2015/02/08

動機の所在②

前回に続き2回目。

さて、これを見てピンと来ている方も多いだろうが、
これは学校現場とのフラクタルでもある。


学級崩壊と不登校と陰湿ないじめ。
先生の悩みと管理職の悩みは全く同質である。


大人も子供も本質は変わらない、というよりも集団におていの秩序形成とは
何事も「すぎれば」逆効果なのだ。


単一のモノと違い、人間とは多種多様なのであるが、
脳科学者の茂木氏が言うように、科学には「ほどほど」の中空的概念がない。
��中間というよりも中空)


システムは曖昧さや、その時々によるケースに柔軟な対応ができないが、
人間社会とは、まさにこの「曖昧さやその時々」で作られているのである。



よってこの課題はロジカル寄りの厳密主義者には理解ができないのだが、
今回は、なるだけシステマティックに書いてみようと思う。


さて、労働には報酬が必要不可欠であり、
報酬があってこそ、仕事は意味を持つと言われてるが、
どうやらそう単純なことではないようだ。


確かに、仕事とは生計のためという部分がある。
一部の資産家を除けば食う為、すなわち生きる為の手段である。


しかし戦後と違い、人はパンのみで生きるのではない。
贅沢な悩みだと思うだろうが、そんな時代になったのだ。



それは文化や時代背景によって変化するというよりも、
本来持っている我々の特質が「解放」されたとも言える。



さて「報酬のよって仕事が持つ純粋動機が低下する」、
この臨床結果を出したのは心理学者であるエドワード・L・デジである。



著書「人を伸ばす力」にはこう書かれている。

��人が自律的に生きているかどうかの鍵となるのは、
自分自身の選択で行動していると心底感じられるかどうかであり、
それは、自由だと感じる心理状態であり、いわば行為が行為者の掌中にある状態だ~



デジは内部動機こそ、真のモチベーションだ。ということから、
報酬、強要、脅し、監視、競争、批判的評価によって、
人を管理・コントロールすることを批判した。


そもそも人間の行動・言動をコントロールすると言う点では報酬も罰と同じである。
つまり「Aをすれば、Bをあげる」という、条件付けの操縦だからだ。


外部報酬とはコントロールと同義、場合によっては自由がなくなり、
他人の言われるがままとなる。


自由を失うのであるから、そのこと自体は罰と言える。
ただ、これで終われば、デジは単なる理想論者であるが、そこには先がある。


内発性の高める環境条件として個人の「選択の自由」があり、
そこには自由とされる「自己決定」がある、とした。


つまり人間は与えられた選択肢からではなく、
自ら決定することで、積極的な人生の型枠を作って行くのだ。


これは顧客のクレーム対応を例にすれば分かりやすい、
クレームの大半は、顧客のコントロール感が欠如した時に発生する、


そこに言い訳をすれば2次クレームに発展する、
よってこの場合は、顧客のコントロール感を取り戻す事が先決なのである。


このように自己追及による達成感は内部動機であるが、
ビジネスにおいての自己満足はビジネスではない、それはただの自由研究である。


また、確かにこれこそが純粋な「内部動機」なのだが、
自由な環境下に置いては誰もがモチベーションが上がるかというとそうではない。



つまり自己満足ではなく、自由と言う名の野放図でもない。
この曖昧な概念に必要なのが私が提唱しているもう一つの概念「自律」である。


そこには基礎、つまり「守」が必要である。
社会人になったばかりの時に自由さを与えられても、ただ苦しいだけである。


知識、スキル・ノウハウの体得、会得が前提条件であり、
それが満たされて初めて自由研究である内部動機を喚起する。
場の創造には「段階」が必要なのだ。


自律とは規律を学び、守ること(外部)であり、
そこから自ら選択し、決定するという行為は内部である。



規律に未熟なものは倫理にも未熟である、よって外部でなくてはいけない。
子供は宝であるが王様ではない、と私が言う理由がこの部分である。



例えるなら、抜け出せない場所に本人がいる場合、抜け出そうとしても、
自らの髪の毛を掴み、引っ張って抜け出すことは不可能だからだ。



観念的であるが、内部がモチベーションの源泉、車でいうガソリンであり、
外部は報酬を使った管理ではなく、自ら方向性を選択できるハンドル、
言わば内部動機とは「乗車側から運転側」へのシフトなのである。



現在、こういった活動は「シャドーワーク」と呼ばれている。
表である組織やプロジェクトとは違い、それらの環境に縛られない
集団の「裏的な」独自活動をシャドーワークと呼び、


持ち時間のうち15%~20%は自由に使って良いといったグーグルを始め、
アサヒビール、コーセー、スターバックスなど、
それを商品開発やサービスに繋がっているケースが増えているという。


大小差はあれど、大手組織の特徴でもある官僚化において機能している事から、
我々でも活用できるのではないだろうか。


トップダウン的な号令をかけた瞬間、
その仕事は「シャドー」ではない、オモテ側の命令された仕事になってしまう、
また、外部報酬が協力関係を壊したりもする。



報酬は一度使い出したら簡単には止められず、
それを得るための最短ルート、つまり「手抜き」を助長させる可能性がある。



つまり意図的かつ合意済みの「あそび」を作るのである。



企画・編集・営業まで一貫した主導、
必要なのは、無責任な立場にある「遊撃手」ではなく、
自由と責任の概念を兼ね備えた「プロデューサー」である。



そのものの魅力を伝えたいという自発性
プロモーション効果の最大化にはこれが一番強いだろう。







今回はロジスティックに書こうと思ったのだが、
どうやらこれが私の限界のようだ(笑)

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