2015/04/26

唯我独尊と教育論


(一般論で語るのもどうかと思うが)
教育機関は無意識的に自分の欲望や 不安を投影し、
それが「躾や教育」だと思っているようだ。



「ゆとり」と「詰め込み」の間で、
子供は本当に何を学ぶべきなのか。



学歴のない僕が書くのも恐縮だが、
今日は教育についての小噺。









教育の定義は文字通り
「教え育てること」であって、



端的に言えば心身を「望ましい状態」へと
第三者が働きかけることであるが、
そもそもこの「望ましい状態」とは一体なんだろう。



自分にとってか、
それとも他人にとってか。



ここを一緒くたにしてしまっているから
今の教育機関は指示命令しかできないのだろう。



☞ ☞



「これをせよ・するな」というものは
自己欲求の満足以外、何ものでもない。



「心配だから言ってるんだ」というのも同じ事、
その欲求を突き詰めれば当人の「不安の解消」である。



もちろん、幼児はいきなり道路に飛び出す
猫のようなものなので、現実生活内での
「せよ・するな」は当然しなければいけないが、



精神面の場合、その不安を押しつけるのは
「余計」というものだ。


☞ ☞



教育の本質は自前で
「考え、理解し、知る事」であって、
何かを覚える事ではない。僕はそう思っている。



本人が0から作り上げた事柄だけが
初めて「自前の知識」と呼べるのではないだろうか。



それに対して、「情報」とは、
外から与えられる「用意された解」である。



スッキリとするし、心地よく感じるだろうし、
役に立つ場合もある。




しかし、それはあくまでもお金と同様、悩みや迷いを解決する手段であって目的ではない。




目的は子ども自身が作るものだ。
この複雑な時代にどう生きるかを「どう考えるのか」。



教育とはこの「どのように」を自分で
決定できるように支援することだろう。あくまでも主語は「自分」、他人が代わりに理解しても意味がない。



禅や仏教ではその精神の眼を開かせることがスタートだが、教育も躾も同じだろう。



それは自ら開く場合と、様々な縁によって自ずから開く場合があり、これを啐啄同時と呼んでいるが、



実はこれが一番難しい。
難しいと言うよりも不可能に近い。



故に、歴史の賢者達は集団に語らず、
一対一の対話法を取ったのだ。





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