unreveの間の概念とは
鈴木大拙の言う「即非」に近い。
「どっちつかず」という言葉は
一般的に優柔不断的な意味で使われるが、
即非は、それを「どっちもどっち」を説く。
どっちも自分であり、且つ
どっちもが断定できる自分ではない。
そんな矛盾の統合した理論が
即非なのだが、実はすこぶる日本流なのだ。
例えば「手前」と言う言葉がある。
「手前どもは・・・」という謙った時に使われるが、
喧嘩する時には「テメェ、この野郎」と
立場が逆になってしまう。
「貴様」と言う言葉も思えば変だ。
罵る相手に「あなたさま(貴様)」と書く。
己もそうだし、「ジブン」もそう。
つまり、日本流は主客がコロコロ変わるもの、
否、常に主客を「行き来」するのだ。
これは「I am 」を使う欧米人には分からない。
近代自我は、こういった自己と他者の
「間」という三人称概念から、一人称へのシフトである。
これが対立の根幹であり、多様性を
阻害していることは間違いない。
☞ ☞
加減の定義は即非的である。
対極二項が交わった所に、実体(真理)がある。
人間は善悪の混じった「状態」である。
宗教はそこに、スパッと線を引き、
白黒つけてしまうが、
本来、我々は境界線が実体である。
常に揺れ動き、葛藤する存在なのだ。
☞ ☞
世界は天秤のごとく揺れ動く側面があるが、
面の思考でとらえれば、メビウスの環である。
対立概念は、白と黒のように、別の所に
あるようだが、そうではない。
独善が悪に変わるように、
一極の先に向かうと、クルリと反転する。
つまり二項は同じ環の中にある、と。
ウロボロスの咥えているのは己の尻尾なのだ。
真理は矛盾の中から掴むもの、
いわんや思想をや。
2013/06/25
2013/06/09
根幹を成すもの
「報道の自由は、民主主義を支える根幹」。
この「根幹に関わるもの」はよく使われますね。
社会の根幹、国家の根幹に関わるものだ、と。
基礎を成す「柱(屋台骨)」とも言いますし、
それがなければ、我々は飛ぶことも、
降り立つ事もできないことから陸とも言えるでしょう。
つまり秩序を維持する為の基本姿勢が
「根幹」なんですね。

さて、報道の自由が民主主義の根幹である、
という意見は確かにそうでしょう。
言論統制など、民主主義ではない。
当たり前のことです。
ただ、自由それ自体があらゆる根幹だ、
という意見に対しては僕はちょっと疑問が起こります。
時として個人を苦しめるもの。
それが自由でもあります。
「自由にならなければいけない」
と、逆に不自由になってる人もいますからね。
☞ ☞
自由をどこまでも渇望し、
そこへと向かう志向性を保ちながらも、
それと同時に「そうならないだろう」と
諦めを自覚した状態で起こる行為。
見れば、大小の共同体(イエ・ムラ・クニ)は
自然とそんな形に収束されています。
なるほど、それは単なる自由ではなく、
それを諦めた所による放棄でもない。
柳田国男の世間的・社会的自然が
「やさしい束縛」を持っていると
いうのは、まさにこういったことでしょう。
なぜもっと早く帰る事が出来なかったのかと思った。
始めからなぜ自然に抵抗したのかと思った。
彼は雨の中に、百合の中に、再現の昔の中に、
純一無難に平和な生命を見出した。
その生命の裏にも表にも、欲得はなかった。
自己を圧迫する道徳はなかった。
雲のやうな自由と水の如き自然とがあった。
夏目漱石「それから」より。
それは自然回帰でもなければ、
自然放棄でもない「内部」の状態変化です。
☞ ☞
誰しも主義があり、価値観がある。
それはその人個人の「陸」でもあります。
唯物主義だろうが、現世主義だろうが、
はたまた最近のスピリチュアルに傾倒しようが、
それを徹底するなら、立派な一つの人生。
誰も批判する資格はありません。
ただ、共同体における自然派生は
意識的な「ほどほどの人為的、不自由さ」が含まれます。
しかし、それによって共同体はむしろ
無意識的な秩序が現れる。
その意識こそ、慣習や古くから伝わる
「特定の個人の意思」ではないものであって、
これが日本流の根幹ではないか、と感じています。
2013/06/05
凹と凸
「らしさ」とは気質であったり、価値観、
場合によってはシンボルにもなります。
その「らしさ」とは中間値からの偏在ですが、
これは違いが「良い意味」で認知されるということです。
「この店らしいな」とか、「あの人らしいな」という
「らしさ」。
今日は「僕らしい小話」でも笑
☞ ☞
さて、東洋文化と西洋文化の違いを
動物性文化と植物系文化や
農耕型と狩人型などに分けられていますが、
芳賀綏氏は分かりやすく
「凹型文化と凸型文化」と言っています。
凸型の特徴は攻撃的、支配的な気質とされ、
文化圏はユーラシア大陸、南北アメリカや西欧先進国などがそう。
反面、凹型の文化は共生や共存、調和の気質。
日本や東南アジア、南アフリカなどは凹型の文化のようです。
そう考えるとなるほど、ですな。
日本でも同じような気質に分けれます。
氏によれば、それは環境が
原因で分かれたといいます。
例えば、乾燥した荒れ地に住む凸型の人間にとって、
自然とはまさに人間を苦しめるものだった。
水も不足しているので作物は育たない、
よって、生きて行く為には、牧畜を手段とします。
野生動物を家畜として「支配」し、飼い慣らす。
森を開拓し牧草地にするのも、生きる為の手段だったんですね。
それがやがて国家権力となり市民にまで及び、
「革命」によって、その支配や管理体制に抵抗していった、と。
☞☞
では、凹型民族の環境はどうだったかというと、
乾燥のない湿地帯(モンスーン)、つまり水が豊富ということ。
なるほど、植物もよく育つ環境ですね、
農耕が出来たのも雨季があったからこそですね。
よって自然は征服するのではなく、共存対象、
凹型の先祖は、そんな自然の恵みに感謝していたんです。
また、農耕によって自然だけでなく、他人との調和も
大事にされてきました。
その調和は洗練され、空気を読めるようになり、
「察する」という、超能力のような伝心術が生まれたのでしょう。
お互い様、という言葉も共生・共存に欠かせない
潤滑油のような思想は、こういった歴史背景があるんですね。
☞ ☞ ☞
さて、そうは言っても良い事ばかりではありません、
共生も行き過ぎれば、当然害悪となります。
例えば農耕は一人では出来ませんので、
従事する個人の「個」を抑えなくてはいけない。
それにより、主体性の欠如や排他的な
性質も生まれたのではないでしょうか。
「和」が「迎合」となることで、粘着的気質となったのです。
このように、歴史は凹凸の主導権争いが繰り返され、
なかなか「□」になることができません。
だからどちらも内包することで「超克する」、
unreveの加減の定義です。
2013/05/13
老化する会社
現在、イノベーションによる変革が叫ばれていますね。
スティーブ・ジョブスにまではならなくとも、
ビジネスをやろうと考えている方は一度は聞いたことがあるはず
「新たなる価値を創造せよ」。
うーん、なんとも大変な時代です(;^_^A
短期的にただ売って儲ける、というやり方なら
そこまで考えないかもしれませんが、多くが店舗を構えた継続前提の商売。
「このまま続くだろうか・・・・?」
このクエスチョンを経営者は永遠に問い続けるのです。
さて、コンサルタントである細谷功氏の著書に
「会社の老化は止められない」というものがあります。
この本で書かれている事を簡単に書くと
「会社だって、人間と同じで年をとるんだよ」って事です。
これを熱力学では「不可逆性」と言って、
時計の針は戻せないように、一定の方向へ変化することはあっても
自然に逆方向へは戻らない性質を表しています。
無秩序から自然に秩序へは向かわないという
エントロピーと同じ意味合いですね。
市場の成長曲線を見ても分かるように、
会社も生まれた時から老化の一途を辿るのは自然の流れ。
ブームは繰り返されるといいますが、
いきなり若返るなんてないんですね。

こんなおじいちゃんになりたい(笑)
さて、その老化は人間を見れば分かるように、
完全に止めることはできませんが
よりよい年を取る為には一度「リセット」する必要がある、
それが著書のテーマです。
そしてそのリセットの役割を担うのが「イノベーター」、
「新しい考えを持った人材」の事です。
ただ、こうも書かれています。
「老化した組織においては、起業家精神を持ったイノベーターは存在しても活用されないばかりか、「異端児」として迫害され、行き着く先は牙を抜かれた普通の人になって埋没していくか、別の職場を探して外に出るかのいずれかである。
それを見て「やっぱりね」、と思いました。
やはり保守と改革は水と油、混ざることはないのです。
イノベーター気質の方は会社員生活を諦めましょう(笑)
イノベーターの持つ創造性は2タイプに分かれます。
既存の秩序の維持に貢献するタイプが1つ、
そして、逆に今の秩序を一度リセットして、
新たな秩序を生み出す。この2つのタイプです。
例えば私のようなコンサルタントの場合も上記に分かれます。
集客を専門とするコンサルタントでも既存の維持(リピーター)に特化している人もいれば、
全く新しい集客(メニュー改定や店内改装)などで
新規客に特化したコンサルタントもいるようです。
新たな秩序の創造という活動は
既存の秩序にとらわれない事でもあるので、
既存の秩序から見れば「無秩序な活動」でもあります。
私のキャッチコピーでもある「無秩序のデザイン」とは、こういった理由からです。
創造性が社会的に価値のあるものとなるためには、
脳内の無秩序の中から「秩序」として表現する為のシミュレーションを繰り返し行う必要があります。
でないと絵にかいた餅、「机上の空論」で終わってしまいます。
これを実際と乖離なく行えることで初めて「価値あるイノベーション」となるのです。
スティーブ・ジョブスにまではならなくとも、
ビジネスをやろうと考えている方は一度は聞いたことがあるはず
「新たなる価値を創造せよ」。
うーん、なんとも大変な時代です(;^_^A
短期的にただ売って儲ける、というやり方なら
そこまで考えないかもしれませんが、多くが店舗を構えた継続前提の商売。
「このまま続くだろうか・・・・?」
このクエスチョンを経営者は永遠に問い続けるのです。
さて、コンサルタントである細谷功氏の著書に
「会社の老化は止められない」というものがあります。
会社の老化は止められない――未来を開くための組織不可逆論/亜紀書房- ¥1,575
- Amazon.co.jp
この本で書かれている事を簡単に書くと
「会社だって、人間と同じで年をとるんだよ」って事です。
これを熱力学では「不可逆性」と言って、
時計の針は戻せないように、一定の方向へ変化することはあっても
自然に逆方向へは戻らない性質を表しています。
無秩序から自然に秩序へは向かわないという
エントロピーと同じ意味合いですね。
市場の成長曲線を見ても分かるように、
会社も生まれた時から老化の一途を辿るのは自然の流れ。
ブームは繰り返されるといいますが、
いきなり若返るなんてないんですね。
こんなおじいちゃんになりたい(笑)
さて、その老化は人間を見れば分かるように、
完全に止めることはできませんが
よりよい年を取る為には一度「リセット」する必要がある、
それが著書のテーマです。
そしてそのリセットの役割を担うのが「イノベーター」、
「新しい考えを持った人材」の事です。
ただ、こうも書かれています。
「老化した組織においては、起業家精神を持ったイノベーターは存在しても活用されないばかりか、「異端児」として迫害され、行き着く先は牙を抜かれた普通の人になって埋没していくか、別の職場を探して外に出るかのいずれかである。
それを見て「やっぱりね」、と思いました。
やはり保守と改革は水と油、混ざることはないのです。
イノベーター気質の方は会社員生活を諦めましょう(笑)
イノベーターの持つ創造性は2タイプに分かれます。
既存の秩序の維持に貢献するタイプが1つ、
そして、逆に今の秩序を一度リセットして、
新たな秩序を生み出す。この2つのタイプです。
例えば私のようなコンサルタントの場合も上記に分かれます。
集客を専門とするコンサルタントでも既存の維持(リピーター)に特化している人もいれば、
全く新しい集客(メニュー改定や店内改装)などで
新規客に特化したコンサルタントもいるようです。
新たな秩序の創造という活動は
既存の秩序にとらわれない事でもあるので、
既存の秩序から見れば「無秩序な活動」でもあります。
私のキャッチコピーでもある「無秩序のデザイン」とは、こういった理由からです。
創造性が社会的に価値のあるものとなるためには、
脳内の無秩序の中から「秩序」として表現する為のシミュレーションを繰り返し行う必要があります。
でないと絵にかいた餅、「机上の空論」で終わってしまいます。
これを実際と乖離なく行えることで初めて「価値あるイノベーション」となるのです。
2013/05/10
顧客満足と言う名の顧客傲慢
今月より4Kテレビの新製品が発表され、
各メーカー、需要を期待しているといわれてますね。
4kテレビとは、フルハイビジョンの4倍の画素数の映像。
つまり、今よりもっと綺麗に見えるテレビです。
・・・・・消費者は欲しがるのでしょうか?
僕だけでしょうか、全く興味がありません。
(そもそもテレビ自体、何年もまともに見てない)
テレビ離れの現在で、いくらハード(テレビ)の性能を上げようが、
肝心のソフト(番組)自体に興味が無いなら同じ結果な気がします。
メーカーそれぞれが多大な広告費を使い、
マーケティングにあたるでしょう。
電通や博報堂あたりの広告代理店は芸能人を起用し、
綺麗なCMを作るでしょう。
それで消費者は購買意欲を喚起され、
消費に向かうと思ってるのであれば・・・・・
家電メーカーは危険ですね。
今回はそんな「顧客目線」のお話し、
あくまでも個人的な意見です。
これは3k
僕の知り合いがスーパーの店長をやっているのですが、
最近の顧客のクレームの多さに困っているようです。
中にはありえないクレームを出す顧客がいるとの事。
多いですね、モンスタークレーマー。
ただ、今の顧客目線にさせてしまったのは、
売り手である企業の方にも原因があるんじゃなかろうか。
お客様をとにかく満足させよう、感動させようと
神様みたいに扱ってしまったもんだから、
顧客はそれが「当たり前の状態」になったんですね。
つまりその満足に慣れてしまった、と。
サービス精神は両刃の剣なんです。
やればやるほど良いわけではありません。
なぜならその顧客満足向上の繰り返しによって、
顧客自身の満足感がコントロールできなくなってくるから。
例えば、2つの箱の内、どちらか一つを貰えるとして、
あなたが選んだ方に100万円が入っていたとします。
普通なら大喜びですよね。
では、もう一つの箱の中には1000万円入っていたらどうでしょう?
不思議とすごくがっかりしませんか(笑)
満足感なんて、相対世界の産物ですから、そんなもんなんです。
つまり、以前なら素晴らしいサービスで
あるはずの感覚が当たり前になり、さらに
過剰なサービスが出ることで全く満足を感じないようになってる。
結果、普通の基準も高くなり
ちょっとでも下がればすぐにクレームを出し
店員の態度次第で火のついたようになる、と。
「お前、何様や」と言いたくもなりますわ(笑)
正直、そこまでして買ってもらいたくもないですね。
以前有名なコンサルタントが
「顧客は120%満足して初めて口コミをする」
なんて書いたもんだから、こぞって120%満足させた。
で、大半がやった結果「120%が100%」になってしまった、と。
無料オファーなんて今は何の魅力もないですよね、
もはや駅前の無料ティッシュ程度の価値になってるんです。
その環境は同業者同士のサービス合戦の結果でしょう。
つまりその人が変わったのではなく、環境が変わったから人も変わったのです。
映画の「es」と同じ原理ですね。
- es[エス] [DVD]/モーリッツ・ブライプトロイ,クリスティアン・ベッケル,ユストゥス・フォン・ドーナニー

- ¥2,625
- Amazon.co.jp
この映画は実際にあった話を元に作られていまして
擬似刑務所で20人の男を「看守」と「囚人」に分け、
それぞれ与えられた役になり切ってもらい、2週間生活させるという実験をしたんです。
最初は何事もなく、和やかな雰囲気だったのが、
その与えられた役割を演じているうちに、次第に関係性が変わって行きます。
なんと模擬的であったはずの看守と囚人の間に
「上下関係」が生まれ、囚人は看守に服従し
看守は虐待を始めたわけです。
ここまで書くと、ちとオーバーですけどね(笑)
ただ、おかしな主従関係を作ってしまえれば
顧客自身、分からなくなってしまうのは確かです。
顧客は神様じゃないし、
売り手は卑屈にならなくていい。
無理なサービスは毎回やらなくていい。
そこでたとえ感動したとしても、それを基本にしてはいけない。
なぜなら、商売の原点とは売り手も
買い手も「ありがとう」と言える、
双方の価値交換であるはずです。
だからこそ近江商人の「3方良し」は
「我よし、人よし、世間よし」という素晴らしい行動指針です。
「全てはお客様の為」と言ってますが、
従業員が苦しさを伴ってしまっては、ただの自己満足であり偽善ですよ。
2013/05/08
作る自分、作られる自分
今日は超個人的思想リーフについて。
長いのでお暇な方だけどうぞ。
さて、皆さんは、1から10まで自分の意志で
生きている、っていう実感はありますか?
