2013/06/09

根幹を成すもの




「報道の自由は、民主主義を支える根幹」。




この「根幹に関わるもの」はよく使われますね。
社会の根幹、国家の根幹に関わるものだ、と。



基礎を成す「柱(屋台骨)」とも言いますし、
それがなければ、我々は飛ぶことも、
降り立つ事もできないことから陸とも言えるでしょう。



つまり秩序を維持する為の基本姿勢が
「根幹」なんですね。









さて、報道の自由が民主主義の根幹である、
という意見は確かにそうでしょう。



言論統制など、民主主義ではない。
当たり前のことです。



ただ、自由それ自体があらゆる根幹だ、
という意見に対しては僕はちょっと疑問が起こります。




時として個人を苦しめるもの。
それが自由でもあります。




「自由にならなければいけない」
と、逆に不自由になってる人もいますからね。



☞ ☞




自由をどこまでも渇望し、
そこへと向かう志向性を保ちながらも、



それと同時に「そうならないだろう」と
諦めを自覚した状態で起こる行為。



見れば、大小の共同体(イエ・ムラ・クニ)は
自然とそんな形に収束されています。



なるほど、それは単なる自由ではなく、
それを諦めた所による放棄でもない。



柳田国男の世間的・社会的自然が
「やさしい束縛」を持っていると
いうのは、まさにこういったことでしょう。



なぜもっと早く帰る事が出来なかったのかと思った。
始めからなぜ自然に抵抗したのかと思った。


彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔の中に、
純一無難に平和な生命を見出した。


その生命の裏にも表にも、欲得はなかった。
自己を圧迫する道徳はなかった。


雲のやうな自由と水の如き自然とがあった。



夏目漱石「それから」より。




それは自然回帰でもなければ、
自然放棄でもない「内部」の状態変化です。




☞ ☞



誰しも主義があり、価値観がある。
それはその人個人の「陸」でもあります。



唯物主義だろうが、現世主義だろうが、
はたまた最近のスピリチュアルに傾倒しようが、



それを徹底するなら、立派な一つの人生。
誰も批判する資格はありません。



ただ、共同体における自然派生は
意識的な「ほどほどの人為的、不自由さ」が含まれます。



しかし、それによって共同体はむしろ
無意識的な秩序が現れる。



その意識こそ、慣習や古くから伝わる
「特定の個人の意思」ではないものであって、





これが日本流の根幹ではないか、と感じています。







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