2015/02/08

「警告ばかりで処方箋なし」~成功者のダブルバインド~

ある人がメッセージとメタメッセージが矛盾する


コミュニケーション状況におかれること。




これを二重拘束(ダブルバインド)と言います。


意識的にせよ、無意識的にしろ、これをやってる人には注意しましょう。





「警告ばかりで処方箋なし」


今回はそんなお話し。




~暖簾分けフランチャイズを全国に~グッさんの一期一会ブログ




さて、このダブルバインドでは条件(ニュアンス)を曖昧にすることで、


相手の全ての行動が管理できます。





程度という「加減の度合い」とは、本来自分で問いかけるしかないのですが、


その「加減の定義」を他人に委ねてしまうのです。





例えば「明るい」という態度とは加減次第によって十人十色、


人によっては「軽い」、もしくは「無責任」に映ってしまいます。




「真面目」もそうだし、「真剣」もそう。


態度とは本来「理想的な状態」なんて定義できないのです。





周囲の目で判断する人の多くは


「自分のやってる姿がどう映っているか」を極端に気にしますので、





成功者と言われる方に「理想的な状態」を求めます。


やり方だけでいいのに「在り方」まで似せようとするんですね。






正直大変ですよ、これ。






そもそも、他人と違ったことをするのが嫌なのは、


根底に「他人から悪く思われたくない」という自己防衛本能があるから。







それを「他人に対するマナー、思いやり」として正当化してるだけ、


スタートの時点で間違っているんです。





今の教育の根底にあるのは、自己防衛型の「自己変化・改造」です、


これは以下のどっちかにしかなりません。





第一に、その相手の思う、100%のイメージで動く場合。


第二にその相手の思うイメージ通りに動かない(動けない)場合。






つまりある報酬(内的・外的)を、内部ではなく外部に求めた場合、


最終的には「ロボットか、さらなる不安か」のどちらかにしかなりません。





よく「成功する方法」とかのレクチャー本があるじゃないですか。


あれって完全なダブルバインドなんですよ。






だって「あるがままのあなたが素敵ですよ」とか、


「個性が一番、大事にしましょうね」とか書いてるかと思いきや、




途中から「こうやってる人は不幸です」とか


「なんでも笑顔で楽しめば人生ツイてくる」とか、





「その人の条件」が書かれてる。


普通に考えれば「えっ?そのままでいいの?ダメなの?」ってなりますわ。





多様性を認めつつ、ちゃっかりと「条件付きの教義」を入れてる。


どちらにも言及しない、まさに「ダブルバインド」の典型例。





では、「あるがまま」とはなんでしょう?




「あるがまま」とは善悪二元のような白黒論ではありません。


つまり条件自体がない、無条件なんです。





外部条件を無理矢理くっつけても


人、環境でその都度変わってしまいます。





そうなれば「どっちにすればいいの!?」と混乱するのは必然。


結果、支配者と被支配者という「依存構図」が自然に発生するんです。





つまり現在の自己啓発とは自己の名を借りた(他者依存)洗脳に近いんです。





成功者の指導で上手く行かない人がお金を落とし続ける構図、


失敗の都度「これはそうじゃなくて、こう」と言われる。





自立を促すのが独立の本来の趣旨なのですが、


一人で判断するのは危険だと言う「リスク回避」が原因で正常な判断ができません。





成功が独立独歩だというのであれば、


本来何も教えを乞わず、何も与えられず、自由です。





成功が他者からの学びだというのであれば、


上記のように「コピーロボット」になるしかありません。





あなたはどちらを選択していますか?





さて、パラドキシカル(逆説的)な状況の定義が弱者に強制されるとき


このダブルバインドが発生します。




弱者とは強者になる前の段階です。


つまり定義として



・独立したばかりで売上が少ない



・困難な人生ばかりを送っている



・不幸な環境から抜け出したい



・何をしたらいいか分からないから指針が欲しい



・自分は成功していないと思ってる





といった「自己否定」です。




その根底には


「楽したい・自分で考えるのが面倒」という心理や


「自分で判断、決断したくない」という心理、


そして決定的な「自信の欠如」が働いています。




世のコンサルやコーチとは、


本来自発的、自立的な行動を促すのが目的なのですが、




判断を外部に委ねるような教え方をしています、


それは完全に依存の関係性、





しかも「自立的な依存」という笑えない話です。





その結果、言われたとおりにすることで、


肝心の中身である「あるがままのあなた」がどこかに行ってしまうのです。





これを解決する方法は一つ、


とにかく「支配者から逃げること」です。




成功者の本を破り捨てる、見える場所に置かない


教えを絶対化しない、道から外れてもそのリスクを自分で受け止める。


極論、青い鳥を探しに行かない





「自分の幸せくらい自分で掴める」と思う。


たったこれだけです。





上手な支配者は逃げられないように手を打ちます。


ダブルバインドを完結するための、最終的な手段が「脅し」です。





脅す事で逃げることを禁じる、


これを「第三次禁止命令」と呼びます。





占い師やイカサマスピリチュアルの先生がよく使う、


ちょっとした洗脳論です。





「道から外れたら大変ですよ」


「自分勝手にやると痛い目に合いますよ」





では、宗教戦争が絶対的教義の道同士、という事実。どう説明する?





「頑(かたくな)になっていると大事なものに気付かない」


気付かないのではなく、それをやる事でしか本質の気付きは起きない。


(病気にならないと健康が分からない)→まず頑なになる段階が必要(必要悪)





「人は一人では生きられない」。


そんなの当たり前。


逆に一人で生きれない環境で苦しんでいるのも人間。


(有無同然)




「これからの時代、成功する生き方はこうだ」


共同体のマジョリティ的な理念にすぎない。


多数決が正義という指針は、民主主義が犯した一番の失敗。





こうやって自分の本質的な感情を「自己肯定」する事で


乖離の幅を知る、これが批判することで得られる「ありのまま」です。




もう一つ「受容することで得るありのまま」もあるんですが、


仏じゃない僕には無理(笑)





詭弁のように映りますが、詭弁とは自己防衛です。


自己肯定と自己防衛は意味が変わってきます。





楽な方に逃げるのが詭弁の様な自己防衛(子供の言い訳など)、


上記の「第三次禁止命令」も、全てにおいて「排他的」です。





このような排他的な自己の引きこもりとは危険思想の原動力、


オウムのような宗教思想へ向かうきっかけにもなります。





反面、自己肯定とは他者肯定、「我よし、人よし」です、


相互理解なので、善悪や正解を求めてはいないのです。





本来誰もが違ってるのは当然なんですけど、


誰からも責められない自分を求めているのが現在です。






この正解とは言わば「正義」、他者攻撃へ向かう原理です。


これが前回書いた「間違った利他行為」であって、


世間の常識によって勝手に作られた白黒の善悪論です。






だから「自分勝手にやってる私なんて最低だ」、


なんて思考回路になる。


(自らの感情を排除する)





さらにその内面(内部世界)がそのまま現実世界なので


自ら作ったものに自らが恐れる、という。





違う違う。


心の声はあなたの本質、最低なんかじゃない。





私はそれを一瞥し、完全に逃げてます。


だからといって、それが理由で不幸になった事が無い。






多様性の道とはまず自己の内部肯定からです。


正解なんて、そもそもが存在しないという自覚から生まれます。






ただこの国の都合のいい一元論、まだまだ続きそうですけど、ね。



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