ちなみに僕の場合、半分。
個性やら性格やら長所短所が
全部自分で作れる、って思えないんです。
たとえばこれが企業理念の場合であれば、
「それって創るもんだよね」って言えるんですが、
人生そのものは設計図通りには行かない。
場合によってはとんでもないものが出来ちゃう。
いくら素晴らしい設計書でも、
作り手は僕だけじゃない。
これが「先天性」とか「生まれもった性格」
って言われるように、生まれたときから
変わらないものだけなら、話は別でしょうが、
社会性とか、マナーのように」
「自分以外によって創られた自分」だってある。
フランスの哲学者で幸福論を唱えたアランは
実に上手い事言いましたわ。
「そこに根拠があるにせよ、ないにせよ、
我々は必ずその影響を受ける」と。
占いが当たる、当たらないは関係ないんです。
人は必ず影響されてる、ってこと。
☞ ☞
そうなると「自分の意志で創る」っていうのは、
どこか限定的になってきますわな。
だってそうでしょ、どれが生まれつきで、
どれが生まれつきじゃないか、
どこまでが自分の意志で創って、
どこまでが他人の言葉で創られて、
どこまでが社会の意志で創られたのか
いまいち、分からないじゃないですか。
よく「習慣で人は変わる」って言いますけどね、
これも正しいようで、よく分からない。
だって、習慣っていうのは意志だけじゃなく
上記のような環境にも依存しているわけでしょ。
ってことは「習慣で変えさせられてる」
場合だってある。
当然、その環境を変えることは出来る。
しかし、それが常に意識できるかは分からないんです。
だからこそ、世間の空気でしょう。
いつの間にか、変わってたりするんです。
これは意志とか理性では全く説明できない、
流れってやつじゃないでしょうか。
そして、その流れの原因は何か?っていうと、
「何となく」っていう感情の集合体なんですよ。
これって、めちゃくちゃファジーじゃないですか。
まさに神の見えざる手ですわ。
だからもう、流れに合わせる自己を創るしかない。
☞ ☞
今は個性の時代です。
多様でありのままの自分を表現する時代、
しかし、細かく突き詰めていくと
大前提として存在しなくちゃいけない
この「自分」が定義できない。
フワフワしてるし、コロコロ変わる。
変わりたくないけど変わってしまうものって
沢山あります。
乱暴な分け方すると半分なんですよ。
半分は借り物でどうにもならない。
それを自己中心(リーフ)って呼んでいます。
雑草って、好き好んでアスファルトに咲いてないでしょ、と。
自我と場所、その境界線でフワフワしている。
そんな相互影響を受けているのが人間であって、
そこから出来る事って言えば、
とりあえず、そんな自分を認めて創っていくことだけ。
その部分に関しては、自由なんじゃないですかね。
2013/04/22
一期一会
こんばんわ、坂口です^^
週末ですね。
さて、この間若者たちの集まる
パーティーに呼ばれた際の出来事。
打ち解けて仲良くなっていくと、
「ライン交換しましょーよ」とか、
「フェイスブックやってますか」とか言われます。
なるほど~電話番号じゃないと、
これくらいのノリで聞けるんだよな~。
ただ、僕はアイフォン歴が
けっこう長いくせに、
ラインはおろか、アプリを
一度も取ったことがないという、
化石人間ぎゃーとるずです(笑)
「ラインやってないんですよね」
というと、
「えっ、ガラケーですか?」と。
それくらい、ありえないようです。
結局、携帯番号の交換を
してもらったんですが、
今年はまず、
ラインを始めようかなと思います。。。。f^_^;
てなわけで、
今日のテーマに入りますか。
☞ ☞
意識的にか、無意識的にか、
あるいは、その両方か。
現在は、出会いや絆というものが
とても心地の良い言葉となっています。
確かに、ネットでの関係性が
ある意味「飽和(開放)」した反動か、
無縁社会の中、出会い(縁)
と言うものの形態が変わっているようです。
ネット内(偶然性)の出会いでも
実際に会い、繋がる(必然性)が
容易にできるようになりました。
反面、その必然性の容易性によって、
我々人間のキャパシティを
超えているようにも感じます。
昨年の末に書いた多逢聖因縁尋機妙のように、
本来、人との良縁とは、実に機妙。
素晴らしい良縁である場合もあれば、
それとは逆に恨みつらみ妬みを
買うだけの悪縁である時もあります。
さらに、そんな切り難い
悪縁だったのが、やがて
良縁(腐れ縁)になることもあるでしょう。
そんな様々な縁が交差し、
その関係性によって、自己となるのでしょうね。
活人剣、剣禅一致である柳生家は
それを家訓にもしています。
☞ ☞
この一期一会とは、本来「茶道」の
基本である、もてなし、しつらえ。
その精神性の本来は、「余情残心」です。
つまり、主客の関係性の
在り方(残心)が、一期一会の根幹なんですね。
これは武道の場合、
「最後まで油断するな」といった、
慢心による戒めの言葉なんですが、
茶道の余情残心は、
違う意味で使われていまして、
商人道にも派生しています。
主(もてなす側)と客(もてなされる側)との間にある
心(関係性)の状態だと言えるでしょう。
主は至誠を尽くし、客をもてなし、
しつらえ、裏表のない真心を客へと伝えるのです。
道家は、こういった「見えない精神」は
完成する事のない未完の美(理念)であるとしました。
それだけ客との関わり方を大事にしていたのですね。
客が見えなくなるまで見送り、見送った後は、
その貴重な出会いを一人自己と向き合い内省し、
反面、もてなされた側も、その感動を一人、観念する。
「実に良い出会いだった」。
そこでようやく相互の「異心」が「伝心」し、
一見さん(一期)が馴染み(縁)になるのでしょう。
そこには合理も損得も一切ない、
完全な身の丈の至誠の向き合いがあります。
僕は、これが一期、一会の
極意じゃないかな、と思ってます。
若い時には面倒なものでしょうが、
心に留めておきたい言葉ではないでしょうか^^
週末ですね。
さて、この間若者たちの集まる
パーティーに呼ばれた際の出来事。
打ち解けて仲良くなっていくと、
「ライン交換しましょーよ」とか、
「フェイスブックやってますか」とか言われます。
なるほど~電話番号じゃないと、
これくらいのノリで聞けるんだよな~。
ただ、僕はアイフォン歴が
けっこう長いくせに、
ラインはおろか、アプリを
一度も取ったことがないという、
化石人間ぎゃーとるずです(笑)
「ラインやってないんですよね」
というと、
「えっ、ガラケーですか?」と。
それくらい、ありえないようです。
結局、携帯番号の交換を
してもらったんですが、
今年はまず、
ラインを始めようかなと思います。。。。f^_^;
てなわけで、
今日のテーマに入りますか。
☞ ☞
意識的にか、無意識的にか、
あるいは、その両方か。
現在は、出会いや絆というものが
とても心地の良い言葉となっています。
確かに、ネットでの関係性が
ある意味「飽和(開放)」した反動か、
無縁社会の中、出会い(縁)
と言うものの形態が変わっているようです。
ネット内(偶然性)の出会いでも
実際に会い、繋がる(必然性)が
容易にできるようになりました。
反面、その必然性の容易性によって、
我々人間のキャパシティを
超えているようにも感じます。
昨年の末に書いた多逢聖因縁尋機妙のように、
本来、人との良縁とは、実に機妙。
素晴らしい良縁である場合もあれば、
それとは逆に恨みつらみ妬みを
買うだけの悪縁である時もあります。
さらに、そんな切り難い
悪縁だったのが、やがて
良縁(腐れ縁)になることもあるでしょう。
そんな様々な縁が交差し、
その関係性によって、自己となるのでしょうね。
活人剣、剣禅一致である柳生家は
それを家訓にもしています。
☞ ☞
この一期一会とは、本来「茶道」の
基本である、もてなし、しつらえ。
その精神性の本来は、「余情残心」です。
つまり、主客の関係性の
在り方(残心)が、一期一会の根幹なんですね。
これは武道の場合、
「最後まで油断するな」といった、
慢心による戒めの言葉なんですが、
茶道の余情残心は、
違う意味で使われていまして、
商人道にも派生しています。
主(もてなす側)と客(もてなされる側)との間にある
心(関係性)の状態だと言えるでしょう。
主は至誠を尽くし、客をもてなし、
しつらえ、裏表のない真心を客へと伝えるのです。
道家は、こういった「見えない精神」は
完成する事のない未完の美(理念)であるとしました。
それだけ客との関わり方を大事にしていたのですね。
客が見えなくなるまで見送り、見送った後は、
その貴重な出会いを一人自己と向き合い内省し、
反面、もてなされた側も、その感動を一人、観念する。
「実に良い出会いだった」。
そこでようやく相互の「異心」が「伝心」し、
一見さん(一期)が馴染み(縁)になるのでしょう。
そこには合理も損得も一切ない、
完全な身の丈の至誠の向き合いがあります。
僕は、これが一期、一会の
極意じゃないかな、と思ってます。
若い時には面倒なものでしょうが、
心に留めておきたい言葉ではないでしょうか^^
2013/03/31
夜桜あはれ
「さまざまのこと思ひ出す桜かな」
かの有名な芭蕉の句です。
この間、ちょうどオフの日が
一心行の桜の満開日だと言う事で、熊本まで見に行きました^^
日本は古来より、桜を観賞するのを好みます、
遡れば万葉集や日本書紀にも桜は特別なものだったようですね。
満開と同時にサッと散っていき、来年にはまた新しい花を咲かせる、
そんな「無常観」は日本が持つ独自の美意識に通じていると思ってます。
西洋は「永遠」を追求するその姿勢に美を感じますが、
この国は逆に、移ろいゆくものに美を感じます。
この世に永遠なんてものは存在せず、
光と影は常に寄り添い、変化しているのだと
無意識的に感じているのでしょう。
小林秀雄は「世界は進化しているのではなく変化しているのだ」
と言いましたが、確かにそうかもしれませんね。
☞☞
小林秀雄が晩年まで没頭した、
本居宣長の思想「もののあはれ」の「あはれ」は、
哀れではなく深く心に感じる言葉、
喜びだけでなく悲しみもある、
それは我々の感覚より先行して存在している、「ナニカ」から派生しているんでしょうね。
20代の頃には全く分からなかったものが
最近分かってくる・・・いやはや、年を取った証拠です笑
かの有名な芭蕉の句です。
この間、ちょうどオフの日が
一心行の桜の満開日だと言う事で、熊本まで見に行きました^^
日本は古来より、桜を観賞するのを好みます、
遡れば万葉集や日本書紀にも桜は特別なものだったようですね。
つまり1000年以上も前から、桜は美の極みとして
それぞれの時代の人々を魅了してきたのですが、
その魅力とは桜の持つ、その儚さと潔さにあるのではないでしょうか。
それぞれの時代の人々を魅了してきたのですが、
その魅力とは桜の持つ、その儚さと潔さにあるのではないでしょうか。
満開と同時にサッと散っていき、来年にはまた新しい花を咲かせる、
そんな「無常観」は日本が持つ独自の美意識に通じていると思ってます。
西洋は「永遠」を追求するその姿勢に美を感じますが、
この国は逆に、移ろいゆくものに美を感じます。
この世に永遠なんてものは存在せず、
光と影は常に寄り添い、変化しているのだと
無意識的に感じているのでしょう。
小林秀雄は「世界は進化しているのではなく変化しているのだ」
と言いましたが、確かにそうかもしれませんね。
☞☞
小林秀雄が晩年まで没頭した、
本居宣長の思想「もののあはれ」の「あはれ」は、
哀れではなく深く心に感じる言葉、
喜びだけでなく悲しみもある、
まさに奥底の感情全てが含まれているのです
それは我々の感覚より先行して存在している、「ナニカ」から派生しているんでしょうね。
20代の頃には全く分からなかったものが
最近分かってくる・・・いやはや、年を取った証拠です笑
2013/03/20
行動と行為の違い②
こんばんわ、坂口です。
前回に続き、2回目です。
さて、これはビジネスだけに限らず、
人間のあらゆる活動原理に当てはまると思っています。
結婚を焦っていないけど、周りから言われ婚活する、
テストで良い点を取らないと怒られるので勉強する、
仲間外れにならないように、FBで「いいね」を押す、
書きたくない内容だけど、集客の為にブログを書く、
誘われたから行きたくないセミナーに通う、
読みたくない本を読む・・・etc
これらの行動原理はある種の破壊性を伴います。
結果を求めるあまり、あなたの「感応」を抑圧・否定しているんですね。
肯定(自覚)ありきの破壊なら問題ないのですが、
否定ありきの破壊であれば、それは無意識の抑圧となる。
例えば、遅刻癖のある人の言い訳は芸術的ですよね(笑)
同じように、ビックリする所から「やれない材料」を見つけ出します。
これは自分の「根っこ」が否定しているんです。
この状態でやっても、無理してますからどうせ続きません。
「やりたくない」事を無理矢理「やっている」と、
こういった慢性的な不安から抜け出せなくなります。
一度「根こそぎ」リセット(破壊)するか、
本来のやりたい事に回帰(創造)するか、どちらかしかないんですな。
こいうったありのままの「感応行為」を目的としたものが
リゾーム派生概念でもあります。
リゾームの意味って「根っこ」ですからね。
☞ ☞
行為とは感応によるものです。
やりたいからやる。これだけです。
そこには善も悪もないし、打算や損得感情もない。
他人の目も気にならないし、評価も必要ない。
未来の不安もないし、過去からの執着もない。
さらに言えば、利他的な「与える」と言う概念すら、ない。
そもそも、与える、受け取るというのは、
本質的に奪うことと、同じ環の中にあります。
人間だれもがサイババのように、
0から無限に作り出せる能力がある(?)なら話は別ですが、
あらゆるものは循環形態を取っていて、
取る、取られるを繰り返していますので、次元は同じ、
ただ、その方向が変わってるだけです。
反面、感応行為とは瞬間から瞬間へと
自然に湧き出て来るものです。
そんな現瞬間(今ここ)に対する感応行為は創造的です、
直感(ピンときたら動く)、感じるままに反応する。
それで上手く行かなくても、
好きでやってるから、結果なんて関係ないんですね。
感応で動いている人を他人が見れば
すごい「努力している」ように映るのですが、
実際本人からしてみれば、まったく苦ではない。
そんな目指すものではなく、達成するものでもない
ありのままの状態へと「戻す」。
当然、ビジネスでは営利(リスク)が含まれますから、
幼稚園のような「遊び」にならない(あそび≠遊び)ような場を作る、
脱マネジメントという加減の定義を持ってきているのは
こういった理由からです。
☞ ☞
長くなりましたね、
そろそろまとめます。
というわけで、
誰もが感応的自由のもとに生まれにもかかわらず、
束縛の中で死んで行きます。
社会性が入り込んで来た時点で、
規則やルールや掟や道徳という「外律」が作られるからです。
それに雁字搦めになってしまう前に、
心の声を取り戻すのが、リゾームの概念です。
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
何かの役に立てれば、幸いです^^
前回に続き、2回目です。
さて、これはビジネスだけに限らず、
人間のあらゆる活動原理に当てはまると思っています。
結婚を焦っていないけど、周りから言われ婚活する、
テストで良い点を取らないと怒られるので勉強する、
仲間外れにならないように、FBで「いいね」を押す、
書きたくない内容だけど、集客の為にブログを書く、
誘われたから行きたくないセミナーに通う、
読みたくない本を読む・・・etc
これらの行動原理はある種の破壊性を伴います。
結果を求めるあまり、あなたの「感応」を抑圧・否定しているんですね。
肯定(自覚)ありきの破壊なら問題ないのですが、
否定ありきの破壊であれば、それは無意識の抑圧となる。
例えば、遅刻癖のある人の言い訳は芸術的ですよね(笑)
同じように、ビックリする所から「やれない材料」を見つけ出します。
これは自分の「根っこ」が否定しているんです。
この状態でやっても、無理してますからどうせ続きません。
「やりたくない」事を無理矢理「やっている」と、
こういった慢性的な不安から抜け出せなくなります。
一度「根こそぎ」リセット(破壊)するか、
本来のやりたい事に回帰(創造)するか、どちらかしかないんですな。
こいうったありのままの「感応行為」を目的としたものが
リゾーム派生概念でもあります。
リゾームの意味って「根っこ」ですからね。
☞ ☞
行為とは感応によるものです。
やりたいからやる。これだけです。
そこには善も悪もないし、打算や損得感情もない。
他人の目も気にならないし、評価も必要ない。
未来の不安もないし、過去からの執着もない。
さらに言えば、利他的な「与える」と言う概念すら、ない。
そもそも、与える、受け取るというのは、
本質的に奪うことと、同じ環の中にあります。
人間だれもがサイババのように、
0から無限に作り出せる能力がある(?)なら話は別ですが、
あらゆるものは循環形態を取っていて、
取る、取られるを繰り返していますので、次元は同じ、
ただ、その方向が変わってるだけです。
反面、感応行為とは瞬間から瞬間へと
