2015/02/08

コミュニティの定義は昔も今も

こんにちわ、坂口です。



この本の「知のサムライ」ってタイトル、
なかなか秀逸だな~と思ってます。




知のサムライたち―いまこそ日本をささえる10人の思想/長尾 剛

¥1,470
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著書の中に、大原幽学という人物がいます。
渋沢栄一同様 、道徳と経済の調和を目指した人物です。


大原幽学の哲学の根柢にあるその思想は
農業を通じて伝えられました。



幽玄氏曰く、村の復興には
個人の生活の見直しが必要不可欠と言います。
これはいまでも同じ事が言えるでしょう。



氏が与えた生活の形式を「規式」と言い、
年間の行事をマニュアル化したりしました。


ある種の取り決めやルールを作ったんですね。



今でもJAや信金がこの活動を引き継いでいるという大原幽学提案の
「先祖株組合」は世界最古の協同組合だといいます。

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幽学氏は上下関係を作りたくない理由から、
学びを教わる人のことを「道友」と呼び、



仲間同士助け合い、教えを学んでいく為の
入門契約書「神文」を作りました。


これはリゾームFCの加盟契約書みたいなもんだと
勝手に思っています^^


また、その理念は「資本などの金銭による結びつきではない」事と、
「人と人との絆による組織であること」。


僕のイメージするFC理念(というより構築基礎)は
これとかなり似ています。


本来、絆とは人ありき。お金からの縁なんて、
始めから切れ目が入っているようなものです。



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さて、その幽学以前にも、こういった
思想を実践していた人がいます。



ここ福岡(筑前)の有名な思想家である
貝原益軒から指導を受けたとされる宮崎安貞です。



彼は「農民の所得増大」を提唱し、
その方法を2つ考えました。



それは「年貢の米以外の農作物を作る事」と、
「農耕具を改良する事」。



会社でいう新規事業や運営システムの改革です。
それを行う際、安貞には一つの哲学がありました。



それは、ただ所得を増やす為に能率化・効率化・
そして便利化を求めない事です。



農耕具に頼りすぎるのではなく、人間の能力を最大限に発揮し、
農耕具はプラスαとしての役割とせよ、と。



初めから改良した工具に頼る事は
逆にマイナスになる、と氏は思ったのでしょう、


よって、工具の改良には一定の枠を作ったと言います。
その枠こそが「人間のかかわりと誠意」なのです。



やはり時代を越えても不変は人、ですね^^



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さてさて、幽学が若干放置プレイ気味ですが
2人には大きな共通点があります。



それは「使う道具が進化しても、人の道から外れてはならない」という
厳しい自己規制です。



幽学の作った先祖株組合には
「加入者はすべて善行を目指す道友でなければならない」というルールもあります。




さて、この善行である「善」とは一体何でしょう?
僕は多様な中にでも、それは一貫して存在すると思っています。


そんなわけで、次回は「善」について。


動機の所在②

前回に続き2回目。

さて、これを見てピンと来ている方も多いだろうが、
これは学校現場とのフラクタルでもある。


学級崩壊と不登校と陰湿ないじめ。
先生の悩みと管理職の悩みは全く同質である。


大人も子供も本質は変わらない、というよりも集団におていの秩序形成とは
何事も「すぎれば」逆効果なのだ。


単一のモノと違い、人間とは多種多様なのであるが、
脳科学者の茂木氏が言うように、科学には「ほどほど」の中空的概念がない。
��中間というよりも中空)


システムは曖昧さや、その時々によるケースに柔軟な対応ができないが、
人間社会とは、まさにこの「曖昧さやその時々」で作られているのである。



よってこの課題はロジカル寄りの厳密主義者には理解ができないのだが、
今回は、なるだけシステマティックに書いてみようと思う。


さて、労働には報酬が必要不可欠であり、
報酬があってこそ、仕事は意味を持つと言われてるが、
どうやらそう単純なことではないようだ。


確かに、仕事とは生計のためという部分がある。
一部の資産家を除けば食う為、すなわち生きる為の手段である。


しかし戦後と違い、人はパンのみで生きるのではない。
贅沢な悩みだと思うだろうが、そんな時代になったのだ。



それは文化や時代背景によって変化するというよりも、
本来持っている我々の特質が「解放」されたとも言える。



さて「報酬のよって仕事が持つ純粋動機が低下する」、
この臨床結果を出したのは心理学者であるエドワード・L・デジである。



著書「人を伸ばす力」にはこう書かれている。

��人が自律的に生きているかどうかの鍵となるのは、
自分自身の選択で行動していると心底感じられるかどうかであり、
それは、自由だと感じる心理状態であり、いわば行為が行為者の掌中にある状態だ~



デジは内部動機こそ、真のモチベーションだ。ということから、
報酬、強要、脅し、監視、競争、批判的評価によって、
人を管理・コントロールすることを批判した。


そもそも人間の行動・言動をコントロールすると言う点では報酬も罰と同じである。
つまり「Aをすれば、Bをあげる」という、条件付けの操縦だからだ。


外部報酬とはコントロールと同義、場合によっては自由がなくなり、
他人の言われるがままとなる。


自由を失うのであるから、そのこと自体は罰と言える。
ただ、これで終われば、デジは単なる理想論者であるが、そこには先がある。


内発性の高める環境条件として個人の「選択の自由」があり、
そこには自由とされる「自己決定」がある、とした。


つまり人間は与えられた選択肢からではなく、
自ら決定することで、積極的な人生の型枠を作って行くのだ。


これは顧客のクレーム対応を例にすれば分かりやすい、
クレームの大半は、顧客のコントロール感が欠如した時に発生する、


そこに言い訳をすれば2次クレームに発展する、
よってこの場合は、顧客のコントロール感を取り戻す事が先決なのである。


このように自己追及による達成感は内部動機であるが、
ビジネスにおいての自己満足はビジネスではない、それはただの自由研究である。


また、確かにこれこそが純粋な「内部動機」なのだが、
自由な環境下に置いては誰もがモチベーションが上がるかというとそうではない。



つまり自己満足ではなく、自由と言う名の野放図でもない。
この曖昧な概念に必要なのが私が提唱しているもう一つの概念「自律」である。


そこには基礎、つまり「守」が必要である。
社会人になったばかりの時に自由さを与えられても、ただ苦しいだけである。


知識、スキル・ノウハウの体得、会得が前提条件であり、
それが満たされて初めて自由研究である内部動機を喚起する。
場の創造には「段階」が必要なのだ。


自律とは規律を学び、守ること(外部)であり、
そこから自ら選択し、決定するという行為は内部である。



規律に未熟なものは倫理にも未熟である、よって外部でなくてはいけない。
子供は宝であるが王様ではない、と私が言う理由がこの部分である。



例えるなら、抜け出せない場所に本人がいる場合、抜け出そうとしても、
自らの髪の毛を掴み、引っ張って抜け出すことは不可能だからだ。



観念的であるが、内部がモチベーションの源泉、車でいうガソリンであり、
外部は報酬を使った管理ではなく、自ら方向性を選択できるハンドル、
言わば内部動機とは「乗車側から運転側」へのシフトなのである。



現在、こういった活動は「シャドーワーク」と呼ばれている。
表である組織やプロジェクトとは違い、それらの環境に縛られない
集団の「裏的な」独自活動をシャドーワークと呼び、


持ち時間のうち15%~20%は自由に使って良いといったグーグルを始め、
アサヒビール、コーセー、スターバックスなど、
それを商品開発やサービスに繋がっているケースが増えているという。


大小差はあれど、大手組織の特徴でもある官僚化において機能している事から、
我々でも活用できるのではないだろうか。


トップダウン的な号令をかけた瞬間、
その仕事は「シャドー」ではない、オモテ側の命令された仕事になってしまう、
また、外部報酬が協力関係を壊したりもする。



報酬は一度使い出したら簡単には止められず、
それを得るための最短ルート、つまり「手抜き」を助長させる可能性がある。



つまり意図的かつ合意済みの「あそび」を作るのである。



企画・編集・営業まで一貫した主導、
必要なのは、無責任な立場にある「遊撃手」ではなく、
自由と責任の概念を兼ね備えた「プロデューサー」である。



そのものの魅力を伝えたいという自発性
プロモーション効果の最大化にはこれが一番強いだろう。







今回はロジスティックに書こうと思ったのだが、
どうやらこれが私の限界のようだ(笑)

道徳なき経済と経済なき道徳

そもそも「経営」の語源は仏教から来ています。

みなさん、知ってましたか^^?





そして経済の正式名称は経世済民(けいせいさいみん)と言います。

さて、これはどういった意味なのでしょう?




まずこの「経」とは、お経(おきょう)の事であり、

人々を救う真理の言葉で「治める」ことを指します。



そして済は「救う」を意味します。

つまり経済を正式に訳せば、「真理で世を治め民を救う」という意味なんですね。




その真理はもちろんお金じゃありません。

普遍で変わらない真理を言葉に乗せ伝える、と言う事です。





経営とは、普遍を現しているお経を編纂することが本来の意味であり、

事業とは仏が成す仕事を表わします。



さて、孔子やソクラテスのような哲学書や

キリストや仏陀についての本は現在たくさんありますが、





今知られているのは本人の著作じゃありません。

訳した本人の主観が含まれた個人思考が多いのです。




結果本人が言っていない言葉が

「成功者の教え」として、都合よく解釈されています。




例えば銅像で有名な二宮金次郎(公人では二宮尊徳)

が書いたとされる二宮翁夜話に、




道徳なき経済は犯罪であり、

経済なき道徳は寝言である





というものがありますが、実はこの言葉、原書には一切載っていません。




これは日本経営合理化協会出版局が翻訳したのですが、

翻訳機関のその名の通り、経営者に向けた組織が翻訳したのです。





まるで野口秀雄が「アイラブユー」を「月が綺麗ですね」と

訳したように、個人の価値観が入ってしまったのです。




ここが出版されている書籍、関わっている企業を調べてみましょう。

どんなものなのか、判断できるでしょう。




☞ ☞ ☞




経済の本当の意味を考えた際、

その課題とは、限りある資源を社会の隅々にまで最適に配分することです。




つまり経済の目的は格差ではなく、

分け合う事による「総中流」のすすめなのです。




それを社会主義ではなく、経済で統治させること。

これがあるべき姿なのです。




金持ちを増やすのではなく、貧乏を増やすのでもない。

清貧の教えがそこにはあるのです。




清貧の「貧」という言葉は「貝を分ける」と書きますよね、

つまり、昔の交換通貨であった「貝殻」を人数で分けるのが語源です。




経済は清貧を教え、

分け合い、分配する為の思想が人々を救う真理を広める活動です。





経営理念が必要だの、儲からない事業は寝ごとだのとは

一切言っていないのです。




正しいフランチャイズを実践し広げることは

そういった意味での経済だと思っています。



薬が毒になるように




毎回書いているのでげっぷ気味とは思いますが、
何事も無意識的に極へ移りやすい性質があります。



もしかすると、テーマに書いたように
薬(最善)が毒(最悪)になるという事実を
今現在、経験しようとしているのかもしれません。



「いい加減な状態」とは何か?




