2015/02/08

事挙げと独楽(前編)




最近「ありのまま」という言葉をよく目にする。
映画の効果もあるのだろうか。





「ありのまま」とは、本音のようで本音ではない。
自由のようで縛るものがあり、楽しいようで不安である。







どうも西洋の映画は本音を正当化(一義化)し、
「在りのままが正しいんだ!」と叫ぶ傾向があるが、
それは単なる「主観の正当化」に過ぎない。





主観同士である以上、衝突するのは必然。
解決できる類なら対話でなんとかなる。
(双方にその意思がある場合においては)





しかし、多くは聞く耳を持たない。
なぜなら、人間の本音とは、基本的にエゴイストであるからだ。




例えば子供はアクセル全開である、
純粋な衝動である。






よって歯に衣つけず直球で話し、
欲しいものがあれば泣いて駄駄こね、
頭にきたら躊躇いなく、手を出す。





大人になると逆にブレーキがかかる。
その抑圧が強すぎれば心が病む。




なるほど、今は「ありのまま」といった
抑圧を「回避」ではなく、引き受けているのだろう。




よって、感情の解放は方向性を間違えば、
テロリズムと同じ原理、「ありのまま」のそれとは定義が違う。




また、満たされすぎた欲望は「怠惰」へと変わる。
ローマはこういった怠惰の原理によって崩壊した。



「感情の赴くまま」という
アクセル全開で一般車道を走った結果である。





どんなに素晴らしい感情でも、過ぎれば毒となる。
楽しさはやがて怠惰へ、信念は盲信へ、助け合いは他者依存へ・・・etc





これが自分の責任で理解するならまだ良し。
しかし他人に勧めるのは果して正しいのか、否か。





今日はそんな個人的考察でも。







☞ ☞





・考察その一



現在、価値観がシフトしているのは間違いないが、
それは極の向きが変わっただけであって、同じ環の中だ。





その「昔の価値観」が土台にあってこそ「転換」なのに
その転換のベースを「くだらないもの」だと言われている。







夜がなくて、どうやって朝を定義できるのだ。

苦がなくて、どうやって楽が定義できるのだ。

死がなくて、どうやって生を定義できるのだ。







この世は相対、相対、相対の仕組みである。





なぜ良い経験だったと思えないのだろうか。
それによって際(きわ)であり、加減を得ることができたのだ。





過去を「所為(せい)」にするか、「おかげ」にするか。
その違いだろう。







そもそも昔が全て最悪だったわけではない。







本質的に価値がある部分はたくさんあり、
反面教師とするモデルもたくさんあった。







そんな過去の余分な(余計な)ものを削ぎ落とし、
良い所は残し、悪い所は捨てるのが本来の本質取得であるが、







これを鬼の首を取ったように批判するのは
過去の根絶であり、相対の根絶である。





そうなれば必然的に一極(絶対)へ向かう。
今の自分を完璧だと思えば思うほど、
他を一瞥し、無価値だと決めつける傾向があるが、







価値観の分岐とは「振り子(回帰)」であり
「分裂」の原理ではない。







お互い様の原理はそこから来ている。
誰もが未熟であり、不完全なのだ。





☞ ☞



・考察その二



我々は0でもない100でもない「狭間」に生まれ、
対極を行ったり来たりと、常に揺れ動く(自己中心的)存在である。





自らがやりたい欲求(自我中心)の他に
やらねばならない行動規範(場所中心)とが常に葛藤している。





その葛藤している状態は「利己」ではない。
それこそが「自己」であり「個人」、多様へのプロセスだ。





やりたい欲求とやらねばならぬ義務。
そのどちらを取ろうが本来勝手であって、自由である。







しかし、そこには「揺れ動く心」が間違いなくある
それは我々が倫理的存在である証拠とも言える。







その揺れ動く心に作る自分の軸、
独楽の原理とも言える。







そんなバランスの原理は一朝一夕では作れない。


スノボーでもスキーでもサーフィンでも何でもそうだが
「乗り物」と「意識」のバランスは、最初はチグハグなのだ





これをいきなり「感情の勢いに任せ」乗ろうとすると、
スピードは出て気持ちいいけどコントロールできない。





それを身につけるのは楽ではない。





ただ、そのバランスが無意識に整って初めて
自由と呼べるものが手に入るのではないだろうか。








ん、長くなりましたな。

もうちょっと書きたいので続きは次回。


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