自然に湧き出て来るものです。
そんな現瞬間(今ここ)に対する感応行為は創造的です、
直感(ピンときたら動く)、感じるままに反応する。
それで上手く行かなくても、
好きでやってるから、結果なんて関係ないんですね。
感応で動いている人を他人が見れば
すごい「努力している」ように映るのですが、
実際本人からしてみれば、まったく苦ではない。
そんな目指すものではなく、達成するものでもない
ありのままの状態へと「戻す」。
当然、ビジネスでは営利(リスク)が含まれますから、
幼稚園のような「遊び」にならない(あそび≠遊び)ような場を作る、
脱マネジメントという加減の定義を持ってきているのは
こういった理由からです。
☞ ☞
長くなりましたね、
そろそろまとめます。
というわけで、
誰もが感応的自由のもとに生まれにもかかわらず、
束縛の中で死んで行きます。
社会性が入り込んで来た時点で、
規則やルールや掟や道徳という「外律」が作られるからです。
それに雁字搦めになってしまう前に、
心の声を取り戻すのが、リゾームの概念です。
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
何かの役に立てれば、幸いです^^
2013/03/19
リゾーム派生 方法序説「理」
フランチャイズを始め、何か物事をスタートする時は
なんでもそうなんですが、大事なのは正しい軸を作り、
あとはそれをひたすら肯定することです。
一番ダメなのは、コロコロ変わる無難な答え。
経験上、ほとんどの確率で断念します。
そもそも、否定や批判は誰でも出来ます。
不安の材料なんて、そこらじゅうに転がっているのですから。
反面、肯定は違います。
本質を知らなければできません。
だから100人中99人が反対や否定する中で、
本質を知っている人だけが肯定できるのです。
自分にも、他人にも、ビジネスにも・・・
週末なので、今日はマニアックな
日本流フランチャイズ方法序説「理」について。
☞ ☞ ☞
さて、僕の提唱する方法序説なんですが、
特に大事にしているが、度々書いている理念(軸)です。
理念の主軸は、縦軸と横軸、対立する二項を
回帰(メグリ)することによって、作りだすもの。
ちなみに、これは古神道では
三十字の理と、言われます。
オカルトみたいですか(笑)
まあ、気にせず進みます。
この理とは、男(縦軸)と女(横軸)によって
子(産土力)が生まれるように、陰陽の対極の
組み合わせがエネルギーを生み出す原理です。
この理、日常を見れば、
たくさんあるのが分かります。
例えば、有機物である「お米」を
無機物である「お椀」に入れますよね。
この状態で陰陽(プラスとマイナス)の組み合わせが生まれ、
中にあるものは「中性」状態になる、と言われます。
中性とは、純粋なエネルギーです、
食べ物は器に入れると美味しく感じるのではなく、
実際、美味しいんですよ。
☞ ☞
話を戻します。
unreveの主軸(理念)の構成とは、
こういった意味の対立二項の統合です。
ここで多くの人が「一面」だけしか見ようとしません。
頭のどこかに「もう一つの面」を出さずに、隠しているのです。
人によって「プラス面(自己抑圧)」だったり
「マイナス面(自己欺瞞)」だったりするのですが、
それが「本当の自分(本質的な正しさ)」だと
思っているんですね。
しかし、それは勘違い、
ありのままの本質とは、「両面」の先にあります。
☞ ☞
その「ありのまま」の認識をするのを
「ゲシュタルト」と言います。
これはよく騙し絵で例えられるんですが、
我々は、2つを同時に捉えることができないのです。
有名な「ルビンの壷」、この絵は壷でもあり、
顔でもあるのですが、同時には見れません。
それは、見えないもう一つが「ない」というわけではなく、
見方によって「ない」が「ある」に「成る」のです。
ゲシュタルト(全体性の統合)はこのプロセス。
全体像として認識する、ということです。
この世界だって、安定しているように見えますが、
実際は観察によって日々「決定されている」とも言えます。
これは我々が「観察者」だからこそ、分かるもの。
主軸とは、この観察者(メタ)視点の事です。
日々プラスになったりマイナスになったりする人や
決断ができないで前に勧めない人は、
「今日はこっちの絵が正しい、明日はこっちの絵が正しい」と言っているのです。
これを永遠と繰り返しても答えは出ません、
答えが「両方」である以上、無限ループに陥ってしまいます。
この事実を知ることが前提の否定、
リゾームで言う「根っこ」の入れ変えであり、
志向性(理念)の決定であり、
冒頭に書いた「本質的な肯定」です。
☞ ☞
松下電器は当初、競争が激化する業界において
常に何が正しいかを考え、淡々とその道を歩いたといいます。
創業者、松下幸之助が説く経営理念は
単なる個人の拡張や利害欲求だけではなく、
人生観から俯瞰し、社会観、国家観、世界観、
さらに自然の摂理と言う所から芽生えるものだとしました。
そんな精神は、論理やテクニックや盲信ではなく
もっとラディカルな部分から派生していると思います。
FC展開に関し、理念が明確でない方は
一度、この概念から作ってみてはいかがでしょう^^
【後記】
ゲシュタルトが出たので、最後に有名な一節を。
私は私のために生き、あなたはあなたのために生きる。
私はあなたの期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
そしてあなたも、私の期待に応えて行動するためにこの世に在るのではない。
もしも縁があって、私たちが出会えたのならそれは素晴らしいこと。
出会えなくても、それもまた素晴らしいこと。
行動と行為の違い
こんばんわ、unreveの坂口です^^
今日は何もせずにぼー・・・・・っとしてました。
僕の「ぼー・・・っと」は、そりゃあもう達人のレベルです、
ええ、完全なる空気の一部です。
下手すると鼻に綿詰められるレベルです。
って、死んでないっちゅーねんヾ(・ω・;)オイオイ
そう言えば、何も行動しない人を見て、
「まず動け、行動しろ!」というコーチやコンサルがいるのですが、
人間が動く原理には、2つあります。
一つは「行動」、もうひとつは「行為」です。
「ん?一緒じゃん」と思うでしょうが、
全然意味が違います、行動原理と行為の原理は全く正反対の性質です。
なぜなら、行動は思考からくる破壊(自我)原理であって、
行為とは「感応」からくる創造(自己)原理なんですね。
行動すればするほど、逆に苦しくなる場合がありませんか。
あれは外部強制からくる一種の自己破壊なんです。
今日はそんな小話でも。
☞ ☞ ☞
みなさん、例えば全然お腹が空いていないのに
何かを食べ続けてる人を見た際、ちょっと暴力的に映りませんか?
僕は「食べ物を破壊している」ように見えます。
事実、いらないものを消費しているんですからね。
しかし、こういった人は結構いるものです。
欲しいものが無いのにもかかわらず、
街へ出て、買い物を続ける人、
これといった用途もなく、情報を詰め込んでいる人、
不要な物で囲まれたごみ屋敷、
愛のないたくさんの愛人、死ぬ間際に達成した一億の預金、
親しくないけどSNSで繋がっている数百人の友達・・・・
落ち着きのない心、欠けたものを埋めようとする心、
それは過去から運んで来た落ち着きのなさを、現在へ注ぎ込んでいるのです。
行動とは、場合によっては自己の「悪習慣」を止めれますが、
これが常態化すると暴走してしまいます。
しかも、壊しっぱなしで創造しないのですから、
当事者意識も生まれませんよね。
内面的に落ち着かない為に起きる反応というのは、
状況否定から来る一種の強迫観念です。
よって、行動したあらゆる意味の背景には、
欠如感を埋める為の口実が必ずセットになっています。
繰り返しますが、これによって惰性を無くし(破壊)、
その後、感応行為を取るのであれば、問題ないのですが、
惰性ではなく「本来の自分」も誤って破壊してしまうと、
その後はずっと、自己破壊のままです。
僕は腰が重いクライアントさんを見て、それが
「本来望まない事」なのか、「惰性からくる否定」なのかを判断しています。
ん、長くなりましたな。
眠たくなったので、次回に続きます笑
今日は何もせずにぼー・・・・・っとしてました。
僕の「ぼー・・・っと」は、そりゃあもう達人のレベルです、
ええ、完全なる空気の一部です。
下手すると鼻に綿詰められるレベルです。
って、死んでないっちゅーねんヾ(・ω・;)オイオイ
そう言えば、何も行動しない人を見て、
「まず動け、行動しろ!」というコーチやコンサルがいるのですが、
人間が動く原理には、2つあります。
一つは「行動」、もうひとつは「行為」です。
「ん?一緒じゃん」と思うでしょうが、
全然意味が違います、行動原理と行為の原理は全く正反対の性質です。
なぜなら、行動は思考からくる破壊(自我)原理であって、
行為とは「感応」からくる創造(自己)原理なんですね。
行動すればするほど、逆に苦しくなる場合がありませんか。
あれは外部強制からくる一種の自己破壊なんです。
今日はそんな小話でも。
☞ ☞ ☞
みなさん、例えば全然お腹が空いていないのに
何かを食べ続けてる人を見た際、ちょっと暴力的に映りませんか?
僕は「食べ物を破壊している」ように見えます。
事実、いらないものを消費しているんですからね。
しかし、こういった人は結構いるものです。
欲しいものが無いのにもかかわらず、
街へ出て、買い物を続ける人、
これといった用途もなく、情報を詰め込んでいる人、
不要な物で囲まれたごみ屋敷、
愛のないたくさんの愛人、死ぬ間際に達成した一億の預金、
親しくないけどSNSで繋がっている数百人の友達・・・・
落ち着きのない心、欠けたものを埋めようとする心、
それは過去から運んで来た落ち着きのなさを、現在へ注ぎ込んでいるのです。
行動とは、場合によっては自己の「悪習慣」を止めれますが、
これが常態化すると暴走してしまいます。
しかも、壊しっぱなしで創造しないのですから、
当事者意識も生まれませんよね。
内面的に落ち着かない為に起きる反応というのは、
状況否定から来る一種の強迫観念です。
よって、行動したあらゆる意味の背景には、
欠如感を埋める為の口実が必ずセットになっています。
繰り返しますが、これによって惰性を無くし(破壊)、
その後、感応行為を取るのであれば、問題ないのですが、
惰性ではなく「本来の自分」も誤って破壊してしまうと、
その後はずっと、自己破壊のままです。
僕は腰が重いクライアントさんを見て、それが
「本来望まない事」なのか、「惰性からくる否定」なのかを判断しています。
ん、長くなりましたな。
眠たくなったので、次回に続きます笑
メグリ、メグル
さて、僕は回帰論という仰々しいものを
経営哲学として取り入れているのですが、
端的に書けば、対立項を
同義(補完)関係として捉えるというものです。
「メグリ、メグル」仕組み。
最近、やっとサイトが完成して時間があるので、
そんな個人的な小話でも。
- 波紋と螺旋とフィボナッチ: 数理の眼鏡でみえてくる生命の形の神秘/学研メディカル秀潤社
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こういった分野に興味を持ったのは
今から約10年以上前の事。
神道あたりの本を読んでいた際、
始めも無ければ終わりも無いという
「弥栄(いやさか)の理」を知りました。
(日月神示にもありますよね、個人的にはちょっと苦手ですけど)
そんな無始無終の概念は、昨年の出雲・伊勢神宮で
行われた遷宮と同じものでしょう。
こういった螺旋状に「メグル」ものはたくさんあって、
例えば遺伝子や素粒子もそうですし、風や海の流れ(渦)もそう。
四季や干支だって一つの周期が終わり、
そこからまた「メグリ、メグル」。
たとえその速度が速くとも回転運動である以上、
戻って来る(回帰)のです。
回帰論とはその繰り返される状態であって
その繰り返し運動(思考)は創造性(志向性)を
持っているのだと考えています。
☞☞
ちなみに聖書では世界(宇宙)が創造主によって
作られた、と言われていますね。
つまり明確な始まりがあるということ。
ただそうなると、その創造主がどうやって生まれ、
そしていつから存在しているのか、という疑問や、
その神は一体誰が作ったのかという疑問が出てきます。
マトリョーシカ人形で例えるなら、
「一番大きな人形を作ったのは誰か」、と言う命題。
そして「なぜ、それを作ったのか」
今でもそれは根本的に矛盾のまま、
哲学が引き受けています。
個人的には、こういった絶対性というものが
存在しないというわけではなく、
人間にはそれを掴む(定義する)ことは
できないのではないかと思うのです。
だからこそ、絶対は無限性と有限性を
内包した「ナニカ」である、と。
☞☞
近代科学は、光の絶対性を支持していましたが、
光の速度自体、有限(光速=秒速30万キロ)です。
そうなると光の絶対性は無条件ではなく、
条件つきになってしまいますよね。
絶対が無条件である以上、光の速度は
無限大(∞)でなくてはいけない。
仮にそうでないのなら、宇宙は秒速30万キロに限定された
条件つき絶対性でしか説明できないという証拠です。
ニュートリノが光よりも早いと発表されたとしても、
その速度が秒速40万になったとしても有限でしょう。
どうも、この「有限性の絶対」を
信仰する事がなかったんですね(笑)
しかし「始まりもなく、終わりもない」という
円環螺旋は時空間の干渉を受けない。
春を始まりとしているのは人間ですからね。
そんな自然の中にこそ、実体がある気がします。
2013/03/18
トリアーデ
詩人、茨木のり子氏の73歳の作品に、
「倚りかからず」というものがあります。
- 倚りかからず (ちくま文庫)/筑摩書房
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もはや できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや いかなる権威にも倚りかかりたくない
ながく生きて、心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目、じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば それは 椅子の背もたれだけ
強い女性、誰にも依らない生き方。
彼女はそれを目指したのでしょう、
以下の詩にも、そんな強い意志が表れています。
- 自分の感受性くらい/花神社
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ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを、友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを 近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを暮しのせいにはするな
そもそもが、ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を 時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい、自分で守れ、ばかものよ
うー・・・・・ん、
池田晶子氏もそうですが、
人に頼らない生き方を選んだ女性は確かに美しく、
本質的な真善美を掴んでいます。
ただ、誰でも彼女らのように強くは生きれない。
それは決して、惰性からではない場合もあるでしょう。
もちろんわかる、非常にわかる。
ですけど・・・・という感じです。
☞ ☞ ☞
僕自身「自立と自律が大事ですよ」
と言っていますが、
その持論を、誰でも彼でも押しつけたくはありません。
食材をどんなに細かく切り刻んだとしても、
食べやすく調理したとしても、
本人が咀嚼しないなら、喉を通らないじゃないですか。
スプーンで口まで持って行こうと、
口の中に入れようと、「食べる意志」がないと意味がない。
その「意志」だけはどうにもできない。
否、「どうにかしようとしてはいけない」と思うんです。
彼女らのように凛とした生き方は
美しくはあるけれど、
そう思っている人がいれば、
どうしてもそう思えない人がいる、
僕はこれ、良い事だと思うんです。
良いと言うより、仕方がない。
もちろん、近にいるとカチンときますけどね(笑)
それが反面教師ってやつでしょう。
2013/03/07
フロー三昧
以前、動機について記事にしたのですが 、
今年に入ってずいぶんと認知度が上がってる気がする。
「好きレベル」から「ハマるレベル」へ。
これってなかなかどうして、再現性が難しい。
ただ夢中、ただ無心。
今までの人生で2度ほど、経験したけれど記憶は朧。
説明しようにも、何となくの感覚しか分からない。
ただ、明日はどうなるかとか、この国がどうだとか、
顧客がどう思ってるかとか、 お金がどうだとか、一切頭になかった。
時間の概念もあやふや、
なるほど、だから夢中なのだろう。
そんな直覚を仏教では「三昧」と呼ぶ。
フローもまた、同じような状態である。
何かに対し、無我夢中になっている際、
