2015/04/23

絶対矛盾の中から





有名なパラドクス(矛盾)の話に
「クレタ人のパラドクス」というものがあります。



クレタ人が「クレタ人は嘘つきだ」と
言った場合、もしそれが正しいなら、



それを言っている当人がクレタ人なので
「クレタ人は嘘つきだ」は嘘となり、クレタ人は嘘つきでなくなってしまう。



逆に「クレタ人は嘘つきだ」というのが
正しい場合はどうか。




今度はそれを言ったクレタ人が
嘘つきでないことになり、意味が矛盾してしまいますよね。



こういった真でも偽でもないものは
世の中にたくさん存在しますが、



そこに「正しさ」というものの所在は
どこにあるのか。



今日はそんな所から。。。。









さて、先日高浜原発3、4号機の再稼働を
差し止める決定が出ました。




この裁判所の決定については賛否両論、
もちろん関電は納得できず、不服申し立ての手続きをするようです。



新聞などのメディアをざっと見た限りでは、
この決定に対し、批判的に書いている所もあれば
そうでない所もありました。



原発リスクはゼロじゃないから禁止、
という決定は非科学的であって、
科学的根拠を無視したものだと。




では自動車や飛行機もすべて禁止になるのか、と
まるで小学生のような理屈を並べる人もいるようですが、



「科学的根拠があれば絶対」っていう意見に対し、
僕はもう、嫌悪感しかないんですよね。



☞ ☞



絶対とも言える数学の世界で
世界を追求した結果、辿り着いた答えが
矛盾と不確実性だった以上、



偶然の中、我々は目に見える「フレーム」をもとに、
解釈や分析をしているだけに過ぎない。



すると当然、対象に対する理論自体が
理論として成り立たっていない可能性だってあります。



例えば月は「我々の目(網膜)を使えば」
あのように見えるのであって、



どんどん細かくすれば原子の「働き」だけになる。
この、見える「月」と見えない「原子」は同じです。



そうなると、絶対的な基準というもの自体は
人間という限定されたものの上に成り立っているのであって、




それをやれ絶対だ根拠だというのは
ちょっと無理があるんじゃないかな、と思うんです。



☞ ☞



もちろん、賛成派の言っていることが
全て間違っているとは思いません。



僕は(原発)反対派なので
どれだけ理屈を並べたとしても
肝心の心が納得しないのですが、停止のリスクは分かります。



さらに先ほどのように絶対的な安心などが
存在しないことも分かってる、



日常使ってる火も包丁も車もそう。
「リスクゼロ」はない。
故に「現実の使用方法」が優先だ、と。



でも、そのリスクに
「短期的か長期的か」という視点が入っていない。



次世代に残すものを篩にかけた場合、
果たして「それ」は残って良いものなのか。



そこに論理や数字の根拠は出てきません、
「将来の子供に対し、不安があるかどうか」であって、



国の借金と似たようなものじゃないですかね。
僕が子供だったら、そんなもの押しつけられても困ります。



☞ ☞


とまあ、個人的な意見を
つらつらと書いてみましたが、



言葉の意味が成立するのは
周りが決めるのではなく、本人の精神が決めるもの。



自分以外の意見を見れば見るほど、
このクレタ人のような命題にはまってしまうのですが、



矛盾した世界の中において、
一つの絶対的基準を挙げるとするならば、
自分自身の心だけだと思ってます。







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