二項を内包し、その間で生きる我々は、
まさにこのバランスこそ目指すものではないか、と。



例えば関係性しかり。
一見、孤独は不幸のようにみえますが、



本当の不幸はコミュニケーションに対する
欲望が満たされない時ではなく、満たされすぎた時でしょう。



なぜなら、それはある種の
不感症さを生みだすのだから。




批判のない集団はあまりにも
「満たされすぎて」やがて不感症にハマる可能性が高い。




逆を言えば「誹謗中傷の裏は評価」なのでそれを真摯に受け止めると
より大きな成果を生み出すことが出来ると思っています。



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起きる現象は天秤そのもの(ゼロ)、
しかし人は感情という重りをどっちかに乗せる。




抑えた誘惑は無意識に残り、
潜在的部分は他者が演じる。



それは「反発」という自然の摂理。




そうして「最善」が「最悪」に向かう、そんな気がしてます。

(ちょど片方に傾きすぎた分だけ逆の「重り」が必要なように)



自我があるから苦しみを生み、
自我があるから自分は生きているのだと実感できる。




右から左への経験が必要なのは「夏があるから冬がわかる」ように
「季節そのもの」を理解する為です。



日本は「春夏秋冬」があるので
特に細かい部分を感じる事ができます。
秋が大好きなのは「ちょうどいい」から。



この「ちょうどいい」を理解する為の
対極の経験ではないでしょうか、




さらに、それはもっと深い所にある「自己中心」の
理解の為だと思うんですが、



長くなるので今日はこのへんで。




ワーキングプア起業

最近よく耳にする言葉である「ワーキング・プア」。









正社員並みにフルタイムで働いても、


最低限の生活を維持するのが難しい人の事を指します。








給与所得者全体の約23%が年収200万以下。


しかも年々もこういった状態が続いているといいます。








さて、中には男性顔負けの収入を得ている女性も沢山いますが、


23年度の平均年収を見ると、








男性平均年収は504万円だったのに対し、


女性平均は268万円。倍近い差があります。








母子家庭の多くがワーキングプアと言われています。


母子家庭の場合、女性のスキルが無いと、企業の受け皿はビックリするほど少ない。









女性に限らず、一生食っていけるスキルを持ってる人なんて


ごく僅かです。







この男女格差、よく耳にする話ですが、


実際の所、どうやってクリアしたらいいのでしょう。









今回それを、雇用側面からではなく、起業側面から


考えてみます。






■□■□■□■□■□





さて、この国の支援といえば、障害、高齢者雇用時だとか


母子家庭の人を「雇った場合」に支給される助成金が大半で、










起業するという場合の助成がほとんどありません。


しかも融資の場合もなかなか通らない。


(あって母子寡婦福祉資金くらい)








女性が一人で働きながら子供を養っていく場合、


先ほどの年収格差がどうしてもネックになります。








単純に起業して稼げとは言えませんが、


格差が埋まるのを待っていても仕方が無いのは事実。






特に人件費削減にやっきになっている


企業の台所事情を見ればなおさらです。









個人的な事ですが、フランチャイズ本部が出来た場合、


ぜひ検討して頂きたい事があります。








それはFCオーナーを始め、全てのメンバーを


母子家庭で運営できるような本部を作ってほしいんですね。










母子家庭同士がコミュニティを形成できる、


育児所が店内に(もしくは福利厚生で)あれば最高です。










雇い入れるのは母子家庭限定、助成金は都度プールし、


最終的にオーナーとしての道を作る。








それプラス、国がFCオーナーとして独立する際、


助成金や融資面で優遇してくれるなら、かなりハードルが下がりませんか?










企業が助成金をもらって、還元もなく馬車馬のように働かせるならば、


自分で稼ぐからその分こっちに回せ、と。












そう感じているのは僕だけでしょうか?










人も企業も状況が厳しくなればなるほど、


古い価値観や慣れ親しんだ悪習に寄りかかろうとします。










それは痛いほど分かるんですが、


同じ事をやっていても改善しないという事も全員何となく分かっているはず。










新しい価値観、それに沿ったビジネスモデルの構築、


これが今、全ての企業に問われているのではないでしょうか?



今日のグッさん

最近頂いた「雲丹醤油」にハマってるグッさんです。










これで「卵かけご飯」をすると・・・







すると・・・・・






・・・・・





メッサ美味いです・°・(ノД`)・°・

















教えるなんて




最近の対話から



■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□







「教育って教えて育てるって書くでしょ?」





「そうですね」





「でも本来人が人に教えるなんて、おこがましい事と思いませんか?」





「おこがましい・・・ですか?」





「私は教えるという立場にはいたくないですね」







「でも教師とか生徒に教えますし、色々経験した人は確実に経験豊富ですよ」







「経験って言っても、絶対的な情報と相対的な情報からのものがありますから」







「ちなみに絶対的なやつとは?」







「それは科学的な知識ですよ、足し算とか、掛け算とか」







「?」







「100人中、100人誰でも同じ結果が出る、それが絶対的な情報」







「と言う事は相対的な情報は非科学的なやつですか?」







「定義できない人間の生き方全てですよ」







「定義できないモノって言われるとちょっと難しいです」







「例えば「●●は○○すべき」とか言うでしょ?」





「言いますね」







「私はそれって絶対的なの?って思ってしまうんです、人や状況によって違う」







「べき論ですか・・・それは常識、社会通念みたな?」







「それも含めてですね」







「でも僕もそうだし実際そんな人多いですよ」







「そう、仕事だけでなく人に教えるという行為はとても多い」







「そんなことしてたらダメって事ですか?でも相手の言葉で救われたとか、助けてもらったなんて話も」









「教えるだけの極端な立場の人を見るとそう思いますね、私は」







「導いてくれる人がいると結構心強いと思うのですが」







「もちろん私にも経験があります、ただそれは教えるという立場ではない」







「立場の問題ですか?」







「そう、例えば善行を教える立場の人間は100%完璧でしょうか?」







「先生とか、宗教・思想家、政治家に近い立場ですね、確かに違います」







「失敗が全くない人なんていませんし、未熟な部分は必ずある」







「そうなってくると完璧な人間なんていませんよ」







「そう、だからこそ教える・導くというのはおこがましいんですよ」







「(禅問答みたいだ)うーん・・・じゃあ、相手の才能を「引き出す」っていうのは?」







「引き出すのもおこがましいです、相手の能力を全てを知ってるなら別ですが」







「それって自分で勝手に見つけて生きろって意味にも捉えられませんか?」







「例えば育児って基本的に親の仕事でしょ」







「そうですね」







「育児を「育自」と言う人もいます。つまり子供を通じて自分を育てると」







「育自ですか、なんとも謙虚な」







「そうですよ、全ての人は全ての人から育てられる、だから立場は公平なんです」







「育つのはお互い様で、相手がいてこそ・・・・という意味ですか」





「そう、反面教師というのは相手を見て自分を育てるでしょ」







「でもそこにはルール・・普遍的な決まり事がないとダメですよね」







「白黒って事ですよね、じゃあそれは誰が決めるのでしょう?」







「自分で決めると自信過剰になって独善になる気がします」





「では他人が?」





「他人が決めると宗教のような拠り所となって、そこから外れる人が全てダメになる気が」







「そうなると、どっちもダメって事になる」







「うーん。かと言って自由放任は過去の歴史で失敗してますしね」







「自分中心もダメ、社会中心もダメ、ルールなしもダメ」







「極端なダメじゃないんですよね、ただマニュアルは作れないというか」







「その白黒ハッキリしたマニュアルって、誰か作れますか?」









「あっ・・・なるほど。最初に言ってた言葉ってそういう事ですか」







「私は真理はあると思いますが、一人の聖者が理論理屈で教えられるもんじゃないと思うんですよ。人を見て自分で理解する。何が良いか悪いかなんて本来他人に教える時点で捉われる気がするんです」









と、まあ色々な分野に通じる内容でした。

さすが年の功。


事挙げと独楽(前編)




最近「ありのまま」という言葉をよく目にする。
映画の効果もあるのだろうか。





「ありのまま」とは、本音のようで本音ではない。
自由のようで縛るものがあり、楽しいようで不安である。







どうも西洋の映画は本音を正当化(一義化)し、
「在りのままが正しいんだ!」と叫ぶ傾向があるが、
それは単なる「主観の正当化」に過ぎない。





主観同士である以上、衝突するのは必然。
解決できる類なら対話でなんとかなる。
(双方にその意思がある場合においては)





しかし、多くは聞く耳を持たない。
なぜなら、人間の本音とは、基本的にエゴイストであるからだ。




例えば子供はアクセル全開である、
純粋な衝動である。






よって歯に衣つけず直球で話し、
欲しいものがあれば泣いて駄駄こね、
頭にきたら躊躇いなく、手を出す。





大人になると逆にブレーキがかかる。
その抑圧が強すぎれば心が病む。




なるほど、今は「ありのまま」といった
抑圧を「回避」ではなく、引き受けているのだろう。




よって、感情の解放は方向性を間違えば、
テロリズムと同じ原理、「ありのまま」のそれとは定義が違う。




また、満たされすぎた欲望は「怠惰」へと変わる。
ローマはこういった怠惰の原理によって崩壊した。



「感情の赴くまま」という
アクセル全開で一般車道を走った結果である。





どんなに素晴らしい感情でも、過ぎれば毒となる。
楽しさはやがて怠惰へ、信念は盲信へ、助け合いは他者依存へ・・・etc





これが自分の責任で理解するならまだ良し。
しかし他人に勧めるのは果して正しいのか、否か。





今日はそんな個人的考察でも。







☞ ☞





・考察その一



現在、価値観がシフトしているのは間違いないが、
それは極の向きが変わっただけであって、同じ環の中だ。





その「昔の価値観」が土台にあってこそ「転換」なのに
その転換のベースを「くだらないもの」だと言われている。







夜がなくて、どうやって朝を定義できるのだ。

苦がなくて、どうやって楽が定義できるのだ。

死がなくて、どうやって生を定義できるのだ。







この世は相対、相対、相対の仕組みである。





なぜ良い経験だったと思えないのだろうか。
それによって際(きわ)であり、加減を得ることができたのだ。





過去を「所為(せい)」にするか、「おかげ」にするか。
その違いだろう。







そもそも昔が全て最悪だったわけではない。







本質的に価値がある部分はたくさんあり、
反面教師とするモデルもたくさんあった。







そんな過去の余分な(余計な)ものを削ぎ落とし、
良い所は残し、悪い所は捨てるのが本来の本質取得であるが、







これを鬼の首を取ったように批判するのは
過去の根絶であり、相対の根絶である。





そうなれば必然的に一極(絶対)へ向かう。
今の自分を完璧だと思えば思うほど、
他を一瞥し、無価値だと決めつける傾向があるが、







価値観の分岐とは「振り子(回帰)」であり
「分裂」の原理ではない。







お互い様の原理はそこから来ている。
誰もが未熟であり、不完全なのだ。





☞ ☞



・考察その二



我々は0でもない100でもない「狭間」に生まれ、
対極を行ったり来たりと、常に揺れ動く(自己中心的)存在である。





自らがやりたい欲求(自我中心)の他に
やらねばならない行動規範(場所中心)とが常に葛藤している。





その葛藤している状態は「利己」ではない。
それこそが「自己」であり「個人」、多様へのプロセスだ。





やりたい欲求とやらねばならぬ義務。
そのどちらを取ろうが本来勝手であって、自由である。







しかし、そこには「揺れ動く心」が間違いなくある。
それは我々が倫理的存在である証拠とも言える。







その揺れ動く心に作る自分の軸、
独楽の原理とも言える。







そんなバランスの原理は一朝一夕では作れない。


スノボーでもスキーでもサーフィンでも何でもそうだが
「乗り物」と「意識」のバランスは、最初はチグハグなのだ。





これをいきなり「感情の勢いに任せ」乗ろうとすると、
スピードは出て気持ちいいけどコントロールできない。





それを身につけるのは楽ではない。





ただ、そのバランスが無意識に整って初めて
自由と呼べるものが手に入るのではないだろうか。








ん、長くなりましたな。

もうちょっと書きたいので続きは次回。


言挙げと独楽(後編)