人間には自ずと働く知がある、それが三昧だ。
この状態においては「我」が発生していない、
ただ、意識がなくなるのではなく、我が対象に埋没しているのだ。
つまり主客未分の境地だと言える。
この対象の移入による「主客一体」の状態で
人間が認識しているものこそが、真の「現実(実体)」だと言われる。
これは建前のない動物の生き方であり、
あらゆる哲学者が「美」の象徴にしている。
それ以外の状態では、前回カントを例にしたように、
必ず思考のフィルターにかけられ、現象となる。
つまり、ありのままの現実を見るためには
フィルターが邪魔であって、逆を言えば我々は本来それが出来るのだ。
創造と三昧を同一化してはいけない。
創造とは客観的世界に存在しないものを生み出す事であり、
三昧とは「すでに存在しているものの潜在性を取り戻す」事。
そして直観による行為を伴った時に初めて、
根源的倫理と呼べるものがあるのだ。
今年に入ってずいぶんと認知度が上がってる気がする。
「好きレベル」から「ハマるレベル」へ。
これってなかなかどうして、再現性が難しい。
ただ夢中、ただ無心。
今までの人生で2度ほど、経験したけれど記憶は朧。
説明しようにも、何となくの感覚しか分からない。
ただ、明日はどうなるかとか、この国がどうだとか、
顧客がどう思ってるかとか、 お金がどうだとか、一切頭になかった。
時間の概念もあやふや、
なるほど、だから夢中なのだろう。
そんな直覚を仏教では「三昧」と呼ぶ。
フローもまた、同じような状態である。
何かに対し、無我夢中になっている際、
人間には自ずと働く知がある、それが三昧だ。
この状態においては「我」が発生していない、
ただ、意識がなくなるのではなく、我が対象に埋没しているのだ。
つまり主客未分の境地だと言える。
この対象の移入による「主客一体」の状態で
人間が認識しているものこそが、真の「現実(実体)」だと言われる。
これは建前のない動物の生き方であり、
あらゆる哲学者が「美」の象徴にしている。
それ以外の状態では、前回カントを例にしたように、
必ず思考のフィルターにかけられ、現象となる。
つまり、ありのままの現実を見るためには
フィルターが邪魔であって、逆を言えば我々は本来それが出来るのだ。
創造と三昧を同一化してはいけない。
創造とは客観的世界に存在しないものを生み出す事であり、
三昧とは「すでに存在しているものの潜在性を取り戻す」事。
そして直観による行為を伴った時に初めて、
根源的倫理と呼べるものがあるのだ。
2013/03/05
XY、そしてZを超えて
モチベーションアップの手法はいくつかあって、
大半は西洋から生まれましたが、
その中にXY理論というものがあります。
提唱者はダグラス・
性善説と性悪説のようなものです。
x論は「人間は強制しなければ自ら進んで仕事をしない」とし、
Y論は「人間は本来、仕事を進んでやりたがる」と。
XとY、どちらも正しく、どちらも間違っています。
その両方を持ち、どちら側にも流れるのが人間ですからね。
今日はそんな小話でも。
さて、ウィリアム・オオウチ氏は
相容れないXとYに対し、Z理論(セオリーZ)を提唱しました。
氏は日本企業文化を「J型」、
アメリカ企業を「A型」とし、
日本経営「J型」とは、X理論と
Y理論の両方のメリットを取り入れている、といいます。
それは終身雇用や能力主義ではなく、
専門性に偏らない人事。
さらに集団責任や、職場だけに限らない
内外的な関わり等だと言います。
(J型の特質は他にもあるようです)
こういった細かなことが
二項の調和には必要な素材なんでしょうね。
☞ ☞
ただ、Z論が上記のような条件が
必要である以上、終身雇用が崩れた現在、
どうやって回復するか。
多分、非雇用者と企業の関係は
数年で変わってくるでしょうが、
肝心の信頼関係は戻らない。
下手すれば賃金(外部報酬)だけが
高くなって、内部は全く変わらないかもしれません。
僕は復古論ではなく、やりがい(内部報酬)と
それに見合った賃金(外部報酬)のバランスこそ、
必要だと思ってます。
独立採算のFCもプリンシパル・エージェンシーと
考えるのではなく、根幹の部分を考えてみませんか。
2013/02/13
アフォーダンスについて色々と。。。
今日はアフォーダンスについて。
アフォーダンスは「○○ができる」という
アフォードが語源で、 アメリカの知覚心理学者である
ジェームス・ギブソン氏が作った造語です。
(ミームーみたいなもんですね)
アフォーダンス理論からすると、
僕らは目や耳で感じているようで、
実は感じていないと言います。
目で確認していないし聞いて確認しているのではなく、
○○だろうと認知させられている、と。
つまり、モノ自体がそれをどうやって
扱えばいいのか メッセージを対象者に与えている、というのです。
例えば椅子があったとして、
僕がその椅子を初めてみたとします。
(仮にですよ)
「おっ、なんか木でできた作り物がある」。
「何本かの棒で板が支えられてる」。
まあ、そんな感じに思うでしょうね(笑)
しかし、アフォーダンスによれば、
僕が椅子の使い方を知らなくても、それを見れば座るというのです。
つまり「椅子自体」が「僕に」使い方を教えた、と。
誰からも教えられていないけれど、何となくそう思った。
これって面白いですね。
自動ドアのボタンを初めて見たとしても、
我々はつい、押してしまうようですから。
この「なんとなく・つい」ってやつは、
まさに「自分にとって意味のある情報」を
無意識的・身体的に掴もうとしているわけでしょう。
つまり「自分の持つ情報以外」でも、
我々は意味を感じる事ができるんですね。
☞ ☞
よく市場の声(ニーズ)を掴め、と言いますが、
このアフォーダンスのように、見えないものもあるわけです。
マニュアルだってそう、ブラッシュアップした答えこそ
唯一の道であるように言う人もいるでしょうが、
本来、自分流は自然派生的に見つけ出しています。
例えば人ごみの中を歩いててもうまくすり抜けれるのは
まさに「すり抜ける道すじ」がその人にアフォーダンスされているからでしょう、
これをもっと活用することをお勧めします^^
最後に、僕がアフォーダンスの達人だと思ってる
スティーブ・ジョブス氏の有名セリフでも。
美しい女性を口説こうと思った時、
ライバルの男がバラの花を一〇本贈ったら
君は一五本贈るかい?
そう思った時点で君の負けだ。
その女性が本当に何を望んでいるのか、見きわめることが重要なんだ
アフォーダンスは「○○ができる」という
アフォードが語源で、 アメリカの知覚心理学者である
ジェームス・ギブソン氏が作った造語です。
(ミームーみたいなもんですね)
アフォーダンス理論からすると、
僕らは目や耳で感じているようで、
実は感じていないと言います。
目で確認していないし聞いて確認しているのではなく、
○○だろうと認知させられている、と。
つまり、モノ自体がそれをどうやって
扱えばいいのか メッセージを対象者に与えている、というのです。
例えば椅子があったとして、
僕がその椅子を初めてみたとします。
(仮にですよ)
「おっ、なんか木でできた作り物がある」。
「何本かの棒で板が支えられてる」。
まあ、そんな感じに思うでしょうね(笑)
しかし、アフォーダンスによれば、
僕が椅子の使い方を知らなくても、それを見れば座るというのです。
つまり「椅子自体」が「僕に」使い方を教えた、と。
誰からも教えられていないけれど、何となくそう思った。
これって面白いですね。
自動ドアのボタンを初めて見たとしても、
我々はつい、押してしまうようですから。
この「なんとなく・つい」ってやつは、
まさに「自分にとって意味のある情報」を
無意識的・身体的に掴もうとしているわけでしょう。
つまり「自分の持つ情報以外」でも、
我々は意味を感じる事ができるんですね。
☞ ☞
よく市場の声(ニーズ)を掴め、と言いますが、
このアフォーダンスのように、見えないものもあるわけです。
マニュアルだってそう、ブラッシュアップした答えこそ
唯一の道であるように言う人もいるでしょうが、
本来、自分流は自然派生的に見つけ出しています。
例えば人ごみの中を歩いててもうまくすり抜けれるのは
まさに「すり抜ける道すじ」がその人にアフォーダンスされているからでしょう、
これをもっと活用することをお勧めします^^
最後に、僕がアフォーダンスの達人だと思ってる
スティーブ・ジョブス氏の有名セリフでも。
美しい女性を口説こうと思った時、
ライバルの男がバラの花を一〇本贈ったら
君は一五本贈るかい?
そう思った時点で君の負けだ。
その女性が本当に何を望んでいるのか、見きわめることが重要なんだ
2013/02/12
中空均衡構造
河合隼雄氏は日本の文化構造を
「中空構造」と定義しました。
それは、西洋の統合・統一理論とは異なり、
対立する原理の共存が前提としてあるのです。
二項を対立させ、勝ち負けによる
排除を行うのではなく、調和といった均衡点を探すというもの。
歴史を遡ればアマテラスとスサノオといった、
この国の古事記のよる神話構造も中空均衡といった
構造で描かれています。
八百万の神に中心はない、
ツクヨミ がいわゆる「均衡点」なのです。
日本は対立するあらゆる問題を解決するに当たり、
極論である統一論理ではなく、
やじろべえのような安定しない軸を中心とした
均衡モデルを展開している民族性があるのです。
中心が空であるということは、中心は「有且無」である
不安定な状態であり、相対的です。
これはまさに仏教の色即是空と同じ原理、
対立する原理は情況で変化し、それに伴い均衡点が変化するというもの。
相対立するものや矛盾するものを排除せず、共存するという「状態」を重視し、
原理を持ちだし、正解を導き出すといった考えではないんですね。
☞☞
日本人が意見を持たず、決定する事が
できないと言われているのはそんな歴史的背景から。
「正解はたった一つ」という考え方が
西洋の考え方ですが、この国は「複数の正解を持つ」と。
ビジネスだけに限らず人生において
真に大事なものはたいてい答えがありません。
それを問う事自体(プロセス)に意味が内包しているのです。
つまり「問い続ける」事が答えであり、
時と共にその関わり方は変化する、
まさに「中空均衡構造」はあらゆる場面において
相似的役割を果たすものではないでしょうか。
場を創造する、これがoffice unreveの提唱する「リゾーム式FC」の骨子です。
2013/02/07
饗宴
美意識というものがある、
今では廃れてしまった概念だが。
「恋愛とは美しいものに心惹かれること」、
これはプラトンの言葉であるが、
それは自己の中にある無意識的な「欠けたもの」を
対象に見出し、それを得たいという根源的な欲求なのだろう。
そんな、より完全なものに近づこうとする本能。
これがエロスというわけだ。
今日はそんなエッチな小話(違うか)
☞☞
我々が原理原則に忠実に従いたいと願うのは
我々がこういった「美」に心惹かれるからだろう。
そうなると原理(理性)は美の表象だと言われそうだが
あくまでも「理性的」ということだ。
(これはゲーテを引用するまでもない)
では理性的な美、とは一体なんだろう。
「潔し(いさぎよし)」というのも美意識である、
自決とはそんな美意識の忠義心から生まれたのだろう。
(半分は理解できるが)
生きようとするがゆえに、死を覚悟する、
なるほど、武士の嗜みとはそんなものなのだろう。
☞ ☞
僕はそんな強要は好きじゃない。
よって、馴染みや心地を重視する。
住み心地、夢見心地、居心地、履き心地、
着心地、人心地、生きた心地、呑み心地など、
日常でも頻繁に使われているこの心地であるが、
源氏物語(平安時代)にも、その言葉は使われている。
そんな約1000年の時を超えた言語であるから、
その発声自体にさえ、何かしらの心地良さを感じる。
(詳しく記述は割愛するが)
言葉には少なからず言霊という波が起きてるのだろう。
いやはや、仮名(神名(かむな))とは面白い。
知ることを知る大切さは、この歳になって分かるものだ。
閑話休題
そんなわけで心地の概念は概ね、そんなところだが、
これ以上は語る事ができない。
それは美を正確に語れないのと同じである、
そもそも、男の美学や美意識とは語るものではない。
逆を言えば、こうやってブログに書いている時点で
独りよがりの美意識にすぎないのだろう・・・・南無三、なむさん、と笑
2013/01/24
今を生き抜く力3
坂口です、こんばんわ。
今日から大寒ですね、寒い寒い

この寒さを超えれば春ですね、
さて、山形市には「鶴岡食文化産業創造センター」
という地域団体があります。
市の職員である
鶴岡食文化創造都市推進協議会 が昨年から進め、
「食」から「職」の創造をテーマとした、
雇用の拡大を目指しています。
(ホームページはこちら )
「人づくり」と「事業づくり」を柱にされたこのセンター、
食文化を支える為の人材育成や、
鶴岡市の食文化を盛り上げるため、
食と異分野との連携による新しいビジネスやイベントなどを開催しています。
山形の食文化継承がメインなのですが、
ビジネスの要素も取り入れてますので今後、楽しみですね^^

鶴岡食文化創造都市推進協議のみなさん
ここ福岡でも、福岡県庁がフランチャイズを
展開支援するという全国初の試みがスタートしています。
今後、各地方行政の横断的な連携が
もっと増えてくるでしょうね。
☞ ☞ ☞
さて、その鶴岡食文化創造センターでは
来月セミナーを予定していまして、
その講師として、クライアントである
ハンズバーガーの髙橋社長が講演されますo(^▽^)o
他にも地元で活躍されている各経営者さまが、
「店舗継続」や「新規立ち上げ」についてリアルな声をお届けしますよ♪
詳細は以下のようになっていますので
近隣の皆様、ぜひこの機会をお見逃しなく!
■講座
「飲食店経営者に学ぶ、独立開業の道」
■日時
2月17日(月)・2月19日(水)
14:00~16:00(質疑応答あり)
■定員
各30名(申し込み多数の場合は選考にて)
■参加費
無料
■対象者
・飲食店新規立ち上げをお考えの方、
・飲食店従事者・経営者の方
参加ご希望の方は電話かメール、
こちら をダウンロードしてファックスでお知らせ下さい♪
※担当の今野さん、
丁寧なメール対応、ありがとうございました!
☞ ☞ ☞
ちなみにブログのテーマである「今を生き抜く力」、
実はクライアントさんの商品に対する思いなんです。
それは「今この瞬間」を生きるという
生命力そのもの。
既製品や機械化や進み、
合理的な食事提供が溢れ、
偽装問題や某企業の農薬混入事件など、
最近の食に対する不安が多い中、
作り手の心のこもったものを食べれば、
無意識的な部分では、きっと感じるものがあると思います。
この思いを全国へ広げていきますので、
一緒にやって頂ける方のご連絡、お待ちしています^^
※ハンズバーガーは宮城・福島・岩手の方限定で
加盟条件を大幅に変えてます。
飲食店だけでなく、他にも志の高い経営者達が
あなたの独立を支援しますよ♪
「中小企業の力を合わせて復興するぞ!」という方は
office unreveの公式ホームページ も、ぜひ一緒にご覧ください!
~PS~
帰る途中、牛タン食べてないことに気付き、
お昼を食べたばかりなのに、牛タン屋さんに行ってから帰りました(笑)

「タン先」「タン中」「タン元」「タンサガリ」が
全部入ってます

美味し( ̄▽+ ̄*)ハライッペ
今日から大寒ですね、寒い寒い
この寒さを超えれば春ですね、
さて、山形市には「鶴岡食文化産業創造センター」
という地域団体があります。
市の職員である
鶴岡食文化創造都市推進協議会 が昨年から進め、
「食」から「職」の創造をテーマとした、
雇用の拡大を目指しています。
(ホームページはこちら )
「人づくり」と「事業づくり」を柱にされたこのセンター、
食文化を支える為の人材育成や、
鶴岡市の食文化を盛り上げるため、
食と異分野との連携による新しいビジネスやイベントなどを開催しています。
山形の食文化継承がメインなのですが、
ビジネスの要素も取り入れてますので今後、楽しみですね^^
鶴岡食文化創造都市推進協議のみなさん
ここ福岡でも、福岡県庁がフランチャイズを
展開支援するという全国初の試みがスタートしています。
今後、各地方行政の横断的な連携が
もっと増えてくるでしょうね。
☞ ☞ ☞
さて、その鶴岡食文化創造センターでは
来月セミナーを予定していまして、
その講師として、クライアントである
ハンズバーガーの髙橋社長が講演されますo(^▽^)o
他にも地元で活躍されている各経営者さまが、
「店舗継続」や「新規立ち上げ」についてリアルな声をお届けしますよ♪
詳細は以下のようになっていますので
近隣の皆様、ぜひこの機会をお見逃しなく!
■講座
「飲食店経営者に学ぶ、独立開業の道」
■日時
2月17日(月)・2月19日(水)
14:00~16:00(質疑応答あり)
■定員
各30名(申し込み多数の場合は選考にて)
■参加費
無料
■対象者
・飲食店新規立ち上げをお考えの方、
・飲食店従事者・経営者の方
参加ご希望の方は電話かメール、
こちら をダウンロードしてファックスでお知らせ下さい♪
※担当の今野さん、
丁寧なメール対応、ありがとうございました!
