2014/10/06

エシカルビジネスについて


今日はエシカルビジネスについて。


今までの欲望が生産、拡大するのに対し、
最近は「整理、縮小」へと向かっています。
断捨離しかり、ミニマリストしかり。
多分にそれは過剰な欲望への拒絶でしょう。


最近になって資本主義の限界が見えてきました。
人間にとっての「豊かさ」は物資的充足の最大化ではなかったのです。




当たり前のことですが、我々は充足された
状態からさらに充足を求めることはありません。
例えば満腹な状態で「何か食べたいものは?」
と聞かれたら、誰だってうんざりしますよね。



メディアはもっと欲張りになれ、最上を
目指せと「今の自分が劣等や欠如してる」
ようなイメージを植え付けてますが、
それは成熟期において不自然な宣伝だと言えるでしょう。


豊かさには物心両面が必須、
しかし今は肝心の「心」がない。


心がないから我々は他の種に対しやり過ぎている、と。


そんなことから、数年前から
エシカルビジネスというものが注目されています。



エシカルethical)とは「倫理的」、「道徳上」
という意味だと言われるがそうじゃありません。
そもそも倫理と道徳は似てて非なるもの、意味は全く正反対です。


道徳は他律であるに対し倫理は自律、
つまり倫理は「廊下を走るな」ように
誰かが決めたルールを守るものではなく
各個人が内省した結果である感覚的な
「後ろめたさ」であって、内部から沸き起こるものなんですね。



他律的(外部)な道徳にはこれがありません。
だからコンプライアンスを導入する企業さんが
たくさん増えましたが、不祥事ばかりじゃないですか。


真のエシカル消費は倫理によって実現するということ
長期的に見て有害になるような事や有害だろうと
思われる企業を「自分で見極め」購入しないことで
正しい持続可能性が生まれるんですね。


✍✍


本来、この国ではこうった倫理観を
いちいち説明する必要がありませんでした。
エシカルビジネスなんて名前を付けなくとも
稼ぎと努め当たり前のことだったんです。


それは伝統として息づく美意識の継承だと
個人的には思っています。だからこそ
時代を超えてなお、違和感や不快感を感じるのだ、と。


我々はただ、「それ」を思い出すだけで
十分実現できる。個人的にそう思ってます。



「後記」


ちなみに人格の完成を究極の目的とした
カントにとって、ベンサムの功利主義は最大の標的でした。


カントは功利主義(幸福の最大化)を認めない。
彼に言わせれば大勢の人で構成される市場や
そこでの消費選択は「真の自由ではない」と断言するのです。


「なぜ?僕たちは自由に消費してるのに?」と
思うかもしれません。しかしカントにとっては
その「満たされたいと思う欲望」こそ、
自分で選んでいない理由である、と言うのです。


なぜならそれは、より多くの快楽や少ない苦痛を
得ることが基準となっている以上、倫理性と
決別した世俗的なもの、つまり欲望から来る
対象が与える結果」に従っているに過ぎない、と。


我々がビールを手にする時、それは自由に選択した結果ではありません。


それはただ、「渇きの欲望」に従っているだけなのです。







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