前回に続き二回目。

あくまでも自己的な考察。







・考察その三







「道徳」とは外律であり、言語化である。

しかし、形のないものを語れば語るほど、真実から離れてしまう。





語るということはモデルを描くということであり、

そのモデルの中に閉じ籠り、閉じ込めること。





よって自律とは「自縄自縛」、

他律とは「他縄他縛」である。





真の自律とは、外部の法律を守ることではなく、

自らの「人格」に背くことのないように、自身を律することである。





客観的で他律的である時点で普遍性はない。

仮言命法となり、独善的。これは異なった原理である。









倫理とは言葉ありきではない、

初めに「感情(情動)ありき」、その基準は心に由る。

(情動は長くなるので割愛)





よって外部の法によって罰を受けるのではない。

自ら定めた法を破ったことに対し、自ら罰を与えるのである。








「罪と恥の意識」、アダムとイブが禁断の実を食べ、

最初に起きた感情である。







そこに他者や社会や道徳やモラルなどは一切関係ない。

自分が自分自身に下すもの、絶対命法だ。





よって自律派生の倫理とは外からは見えない。







☞ ☞



・考察その四





自縄自縛である自律とは、抑圧を伴う。

なぜなら、あり方(根茎)が拒絶しているからだ。







それを解放すれば跳梁跋扈となる場合がある。

なぜなら、そこには「在り方(人格)」の定義が欠如している。





在り方が本能的であれば、お隣の国同様「欲望機械」となる。

欲しければ奪い、邪魔ならば潰し、それを正当化する。







よって、利己的な本能のアクセルを踏ませるのは

未熟な精神性では危険極まりない。

(もちろん、例外もある)







例えばよく「バレないなら浮気をしてもいい」と言う。

では「見つからなければ、万引きしてもいい」のか。







上記の欲望を我慢するのは抑圧と呼べるか。

ここで「ありのまま」を使うのはおかしい。







つまり、それはありのままではなく、

欲望の赴くまま(おもむくまま)である。









そんなものに理性を使って正当化するのであれば、

西洋宗教と同様、ただの空理空論である。





☞ ☞





理性は時として人格を無視する。

赴くままを、ありのままとする。

頭で考えたものは、一貫性がない。







例えば、従業員が所属する企業の

不正現場を目撃したとする。







賞味期限が過ぎている食材を使う、

安全性がないのに合格基準としている、

助成金欲しさに自己都合退職させている etc・・・何でも良い。







これを第三者の立場から判断するならば、

当然、「内部告発し、不正を正す」と言うだろう。









外部にいる人間は「理性」によって、一番最適な回答を出す。





しかしそれは空論理想の人格モデルである。

理想は誰もが語れる、しかし現実はそれとは異なる。







もし、それが自分自身に起こったとしたら、

どのように対処するだろうか?









この場合、選択肢としての「行為」は、

見て見ぬふりをするか、内部告発をするか、

それとも直接、当事者へ伝えるかの三者択一である。







まさに、善悪の分かれ目である。

あなたならどうするか。







もし家族を養わないといけない状態ならどうするか?

もし、家のローンがあと20年残っていたらどうするか?

来年係長へ昇進する予定ならどうするか?

結婚式の仲人をしてもらった人がいる部署ならどうするか?







この瞬間、理性が勝てば必ず「見て見ぬふり」をする。










しかし、全人格が働けば、内部告発をするか、直接訴える。







(全てではないが)中国や韓国の体質は

まさにこの「理性」によって欲望が正当化されている。







結果が「とまらない大気汚染」と「腐敗した官僚」である。

儒教(儒学)は「ありのまま」を間違えて教えた。





四徳(仁、義、礼、智)や五常(仁、義、礼、智、信)

は外律であり、理性を縛ることはできない。







☞ ☞





誰もが理性で考え、行動していると思っている。

理性によって自分へ命令を下し、行動できている、と。







しかしそれは思いこみである。

本来は、理性が行動をコントロールしているのだ。









よって、それは行為ではなく、理性。

メカニックに、合理的に、都合良く動いているだけである。







自らの知に自惚れている人間は、悪に陥りやすい。

知識人の中には「科学的」な説得力によって当たり前のことが分からない人が多い。


言挙げと独楽(補)

前回の「言挙げと独楽」の補足。




現実を「情報として」理性で捉え、判断し、
理性によって構築することの危険性を前回、考察してみた。


理性は常に正解を探したがる特性がある、という事だ。
宿主(言語)の身を守るためである。


例えば、私は国家に対して不信感情をもっているが、
仮にその感情を「理性」に任せると相対・分別的となってしまう。



相対である以上、同質同量の対極概念が同時に生まれる。

よって、原発賛成派と、反対派が存在するし、
集団的自衛に賛成派もいれば、反対派もいるのだ。


ディベートは理性派生であるから、お互いに正義が成り立つ。
(当然、その正義は歪んでいる)

ただ、いったん、右と左(相対)に分かれてしまえば、
あとは水平性、堂々巡りだ。



右も左も、真ん中もどれもが一致せず、
かといって妥協もできない。

政治討論を見れば、容易に分かる。
持論を必死に守る、どんな詭弁をも使う。


理性の思想とは堅固なものなのだ。




結局、頭でっかちは いつも水平線。


損得・自我・目先・打算・利己を超えるのは
感性であり、人格であり、それは個人が自ら手にするもの。


曖昧な感情は、その独自の伝達手段を
持っていない、だからこそ「思想」が必要なのである。


それは軸となり、土台となり、共有価値となる。
それは自身に対する「純真無垢」の問いかけの答えなのだ。


☞ ☞


どうして○○したらダメなの?
どうして○○しないといけないの?



思想と書くと大げさだが、極論こんなものである。
別に哲学的に難解な事を考えるのではない。


上記のような「純粋な問い」に対する答え、
それが生き方の規範となるのだ。


「何でもオールOK」、「大丈夫、大丈夫」
「ツイてるツイてる」という肯定・解放軍の皆さん、


分別ない、無邪気な子供からの問いにも、
同じように答える事ができますか?







我々は常に選択し、判断しなくてはいけない。
日々、大小様々な問題に対し常に迷い、決定している。
(保留も「何もしない」という決定である)



それは会社の飲み会の誘いから、
「神はいるか、否か」まで様々であるが、



それらを最終的に判断し、決断する
最も肝心な要素は上記の「答え」なのだ。



その回答は、やがて制度を構築する。
マクロ然り、ミクロ然り、西洋然り、東洋然り。

例えば、教育にせよ、経済にせよ、何にせよ、
「制度」には必ず「思想」がある、無思想の制度などありえない。



制度(システム)は「思想」がないと成り立たない、
故に、制度の土台(根茎)と「思想」はイコールなのだ。


さらに言えば、今のシステムが古い、というのは
「その思想は昔の価値観ですよ」という事であり、


それら全てを新品に交換するのではない。
そこには普遍のベースが存在している。


これはフラクタルであり、個人にも当てはまる。
無思想では、我々は何も決定する事ができない。


よって思想がないと自律はできないのは当たり前の話なのだ。



それがないと一貫性がなく、自制心は脆弱となり、
生き方も定まらない。



問題なのは、これらが養われていない事である。
今までの教育は軍事教育、「画一化製造(洗脳)」、



以前はそれを「イデオロギー」で補完していたが、
それはもう崩壊し、通用しない。



では何を以って養うか。
これに答えている多様性推進派の人は少ない。



元がなければ子が生まれる道理はない。
そして現在の多様な思想には肝心の元がない。



文字通り、「元も子もない」のだ。


本来の教育とは、小さい頃の素朴で純粋な問いを
深い思索で練り上げ、洗練したものを伝えることであり、

その共有化された価値から派生したものが「価値観」である。
犬派、猫派も根本に「動物が好き」がないと、意味がない。


その「元」となるものが、先人達の結晶であり
継承されるべき価値ではないだろうか。



余談だが、現在の犯罪は異常な動機から起こる、
それは変質ではなく異質、質そのものの変態である。



言わばベースそのものの崩壊かもしれない。




☞ ☞


「意志や感情の立場から」理性を構築することが
脱マネジメントであり、感性であり、リゾームである。

逆に「理性や損得の立場から」感情や意志を構築していたのが
今のマネジメントであり、支配・被支配の相対であり、ツリーである。


前者であれば倫理が成り立ち、
後者であれば道徳が成り立つ。



前者であれば多様を認め合い、
後者であれば小さなカテゴリーが増えるだけだ。



「僕らって特別だよね」と
小さな会議室で共感し合うのは小さな宗教である。


「古い時代を全部ぶっ壊そうぜ」と
0か100かで判断するのも同義、




そんなカテゴリー内に限定された「ありのまま」は
僕はどうも好きになれない。




3部に渡って書いてみたが、
やはり言語化すればするほど、おかしくなる。




長文に付き合って頂いた方、
失礼しました。






朝の唄

最近、我ながら、成長したと思える事があった。




それは人に話したら笑われてしまう程度の

小さなものに過ぎない。




しかし、最近の出来事が、

まるで子供の頃のように思える程だ。





我ながら、我ながら。

ただ、この僕もまた、笑う時が来るのだろう。





こうやって書いている自分もまた、

いつかは矛盾するだろう。




そして、それについて書いたことも、

またそのいつの日か、矛盾しているだろう。




それで良い、それで良い。

それを僕であったと認識できるのだから。




☞ ☞



時間とともに、容姿も考え方も違っていく。

しかし、身体中の細胞が全部入れ変わっても、僕は僕以外にはならない。




時間とともに変わる、不連続性を持っている僕。

動的であり、毎秒ごとに変化する。




そんな「変わっていく僕」を、

間違えず、きちんと時系列に並べている「変わらない僕」がいる。




それは時間の概念なく、連続性を持っている。

静的であり、不動である。




つまり流れる時と流れない時という、矛盾した

二つの相を統一することによって「僕は僕である」と認識している。



「一即多、多即一」。

そんな無意識の朝の唄。





逆境に耐える組織論②

逆境に耐える組織論2回目。








僕は職人気質の重要性こそ説いていますが、

「業種そのものを磨くこと」ではありません。







もちろん、結果としてはそうなるのですが、

大事なのは在り方であって精神性です。







レジリエンス、ロバスト、リゾーム。

表現は人によって様々ですが、

有機的な組織は耐性がある、ということです。










Lila Jangの作品


さて、(弊社は基本、支援しませんが)