☞ ☞ ☞
ちなみにブログのテーマである「今を生き抜く力」、
実はクライアントさんの商品に対する思いなんです。
それは「今この瞬間」を生きるという
生命力そのもの。
既製品や機械化や進み、
合理的な食事提供が溢れ、
偽装問題や某企業の農薬混入事件など、
最近の食に対する不安が多い中、
作り手の心のこもったものを食べれば、
無意識的な部分では、きっと感じるものがあると思います。
この思いを全国へ広げていきますので、
一緒にやって頂ける方のご連絡、お待ちしています^^
※ハンズバーガーは宮城・福島・岩手の方限定で
加盟条件を大幅に変えてます。
飲食店だけでなく、他にも志の高い経営者達が
あなたの独立を支援しますよ♪
「中小企業の力を合わせて復興するぞ!」という方は
office unreveの公式ホームページ も、ぜひ一緒にご覧ください!
~PS~
帰る途中、牛タン食べてないことに気付き、
お昼を食べたばかりなのに、牛タン屋さんに行ってから帰りました(笑)
「タン先」「タン中」「タン元」「タンサガリ」が
全部入ってます
美味し( ̄▽+ ̄*)ハライッペ
2013/01/23
遷宮とパラダイムシフトとエントロピー
ども。unreveのグッさんです^^
今、雪を見ながらブログ書いてます。
こう書くと、なんだかカッコいい感じですが。
こんな感じデス(笑)
ハア・・・春はまだですかね。
☞☞
さて、今年は伊勢神宮と出雲大社の遷宮が同じという
珍しい年でもあります。
遷宮(せんぐう)とは簡単に書くと「新築移転」、
修理とか新築する時、一時的に神体を移動します。
定期的に遷宮することを式年遷宮といい、
この行事で古いもの全てを取り壊し、また新しいものに変える、といったものです。
ちなみに寛文7年、出雲大社は朱塗りの旧本殿から、
白木の新本殿へ。
この遷宮により出雲大社からは仏教色が取り払われ、
また、周辺の地域でも仏教施設が取り除かれてます。
そこから出雲大社周辺が
「神道之地」と呼ばれるようになったんですね。
つまり「思想ごと変えちゃおうよ」と。
考えたら一大行事ですね。
さて我が国には、このように破壊と再生を繰り返しながら
永続的に世界が続く、弥栄(いさかや)の概念があります。
宇宙には始まりもなく、終わりもない。
ただただ弥栄に栄えていくのみ、と。
元来、日本人には「終焉」といった言葉がなかったんですね^^
「終わりが無い」という事が終わりの答えだ、と。
ただ、その流れの中には大きな転換期があって、
それが巷で言われる「パラダイムシフト」なのかもしれませんね。
冒頭の遷宮だけに限らず、
今は大きな「転換期」だというのは間違いないです。
昨年の冬至はマヤ歴で終焉だと言われてましたが、
人類滅亡ではありませんでした。
そのせいでネットを始め各国でも一時パニックになったり
買占めが起こりました。
(ノアの箱舟みたいなやつも売りだされてましたね)
若い世代の中には逆にそれを望んでたり。
言いかえると破壊の後の再生を期待していたのかもしれません。
個人的にはマヤ歴って、世界の「転換期」を指していると思うんです。
遷宮のように「ガラリと全く変わる時代の節目」である、と。
オカルティズムに傾倒するわけではないのですが、
新しい時代、すでにシフトしているのではないでしょうか。
だとすれば、これからの時代の変化、
とっても楽しみじゃないですか^^?
完全な利他へのシフトとは思えませんが、
今年は今までの非常識が、常識になる気がしてならないんですね。
ただ、おかしな思想や説法が蔓延っている感は拭えません、
自分の目も養わないといけないな、と改めて感じます。
次回、これについて、
個人的な考察を書こうと思います^^
今、雪を見ながらブログ書いてます。
こう書くと、なんだかカッコいい感じですが。
こんな感じデス(笑)
ハア・・・春はまだですかね。
☞☞
さて、今年は伊勢神宮と出雲大社の遷宮が同じという
珍しい年でもあります。
遷宮(せんぐう)とは簡単に書くと「新築移転」、
修理とか新築する時、一時的に神体を移動します。
定期的に遷宮することを式年遷宮といい、
この行事で古いもの全てを取り壊し、また新しいものに変える、といったものです。
ちなみに寛文7年、出雲大社は朱塗りの旧本殿から、
白木の新本殿へ。
この遷宮により出雲大社からは仏教色が取り払われ、
また、周辺の地域でも仏教施設が取り除かれてます。
そこから出雲大社周辺が
「神道之地」と呼ばれるようになったんですね。
つまり「思想ごと変えちゃおうよ」と。
考えたら一大行事ですね。
さて我が国には、このように破壊と再生を繰り返しながら
永続的に世界が続く、弥栄(いさかや)の概念があります。
宇宙には始まりもなく、終わりもない。
ただただ弥栄に栄えていくのみ、と。
元来、日本人には「終焉」といった言葉がなかったんですね^^
「終わりが無い」という事が終わりの答えだ、と。
ただ、その流れの中には大きな転換期があって、
それが巷で言われる「パラダイムシフト」なのかもしれませんね。
冒頭の遷宮だけに限らず、
今は大きな「転換期」だというのは間違いないです。
昨年の冬至はマヤ歴で終焉だと言われてましたが、
人類滅亡ではありませんでした。
そのせいでネットを始め各国でも一時パニックになったり
買占めが起こりました。
(ノアの箱舟みたいなやつも売りだされてましたね)
若い世代の中には逆にそれを望んでたり。
言いかえると破壊の後の再生を期待していたのかもしれません。
個人的にはマヤ歴って、世界の「転換期」を指していると思うんです。
遷宮のように「ガラリと全く変わる時代の節目」である、と。
オカルティズムに傾倒するわけではないのですが、
新しい時代、すでにシフトしているのではないでしょうか。
だとすれば、これからの時代の変化、
とっても楽しみじゃないですか^^?
完全な利他へのシフトとは思えませんが、
今年は今までの非常識が、常識になる気がしてならないんですね。
ただ、おかしな思想や説法が蔓延っている感は拭えません、
自分の目も養わないといけないな、と改めて感じます。
次回、これについて、
個人的な考察を書こうと思います^^
2013/01/14
シェイクスピアとマニュアル
「人間は泣きながらこの世に生まれてくる。
阿呆ばかりの世に生まれたことを悲しんでな」。
これはw・シェイクスピアの言葉であるらしい。
いやはや、なんとも豪胆な。
シェイクスピアと言えば、ご存じ世界一有名な劇作家。
ロミオとジュリエットやハムレット、リア王なんて誰もが知っている名作である。
私は劇場で見たことはないが、
映画大全集は持ってるんだなぁ(笑)
作品の全てがドキッとするくらい人間の内面を表現しているので、
個人的には心理学者や哲学者に近い気がする。
全ての人間が持つ原罪である猜疑や嫉妬、
マクベスはこれを鮮明に描き出した。
喜劇と史劇と悲劇・・・。
今回はそんなシェイクスピアにまつわる小話。
☞ ☞ ☞
シェイクスピアは活字を使わなかったらしい。
台本は個人のパートだけ与えられ、全体の物語を読むことができかった。
当然、観客も作品を見る事ができない。
つまりは耳でしかその舞台は体験できないものだったのだ。
実際の舞台と俳優のセリフを覚えながら各自、
一連の物語を再構成するしか、方法はなかった。
よって観客を始め、俳優たちそれぞれも、
各々が自由にその世界を感じたのである。
よってシェイクスピアの舞台そのものは
一義ではなく、多様な物語なのだ。
何と不親切な・・と思うだろうか?
私はそうは思わない、むしろ逆にこれこそが醍醐味である。
我々がその一部始終を目にできるような俯瞰的な視点とは
逆を言えばそのリアルな「場」から切り離された傍観者でもある。
そして客観的な場に居座れない代わりに、
我々は常に参加し、受け入れ、相互に影響を与えあうことができる。
内側から眺める視点、これがunreveの「場の創造」なのだ。
文字(テキスト)が存在すれば途端に内部から外部となる。
まるで台本を読む傍観者のように。
つまり全員が参加するには「文字」が邪魔なのだ。
岡目八目は立ち位置として重要だと書いたが、
その視点を自由に変える事ができるのが前提としてある。
☞ ☞ ☞
シェイクスピアの演劇は没後、その「曖昧さ」から
数学者からなる王立協会によって批判された。
それは数学者やプロテスタント(カルヴァン派)が求める
「万人共有」の対立概念だったからだ。
17世紀は「多様から一義へ」変わって行った時代ともいえる。
シェイクスピアの没後、世界中の人々が作品を共有した。
印刷技術とは、世界で初めての大量生産した「知の共有」である。
つまり今ある活字本とは、均質にして反復可能であり、
編集によって多くの人々が共通する意味を持てる、という
「再現性を売る商品」なのだ。
否、持てると勘違いさせてしまう商品なのである。
☞ ☞ ☞
フランシス・ベーコンは言語が個人の偏見(イドラ)によって
作られているとし、
デカルトは観念を正確に伝えうる言語以外の記号を考えた、
言語が記号である以上、解釈は一つではないのだ。
フランチャイズのマニュアルも当然「イドラ」である。
その台本を俯瞰しても捉える「フィルタ」が違うのは当然だ。
我々は自己完結、つまり「勝手に納得(解釈)」してしまう。
(解読と解釈の違いは前回書いた)
シェイクスピアはそれを危惧して、
あえて台本を書かなかったのかもしれない。
多様な捉え方そのものに価値を置いた気がしてならない。
つまり受け手が多様である以上、
一つの台本を作ったとしても、その解釈は多様のままなのだ。
unreveは「参加型マニュアル」を推進している。
それは本部と加盟店によるフラットな編集作業だ。
イノベーションが求められる時代において、
既存の閉鎖的になりつつある専門性や、俯瞰的マネジメントは台本である。
台本に当てはめ、再現し、大量に作る。
それはもう通用しない。
現在、時代を先読みする地図はない。
管理する設計書もない。
今はコンパスだけが頼りなのだ。
それは関係性の中から生まれる気がしてならない。
阿呆ばかりの世に生まれたことを悲しんでな」。
これはw・シェイクスピアの言葉であるらしい。
いやはや、なんとも豪胆な。
シェイクスピアと言えば、ご存じ世界一有名な劇作家。
ロミオとジュリエットやハムレット、リア王なんて誰もが知っている名作である。
私は劇場で見たことはないが、
映画大全集は持ってるんだなぁ(笑)
作品の全てがドキッとするくらい人間の内面を表現しているので、
個人的には心理学者や哲学者に近い気がする。
全ての人間が持つ原罪である猜疑や嫉妬、
マクベスはこれを鮮明に描き出した。
喜劇と史劇と悲劇・・・。
今回はそんなシェイクスピアにまつわる小話。
☞ ☞ ☞
シェイクスピアは活字を使わなかったらしい。
台本は個人のパートだけ与えられ、全体の物語を読むことができかった。
当然、観客も作品を見る事ができない。
つまりは耳でしかその舞台は体験できないものだったのだ。
実際の舞台と俳優のセリフを覚えながら各自、
一連の物語を再構成するしか、方法はなかった。
よって観客を始め、俳優たちそれぞれも、
各々が自由にその世界を感じたのである。
よってシェイクスピアの舞台そのものは
一義ではなく、多様な物語なのだ。
何と不親切な・・と思うだろうか?
私はそうは思わない、むしろ逆にこれこそが醍醐味である。
我々がその一部始終を目にできるような俯瞰的な視点とは
逆を言えばそのリアルな「場」から切り離された傍観者でもある。
そして客観的な場に居座れない代わりに、
我々は常に参加し、受け入れ、相互に影響を与えあうことができる。
内側から眺める視点、これがunreveの「場の創造」なのだ。
文字(テキスト)が存在すれば途端に内部から外部となる。
まるで台本を読む傍観者のように。
つまり全員が参加するには「文字」が邪魔なのだ。
岡目八目は立ち位置として重要だと書いたが、
その視点を自由に変える事ができるのが前提としてある。
☞ ☞ ☞
シェイクスピアの演劇は没後、その「曖昧さ」から
数学者からなる王立協会によって批判された。
それは数学者やプロテスタント(カルヴァン派)が求める
「万人共有」の対立概念だったからだ。
17世紀は「多様から一義へ」変わって行った時代ともいえる。
シェイクスピアの没後、世界中の人々が作品を共有した。
印刷技術とは、世界で初めての大量生産した「知の共有」である。
つまり今ある活字本とは、均質にして反復可能であり、
編集によって多くの人々が共通する意味を持てる、という
「再現性を売る商品」なのだ。
否、持てると勘違いさせてしまう商品なのである。
☞ ☞ ☞
フランシス・ベーコンは言語が個人の偏見(イドラ)によって
作られているとし、
デカルトは観念を正確に伝えうる言語以外の記号を考えた、
言語が記号である以上、解釈は一つではないのだ。
フランチャイズのマニュアルも当然「イドラ」である。
その台本を俯瞰しても捉える「フィルタ」が違うのは当然だ。
我々は自己完結、つまり「勝手に納得(解釈)」してしまう。
(解読と解釈の違いは前回書いた)
シェイクスピアはそれを危惧して、
あえて台本を書かなかったのかもしれない。
多様な捉え方そのものに価値を置いた気がしてならない。
つまり受け手が多様である以上、
一つの台本を作ったとしても、その解釈は多様のままなのだ。
unreveは「参加型マニュアル」を推進している。
それは本部と加盟店によるフラットな編集作業だ。
イノベーションが求められる時代において、
既存の閉鎖的になりつつある専門性や、俯瞰的マネジメントは台本である。
台本に当てはめ、再現し、大量に作る。
それはもう通用しない。
現在、時代を先読みする地図はない。
管理する設計書もない。
今はコンパスだけが頼りなのだ。
それは関係性の中から生まれる気がしてならない。
平和のノウハウ
さて、僕は最近全くテレビを見ないので
流行りの歌もアーティストも分からない
という、残念なやつなんですが(笑)
このところお気に入りが
「世界の終わり」でして。
歌詞の意味を問わないものが
多い中、すてきな歌詞書くなぁ、
と思いました。
「天使と悪魔」っていう曲の中に
「大人vs大人の正解、不正解のバトル」
って部分があるんですが、
確かに、大人って理性の塊だよね、
って感じたんです。
今日はそんなところからの小話でも。
さて、昔の僕もそうだったんですが、
矛盾する対立二項は統一したいものです。
矛盾して悩んだり葛藤したりするより、
科学みたく、スパっと断言したほうが
確かにスッキリします。
ただ、ずいぶん前にそれは止めまして、
統一ではなく回帰による統合、
超克的な組織構造論にシフトしました。
統一とは意図的に同じ状態を
作りだす画一化であり、
統合とは相互矛盾し、バラバラなものが
一つになる、調和的なもの、
似ているようで全く違います。
☞ ☞ ☞
ちなみに物理学は統一したがりますな。
例えば、素粒子を一本のヒモに統一したら、
そのヒモが5本に増えてしまった。
真実が5つあると困るもんだから、
11次元の膜で統一したのがM理論なんですが、
それでもパラドックスは消えてません。
なぜ矛盾が消えないか、
それはこの1400グラムの脳が
理性で考えてしまうからですわ。
だからさっきの歌詞の様な
「正解、不正解のバトル」になる。
それじゃあ部分の正しさが
全体にとって悪になる、ってことで、
両成敗式目が慣習化されてたんです。
これができたの、世界で日本だけ。
我々の文化は平和のノウハウを持っています。
☞ ☞
子供を見れば、正解を求めないし、
比べることもありません。
ただ、自分ができたことを
親に褒めて欲しいわけです。
比べ出すのは小学校くらいですな、
ちょうど理性が強くなる頃です。
誰々ちゃんの家は大きいだの、
誰々くんのお小遣は多いだの。
僕もよく言われてましたわ。
「他所は他所、うちはうち!」ってね(笑)
ここからなんとなく記憶が
ハッキリしてきませんか?
