不平家とは、自分自身と決して
折り合わぬ人種を言うのである。
不平家は、折り合わぬものはいつも
他人であり、環境であると信じ込んでいるが。
環境と戦い、環境に打ち勝つという言葉も
ほとんど理解されてはいない。
ベエトオヴェンは己れと戦い、
己れに打ち勝ったのである。
言葉を変えて言えば、強い精神にとっては
悪い環境も、やはりあるがままの環境であって、
そこに何一つ欠けている処も、
不足しているものもありはしない。
・・・・
命の力には、外的偶然をやがて
内的必然だと観ずる能力が備わっているものだ。
小林秀雄「モオツァルト 無常という事」より
前回に続き、二回目です。
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現在、起こっていることを、
きちんと、正確に、理屈で、説明して、納得したい。
これで哲学者が独断の理屈家へと
陥ってしまう、よくある落とし穴ですね。
理詰めの追求の挙句、何らかの
客観的結論を得たとしても、
それは氷のように、あっという間に溶けてしまう。
端的に言えば、秩序形成や体系構築を、
そのどちら側に求めたか、それだけでしょう。
以前書いた三浦梅園は現実と合致する
秩序観(条理)を自然に求めました。
本質的な秩序とは、能動ではなく
受動的、自然に派生するもの。
つまり「秩序づけるもの」ではなく、
「秩序づけられるもの」だとしたんですね。
そんな自然派生を俯瞰したものを、
unreveでは端的に面思考と呼んでいます。
☞ ☞ ☞
自然に起こる秩序とは何か?
例えば現在、あらゆる分野で「人為的な」
秩序の崩壊が見られます。
学校然り、企業しかり。
ともすれば国家だってそうでしょう。
今ある秩序が崩壊することによって
当然、何かしらの問題が起こるのですが、
そこで部分と全体の認識観の違いによって、
我々のとるべき態度が大きく変わってきます。
例えば大手企業が衰退しているのを
部分観の立場の人が見れば、
問題を「従業員やシステムが悪いのだ」と、
あくまでも部分開発にテコを入れます。
(これはコンサルに多い)
結果、社内制度を改革したり、能力開発や
社外セミナーに参加させたりしながら、
従業員の意識を「意識的に」変えようとします。
もちろん効果がある「ケース」もある。
しかし、ほとんどが短期的な効果です。
反面、全体観で見る人は、
そういった「全体の」過剰な締め付けこそ、原因だとするのです。
学校でいえば、子供ではなく
閉塞的な社会や教育(環境)が原因であって、
会議で発言が少ない、活発でないのは
同調圧力が強い「場」こそ、問題であって、
テレビ番組がつまらないのは
規制が強くなりすぎたためである、と。
故にそれを回復する為
「逆に」自由にさせる方法を取るのです。
どんな意見でも良い。
「気にせず言える」という環境(風土)
が重要だ、と。
☞ ☞
そのどちらの立場を取るかによって
解決方法や志向性は、全く違うものになってしまいます。
そして、そのどちらが根幹かと言えば、
間違いなく後者でしょう。
冒頭に書いたように、我々は
どうしても目に見える形で説明したいのですが、
「見えないものは感じる(体験)しかない」という
当たり前のことにそろそろ気付かないといけない。
前回の繰り返しになるのですが、
見えない、触れられないという
意味で考えるならば、確かにそれは「抽象的な原因」です。
しかし、それによって現実が成立するという
意味において考えるならば、それは「具現的な原因」と言えます。
「泳げるようになるには泳がなくてはいけない」
これもまた、当たり前のことです。
☞ ☞
そのどちらの立場を取るかによって
解決方法や志向性は、全く違うものになってしまいます。
そして、そのどちらが根幹かと言えば、
間違いなく後者でしょう。
冒頭に書いたように、我々は
どうしても目に見える形で説明したいのですが、
「見えないものは感じる(体験)しかない」という
当たり前のことにそろそろ気付かないといけない。
前回の繰り返しになるのですが、
見えない、触れられないという
意味で考えるならば、確かにそれは「抽象的な原因」です。
しかし、それによって現実が成立するという
意味において考えるならば、それは「具現的な原因」と言えます。
「泳げるようになるには泳がなくてはいけない」
これもまた、当たり前のことです。
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