同業他社との競争において戦術を打つ企業の場合、







その基準で勝つには、仕入れ先を「選択し」

ひたすら大量仕入れすることで、流通や単価コストを下げ、





さらにオペレーションシステムで作業効率を上げ、

「特定のメニュー」で専門性を上げて勝負します。







後は他者が生み出したものを真似して、

改良を加えて行く、というもの。







それが現在の基本的なチェーン戦略です。

競争力の源泉は強みの最大化である、と。








しかし、トレードオフの概念で言えば、

その綻びとして「変化に対応できない脆弱さ」があるのです。







研ぎ澄ました刀は、鋭さこそ増しますが

強度は比例して下がりますよね。





つまり、そういうことです。
















これはビジネスに多様性を取り入れて、

たくさんのメニューを増やせばいい、というものではありません。







仕入れ先やメニューを増やせば、その分

ロバスト性は上がりますが、反面パフォーマンスは下がります。





さらに、アウトソースを増やせば、

その分、「外注のクオリティ」がリスクとなるのです。







ベネッセはそれで不祥事が起きました、

まさに、トレードオフの概念ですね。







一方を追求すれば、一方を犠牲に

せざるを得ないという状況や関係、









今まではトレードオフを超えられない企業が

たくさんありましたが、今はそうではない。











長くなったので、次回に続きます。






逆境に耐える組織論③

逆境に耐える組織論3回目。





一般的なFC展開のトレードオフとは、

標準化と独自性です。





ビジネスをチェーン化すれば、必然的に

標準化へ向かってしまう為、

マス・マーケットに対する戦略になります。







つまり標準化すればするほど、

その独自性は薄れてしまうのです。







さらに本部は拡大に比例して

センターキッチンや中央一元管理に移行しますが、







それによって維持コストの膨らみや、

一元管理によるクオリティの低下が起きています。

これもトレードオフですね。







反面、個店主義、SV不要であるリゾームは

集団と個人のハイブリッドなFCと言えます。





環境が変化しても、その機能が失われず

変化できるような仕組みです。







二兎を得るためには軸と志向性と場の共創、

そして「最適なFC展開」がキーワードと言えます。







固定しなくてはいけない軸はどこなのか?

逆に固定してはいけないものはどこかのか?







ここを間違えれば、コンセプト自体が

崩壊する恐れがあるのです。







☞ ☞





分かりやすい例で言えば、ラーメン業界は

完全に一点集中型の業態です。







競争力の源泉は単品経営ですから、

豚骨ラーメン屋で、一緒に醤油ラーメンを

販売していれば、当然パフォーマンスは下がります。









これを部分だけで判断し、対策を打てば悪手、

ホリスティックな視点から見なければ分かりません。







詳しくは動画寺小屋「軸」をごらんください^^









さて、ここで例題を挙げてみます。

あなたなら、この状況の場合どうしますか?

(ちなみに全て過去の事例です)







・大手資本が参入し、「主材料」を

買い占め、原価が上がった場合、ロバスト性を持つには?







・大雨の影響で野菜の価格が高騰した時、

野菜を主材料にした店舗が取るべき道は?







・雨や雪が多い地域(日本海側など)で

塗装業やエクステリアなど、天候が左右する

企業が取るべき方法とは?





こういったシチュエーションを想定し、

対応できるようなオルタナティブを常に考える事、







これがロバストの構築であり、

unreveはそれも視野に入れています。





これを企業が直営展開だけに頼り、

全体的に強化し、仕上げて行こうとした場合、







本体のパフォーマンス性は低くなるか、

膨大なリソースが発生するか、どちらかです。







中小企業はそこまでのリソースはありません。

よって、母体のロバスト性を高めるには、

共創原理から派生する脆弱性をいかに分散するか、が重要です。









リアル店舗を経営されてる方は、

このトレードオフの概念で、一度チェックしてはいかがでしょうか。


ドロカワにて

数か月先まで予約が入っている
「メルモーゾダ・ドロカワ」さんに行って来ました^^



2カ月前からようやく予約が出来るという、
まさに超人気店。



めちゃくちゃテンション上がります。
この日は仕事、一切入れてませんでしたわ(笑)



☞ ☞ ☞

場所は平尾、最近改装したようです。






すでに店内は満席、僕はカウンターの隅へ。

イケメンシェフのどろかわさん。


ランチコースは一つ。
しかし驚く事無かれ。


ここは日々、メニューが変わるんらしいんです。
つまり、いつ行っても違ったものが食べれる、と。



しかもここはボリュームもあるらしく、
大食漢の僕としては嬉しい限りです( ̄▽+ ̄*)ニパッ




てなわけで前菜のサラダ。
確かにかなりな量です。





サラダには生ハムにアン肝、お肉を煮込んだものや、
マグロが・・・・・バリエーションが凄いなぁ。


サラダというか、一つの料理。




続いてはパイ包みのスープ。
これ、好きなんです。


キノコ的な優しい味でした(笑)



そして肉料理のカモ肉のアンチョビソース。


カモの肉は大好物です。
自家製のバジル入りフォカッチャも美味い!



そしてパスタ。
確かにすごいボリュームあるコースですね。





最後はデザートとコーヒー、
アイスの下は柿が。



柿は苦手だけど、甘く煮込んでて美味しかった。




これで2100円は安いです。
前は1680円だったそうな。



いや~良い店発見しました。
早速、次回も予約いれましたわ。





大満足なランチでした。
ご馳走様でした(。-人-。)


ありのまま批判

ありのままの自分こそ正義。


なぜ、そんな極端な思想が広がったか。
なぜ、誰もおかしくない?と言えなくなったのか。



まあ、この話は置いといて、
そんな現代に、内田氏と養老氏が
警告を出しています。



これを当たり前だと思うか、
それとも怒りを覚えるか・・・・



バランスを知るには良い記事だったので
引用します。



☞ ☞




スペシャル対談 養老孟司×内田樹
日本人はなぜ、「バカ」になったのか
週刊現代より引用



養老 建て前としては「ありのままの自分」で行動していると言うけれども、実は一億総消費者になるために、個に分断されてしまっているわけですね。


内田 他者と共生する技術を持たない人たちが大量に出てきたのは、地域や親族などの共同体の解体の結果だと思います。


養老 僕たち年寄りは死んでいくから別にいいけど(笑)、若い人がこの先どうなるのか。正直、心配です。



内田 養老先生も先ほど言われたように「ありのままで」という言葉が流行しています。でも、「ありのまま」だけじゃ生きてゆけない。人間は「公」と「私」の葛藤の中でしか成長できない生き物です。大事なのは公私の「さじ加減」なんです。公共の福祉と自己利益を秤にかけて、適切な比率を見出す技術は場数を踏む以外に身につけようがない。


その経験知を備えた人が減りました。「誰かがやらなければいけない仕事なら、私がやる」という考え方をする人が一定数いないと社会は保たないんですけどね。




略




養老 今は家族や共同体が消えちゃったので、「公」を遠すぎるところに求めるんですよね。自己評価やよりどころを求めて、いきなり直に「日本」につながろうとするから、変に歪んだナショナリズムに走り、ネトウヨになってしまう。



内田 生身の人間が語る思想は必ず「ノイズ」を含むもので、そう簡単に「すっきりしたもの」にはならない。でも、そのノイズがむしろ説得力になり、連帯の基礎になるんです。そういう生身の身体感覚が、今の政治運動には左右どちらにも欠落していますよね。



養老 そう考えると、今の日本人は幼稚になっている、つまり経験が不足したまま大人になっているんじゃないかと思いますね。


内田 未成熟であること、利己的であることのほうが、成熟した市民であるより利益が大きいと思っているからでしょう。すぐに怒ったり、キレたりするほうが、感情を抑制するよりも周囲から気づかってもらえる。子供のままのほうが大人になるより得だと思えば成熟の動機は損なわれます。


養老 政治家にもそういう人が増えてますね。



略


養老 日本人というのは外交にせよ何にせよ、基本的に「反応」しかしないんですよ。「空気を読む」という言葉もあるように、自分から主体的に何かを提示するんじゃなく、その場の状況や起こったことに反応して動く。逆に、自分から動こうとすると損をする社会。出る杭は打たれる。


それに加えて面白いことに、日本社会の本音というのは常に、だいたい五分五分に落ち着くんですよ。自然とね。社会的な問題が起こったときに、賛成派と反対派が半々になる。僕は「内部の安定平衡」と呼んでいるんだけど、日本の場合、社会が安定平衡点に到達するのがすごく早い。



内田 受信する側の問題もあります。情報が増えすぎた一方、個人が処理できる情報量には限度がある。だから結局受信する情報を自分に理解できる話、耳に入りやすい情報だけに限定する。ネット上にはジャンクな「オレ好み」の情報だけを蓄積した「情報通」が大量出現してますから。



養老 そうやって自分の中だけで純化し、「これこそ重要な問題だ」と確信を深めていく。新聞の一面になる記事や週刊誌の見出しだけを表面的に取得して、論理的な深掘りをしない




略



養老 そして、「個人の感想だから」と責任逃れをする。
ネットは論文や資料を探すには便利だけど、僕はそれ以外では使いません。関係ないことはいくら頭に入れてもしょうがない。いくらネットの中を徘徊したって、現実はわかりませんよ。



内田 ネット世論は世の中を動かす力は弱いと思います。現実を動かすのは最終的には生身の身体です。実際に会って、声を聴いて、顔と顔を見合わせる場がなければ、運動なんか立ち上がりませんから。



養老 言葉というものは身体から出ているんだから、それを外したら意味がない。実体がないということ。



内田 匿名の人たちがネットで発信する言葉が過剰に攻撃的なのは、裏に無力感があるからなんですよ。どんな大声で叫んでもワンクリックで消されてしまう。自分の素顔も肉声も、どんな人間であるか誰一人知らないまま消されてしまう。その無力感のせいで、それだけ声が大きくなり、言葉づかいが激しくなる。