これは理性が働いているからでしょう。
☞ ☞
身近な統一理論は他にもあって、
歴史上、最も古いと言われる
西洋宗教なんて、まさにそうですな。
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教。
それぞれが唯一無二の神を譲らない、と。
それじゃあさっきのヒモ理論みたいに
真実がいくつもある、って話になってしまう。
だから互いに仲が悪いんですな。
ただ、根の部分はまったく同根なんですがね。
フロイトだって世間の心理を
個人の心理に当てはめてるわけでしょう、
小林秀雄から怒られそうですが、
社会の心理が個人の心理のはずがない。
それならベルクソンの方がまだ分かる。
成功哲学のマーフィーもそう。
無意識を意識でコントロールできる、
と思っている。
つまり意識で統一するって事でしょ、
そんなもん、不自然かつ危険極まりない。
寝ている時は無意識なわけです。
その時、呼吸や心臓は勝手にやってくれてます。
逆を言えば、我々は「無意識」がないと
おちおち寝ることすら出来やしないわけです。
だから陰陽両面を陽で統一するんじゃなくて、
陰陽を統合する生き方は自然だと思うんです。
☞ ☞
そんなわけで、僕は原理主義が
どうしても苦手なんですが、
それすらも、極端になれば
「反原理主義」という原理を持ってしまう。
これじゃあミイラ取りがなんとやら、です。
ほどほどが一番ですな。
原理は太陽と一緒で、長い間見るもんじゃない。
客観的整合性がある原理は
あるかもしれないし、無いかもしれない。
しかしそれは理性では分からない、
逆に、故に、だからこそ、
我々は大いなる原理の存在みたいなものを
感じる事ができるんでしょう。
【後記】
とはいえ、僕の定義では
どうしても存在の悪、というものがありまして。
例えばそれは白痴のムシュイキン侯爵のような
純粋な存在だったりします。
純粋なものは美しいとは限らない、と。
まあ、この辺は難しいですね・・・
流行りの歌もアーティストも分からない
という、残念なやつなんですが(笑)
このところお気に入りが
「世界の終わり」でして。
歌詞の意味を問わないものが
多い中、すてきな歌詞書くなぁ、
と思いました。
「天使と悪魔」っていう曲の中に
「大人vs大人の正解、不正解のバトル」
って部分があるんですが、
確かに、大人って理性の塊だよね、
って感じたんです。
今日はそんなところからの小話でも。
さて、昔の僕もそうだったんですが、
矛盾する対立二項は統一したいものです。
矛盾して悩んだり葛藤したりするより、
科学みたく、スパっと断言したほうが
確かにスッキリします。
ただ、ずいぶん前にそれは止めまして、
統一ではなく回帰による統合、
超克的な組織構造論にシフトしました。
統一とは意図的に同じ状態を
作りだす画一化であり、
統合とは相互矛盾し、バラバラなものが
一つになる、調和的なもの、
似ているようで全く違います。
☞ ☞ ☞
ちなみに物理学は統一したがりますな。
例えば、素粒子を一本のヒモに統一したら、
そのヒモが5本に増えてしまった。
真実が5つあると困るもんだから、
11次元の膜で統一したのがM理論なんですが、
それでもパラドックスは消えてません。
なぜ矛盾が消えないか、
それはこの1400グラムの脳が
理性で考えてしまうからですわ。
だからさっきの歌詞の様な
「正解、不正解のバトル」になる。
それじゃあ部分の正しさが
全体にとって悪になる、ってことで、
両成敗式目が慣習化されてたんです。
これができたの、世界で日本だけ。
我々の文化は平和のノウハウを持っています。
☞ ☞
子供を見れば、正解を求めないし、
比べることもありません。
ただ、自分ができたことを
親に褒めて欲しいわけです。
比べ出すのは小学校くらいですな、
ちょうど理性が強くなる頃です。
誰々ちゃんの家は大きいだの、
誰々くんのお小遣は多いだの。
僕もよく言われてましたわ。
「他所は他所、うちはうち!」ってね(笑)
ここからなんとなく記憶が
ハッキリしてきませんか?
これは理性が働いているからでしょう。
☞ ☞
身近な統一理論は他にもあって、
歴史上、最も古いと言われる
西洋宗教なんて、まさにそうですな。
キリスト教、ユダヤ教、イスラム教。
それぞれが唯一無二の神を譲らない、と。
それじゃあさっきのヒモ理論みたいに
真実がいくつもある、って話になってしまう。
だから互いに仲が悪いんですな。
ただ、根の部分はまったく同根なんですがね。
フロイトだって世間の心理を
個人の心理に当てはめてるわけでしょう、
小林秀雄から怒られそうですが、
社会の心理が個人の心理のはずがない。
それならベルクソンの方がまだ分かる。
成功哲学のマーフィーもそう。
無意識を意識でコントロールできる、
と思っている。
つまり意識で統一するって事でしょ、
そんなもん、不自然かつ危険極まりない。
寝ている時は無意識なわけです。
その時、呼吸や心臓は勝手にやってくれてます。
逆を言えば、我々は「無意識」がないと
おちおち寝ることすら出来やしないわけです。
だから陰陽両面を陽で統一するんじゃなくて、
陰陽を統合する生き方は自然だと思うんです。
☞ ☞
そんなわけで、僕は原理主義が
どうしても苦手なんですが、
それすらも、極端になれば
「反原理主義」という原理を持ってしまう。
これじゃあミイラ取りがなんとやら、です。
ほどほどが一番ですな。
原理は太陽と一緒で、長い間見るもんじゃない。
客観的整合性がある原理は
あるかもしれないし、無いかもしれない。
しかしそれは理性では分からない、
逆に、故に、だからこそ、
我々は大いなる原理の存在みたいなものを
感じる事ができるんでしょう。
【後記】
とはいえ、僕の定義では
どうしても存在の悪、というものがありまして。
例えばそれは白痴のムシュイキン侯爵のような
純粋な存在だったりします。
純粋なものは美しいとは限らない、と。
まあ、この辺は難しいですね・・・
70億の波
「能力主義」は対象者を管理させるのみらならず、
人間を数値化し、価値を下落させる単なる「技術」になってしまう。
この事実が言わんとしているのは、
「システム」が本義から逸脱したのではなく、
その「管理機能」が社会に埋め込まれている
証拠であり、その影響から逃れられないことにある。
近代社会は「標準化・規格化」が常であり、
技術産業の域を超え、財務、情報、セキュリティ、教育にまで及んでいる。
標準化とは安心ではあるが規格外は排除される、
つまり規格とは、恣意的な選別の篩(ふるい)なのだ。
リゾームはそれら規格化への反対運動ではなく、
対立同化である。
すなわち既存構造の容認であり、
規格外である異質と共存できる環境作りであって、
主体でもなく客体でもない「場」へと向かう
「開かれた一つ」の再生である。
私は、我々のすべての活動には何らかの
創造的機会が潜んでいると思っている。
誰もが表現者であり、アーティストなのだ。
だから、もっと自己を表現できる世界を作りたい。
それが他者と共鳴し、それが集まり、
何かを達成し、元へと戻っていく。
まるで一つの海から派生する
70億の波のようである。
☞ ☞
他者から見る自己に反発し、独自の自己像を追求しても
他者の痕跡だけが浮き彫りになるだけにすぎない。
なぜなら自己の「固有性」や「特殊性」を、
他者とは反対の場所に位置づけてしまうからだ。
つまりそれらは差異の反発によって出来る
天邪鬼的な自己にすぎないのであって、
「独自性」を否定するつもりが、
逆に「独自性」を主張してしまい、
根本的な矛盾を孕んでしまう結果となってしまうだろう。
そんな無理強いなんて、本来は必要ないのだ。
☞ ☞
様々なタイプがいることは望ましいこと。
似たようなものばかりがいるより、互いに学びあえる。
同じ者同士ばかりが集まる環境下では
知的・文化的な視野は狭くなってしまう。
反面、多様体であるリゾームは、
別の多様体と接触された時、
その主体(自己)の性質を変えていく。
それは馴染む場所から異なる場所へと向かう
絶えない矛盾や葛藤による思想的変化を暗示している。
よって多様とは枠が広がるだけでなく、
混在した場における相互作用により、思想の質的な向上が起きるのだ。
縦と横が交差し、織りなす一つの「多様体」。
そこは常に開かれているので始まりや終わりという概念がない。
そんな世界は混沌ではない、逆に幸福という秩序がある。
2013/01/07
初心不可忘
office unreveの坂口です。
九州の元旦は天気にも恵まれてたようですね(^O^)
さて、本年最初の記事。
何を書こうかと迷ってましたが、
やはり正月と言えば決意表明ですね(笑)
と言う事で、
今日は「初心」についての小話でも。。。
さて、我々の意志はとても脆弱なもの。
これは個人差というよりも「人間」というものが、元来そうなのです。
「いや、私の意思は強い!」と思う方も多いでしょう。
しかし、ある簡単な質問でそれが違うと言う事が分かります。
ちょっと試してみましょうか^^
僕が今から書く内容を強い意志で跳ね返して下さい。
ではいきますよ。
「3分間、お金のことを一切考えないで下さい」。
。。。。いかがでしょうか(笑)
僅か3分ではありますが、
お金のことを全く考えないでいれるほど、意思を強く保てたでしょうか。
ちょっと難しいですよね、
世阿弥はこのことがよく分かっていたのでしょう。
☞ ☞ ☞
さて、能楽を大成した天才、世阿弥は
秘伝「花鏡」において、その伝統を継承・発展させるため
「初心不可忘」を説きました。
残したと言われる風姿花伝や花伝書、花鏡
存続させる為のノウハウが詰まっています。
(「序・破・急」はアニメ「エヴァンゲリオン」の題材にもなりましたね)
世阿弥自身、仏教である「色即是空」や
禅宗(不立文字)の影響を受けていた。
つまりその秘伝は形式知ではなく暗黙知、
「言葉の先にあるものを掴む」ものではないでしょうか。
☞☞
世の中のタイミングを表す「時節」や「男時・女時」。
内省や俯瞰による「離見の見」、
慢心が人を朽ちさせるという「情識」。
これらはどんな時代の、どこの国にも当てはまるもの。
世阿弥の説く「継承からの創造」の原理は、
まさに「最高の暗黙知」なんですね。
よって知識として知るのではなく
身をもって感じる事が大切です。
それを踏まえ、根底にある精神の型を覚える。
世阿弥のいう初心とは失敗と苦労の末、身に付けたもの。
つまり「直接的な経験を忘れるな」と言う事なのですね^^
「初心の意味がわかった!!」という方は
office unreveの公式ホームページを、ぜひ一緒にご覧ください!
2013/01/03
急いで掘り起こさない
「現状がどうであれ、悲観することは一切ない」
人生とは何があるか分かりません。
そんな説法的な話を聞いてもいまいちピンと来ないのが
私たちの正直な感想ですが、
過去の成功者を見れば、
なるほど、と思わずにはいれません。
現在の有名FC企業もそういった歴史があります。
そして創業者は順調に成功していた訳ではありません。
例えばリンガーハットの米濱社長は小学生の時に
親の鮮魚卸会社が倒産、
大学受験に失敗した社長はその後兄と共に
トンカツ屋を創業、これが後に「浜勝」という巨大チェーンに成長し、
長崎ちゃんぽんもチェーン展開して成功します。
カレーハウスココ壱番屋の宗次社長、
孤児院で育ったのは有名な話です。
24歳で不動産と喫茶店を経営、その時喫茶店で奥さんが作った
カレーがヒットし、今の「ココイチ」となってます。
カギの110番で有名な上野社長も
27歳の時に始めた出張鍵屋、いわば露天商からのスタートです。
当時、まさかここまで巨大な企業に化けるとは、
誰も予想しなかったでしょう。
チェーン店(フランチャイズ)の元祖とも言えるKFC、
ケンタッキーの創業者であるカーネル・サンダース氏自身も
65歳で起業してあのような巨大企業になってますね。
「どん底の経験なんてしたくない」、「周りからバカ呼ばわりされたくない」。
現在、リスクばかりが先行し、そういった事を避ける傾向があるのですが、
どんなものにしろ、チャレンジするのは素晴らしい事だと思います。
いくつになってもその精神がある人は幸せです。
どん底を知っているからこそ、強くなれる。
何もない状態から始めたからこそ、実力が養われています。
最初から成果を期待しなくとも、
継続すればやがて実がなる、あとは時間の問題です。
FCチェーンの特性がスピード重視なのですが、
私は反面、継続重視のFCを提唱します。
トマトのタネを蒔いて、次の日に掘り起こして
食べる人がいないように、
FC構築が出来たとしても、
それがすぐにたくさんの実を結ぶ事はありません。
短期間に育てようとして、失敗している本部は
それこそたくさんあります。
ちゃんとした種をまき、それを大事に育てましょう。
経済成熟期にはそれが一番重要ですから。
人生とは何があるか分かりません。
そんな説法的な話を聞いてもいまいちピンと来ないのが
私たちの正直な感想ですが、
過去の成功者を見れば、
なるほど、と思わずにはいれません。
現在の有名FC企業もそういった歴史があります。
そして創業者は順調に成功していた訳ではありません。
例えばリンガーハットの米濱社長は小学生の時に
親の鮮魚卸会社が倒産、
大学受験に失敗した社長はその後兄と共に
トンカツ屋を創業、これが後に「浜勝」という巨大チェーンに成長し、
長崎ちゃんぽんもチェーン展開して成功します。
カレーハウスココ壱番屋の宗次社長、
孤児院で育ったのは有名な話です。
24歳で不動産と喫茶店を経営、その時喫茶店で奥さんが作った
カレーがヒットし、今の「ココイチ」となってます。
カギの110番で有名な上野社長も
27歳の時に始めた出張鍵屋、いわば露天商からのスタートです。
当時、まさかここまで巨大な企業に化けるとは、
誰も予想しなかったでしょう。
チェーン店(フランチャイズ)の元祖とも言えるKFC、
ケンタッキーの創業者であるカーネル・サンダース氏自身も
65歳で起業してあのような巨大企業になってますね。
「どん底の経験なんてしたくない」、「周りからバカ呼ばわりされたくない」。
現在、リスクばかりが先行し、そういった事を避ける傾向があるのですが、
どんなものにしろ、チャレンジするのは素晴らしい事だと思います。
いくつになってもその精神がある人は幸せです。
どん底を知っているからこそ、強くなれる。
何もない状態から始めたからこそ、実力が養われています。
最初から成果を期待しなくとも、
継続すればやがて実がなる、あとは時間の問題です。
FCチェーンの特性がスピード重視なのですが、
私は反面、継続重視のFCを提唱します。
トマトのタネを蒔いて、次の日に掘り起こして
食べる人がいないように、
FC構築が出来たとしても、
それがすぐにたくさんの実を結ぶ事はありません。
短期間に育てようとして、失敗している本部は
それこそたくさんあります。
ちゃんとした種をまき、それを大事に育てましょう。
経済成熟期にはそれが一番重要ですから。
2013/01/02
過剰な保護
植物はそれぞれに適した環境があって、
それを無視すれば、通常のような
生命力の強さは期待できません。
例えば植林のように
人工的に作りだした場合、
例えば杉なら杉だけ、
ヒノキならヒノキだけのように
一種がキチンと規則的に植えられます。
これは手入れをしやすくすることで
「効率よく短期間」で成長できるようにする為です。
ですがその木、その森を育てるには
絶えず人が手入れをしなければいけません。
また、何年、何十年もそうやって
手間暇かけて育てたとしても、
ちょっとした大雨や台風、地震や津波なんかで
簡単になぎ倒されたり枯れてしまうそうです。
成長が早く、背の高い木でも
「根が浅い為」に保水力が低い、と。
☞ ☞
松の木も同様、
根が横に伸びる為、本来は地震や津波には弱い。
それに比べ人の手が入っていない通常の森では、
草木は太陽の光や根を張る為の場所を確保する為に競争します。
下の草が地面に根を張って低い木を支え、
その低い木がさらに高い木を支えるような関係性になっています。
まさにこれこそ自然の「共生」でしょう、
地球上で40億年続いている掟とも言えます。
まー、これについては色々と意見もありますし、
必ずしも上記のような環境が最適だとは言えませんが、
それを書きながら掴んでいこうかと^^
2013/01/01
加減を忘れた倫理の先
ドイツで長年に渡って「禁書」とされていた
「わが闘争」の著作権が来年切れるということで、話題になっている。
全体主義の代名詞であるナチズム(ファシズム)。
この原理には歪んだ「正義」が潜んでいる。
誰もが正しいと「思ってる事」を厳守するのは正しいだろうか?
