2015/05/13

さようなら





サヨナラ、あなたとはこれまでよ




この別れ言葉である「さようなら」とは、
元々は接続詞である「左様ならば(それならば)」です。




何かと決別する際、この国は
次に来るであろう事柄に対応することを想定し、
「左様、それならば・・・」と言ってたんですね。




今まで続いていた「ナニカ」が終わり、
また新しい「ナニカ」へと向かっていく。




その際、我々の祖先は
一旦立ち止まっていたのです。




一期一会の出会いが終わり、
互いに交わす「左様なれば」というものは、




言わば「ことの終わり」の物語を
作る事で、新しい「ことの始まり」受け入れる行為、




自分ではどうにもできない生老病死や
自然の定めというものに対し、




「そういうものなのだ」と確認する為にも
立ち止まる必要があるのでしょう。





今日はそんな小噺でも。










人生は唯一無二の「この瞬間」が
生起変転していく有様でもあります。



我々の多くは明日のことを心配し、
遠い将来にも思いを馳せていますが、



今日一日という一回性の連続によって
生起している人生とは、非原理的なもの、



刹那の連続が明日来るとも限らない。
ここに「今を生きる」という本来があります。




禅は一秒前の自分であっても、
死んで存在しないのだという認識ですが、
同じ様に感じますね。




☞ ☞




いついつ年の何月、世界は滅亡するやもしれない。




ネットでこの話題が消えることはありませんが、
現代はニヒリズム的無常観に拍車をかけているようです。



人生が空しい、生きる意味が分からないと
いう声があちこちから聞こえますが、



以前書いたように無常観は
この国の思想の根幹でこそあるけれど、
ニヒリズムではない、肯定的な意味を持っています。




それは決して投げやりな人生を送って良いという
ものではなく、不可解な明日を不可解なままにして、
それを希望を持って「信じる」、これに尽きるでしょう。




故に「不可知こそ真理」という、
矛盾が成立するのですが、
それこそ仏教の説く「諦める」ということ。




世阿弥の能も、この逆転の美学があるのです。



☞ ☞ ☞



いうまでもなく、不可知を信じるということは
「望み、期待し、信じ続け」なくてはいけません。




もちろんその期待通りになるという保証などない。
故に、だからこそ、「信じ続けること」を要請するのです。



そんな継続的信仰の限りにおいて
「いつかきっと、必ず応えてもらえる」という
希望を持つことが出来るのであって、




それが我々の情熱を支えている。




継続は力なりと言いますが、
なぜ続けることが「力」なのかと言うと、
こういった「内部信仰」が試されるからでしょう。




なるほど、現在は信じることが出来ない。
だから結果が出ないからといって、すぐに諦めてしまう。




正しい我慢もなく、「今すぐ」を
キョロキョロ探し求めているのですが、



その根幹にあるのは「自信」の欠乏なのです。








故に信の成立と事の成就は、
自己の精神に比例するのですが、



間違ってはいけないのが、この
事の成就(成功でも引き寄せでもなんでも)は
我々の自力によってどうにかなる性質ではない。



その意味ではどこまでも「自ずら」といった
超越的な働きであって、それに従うしかないのです。




不確実で偶然である現在を
確実で必然とする心構え、それがunreveの「軸」です。




そう考えると、複雑系、VUCAの時代の到来とは、
信じる力を試されてるようにも思えますね。




ちなみにそれをベースにしたのが
unreveの練成講座なんですが、





次回、それにちょっと触れてみたいと思います^^





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