養老 人間にとって、一番便利な表現は怒りなんです。共同体の中で誰かが怒っていたらそれを鎮めるために、真っ先に対応される。これは生存戦略の一つで、赤ちゃんが泣くのと一緒なんだ。




内田 日本人全員が赤ちゃんのように駄々をこねたら、もうおしまいですけど、未成熟で幼稚な人間が増えている一方で、別のかたちの、これまで知られていなかった知的な運動も出現してきているように見えます。



引用ここまで。




自分の未熟さを自由とか、
ありのままという言葉を使って隠れ蓑にするなってこと。



しかも、そこにはナショナリズムへ
向かわせたい「誰かの意図」も隠れてる。



見えませんか?ハーメルンの笛吹き男。
内部にいては気付かないものです。


名古屋にて

こんばんわ、坂口です。
先日から、仕事で名古屋に入ってます(。・ω・)ノ





お昼は久しぶりの豆天狗でした。



この日はつけ麺を。



高山本店、セントレア店は何度か行ったけど
金山は初めて。






個人的に、ここは好きです( ̄▽+ ̄*)




☞ ☞




で、仕事が終わってから岐阜の下呂温泉行って
宿泊先の名古屋に帰ってきました。




まだ11月なのに、イルミネーションやら
クリスマス的なものがちらほら。












もう少ししたらマライヤ・キャリーやら
ワムやら、山下達郎やらが流れてくるんでしょうな。





あー、やだやだ(笑)




☞ ☞



そして夜ごはんを求め、栄に。
東京や大阪より、名古屋は味が合います。



名古屋と言えば、魚しんのすけを
よく利用してたんですけど、今年で閉店してたんですね。









あんなに美味しかったのに、何でだろ?
名古屋に行く楽しみが減ったわー(´□`。)






でも、フラッと入った焼き鳥屋が
かなり美味しかったアップ




お母さんと息子さんでやってる店みたい。
こういう店、好きなんです。


名古屋コーチンじゃないけど、
素材にこだわってるとの事でした。


さすが名古屋、鳥にはうるさい(笑)





聞けば、何と息子さんはコロワイドで
フランチャイズ店舗の立ちあげをやってたらしく、



すごいマニアックな話で盛り上がりました。
これも縁ですかね。




会話と同時にお酒も進んだせいか、
一人で5000円近く飲み食いしてました(笑)




良店を探す直感はまだ健在です(^▽^;)



5時起きだったので、すぐ酔った




そういや・・・・・
ここの店、なんて名前だったっけ( ̄ー ̄;??


止まり木

どーも、坂口です。
寒くなってきましたね~(´□`。)



ただ、そんな寒い時期は
温泉が格別なんだなぁ。



てなわけで、今度のオフは
温泉&河豚ツアーを計画中です( ´ ▽ ` )ノヤフー



ただ、さすがにこれは誰かと行きたい(笑)








一名用のコースってあるんかいな




さて、今日は週末なんで
ちょっと個人的な体験談でも。



☞ ☞ ☞




僕はかなり高い確率で
「独特ですね」と言われます(笑)



このセリフ、もう慣れっこなんですが、
小さい頃はそれが嫌でしたね~。



僕は小学生のとき、なかなか
大勢の輪の中に入ることができない子でした。



多分、自分のペースでいたいから、
遊んでいるのを眺める方が好きだったんでしょうけど、



反面、自分も入りたいと思ってた、と。
あの時の複雑な心境、覚えてるなぁ。

確か、輪に入る努力とか
幼心ながにやってた気がしますが、



これがまーシンドくて(笑)
小・中は親友と遊ぶ以外、引きこもってましたな。



☞ ☞



6年生の時なんて、月に3日しか
行ってない時もあった。
まさに、ヒッキーの走りですよ(笑)



母親が働いてたから、休みの連絡して
家で絵を書いたり、ジオラマ作ったり、


本屋にずーっといたりしてました。
(不思議と、店員は何も言いませんでしたね)



その体験は他者からすれば、
孤独とか、一人ぼっちとかで片付けるんでしょうが、


そんな繋がりのない、一人の世界は
僕にとってとにかく楽しかった。

まっ、そんな僕も、高校に入る頃は
いわゆる「まとも」の部類に入りましたけどね(笑)



☞ ☞




今も昔も、この「孤独」と言うものは
精神衛生上、悪いものだと思われてますが、


それってただのステレオタイプであって、
「一人っ子は寂しいもの」っていうのと同じでしょう。



多分、孤独に不安を感じる時には
「後ろめたさ」がセットになってるからじゃないかな。



そしてその「後ろめたさ」というものの
正体は何かって言うと、



大体が、共同体との繋がりから
離れる時に起こる、異質性の自覚です。



つまりマイノリティの立場に立つことで、
自己の異質性を感じてしまう、と。



それは大人でも、子供でも、
同等に感じる葛藤であって、



さらに言えば、その葛藤の正体とは
マジョリティからの要請でもあるんです。



それこそ、特定できない「世間」でしょう。




つまり、孤独という状態そのものが
寂しいとかじゃなくて、



少数の意見や行動原理が「悪い」っていう、
「レッテル」が怖いんじゃないかしらん。



だからどんどん離れて閉じこもる
人もいれば、強がって見せることで、



「こっちの方が正しいんだぜ」って
抵抗することで、自己を支えてる人もいる。



ただ、それは本来の自立じゃなくて、
どっちが正しいとかでもない。




単に異質を受け入れてくれない
寂しさからくるもんじゃないかな、と思います。



でも、それってみんな同じくらい
感じているんだよね。



金持ちでも、貧乏でも。
非凡な人でも、平凡な人でも。


☞ ☞



もちろん、環境によって孤独は様々、
身内がいなくなるという形もある。



ただ、若い頃の孤独感と言うものは、
大体が僕と似たタイプのような気がするんです。



頑張ってネットワークに入ろうとしても、
自分の個性が邪魔してしまう、と。



でもね、そんな孤独を受け入れながら
繋がってる人達って結構いるもんです。



そして、そんな人達が集まると、
普通の集団とは、ちょっと違う奥行きを持つ。



これは肌感覚なので何とも説明が
つかないんだけど、



そこには、個人の個性をそのまま
受け入れてくれる器があるんだよなぁ。

公私の境界線に存在する小さな止り木。



それは昔からある居酒屋だったり
喫茶店だったり、毎日見るブログだったり・・・


わざわざ申請しなくても、
いつも開かれ、出入りが自由な場所だったりします。



これが普通のチェーン店や、
クローズドなSNSだと、無理なんだよなぁ。



☞



孤独を天災のようなものだと
思ってしまうと、途端にうろたえ、恐ろしく感じます。



何かの拍子に急に来るかもしれない、
徐々に来るかもしれない、と不安になってしまう。



でも逆に、それが当たり前だと思っていると
全然平気になっちゃう。


人によっては、それを「強さ」と
言ったりしますが、

それって、「孤独だからこそ」の特権でしょ?
そう考えると、決して悪い事じゃない。




結んだり、開いたりできる自分を作るのは
そんな相互の関係を受け入れることから
始まるんじゃないかな。




このブログが、そんな時の止り木になればいい。


夜の京都散策

京都は今が一番美しいと思いますね。
紅葉の時期が特に良い。





d.hatena.ne.jp



銀閣寺がライトアップされてるので、
哲学の道でも歩きながら、
侘び寂びを感じようと(笑)思ったんですが、



どうも時間からして間に合いそうにない。
金閣寺も遠いし。。。。




と悩んでたら、社長が高台寺を
案内してあげる、と言ってくれましたので、
お言葉に甘えちゃいました^^



☞ ☞


高台寺は、秀吉の正室北政所(ねね)が
秀吉の冥福を祈る為に作ったそうな。



寺院内の紅葉は上の方が染まってましたが
綺麗でした。



これは有名な臥龍池です。
まるで池が鏡のようですね目


吸いこまれそうなくらい、幻想的。




ここのライトアアップのテーマ(?)は
毎年変わるみたいです。


今年は傘なんですね。




うん。
これは京都じゃないと絵にならない。




かわいらしい茶室、「遺芳庵」。




で、その後、夜の八坂神社へ。


今年の色んなご縁を感謝しました。



神道での縁とは糸で「結」ばれると言われ、
この「結」という字は糸偏に吉と書きます。


なるほど、良縁を頂いているからこそ
「結ばれる」のでしょうな。



☞ ☞


最後に、芸子さんや舞妓さんなどの
芸能の方がお参りにいくという辰巳神社へ。



途中、本物の舞子さんを見ました。
社長曰く、舞妓さんは18歳以上、
それを超えてから、芸子さんになるそうです。



また、最近は、本物の舞子さんを呼ぶ人は
少なくなった、と。
(一回5万とかするみたい)



うーん、やっぱり好きですわ、京都。
色々案内してもらいました、ありがとうございます。






あっ、ちなみに来週は急きょ、
大阪に入ります。




ちょっくら、喰い倒れて来るでー(笑)




【後記】


その後、社長の行きつけのバーにも
連れて行ってもらったんですが、



カクテルが一杯2千円とかしたので、
絶対、僕一人では行くことないな、と思いました(^▽^;)



酔っぱらってしまったので、つい
「うまい棒とか、絶対食べないですよね」
と、聞いたら、




「よっちゃんイカが好き!」と
言ってくれたので、ちょっと安心しました。


大阪やねん

はい、どーもー。





大阪に入りました。



もう良いですよね、僕の行動日記とか(笑)
(最近ゆっくり書く時間がなくて。。。)




まっ、今回もお付き合いくださいませませ




☞ ☞



まずはお昼~
なんばこめじるし内にある「龍旗信」さんへ。



鶏たいたんそばを注文。
なんか、すごい、クリーミーな感じです。
(ボキャブラリーなし)




開店直後だったので、すぐ入れました。



不思議な味のスープだなぁ。
豚骨とは全然違う。。。





ご馳走様でした(。-人-。)




その後、依頼主の元へ。
3時間弱でしたが、お疲れさまでした^^




☞ ☞



帰りにペッパーフードサービスさんの
系列店「いきなりステーキ」発見目



一度東京で食べてから行ってないけど、
調べれば、最近急ピッチで出店してるみたいです。


「俺のフレンチ」や「~イタリアン」のように、
立食スタイルで回転率を上げる店は増えましたね。



ただ、個人的には立ち食いは
ちょっと苦手かもf^_^;



なんだか急かされてる感じが・・・
あっ、もちろん味は美味しいですよ。


☞ ☞



とまあ、今回は泊らず日帰りなんで、
最後にラーメン(また!?)食べようと思い、



大阪の超有名店「弥七」さんへ。



ここはなんと定休日が「土・日・祝」。
(しかも、スープがなくなり次第終了)



基本的な閉店時間は16時なので、
今まで行きたくても行けませんでした。


で、今回は大丈夫だろう、と
着いた時が15時ちょっとだったんですが、




・・・・・・10人くらい並んでます。
しかも店内にも( ̄ー ̄;





閉店が16時・・・・・スープなくなりしだ・・・



僕、食べれますかね?