正直、私にはそうは思えない。
私自身、倫理やらなんやらと言ってはいるが、
それらも極端に走れば当然、弊害が起る。
例えばナチス時代のドイツ、
来日したナチス青年団の印象は倫理的で規律のある青年達だったそうだ。
その倫理性や規律の正しさでホロコーストを引き起こした。
それは矛盾した行為ではなく、その性質の延長線にあったのだ。
日本も同じである、戦時中は戦争反対などといった
反イデオロギーは許されなかった。
また、戦時中には愛国婦人会という団体があり、
若い女性がパーマをかけていたりすると、注意していたらしい。
当然化粧もダメ、さらには髪の毛が長いとハサミで切ってたと言う。
レースや刺繍のついた服も「その場で」切り刻まれていたのだ。
精神的に未成熟なのは昔だけではない、
倫理と名を付け「勝手な自己判断」で裁く類は未だに多い。
お互いが罵りあい、軽蔑しているのだ。
良い意味で「放っておく」事ができないのかなぁ、と思ったりする。
タカもハトも極端な倫理性の向かう先である。
だからといってリベラルも同じである。
以前私はリバタリアニズムであったが
目指す概念とちょっと違うな、と感じるようになってきた。
また、今の政治構造ではリバタリアニズムは不可能ともいえる。
前提そのものを疑う必要があるのだ。
☞ ☞ ☞
現在道徳を普及させようとしているのか
慎ましさや品格といった、武士道的な精神性を復活させようとしている。
もちろんそれらは美しくはある、
しかしそのような復古論や懐古的な教育手法は私は懐疑的だ。
そもそも背景が違う、現在はバターナリズム(父権主義)ではない。
これは平和な時代の副作用であるというのが個人的な感想である。
物事には必ず「功罪の側面」がある。
それを理解し、罪的側面も受け入れるという覚悟が必要なのだろう。
理想なんてものを設定するからおかしくなる。
物事には必ず「毒と薬」が一緒くたになっていて、
一流と言われる人はその毒が必ず回っているのだ。
その毒が上まらないよう、浄化し続けることで
均衡を保っている、これは道を極めた人に共通している。
バランスを保つには、自己否定もまた必要なのだろう。
☞ ☞
よって今は考え抜かなくてはならない時代である。
言い方を変えれば、そうしないとどうにもならない所まで来たのだ。
我々はやり尽した終着点にいて、根源的なものを確かめているように見える。
また、そこには新しい価値が内包されている気がするのだ。
最近読んだ本に坂口恭平氏の「独立国家の作り方」というものがある。
最近もっぱら古典ばかりだが、これは久々に読んだ現代著書の中でイチオシである。
著書内にとても響いた言葉がある、
最後にそれを引用したい。
この無意識だらけの無思考な社会が、居心地がいいわけがないのだ。
そこにはたくさんの無視が存在している。
差別が存在している。階級が存在している。貧困が存在している。
それが苦しくないわけないのだ。
僕の症状は自然な精神であれば、当たり前の事だと気付いてきた。
だからこそ、行動に実行に実践に、
結びつけなくてはいけないと決める事ができた。
とはいえ、障害はやはり障害である。
死ぬかもしれないという可能性もある。
だから新政府を立ち上げた。こんな事を社会に表明しちゃったら、
多くの人も応援してくれているし、死ぬわけにはいかない。
つまり「死ねない」。
これ、すなわち「生きる」である。
生きるというのはそう言う事だ、仕事で成功するとか
いい会社に入るとか、有名になるとか、資格を取るとか、出世するとか、
お金を稼ぐことではない。
「生きるとは死ねないこと」。
死ねない環境を作る、これが「生きる」と言う事だ。
「わが闘争」の著作権が来年切れるということで、話題になっている。
- わが闘争(上)―民族主義的世界観(角川文庫)/角川書店
- ¥864
- Amazon.co.jp
全体主義の代名詞であるナチズム(ファシズム)。
この原理には歪んだ「正義」が潜んでいる。
誰もが正しいと「思ってる事」を厳守するのは正しいだろうか?
正直、私にはそうは思えない。
私自身、倫理やらなんやらと言ってはいるが、
それらも極端に走れば当然、弊害が起る。
例えばナチス時代のドイツ、
来日したナチス青年団の印象は倫理的で規律のある青年達だったそうだ。
その倫理性や規律の正しさでホロコーストを引き起こした。
それは矛盾した行為ではなく、その性質の延長線にあったのだ。
日本も同じである、戦時中は戦争反対などといった
反イデオロギーは許されなかった。
また、戦時中には愛国婦人会という団体があり、
若い女性がパーマをかけていたりすると、注意していたらしい。
当然化粧もダメ、さらには髪の毛が長いとハサミで切ってたと言う。
レースや刺繍のついた服も「その場で」切り刻まれていたのだ。
精神的に未成熟なのは昔だけではない、
倫理と名を付け「勝手な自己判断」で裁く類は未だに多い。
お互いが罵りあい、軽蔑しているのだ。
良い意味で「放っておく」事ができないのかなぁ、と思ったりする。
タカもハトも極端な倫理性の向かう先である。
だからといってリベラルも同じである。
以前私はリバタリアニズムであったが
目指す概念とちょっと違うな、と感じるようになってきた。
また、今の政治構造ではリバタリアニズムは不可能ともいえる。
前提そのものを疑う必要があるのだ。
☞ ☞ ☞
現在道徳を普及させようとしているのか
慎ましさや品格といった、武士道的な精神性を復活させようとしている。
もちろんそれらは美しくはある、
しかしそのような復古論や懐古的な教育手法は私は懐疑的だ。
そもそも背景が違う、現在はバターナリズム(父権主義)ではない。
これは平和な時代の副作用であるというのが個人的な感想である。
物事には必ず「功罪の側面」がある。
それを理解し、罪的側面も受け入れるという覚悟が必要なのだろう。
理想なんてものを設定するからおかしくなる。
物事には必ず「毒と薬」が一緒くたになっていて、
一流と言われる人はその毒が必ず回っているのだ。
その毒が上まらないよう、浄化し続けることで
均衡を保っている、これは道を極めた人に共通している。
バランスを保つには、自己否定もまた必要なのだろう。
☞ ☞
よって今は考え抜かなくてはならない時代である。
言い方を変えれば、そうしないとどうにもならない所まで来たのだ。
我々はやり尽した終着点にいて、根源的なものを確かめているように見える。
また、そこには新しい価値が内包されている気がするのだ。
最近読んだ本に坂口恭平氏の「独立国家の作り方」というものがある。
最近もっぱら古典ばかりだが、これは久々に読んだ現代著書の中でイチオシである。
著書内にとても響いた言葉がある、
最後にそれを引用したい。
- 独立国家のつくりかた (講談社現代新書)/講談社
- ¥価格不明
- Amazon.co.jp
この無意識だらけの無思考な社会が、居心地がいいわけがないのだ。
そこにはたくさんの無視が存在している。
差別が存在している。階級が存在している。貧困が存在している。
それが苦しくないわけないのだ。
僕の症状は自然な精神であれば、当たり前の事だと気付いてきた。
だからこそ、行動に実行に実践に、
結びつけなくてはいけないと決める事ができた。
とはいえ、障害はやはり障害である。
死ぬかもしれないという可能性もある。
だから新政府を立ち上げた。こんな事を社会に表明しちゃったら、
多くの人も応援してくれているし、死ぬわけにはいかない。
つまり「死ねない」。
これ、すなわち「生きる」である。
生きるというのはそう言う事だ、仕事で成功するとか
いい会社に入るとか、有名になるとか、資格を取るとか、出世するとか、
お金を稼ぐことではない。
「生きるとは死ねないこと」。
死ねない環境を作る、これが「生きる」と言う事だ。
2012/11/20
道化のいる場所
文化人類学者である山口昌男は文化構造について
「道化論」という概念を提唱しました。
「道化」とは神話において、神や王のような
絶対者の言葉をひっくり返す異質な存在、
混沌と秩序の境界を明確に劃するものであり
自由の境界線にいるトリックスターとも言えます。
内部と外部が反転する「どちらでもない場所」に存在し、
秩序(外部)の中に潜む痴愚性や、愚かな現実性を露わにするもの。
だからでしょうか、道化であるジョーカーは
カードゲームでは「最強」でありながら
「最悪」の役割を持っています。
ピカソが道化師を好んで描いたていたのは、
なにかしら共感するものがあったのかもしれません。
世界で対立する二項には道化の位置、
境界線が必ずある、個人的にそう思ってます。
そのどちらにも属さない仲介者である
「異質者」が存在し、二項を調和・統合しているのだ、と。
N極とS極を分ける「あいだ」しかり。
「N極」のアイデンティティが確認されるためには
「S極」が必要であり、「N極とS極」の
仲介者である「境界線」はどちらにも属さない異質、
道化は極端を嫌う。
いとも容易く、ひっくり返す。
不思議な現象ですが、多分にそういう原理なんでしょう。
✍✍✍
我々は生きている以上、必ず他者(彼ら)と出会います。
同化する為ではなく、他者との差異を知り、調和する為に。
そんな多義と一義は表裏一体、切り離せないもの、
かのチャップリンは、笑いと哀しみは表裏一体、
分かち難いものであることを演じました。
もしかすると彼は「境界線」を演じていたのかもしれませんね。
2012/11/13
両成敗
運命と宿命、偶然と必然。
長い事生きていると、上記について考える事はよくある。
ライプニッツは可能世界において
根拠律(必然性)と矛盾律(偶然性)を分けて考え、
カントはそれは理性では解けないアンチノミーとした。
さて、あなたはどちらを信じるだろうか。
例えば、男性と女性が互いに惹かれ、愛情を持つ、
というものは、自然の必然的法則である。
しかし、どの男性とどの女性が巡り合うかということは、
運命的出会いという表現があるように、自然の偶然的法則である。
よって、自然の必然性は内的に偶然性が含まれる。
我々が何を選ぶかは、まさに我々に委ねられるが、
運ばれてくるもの自体には委ねるしかない。
このことから、科学が森羅万象を
完全に予知する時代は決して訪れないと断言できる。
逆に科学が進歩すればするほど、驚きや賛嘆、
さらには畏怖としての「生命の神秘」を覚えるだろう。
今日はたまたま、そんな小話をしようか、と(笑)
☞☞
さて、西洋の自我はものごとを判断するとき
「どっちか一方を選ぶ」傾向がある。
西洋宗教はそこから絶対性、必然性を目指した。
それが唯一無二の一神教、である。
例えば、キリスト、イスラムなどの一神教において、
我々人間の本性は「悪」である、と定義される。
なるほど、悪であるから善いことをしなければ
我々迷える子羊は天国には行けないとする教義と、
善い行いをしようがしまいが、神によって天へ行けるものは
すでに決まっている、という教義がある。
まあ、いずれにしても人間の本性は
前提条件では悪である、ということだ。
よって、聖書の御言葉に従うのみ、
そんな完全な外律型が西洋宗教の特徴だといえよう。
つまり絶対(悪))から絶対(善)へのシフトが
神を信仰することにより、可能となるのだ。
こういった原理主義は理性を外部に委ねているため、
いち人間の説得なんて、通用しない。
逆を言えば、だからこそ大義名分が成り立つのだ。
まさに蛙を睨む蛇のごとく、である。
現在、「この国の為」という幻想によって
ありえない大義が発動されているのだが、
これでは原理主義と全く変わらないのではないだろうか。
☞☞
話は逸れたが、西洋のそれと比べ、
日本の精神性はそれとはちょっと異なる。
それは対立二項のどちらか一方を選択するのではなく、
矛盾したそれを統一しようとする超克的意識である。
曖昧な態度とは、こういった精神性の
発達が未熟な状態とも言えるが、特質なのだ。
自分だけでなく他人も含めた「どっちも」を選ぶ、
人間の意味は「ヒューマン(人)」ではなく、世間である。
つまり我だけではなく非我への配慮があるのだ。
これはこの国ならではの「美点」であろう。
例えばあの大震災において、
暴動や略奪はほとんど起きなかった。
海外メディアは賞賛しているのだが、
当の日本人からすれば、ごく自然な「行為」である。
そしてこれが加減を間違えると
個人を認めないムラ社会となり「汚点」となるのだが、
本来、この国は個人と集団を両立できる
一段高い精神性を持っているのを忘れてはいけない。
☞ ☞
近江商人の3方良ししかり、お互い様の精神しかり、
また、日本には室町時代に作られた「喧嘩両成敗式目」がある。
両成敗とはつまり「争う」という事自体をやった以上、
互いの言い分はどうあれ、どちらもルール違反とみなされる。
今のガザ地区のような復讐の連鎖は
この制度からすれば、お互いが悪だ、と言う事だ。
当然、不公平になる場合もあるし
先に手を出した方が悪い、という場合もあるが、
我々の本質は清濁併吞、善悪は揺れ動くものである。
その善悪の境界線は、常に必然と偶然によって変動する以上、
場合によっては立場が逆になる場合だってある。
これを仏教では「縁起」・「因縁」と呼んだ。
何が起こるか分からないが、そこから何かを成すのだ。
☞ ☞
過去の慣習法によって身に付いた必然性は
ホメオスターシス的な恒常性を持ち、マスキングされ、アドレスを持つ。
世界はそんな「必然的」による選択と、
そのアドレスから派生した主観によって構築される。
言うまでもなく、現実とは選択の連続である。
我々は選択と対応によって現実(運命)を作り上げている。
宗教の説くように宿命的な流れにただ流されているのではなく、
その流れから、能動的に、主体的に対応しているのだ。
何処からともなくやって来る偶然的現実(実在)に対し、
我々がそれを必然的現実に再変換していると言える。
働く意味はあるのか?
