「破」、開演でござーい











さて、この国は、取り入れ、問い、編集し、出す、

を繰り返す事によって、常に変化し続けています。





この国が「方法の国」と言われるのは、こういった

同一主語を繰り返し回帰し続けているからです。









丸山眞男は外来思想を度々修正する、という

変化の仕方が変化しないのがこの国の特徴であり、





その意味で日本人は常にキョロキョロしている、と指摘します。







つまり、常に新しいものを外部に求めながらも、

その求めている自分自身は一向に変わらない、と。









これがこの国の「振る舞い」であり、

この国の基本パターン、と言う事です。







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「いや、俺は完全に自分ルールで生きている」と

反論する人もいるでしょう。







しかし、この「いや、俺は・・・」のような

反応こそが、なによりの証拠なのです。





本当に自分ルールだけで動いている人間は

「外部の意見」なんて、気にも留めないし、反応もしません。

こういったブログも見る事はないでしょう。





そんな事から、この国は外部の世界の変化に

対応することに、なんら躊躇いがありません。





それは自己同一性の精神が高い為、

自己と他者の境界線が曖昧になっているのです。







鬼畜米英から、アメリカ万歳、と。

その変わり身の早さはピカイチなのです。







これが欧米のような絶対的な原理や、厳密性を

追及するようなものであれば、必ず対立するでしょう。







それが絶対であればあるほど、その溝は埋まらず、

訴訟であったり、力によって押し通そうとします。







反面、この国はその「溝」を重要視しているのです。







己の一貫性よりも集団の場の親密性、

長いものに巻かれる、という態度は日本人のお家芸、







それは受動的な態度による親密度の表れであり、

丸山眞男の言う「超国家主義の心理」の事です。









絶対的な価値対象に「寄り添う距離」によって、

自分の役割や力関係を決定する、と。









自分で正しい道を探し、判断を下すのではなく、

「正しい判断をしてくれる人」を探し、その身近にいることを優先するのです。



☞ ☞





こんなことは何年も前から分かってます、

多くの研究者が指摘してきているのです。







しかし、そんな貴重な意見や知恵を自己に取り入れ、

繰り返し言及することがなかった。







常に「より新しい情報」ばかりに目が向き、

それを取り入れる事だけが目的化してしまった。







つまり、常に新しいものを探しまわり、

それに対し「そこそこの編集する」、







そんな日本人の本質は変わっていないのです。









不幸な事に、世界の基準には順応できるけれど、

肝心の自己からは「世界基準」を提唱していない。









相対的な優劣性や劣等性が養われた反面、

絶対的な価値対象を自ら提示することができない。







外部には答えはない。それでも外部に求めてしまう日本。











実にもったいないとは思いませんか?















さて、いよいよ次回、これを一刀両断、断絶します。













花伝書「急」、お楽しみあれ。








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