しかし、やっぱりラーメン店、回転が速い。
(しかも店内にそういったお願いも書いてあった)



閉店15分前にようやく店内へ。
スイマセン・・・・ありがとうございます。
(僕の後ろに、まだ5人ほどいました)



ものすごく素敵な接客でした




一番人気の醤油ラーメンを注文。





口コミで絶賛しているこのラーメン。
うん、美味しかったです^^




ただラーメンって、地域性が強いですね。
広がりやすく、受け入れにくい。



一風堂さんはその点すごいなぁ。




☞ ☞




そろそろ帰りの飛行機の時間なので
関空へ。



新幹線は楽で良いですけど、
僕は飛行機派かもしれませんな。




特に夜の便で帰るのが好きです。
光の絨毯が見れますからね^^





継承極意




持続性のあるFC構築においては、
単に日本の概念を掴むだけでなく、
モデル自体の変容も必要になってきます。



その変容のキーワードは永続性、
終わりなきゴールの設定、





これが継承性の極意だと
unreveは考えます。





「終わりがないのが終わり」。

こう書くと、多くの人が首を傾げるでしょう。







「明確なゴールは絶対に必要だ」
と言った、批判もあるかもしれません。


では、その「明確なゴール」を
達成した後はどうでしょう。



例えば「月商300万」をクリアした、
「キャッシュを1000万作れた」、
「リピート率が目標値になった、」



何でもいいです。それを安定的に
クリアできるようになったら、次はどうしますか?



「また新しい目標を探すだけだ」と
言うかもしれませんが、



新しい目標の設定とは、次々と
生まれるほど簡単ではありませんし、



そもそも、それら目標を通過点と
した場合、最終的にはどこへ行くのでしょう?




誤解を恐れずに言えば、やってる
事業の最終的なゴールとは、



「自分が存在している間」ではないでしょうか。


経営に終わりはない (文春文庫)/文藝春秋


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ビジネスは人間と同じく、停止することは倒産を意味します。


人間の心臓が止まることが
死を意味するように、



ビジネスでも動力源は休むことなく
常に循環し、動き続けてます。



そして「それはいつまでか?」というと、途端に口をつぐんでしまう。



つまり、一回の自分の人生の中においてその事業の目的は設定されているわけです。



従って、ビジネスの目標設定は
無意識的に「完成ありき」、



「ここから、ここまで」のルートと
寿命はリンクしている、と。



だから企業の事業計画の多くが、
3カ年、5カ年計画となっているのでしょう。



しかし、unreveのビジネスモデルである
「弥栄」においては、そうじゃない。



当然そういった側面もあるけれど
「完成形」という概念は、原理的には
存在しません。



☞ ☞



我々人間はいくら長生きしたとして、
せいぜい100年か120年くらいです。



そんな短い時間の中、もがきながら
最終的な「落ち着きどころ」を探します。



例えば、定職について、結婚して、
家庭を持って、老後はゆっくり過ごそう、とか




独立して、ガンガン稼いで、成功して、
セミリタイヤしよう、とか。



人によって様々ですが、
寿命の逆算から、プランを作ってますよね。



しかし、ビジネスの場合はそうじゃない。有限性と持続性を同時に
持っています。


例えば、1000年以上続く企業には
数値的拡大志向性ではなく、
質的(価値的)持続性があり、




「ゴール」の最終的帰結が存在していない。



それこそ、真の「普遍性」であり、
理念の根幹なのでしょう。




僕はここに日本流の「常若」や「弥栄」に重ね、見たわけです。



我々は、自分の最終的な状態が
何なのか分からないまま、その生涯を終えています。



しかし事業には寿命がない。
「そろそろここがゴールだよ」がないわけです。



故に、編集され、新しい理論が加わり、どんどん進化していくものもあれば、




芸術や音楽のように、形式を変えず、残るものもありますよね。




100年経っても、1000年経っても、
モーツアルトはモーツアルトであって、ゴッホはいつまでも、ゴッホです。



それがunreveの求めるものであり、
理念である「和魂の継承」にも繋がります。





☞





なるほど、確かに一回きりの
人生だというのは、正しいでしょう。






しかし、上記のような普遍性のある事業はたくさんある、と思っています。




自分の人生に限定されない、
「続く企業」を目指しませんか。




あなたのビジネスによって
この先、幸せになる人はたくさんいるのですから^^








原点回帰

こんばんわ、坂口です。
今年もあと僅かとなりましたね!



仕事納めの方、挨拶周りの方、
ギリギリまでお仕事をされている方、
御苦労さまです^^



ちなみに僕の方は、あと数か所
訪問してから休みを頂こうと思います。



とりあえず、29~1月3日まで
休みを予定していますが、
メールはいつも受け付けてます^^



また、このブログも
ちょこちょこ書こうかな、と思います。




さて、告知はこのくらいにして、
今日の小話でも。。。。


☞ ☞



独立してから今まで僕が
言い続けている「原点回帰」、



その原点こそ日本「流」であり、
ここでは、その「流れ」を端的に
書いています。




それは「持続性」を持つ継承知であり、
粛々と技術と人格を磨くという、
この国にある「職人の精神」です。



この「職人」という職業は
千年以上の歴史があります。




なぜ、これほど長い期間、
職人は絶滅せず続いてきたのか?




それは丁稚(でっち)に始まる
従弟制度が、単なる職業・技術
教育などではなく、「人格教育」だったから。



一流の職人に不況というものが
関係ないように、




加盟店を一流に育成すれば、
SVなど、不要になるでしょう。
(不要と言うか、意味が変わってくる)




その精神性を継承する「仕組み」が
unreveの独自理論のリゾームであり
弥栄モデルなんですね。




☞ ☞



今までは成長拡大こそ、
FCを導入する意味だと
業界では言われてましたが、




これからは、所属する我々の
質を向上させる時代だと感じます。




そもそも成長なんて自然派生であり
器に応じて、勝手に広がっていくものなのに、




それを「いつか」ではなく、「すぐに」と
思うから、身の丈を超える行動を
取ってしまうのです。





結果、成長しモノが行き渡った
先進国は、もれなく経済が停滞しています。



それは当たり前のことであって、
横(拡大)なんて、いつかは到達するものです。



海外の発展途上に活路を求めても、
そこの経済が成熟すれば、同じ事でしょう。



結局「永続的拡大」なんてものは
そもそも論として間違っているのです。



ただ、これは閉塞感を
煽っているのではなく、




僕は、この国が間違いなく、
良い方向に向かっていくと確信しています。



この国の将来は明るい。
これは言い切っても良い。



なぜなら、ちょっと調べても、
実にたくさんの「証拠」がある。




下山の思想しかり、
里山資本主義しかり、



自治体のIターン、Uターンフェア、
職人育成の企業も増えてきました。



去年と比べ、射幸心を煽る
セールスサイトもずいぶん減りました。



逆を言えば、そんな儲け話に
耳を貸さなくなったのでしょう。




それは国の政策云々ではなく
個々の価値観の転換によるもの、




まさに草の根から起こる
リゾーム派生的ではないか、と。





これが逆なら問題ですが、
草の根である限り、
明るくならないわけがない。




強い指導者とかリーダーとか
世界の指導者なんて、いらないんですよ。




☞ ☞


unreveの「日本流FC」は
拡大ではなく規模に応じた
ダウンサイジング、




つまり「最適」という考え方です。




ローカリズム経営には
身近なお馴染さんといかに
接していくかが大事であり、



それは短期的な利益を求めず、
生きがいを持って長く働ける
環境の再構築(全体最適)です。



それって、損得感情や合理的な
理論ではなく「こころ」の部分が
伴わなくては全く意味がありませんよね。




故に、冒頭に書いた「質」を高める
職人の継承が求められるのでは
ないでしょうか。




古くは老子の「小国寡民」にあり、



また、この国の根幹にある
神(かむ)ながらの道。

練成講座はじめました

坂口です、こんばんわ^^
気付けば、もう4日たってしまいましたね(笑)




明日から仕事始めの方も多いと思います。
頑張っていきましょう♪




さて、昨年お伝えしたように、
今年は色々と動き、関わる年にしようと
思ってまして、




その第一弾である「練成講座」を
今回、ご紹介しようと思います^^










事業継承プロジェクトの一つである
この練成講座は、寺小屋方式です。



セミナーみたいにたくさんの人を
集めて、スクール形式で教えるのではなく、
完全な個別対応でやっていきます。



今まで一人でやってきましたが、
限界を感じました、仲間が必要です(^_^;)



情熱のある方とのご縁を
楽しみにしております♪



☞ ☞



さて、前回お伝えしたように、
今の社会や地域は、実はすごくいい状態に
近づいてきているのではないでしょうか。



あらゆる業界でも、今年は
本当に良いものが評価される年だと言われています。



スパムメールや、煽るような宣伝文句で
利益を上げていた所は、どんどん
苦しくなってくるでしょう。




逆に、真面目にコツコツをやってきた
人達に、光が当たり始めるのです。




この「真面目にコツコツ」という
勤勉性こそ、日本流の精神なんですね。




☞ ☞



日本の特徴を一言で言うならば、
編集・練磨による「極(きわみ)」のこころです。



例えば、この国に輸入された漢字はひらがな、
カタカナを生み出し、



そしてその3つの言語を併用して使うという、
他の国にはない独自の編集を行っています。



世界的に評価が高い日本のアニメ文化も、
最初は海外のアニメーションを模倣でした。



最初は真似から始まっていますが、
それが単なる真似に終わらず、
独自の進化を遂げているのです。




つまり、日本人は原型を進化・深化させ、
極めるということに、非常に長けている民族なのです。




この「こころの在り方」を継承するための
知識を会得する事が、今回の基礎講座の目的です。



☞ ☞



応用講座では、実際にビジネスとして
やっていけるような内容となっています。




僕自身がやっている内容を教え、
現在使っているツールを講座修了後にお渡しします。



さらに修了証書として、あなたの理念が入った
掛け軸をお渡しします^^





以上、簡単ですが、告知でした。
もっと詳しく知りたいかたは、お気軽に~

ものづくりと、SPAについて

こんにちわ、坂口です^^



最近、三越伊勢丹ホールディングスが
SPAに本格参入すると、話題になってますね。



このSPAとは、「製造小売り」の事。
つまり、自社で調達・製造・販売を
一貫して行う、という方法です。



現在、コンビニを始めとした
大手小売店はナショナルブランド(NB)
から、PB(プライベートブランド)へシフトしています。



ローソンが成城石井を買収したのも、
「成城石井なら間違いない」と言わせる
こだわりの商品が必要だと感じたのでしょう。



つまり今までのような、メーカーに
全て依頼するだけの方式では、
コストも高く、商品の独自性もないのです。



そんな市場の中、百貨店も
例外ではなくなった、と。



一つが始めると、他も一気に
やり始めるのがこの国の特徴ですから、



近い将来、百貨店の業態が大きく
変わるかもしれませんね。




僕は、これがとても良いことだと
思ってます。




☞ ☞


さて、フランチャイズでも
この考え方は重要です。



もちろん、コアは人材ですが、
ありきたりの商品・サービスを
作ってもいい、ということではありません。



逆に、商品と作り手の想いは
正比例します、こだわりを持ちましょう!




