SNSやニュースでは毎日のように、自分と違う意見を否定したり責めている。かくいう私も傷ついても怒ってもいないのに、つい、批判的なブログを書いてしまう事がある。一億総評論家の現代、論評とは一種の阿片なのだろう。ちなみに小林秀雄は善良な不平家が一番嫌いだった。一番救われない様な印象を常に受けるのだ、と。不平家にならず自己と向き合い打ち勝つ精神や赦すことを涵養していきたい。
許せない相手がいる、あるいは自分自身を許せずにいる。これ自体は別に悪いことじゃない。寧ろ人間としてごく自然で真っ当な精神である。しかし、そこから派生する怒りや恨み、執着みたいなものに長い間囚われていることは精神衛生上、どうだろうか。赦すとは弱さではなくそのような囚われた自己を解放させようとする積極的な態度ではないだろうか。
相手の非を何でも見逃せ、と言う単純な話ではない。間違いは正す必要があるし、声を挙げないといけない時もある。試練と取るか災難と取るか。希望を語るか不満を語るか。端的にその志向性の違いではないかと。