余談ですが、僕もアドバイザーとして
参加している「ものづくり革新ナビ」は
無料会員さんを募集しています^^




会員登録することで、個別の疑問に対して
複数の専門家からの意見、回答を受けることが可能ですし、



さまざまなワークシートも
無料でダウンロードできます。




商品に独自性を・・・とお考えの方は、
登録してみてはいかがでしょうか?




ちょとした行為で、
大きく変わるかもしれませんよ^ ^



心から感じるもの



さて、我々は普通の生活から
抜け出そうと言う心がある以上、



特定の思想集団に入ったり、
ある教えに影響を受けたりします。



これは宗教だけではなく、意図的に
作られた組織など、全てに該当するでしょう。




これらはみな「特定個人」から
派生したものであって、
内部派生じゃないんですね。




そういった特定個人の組織に
共通しているのは、その個人の
特殊な独自性によるものでもあります。




なぜなら、そこにはあなたの
経験は一切入っていない。




それを誰でも経験できると
ある法則をテキスト化して、
それを教えたりするんですが、





リゾーム派生はこれとは逆に、
自己中心から自力で創り上げるもの。




別に何かを教義化して
教えるものじゃないんですね。




☞ ☞



さて、なぜ多くの人が
このような教義に身を置こうとするのか。



それは自分では体験できていない
圧倒的な「経験」を「そこ」に発見し、
それを求めているからでしょう。




例えば、宗教の発端はもれなく、
開祖が非現実的ではない「特殊な」
精神状態を体験した結果から作られています。




神の声のような神秘体験しかり、
宇宙と繋がったというワンネス、
悟りしかり。



成功ノウハウでもそうでしょうし、
自己啓発だって、似たようなものです。




しかし、そういった「覚醒的な」体験は
超個人的なものに限定される。




故に本来、他の人には
経験できない「はず」なんですが、




それを万人に通用しようとする。
この恣意性が、漢意です。



論理的な帰納法を駆使し、
一つ構造として組み立て、




AをしたらBになった
という、因果関係を可視化(形式化)し、



整合性・正統性があるように
世界観として体系化していくのです。




それが根幹となり、
様々な流派へと枝分かれしますが、




それを辿れば、「たった一人」の
個人的経験に基づいていると言うこと。




そして、それが提唱者の「個人的経験」であるという事は、



個人的真理だけが真理である、と言う
当たり前の事実を表してるんですが、



なぜか他人の答えをカンニングしてしまうんですね。



☞ ☞



それは人の生死に関する問題から、
日常生活の不幸や不運まで様々、



端的に言えば、我々が
普通に考えてもわからないことにたいし、



そういった「特定の思想」だけが、
快刀乱麻のごとく答えを提示できる、
という「絶対的なもの」となります。




彼ら(彼女ら)の答えは
矛盾してはいけないし、




質問に対し「分からない」が
あってはいけません。



なぜなら彼ら(彼女ら)は特別だから。




信じてついて行ったのに、
不幸になったり、失敗したら
特別じゃなくなくなりますからね。




彼らは、体験によって現実世界の不都合や
不合理や、悩みや、不幸を解決できる、とします。




商売であれば、成功した経営者が
体系化したノウハウによって、



生活の悩みであれば、スピリチュアルの
体系化した思想によって、




心の問題であれば、コーチや
カウンセラーの体系化したメソッドによって。




こういった「体系化」は、
あらゆる不幸や苦しみに対する、救済原理です。




宗教は救済原理が故に、他者は魅了され、
大勢が巻き込まれることで、



やがて大きな「普遍的真理」へと、
発展していったのです。



また、それらは
本来の日常を「嫌う」ことで派生している。




我々の普段の日常生活を
とても低い世界観として見ていると言えます。




辛い事、苦しい事が日々起きる
当たり前の日常をどうにかしたい、と。



しかし、それは本来の人間の
自然派生な生き方ではない、




それを見抜いたのが、
本居宣長であり小林秀雄であり、
この国の源流である「大和こころ」なんですね。




ファウストと和魂



ゲーテのファウストには、
悪魔メフィストフェレスに魂を売ってでも
「真理を欲しがった」博士が描かれています。




全ての学問を極めつくした結果、
「結局、何も分からなかった」と
絶望し、死のうとしたファウスト、




世界をロゴスで理解したいという
漢意は、我々の根源的な欲求でしょう。




ファウスト博士が求めたもの、
それは「全智全能」でした。




悪魔との契約で、博士は
若さと、全知全能を手に入れますが、
その結末は、どうなったでしょう。




これはあえて書かないでおきます(笑)
それぞれ、感じる部分があるでしょう。




さて、今日はそんな所から。。。




DEATH NOTE モノクロ版 3 (ジャンプコミックスDIGITAL)/集英社

¥価格不明
Amazon.co.jp
個人的に漫画「デスノート」は
この話が元になってると思ってます。




さて、この国の職人が作るものは
知識ではなく「知恵」の部分が必要になります。



この知恵というのは、
法則化にも、マニュアル化にもできません。



また、今まで多くの経営者と
お話しましたが、それぞれの
「経営者のカン」を感じました。



知恵、勘、コツ、加減。
これは表層的な「ノウハウ」ではなく、
もっと深いところにあるものです。



☞ ☞



さて、西洋式のフランチャイズは
上記のようなものを「可視化」できると
いう「前提」によって構成されています。



これらが知識であれば、
形式化してマニュアル化できるのですが、



結局は、非常に浅薄で劣化する
「コピー」にしか、なりません。




そこで「ブラッシュアップ」によって
精度を高めようとしますが、




それは表層的な「見えるもの」に、
さらに手を加えるだけにすぎない。



いくら精度を高め、合理的な
設計書を作ったとしても、




実際、それをやるのは、非合理的である
我々人間ですから、当然想定外は出てきます。



企業ではオートメーション化が
進んでいるようですが、



最終的にそれらを利用するのが
「人間」であることは変わりません。




☞ ☞



論理重視(特に欧米人)は、
こういった手法こそ「真実」だと思っている
傾向があるように見えます。



よって、五感で認識できないものは
「無いもの」として考えるのですが、




これは唯物主義者の特徴であって
同時に、それは理性中心の限界なのでしょう。




今の経済社会はまさに
ファウスト博士と同じ道を進んでいる。




そこで、もっと素朴な所を
大事にしようというところから出発したのが、



今やってる日本流の精神を取り入れた
フランチャイズ継承なんですね^^



適当な幸福論2

こんばんわ、坂口です^^



さて、練成講座の開設に伴い、
高知県にある「岡潔思想研究会」との
ご縁を頂きました。



代表の横山氏は、岡家に何度も
足を運び、膨大な未発表の資料を集め、
この会を立ち上げたそうです。



生前の岡潔の側近である松澤氏も
参加され、活きた知恵を知る事ができる、



こういった出会いは
とても人生が豊かになりますね^^





さて、近況はこのくらいにして、
前回の続きでも。








我々はつい、相対的なところから
ものごとを組み立ててしまいます。



与えられた情報や、もっともらしい
ネット等の書き込みに迎合してしまい、
それが本来の世界だと思いがちです。



ただ、誰かの価値観の上に
あぐらをかいてしまえば、
思考は簡単に止まってしまうでしょう。



個人の幸福もしかり。



外部の幸福観というものは
さも万人向けのように仕立て上げますが、



それを手に入れれば、
必ずしも幸せになるものではない。



そもそも、外部派生の欲望は
必然的に飽きてくるものです。



家だって、車だって、嬉しいのは
最初だけだったりしますよね。



資本(マネー)も、万人を永続的に
幸せにすると思われがちですが、



貯金を1億もっていれば、
毎日幸せを感じれるものでもない。




ただ、これもまた絶対ではない(笑)
(車好きは車に飽きないので)




「無性の欲求」なんでしょうね。
それ以上は定義ができませんわ。



☞ ☞



閑話休題、
外部の相対的な幸せだけを
追求すれば、競争し、奪い、
独占する志向性になりがちです。




結果、劣等感や執着などで
苦しむこともあるでしょうし、



争いの原因は、相対的なものを
絶対だと思ってる事が大半です。



私はこう見えて、こう映る。
だから、これは本当だと思う、



私はこう見える、こう映る。
だからあなたは間違いだと思う。






こういった正誤(善悪)判断
そのものが、なくなればいいですね。




最近のテロのニュースを見てて、
得にそう感じます。



☞ ☞



自己中心である無性の幸福。



それはその人だけの
オリジナルな幸せです。



それは何かを作ることかもしれないし、
踊ることかもしれない。



歌うことかもしれないし、
描く事かもしれない。



やりたいから、それをやる。
これだけで十分じゃないでしょうか。



いろんな人の幸福論を聞くことは、
それはそれで良いんだけど、



その意見の多くは、
短期的なものばかり。



「これやってる人は不幸」って
いう、幸せの伝道師さんは多いけど、



「現在」辛いように見えるだけで、
他人に将来までは分かりません。




不幸を体験したからこそ、
将来の幸福を噛みしめられるかもしれませんしね。




それぞれが、それぞれに、
追求すればいいではないか。



僕はそう思ってます。



☞



それがもし、人様のお役に
立てたとすれば、これ幸いです。




それができた人だけを指差し、
世間は成功者だと言ってますが、




僕はオタクの人や売れない作家でも、
立派な成功者だと思ってますわ。






連載開始~

春にちなんで、買ったお皿が
いまいち、しっくりこなかったんで、
実際に料理を乗せてみました。









肉を焼いて、市販のソースを
かけただけですけどね(笑)




この時期、桜柄のお皿が
結構出てますが、白ペースばっかり。
��持ってるけど)



��ピンク(桜)は黒が映えるでしょう」と
買ってみたのの、ちょっと心配でしたが、
いい感じでした( ´ ▽ ` )ノ




魯山人の言う通り、
器は料理の着物ですね~アップ




☞ ☞



そういや、この度FC専門家として、
コラム連載をスタートすることとなりました。



今まではお断りしてたんですが、
今年は頂いたご縁は全て活かそうと
思ってます。




良い記事を書きます♪
掲載されたらまた、ご案内でも^^

2015/02/04

適当な幸福論

こんばんわ、坂口です
二月に入りましたね^^



如月の名の通り、
重ね着してこれ書いてますφ(.. )









さて、今年の僕の抱負は
動く年だとブログでも書いたんですが、



だからといって、バタバタやってる
わけではなく、いい加減で適当にやってます(笑)



「いい加減、適当」=「相応しさ」




現在、この言葉はネガティブな
イメージを持たれてますが、




僕は「いい加減」が大好きです( ̄▽+ ̄*)ニパッ




色々と動くのは大事ですけど、
考える事を辞めていいわけじゃない。




もし、直感だけを頼りに動けば、
それはそれで、気楽かもしれないけれど、
振り返ると虚しい時間にもなります。




下手すれば、流されるだけに
なってしまうでしょう。
��会社員時代の僕のように)




同時にやってこそ、充実する。




僕らは考える葦、
思考する生き物でもありますからね^^




☞ ☞


現在、「ひとり考える」ことが
とても難しくなっているように感じます。



ネットによって他人と
いつでもどこでも繋がれる
環境の中、我々は生活していますので、



外部との「境界線」が非常に
曖昧になっているのではないでしょうか。



それは、一人の時間というものが
どんどん失われていく、ということ。




故に、だからこそ
自己の向き合い方や内部対話が
より必要となってくる気がします。




それができる人は、
容易に道を間違ることはないでしょう。



もとい、間違えたとしても、
自分で修正ができる。



その修正とは、「自分の世界認識」。
自分だけが幸せになる世界ではないか、と。



これはちょっと、とんでも話なんですけど、



もしかすると、自分と他人の世界は
まったく別物なんじゃないかな、と
思っているんです。




我々は、同じものを見ていて、
同じ様に感じているのでしょうか。



ちょっと怪しくなってきましたな(笑)
まあ、最後まで書かせて下さい。


☞ ☞



例えば、自分だけの概念って
ありますよね。



10人中9人が「白だ」というのに、
どうしても「黒にしかみえない」。




おかしいな、なんでだろう。
僕はおかしいのかな、なんて。




そうやって世間の意見に
迎合してしまう人が大半です。
��もしくは二項に分かれるか)



でも、それってホントは正しくて、
その独自性を世の中に現すことが、
大事なんじゃないかなって思うんです。




だいぶ前に書いたように、
世界は真っ白なキャンバスなんで、
好きなように書いていくものだと思ってます。




それは言ってみれば
��自分だけの世界を可視化すること」。




それによって、まだ知らない
もしくはなんとなくの感覚を
目に見える形にできるかもしれない。




それってすごく大事だと思うんです。



☞



世間はみんなに見えるものだけを
大事にしなさいとか言うけど、




皆には見えないけど
自分だけが見えるものって必ずあって、




ここに幸せはくっついてるんじゃ
ないかな、と思ってるんですね。




ん。長くなりました。
次回に続きます。

2015/02/02

真理とは型

全員もれなく・・・とまでは難しいのですが、
共同体において、「明るい将来像」は希望を与えます。


我々はいつしか、そんな大きな夢を持てなくなりました。
長引く不況が原因なのでしょうか、
それとももっと前の、バブル崩壊後からでしょうか。


いや、もしかするとそれはもっと前、
欧米にキャッチアップし、経済大国になった時点かもしれません。


でなければ、バブル時の刹那的投機など
目先の利益を求めるような真似はしなかったはずです。


つまり国を上げての目標が実現した時、大半が
自分たちはどこへ向かえばいいか分からなくなった。


だからこそ、その不安から逃れるために
バブル投機の道へ進んだのかもしれません。



今日はそんな小話を。


☞ ☞ ☞


こんな時だからこそ、大きく明るい夢を持ちたいもの、
すぐに達成できそうな現実的なものでは不十分です。


マイナーチェンジを繰り返して辿りつくようなものは
新しい事をやらなくとも片付く以上、それが面白いわけがない。



人間には大きく分けて2種類のタイプがいます。
それは他人と同じ事をして安心するタイプと、
他人と違う事をやらなければ気が済まないタイプです。



今の時代、後者が求められているのは必然、
今までは「和を乱すもの」として、排除や教育対象でしたが
これからはこの能力が大変重要になってきます。



もちろん、加減を知らず何でもかんでも
他人と違っては機能しません。


ただ、その意識がある人と、ない人では
仕事に対する意識が全く変わってきます。


他人と同じようにやる人は、仕事とは「こなすもの」。
質は変わらないので、量だけの勝負となります。


反面、違った事をやる人は仕事は「楽しむもの」。
二番煎じでは満足できないので、必然的に質は向上します。


量から質、ダイヤモンドは希少だからこその価値であって、
仕事にも、我々にも、同じ事が言えるかもしれません。









さて、FCは同じ仕事をやるシステムである以上、
そこに大義名分があっても楽しくはないでしょう。



僕は新しいFCを提案しています。
それはFCであっても、仕事を楽しめる仕組みです。
(もちろん、各自が型を持ってから)



楽しめる、とは一体なんでしょう。
そもそも、「人と同じ事をして楽しい」などという人は
楽しさの本質を分かっていない。


それは楽しいのではありません、「楽(らく)」なのです。
ラクで楽しい仕事なんて、存在しません。



人と違う事をすれば苦労が伴うのは当然の事、
それを乗り越える過程があって、初めて「楽しい」のではないでしょうか。


前例のないものにチャレンジする事も楽しいものです、
前例(数字)がないものだからこそ、叩かれもします。



中にはその概念を批判的に考える人もいるでしょう。
大きな夢や概念を、過去から前例から考えるからです。



そんな人は相手にしなくていい、それは
会社員から独立する時に引きとめようとするタイプ、
彼らは自分が経験したことないものに対し、否定的です。



よく自分が理解できる範囲内において
アドバイスや助言をする方がいらっしゃいますが、
それを超えたら批判に転じる、よく見る光景。



聞くべき部分はそんな多数の声ではなく、
知識者、専門家の声ではありません。


メリットとデメリットを綿密に計算し、決断する。
この決断が成功の鍵を握ると仮定するならば、
それは一つの型(パターン)です。


そのパターンの中には前例を超える為の挑戦や
目の前にあるたくさんの課題をクリアするための試行錯誤がある。



真理は部分ではなく、そんな型(パターン)が
幾重にも重なった状態にあると個人的には思っています。



その型が暗黙知、言い方を変えれば静態的科学ではなく、
動的、経験科学とも言えるでしょう。


日本のアイデンティティ





さて、ガラパゴス化と言われるように、
どうもこの国は「特殊な国」だという
イメージが根強いのですが、




理解できないものを「特殊」にする
考えは、学者達の怠慢ですね。
「見えないもの」を見ようとすると、
こういった解釈になりがちです。




見えないものとは感じるもの。
日本はこの情緒こそ、根幹であって、



そんな繊細な精神性の「結果として」、
歌や詩が表現されていたのです。



誤解を恐れずに言えば、
この国の精神性は他より一段高い。



例えば、源氏物語は1000年前の
女性(紫式部)が書いたものですし、



国家「君が代」は、古今和歌集の
短歌を元に、作られています。



無形文化遺産である和食を見ても、
諸外国が手で食べていた時代に、
この国は箸を使って食べていたわけです。



それらは「モノゴト」ではなく、
人の「ココロ」から派生するもの。



形式ではなくその背景を知る、
それが伝統に触れる近道だと思います。









さて、以前書いた職人や
丁稚という継承智も、その時代から
すでに存在していたと書きました。



1000年以上続いている企業の
大半が日本にあるのは、こういった
継承性によるものでしょう。



日本と似たこだわりの精神を持つ
ドイツだって、100年以上の
企業数は、2000社程度だと言われます。



これが米国となればどうでしょう、
多分、数えるくらいじゃないでしょうか。



これは批判ではなく、外国の
インスピレーション型(理の型)が
短期的な志向性、横の拡大である半面、



この国は情緒(情の型)であり、
志向性は縦の向上なのだと思います。




終わりなき無と、終わりある有。
そして、その対角線上にある「間」と「境界線」。



そんな縦と横が織りなすことで、
中庸の世界が構成されるのかもしれません。



故にその「加減」を経験し、知ることが
縦横無尽な自由だと、個人的には思ってます。



☞ ☞


さて、こういった世界の雛型を
江戸時代ではすでに作ってたのですが、
実際のところ、あまり知られていません。



現在、「本当の歴史を知る」には、
ちょっと手間がかかるのです。



なぜなら、今の教科書に書かれている
歴史は、中国よろしく意図的に作られたものだから。



GHQは、戦後日本の文化や伝統を
つまらないものと思わせる為、
教育によって変え始めたんですね。



結果、文化や伝統、精神性を否定し、
自我こそ「じぶん」だと信じてしまった。



自分にとって損か得か。
自分にとって有利か不利か。




そんな部分の最適を目指す姿勢は
勝ち組や負け組という概念を作りました。



勝ち組こそ絶対的幸福だと
一神教的な考えを盲信してしまい、



それによってピラミッド構造が生まれ、
支配・被支配の二極化へ向かってしまった、と。




まあ、「一見」成功したかに見えますね。



☞ ☞



現在この構造がことごとく
崩壊しているのが分かるでしょう。



教育しかり、経済しかり、宗教しかり。
現在「揺り戻し」によって転換しています。



後はオセロと同じです。
角さえ変わったら、一気に変わるでしょう。



その「角」の目星は付いているのですが、
書くのはちょっと控えますf^_^;




今でも理性による正しさの追求を、
力の証だと思っている人を見かけますが、



そもそも論(前提)が間違っている。
これも前回「漢意」で説明しました。



理性を使えば、弁護士よろしく
殺人だって正当化できるわけです。



そんな正しさ、間違ってる。
我々の心が、納得しないのです。



それがだんだん形になっているからこそ、
変化の時代だと言われているのでしょう。



unreveでは、これを変化ではなく
回帰だと捉えています。



☞ ☞


現在、幸いにも日本の本来は
この国を訪れた外国人の著書によって
「ある程度」知る事ができます。



情緒がよく分からないからか、
見たままを書いているのですが、
絶賛している人がとても多い。



教科書をはじめ、御用学者や
教師の多くは、一番大切なことを
教えなかったわけです。




いつの時代でも、情報を丸ごと信じず、
自分で見極めろと言ってるのは、



こういった恣意的な「教」が
情報にあるからなんですね。



自分の心の声を信じましょう^^




【後記】


数学者である岡潔は、数学の世界でも、
感情に満足を与えるのは
理性や知性ではない、と言います。



矛盾がない、ということは
矛盾を感じない、ということであり、



本質的な理解は「感情」、
心の部分なのだ、と。



そこから彼は自分の生き方を
以下のように答えています。






宗教の世界には自他の対立はなく
安息が得られる。


しかしまた自他対立のない世界は
向上ももなく理想もない。


人はなぜ向上しなければいけないか、
と開き直って問われると、


今の私には「いったん向上の道に
いそしむ味を覚えれば、それなしには
何としても物足りないから」としか答えられないが、


向上もなく理想もない世界には
住めない。


だから私は純理性の世界だけでも、
また宗教的世界だけでもやっていけず、


両方を兼ね備えた世界で生存し続けるのであろう。