最近、ネットで炎上するのは
多様化に伴い、共感力が足りないからと言われます。
共感できない相手を攻撃しないと、
自己のアイデンティティが保てないのだ、と。
時代・性別を超えた共通テキストの不在、とでも
言うべきものでしょうか。
でも、それがないのは昔からですよね
「近頃の若者は・・・」というのは今も昔も使ってますわ(笑)
イデオロギーから自由になりつつある現代、
そんな所から、今日は労働と共感についての小話を。
☞ ☞
さて、フリーター増加が社会問題となり、
「働くことの意味がわからない」という悩みを抱えた人が増えました。
現在の「働く意味」というものは、多分に
順調に働いている人だけしか分からない。
言わば成功している時にしか、
その意味は通用しないのではないでしょうか。
なぜなら現在の労働とは
不自由で不寛容なものが多いですからね。
☞ ☞
一説では、働くことの本質は
「贈与すること」だともいわれます。
それが仕組みとして稼働してないから
現在はボランティアとしてみなされてるのだけれど、
これで共同体が成立するなら最高じゃないですか。
個人的に、人間は本来優しく、
相手の幸せを願う気持ちを無条件に備えていると思うんです。
☞
結婚式に出席した方なら分かるでしょうが、
あの場は全員が幸せです。
結婚するのは友人や知人であり、
自分の幸せには全く、関与していませんが、
「あなたが幸せなのは、私達にとっても幸せ」という、
原理的に解けない場が、そこには発生していますよね^^
もちろん、人間は営利や損得によって
社会が形成されたのは構成要因としては間違いない。
しかし、その根底にはこういった
「無条件に相手の幸せを願う心」があったはず。
そして、これが共同体を結びつけるものであった、と
個人的に思っています。
「働くことの意味がわからない」という悩みは、
もしかすると、こういったものが失われているからかもしれませんね。
2012/11/12
加速する現代を眺める
年を取ると時の流れは早い、
とくに現代の社会ではことさら早く感じる。
社会人となって仕事をしている方も同じ気持ちだろう。
「もう?」と言いたいくらい、一年は過ぎる。
それは仕事というものが「未来予測」に基づいているからかもしれない。
以前、プロジェクトの語源が「前方へ投げる」という意味だと記事に書いた。
しかし、考えてみればビジネスそのものが前方である「プロ」で作られている。
例えば商売においては購買の見込みを予測する。
この「見込み」とはプロスペクトだ。
そして見込みに対し、計画する。
計画はそう、プロジェクトである。
販促するのはプロモーションであり、生産することはプロデュース、
そして契約とは約束、プロミスである。
結果、利益(プロフィット)が生まれ、
企業はさらなる進展(プログレス)をする。
商売の一連の流れを西洋の言葉で訳せば、
なるほど、仕事とはまさにプロプロプロ。
「前へ前へ」の時間に支配された連続行為であることが分かる。
文明は前進することで飛躍的に進化した。
ただ、前向きと「待てない事」は同じではない。
しかし前のめりな「プロ」は待つことを拒絶する。
現代人は、「待てない病」になりがちだ。
コマーシャルなんて見てられない、
手紙から携帯メールになり、
さらにレスポンスの早いLINEが浸透している。
これらはそこまで影響は(今のところ)ないが、
深刻なケースもある、それは「子育て」である。
今は待てないのか何なのか、子供がちょっとでも親が思うイメージと
異なった行動をしただけで、恐ろしく過敏になってしまってる。
すぐに育児書やらなんやらを持ち出して軌道修正に入ろうとする。
さらには「前もって」予想できるように、先に手を打つ始末である。
不安前提、これでは先に神経がまいってしまう。
これも以前書いたように、子供とは本来自然であるからコントロールできない。
だからといって「0・100思想」で在りのままに育てても上手く行かない。
子供は宝であるが、王様ではない、ここを勘違いしてはいけない。
子供であれ大人であれ、人間の本質は同じだ。
色んな場面にぶつかった結果、考え、学び、育つ。
これが待てないのだ。
予想できないものに対し、楽しみに待てないのだ。
待てない社会は必然的に
「待ってくれない社会」を引っ張ってくるのだが、
マイペースな僕からすれば、
これがどうにも息苦しく感じてしまう。
個人的に「プロ」以外のビジネス用語で
やっていける社会が望ましい。
とくに現代の社会ではことさら早く感じる。
社会人となって仕事をしている方も同じ気持ちだろう。
「もう?」と言いたいくらい、一年は過ぎる。
それは仕事というものが「未来予測」に基づいているからかもしれない。
以前、プロジェクトの語源が「前方へ投げる」という意味だと記事に書いた。
しかし、考えてみればビジネスそのものが前方である「プロ」で作られている。
例えば商売においては購買の見込みを予測する。
この「見込み」とはプロスペクトだ。
そして見込みに対し、計画する。
計画はそう、プロジェクトである。
販促するのはプロモーションであり、生産することはプロデュース、
そして契約とは約束、プロミスである。
結果、利益(プロフィット)が生まれ、
企業はさらなる進展(プログレス)をする。
商売の一連の流れを西洋の言葉で訳せば、
なるほど、仕事とはまさにプロプロプロ。
「前へ前へ」の時間に支配された連続行為であることが分かる。
文明は前進することで飛躍的に進化した。
ただ、前向きと「待てない事」は同じではない。
しかし前のめりな「プロ」は待つことを拒絶する。
現代人は、「待てない病」になりがちだ。
コマーシャルなんて見てられない、
手紙から携帯メールになり、
さらにレスポンスの早いLINEが浸透している。
これらはそこまで影響は(今のところ)ないが、
深刻なケースもある、それは「子育て」である。
今は待てないのか何なのか、子供がちょっとでも親が思うイメージと
異なった行動をしただけで、恐ろしく過敏になってしまってる。
すぐに育児書やらなんやらを持ち出して軌道修正に入ろうとする。
さらには「前もって」予想できるように、先に手を打つ始末である。
不安前提、これでは先に神経がまいってしまう。
これも以前書いたように、子供とは本来自然であるからコントロールできない。
だからといって「0・100思想」で在りのままに育てても上手く行かない。
子供は宝であるが、王様ではない、ここを勘違いしてはいけない。
子供であれ大人であれ、人間の本質は同じだ。
色んな場面にぶつかった結果、考え、学び、育つ。
これが待てないのだ。
予想できないものに対し、楽しみに待てないのだ。
待てない社会は必然的に
「待ってくれない社会」を引っ張ってくるのだが、
マイペースな僕からすれば、
これがどうにも息苦しく感じてしまう。
個人的に「プロ」以外のビジネス用語で
やっていける社会が望ましい。
根幹を変えよう
さて、リゾームを構築するには理念は必須ですが、
その理念は絶対命法でこそあるけれど、
内部派生である以上、教義化した時点で
閉鎖的な組織構造を作ってしまいます。
教義化すれば、必然的に純血主義となります。
それがもたらす閉鎖性はトレードオフとなる。
もっと閉じたり開いたりするには
どうしたら良いか。
例えば、アレグザンダーのセミラティス構造の
パターン数は実に253、だからこそ
ナラティブ構造であるといえるのですが、
この微妙なサジ加減を知ること、
やはり個人のバランス加減が大事なんでしょうね。
☞☞
数年前、理念を愚直に守らせている
管理職がいる現場を見たことがありますが、
ちょっと異様なものを感じたのです。
それは均質性というか、同質性というか、
まるで、恣意的な「一枚岩」のようにも見えました。
その現場には、なんというか
「楽しさ」を感じることができなかった。
楽しさというと誤解がありますが、
言わば、個人の積極的な「意思」です。
それは管理・抑圧されればされるほど、
得難いものだな、とその時に感じたんですね。
☞
レールを敷いて、「さあ、自由に走って下さい」
というのは自由ではありません。
なぜならそれは、レールという条件があって
初めて意味を成しているのに過ぎないからです。
その背景には、相変わらずの排除の理論があり、
全体主義があり、画一化の意図が感じられます。
まず、この大前提・本音の部分を破壊しなくては
真の意味で多様な組織は作ることができない。
現在、それが破壊できないからこそ、
組織は変化と固定のジレンマに陥っているのであって、
ここをいかに変えるか?というと
やはり理念の共有になる、と。
つまり厳密的・原理的・純血主義的な
ものにしない為にやるべきことは、
理念ではなく、その対象を見ている
「あなたのフィルター」の認識なのです。
長くなったので続きます。
2012/11/11
習い・稽古・工夫
暗黙知についての考察。
実際の所、形式化できない部分である「暗黙知」を
言葉で表現するのは、大変難しい。
なぜなら、それを5感覚で認識・判断し、行動するまでの
理論体系を表現する為には言葉による論理では非常に甘く、
さらにその認識には、事実から乖離した各人の思い込みや
バイアスが大小差はあれ、多少なりとも含まれているからです。
そもそも実際に起きている事実をそっくりそのまま
言語化し、記述すること自体が不可能であるのは言うまでもありません。
それをいかに伝えるか、
歴史上の「求道者」を紐解けば、その知の結晶を借りる事ができます。
☞ ☞
新陰流では形(型)の事を「勢法」というそうです、
つまり、形稽古と呼ばれるものは、「かたち」自体を学ぶのではなく、
その動きの中にある武術の理論を学ぶ方法だというのです。
「形」をひたすら稽古する事で動きの本質を学び、
それを習得し、最終的には自由・自在に動ける身体を追求する、
まさに「守破離」の精神ですね、
あらゆる道において、最終的な到着点は「自由」なのでしょう。
勢法にもう少し触れますと、そこには心身の姿勢「身構え」や
手足の働きを練る事「手足」、
そして太刀筋を使い覚える事「太刀」の三点に重きを置き、
勢法を実践することで、間積り・拍子を体で覚えます。
それは言わば「感覚的な心持ち」を経験する事であり、
日々の「習い・稽古・工夫」は欠かせないのはその為です。
最終的に「自分の技が絶対に正しい」と思えるまで・・・・。
そこへ至るにはやはり、実践による経験則が必要なのでしょう。
つまり端的に語る事が不可能な働きである以上、
観念のうちにあるのではなく、行為そのものの中から掴むのです。
☞ ☞ ☞
摂理と書くと大げさでしょうが、
(彼らは)その自然の摂理に従うことを目指したように感じます。
それは、生存価値の善悪や正誤に左右されるものではなく、
その価値は、続けること自体にある。
また、見えないそれら「心の型枠」を
ギリギリまで論理的に表し、示すことが
暗黙知を見つめる人の役割かもしれませんね。
これも偏に心の時代だからこそ・・・
オタクならではの楽しみでもあります^^
実際の所、形式化できない部分である「暗黙知」を
言葉で表現するのは、大変難しい。
なぜなら、それを5感覚で認識・判断し、行動するまでの
理論体系を表現する為には言葉による論理では非常に甘く、
さらにその認識には、事実から乖離した各人の思い込みや
バイアスが大小差はあれ、多少なりとも含まれているからです。
そもそも実際に起きている事実をそっくりそのまま
言語化し、記述すること自体が不可能であるのは言うまでもありません。
それをいかに伝えるか、
歴史上の「求道者」を紐解けば、その知の結晶を借りる事ができます。
☞ ☞
新陰流では形(型)の事を「勢法」というそうです、
つまり、形稽古と呼ばれるものは、「かたち」自体を学ぶのではなく、
その動きの中にある武術の理論を学ぶ方法だというのです。
「形」をひたすら稽古する事で動きの本質を学び、
それを習得し、最終的には自由・自在に動ける身体を追求する、
まさに「守破離」の精神ですね、
あらゆる道において、最終的な到着点は「自由」なのでしょう。
勢法にもう少し触れますと、そこには心身の姿勢「身構え」や
手足の働きを練る事「手足」、
そして太刀筋を使い覚える事「太刀」の三点に重きを置き、
勢法を実践することで、間積り・拍子を体で覚えます。
それは言わば「感覚的な心持ち」を経験する事であり、
日々の「習い・稽古・工夫」は欠かせないのはその為です。
最終的に「自分の技が絶対に正しい」と思えるまで・・・・。
そこへ至るにはやはり、実践による経験則が必要なのでしょう。
つまり端的に語る事が不可能な働きである以上、
観念のうちにあるのではなく、行為そのものの中から掴むのです。
☞ ☞ ☞
摂理と書くと大げさでしょうが、
(彼らは)その自然の摂理に従うことを目指したように感じます。
それは、生存価値の善悪や正誤に左右されるものではなく、
その価値は、続けること自体にある。
また、見えないそれら「心の型枠」を
ギリギリまで論理的に表し、示すことが
暗黙知を見つめる人の役割かもしれませんね。
これも偏に心の時代だからこそ・・・
オタクならではの楽しみでもあります^^
2012/11/07
In-der-Welt-sein
こんばんわ、unreveの坂口です。
今日はそんな趣味の分野から一冊、
ハイデガーについて書いてみます。
☞ ☞ ☞
人間は、楽しいことや、嬉しい事が
ずーっと続いていたとしても「なんとなくの不安」を抱えています。
インナーチャイルドを癒そうと、
豊かでワクワクで素敵なパートナーがいて
好きな仕事で成功している人生であろうとも、です。
それはなぜでしょう。
そんな「何となくの不安」を考えた哲学者が、
マルティン・ハイデガーです。
死へむかって開かれた自由のみが、
現存在に端的な目標を与える
ハイデガーの未完の著「存在と時間」の一説、
これは我々がどうやって本来的な生に立ち戻り、
人生を送れるかについて書かれています。
(実際はもっとたくさんありますが、省略して・・・)
「いつかは死ぬだろうが、それは明日ではない」
そんな気持ちで、私達は生きています。
これが何となくの不安の正体なんですね。
慢性的な不安は、死を直視していないから
起こっているのです。
不思議だと思いませんか。
「死」は全ての生物に必ず訪れるもの、
この世界で唯一、絶対と呼べるものですが、
それを我々は考えているのを日々、
避けているのですから。
☞☞
確かに「それを考えてどうなるの?」と
言いたくもありますし、 そもそも
「どうやって考えるの?」という気持ちもあるでしょう。
しかし、それをやって初めて、
人間は孤独であり、 同時に
自由でもあることを知ることができるのです。
「死にむかって開かれた自由」、
まさにそれを 認識することで、我々は
世俗的な気遣いや苦労から解放され、
「私はこの人生を使い、何を成すべきか」を
自分自身によって委ねられる。
それこそが本来的な生き方であり、
可能性が開かれた世界だ、というのです。
それを端的に書けば、
人生という映画の役者から逃げられない
人間の宿命そのものを俯瞰し、裸の自己と出会うもの。
我々人間が、投げ出されている存在(形式的指標)であり、
それだけが存在(ある)しているのだ、という視点の変化です。
今日はそんな趣味の分野から一冊、
ハイデガーについて書いてみます。
☞ ☞ ☞
人間は、楽しいことや、嬉しい事が
ずーっと続いていたとしても「なんとなくの不安」を抱えています。
インナーチャイルドを癒そうと、
豊かでワクワクで素敵なパートナーがいて
好きな仕事で成功している人生であろうとも、です。
それはなぜでしょう。
そんな「何となくの不安」を考えた哲学者が、
マルティン・ハイデガーです。
死へむかって開かれた自由のみが、
現存在に端的な目標を与える
ハイデガーの未完の著「存在と時間」の一説、
これは我々がどうやって本来的な生に立ち戻り、
人生を送れるかについて書かれています。
(実際はもっとたくさんありますが、省略して・・・)
「いつかは死ぬだろうが、それは明日ではない」
そんな気持ちで、私達は生きています。
これが何となくの不安の正体なんですね。
慢性的な不安は、死を直視していないから
起こっているのです。
不思議だと思いませんか。
「死」は全ての生物に必ず訪れるもの、
この世界で唯一、絶対と呼べるものですが、
それを我々は考えているのを日々、
避けているのですから。
☞☞
確かに「それを考えてどうなるの?」と
言いたくもありますし、 そもそも
「どうやって考えるの?」という気持ちもあるでしょう。
しかし、それをやって初めて、
人間は孤独であり、 同時に
自由でもあることを知ることができるのです。
「死にむかって開かれた自由」、
まさにそれを 認識することで、我々は
世俗的な気遣いや苦労から解放され、
「私はこの人生を使い、何を成すべきか」を
自分自身によって委ねられる。
それこそが本来的な生き方であり、
可能性が開かれた世界だ、というのです。
それを端的に書けば、
人生という映画の役者から逃げられない
人間の宿命そのものを俯瞰し、裸の自己と出会うもの。
我々人間が、投げ出されている存在(形式的指標)であり、
それだけが存在(ある)しているのだ、という視点の変化です。
調和と同一の違い
人類学とは他者性を自己に取り込む学問、
言わば「出会いの学問」と言える。
自然人類学を始め、文化・言語・社会・宗教・経済と
様々な生態の角度から自己を刷新する学問だろう。
それは哲学が受け持つ存在性の探求などとは違った意味での
ラディカルなポピュリズムを知ることができる。
個人の自由と、それを抑える社会性との葛藤、
権威による抵抗や二項対立を中和・統一する「ナニカ」。
それはベルクソンの「笑い」や、
今年亡くなった山口昌男の「道化」として表現された。
閉ざされた集団による「笑い」には、他者への優越性が内包され、
道化は笑いによって日常の秩序から抜け出す役目を果す。
つまり内部と外部が反転する境界線であり、
秩序(外部)の中に潜む痴愚性、その愚かな現実性をあらわにするのだ。
それはひとえに「機械的役割」なのだろうか。
サーカス芸人であるピエロは、生涯をさまよい、旅を続ける。
土地に縛られない自由人である。
冷徹な批判者であり自由の境界線にいるトリックスター、
大きな権力(秩序)に向かい、敗北しながらも笑いを求める。
神や王のような絶対者の言葉をひっくり返す異質な存在だ。
パブロ・ピカソが道化師を描いたていたのは、
なにかしら共感するものがあったのだろう。
さて、個人的には「二項対立」と無縁になりつつある、
二項同士の「反」の先には何も見つからないと分かったのだ。
「我ら」のアイデンティティが確認されるためには
「彼ら」は必要であり、
「我らと彼ら」の仲介者である「ナニカ」が
どちらにも属さない異質であるのは当然のことなのだ。
相手を責める、他者の意見を持論でひっくり返す。
これは正しさの戦いでありミクロ的な宗教の始まりである。
同じ意見を集め、共感し合う。とても大事な事だが、
個人の主観(我ら)である以上、必ず宗教的な要素を含んでいる。
私は共感や繋がりは必要であるが、
主観に対する完全な一致は不可能であり誤りだと思っている。
中心における「秩序」は「排除の原則」の上に成り立つ。
よって強烈な共感には危険な思想を孕んでいるのだが、
それが一番共同体を強く結びつけるものでもある。
その両義性、混沌と秩序の境界を明確に劃する異人が道化なのだ。
チャップリンは笑いと哀しみは表裏一体、分かち難いものであることを演じた。
我々は生きている以上、必ず他者(彼ら)と出会う。
同化する為ではなく、他者との差異を知り、調和する為に。
なぜなら「我らと彼ら」は切り離せないのだ。
☞ ☞ ☞
100年続く企業はある、200年続いている企業もあるだろう。
しかしさらに長い間、例えば1000年続いている共同体はあるだろうか?
西洋ではそれが「宗教」にあたる。
宗教は共同体を永続させる「システム」でもあるのだ。
しかし宗教は共同体の差異を認めない。
その絶対的な基準を共有する事によって、同化させる。
ただ、人間は絶対的な良識・道徳・正義を必要としてはいるが、
それに従うことをも拒むようにできている。
多様と一義、我々はどちらにも染まれないのだ。
では、宗教以外で千年続くような共同体は存在しないのだろうか。
否、調べればここ日本にはあるのだ。
大阪の宮大工である金剛組(578年創業)
池坊華道会(生花教授・京都府・587年創業)、
他にも旅館を経営する西山温泉慶雲舘や古まん、
善吾楼などは全て創業以来、千年を超える。
金剛組の578年創業なんて、今から1400年以上前。
古墳時代の創業だ。
世界最古の企業は全てこの日本にある、
これは誇れる部分ではないだろうか。
☞ ☞ ☞
この国の仕事には神道的な精神性がある、
それは中空構造であり「我ら」も「彼ら」もない。
論理的整合性ではなく、美的な調和感覚。
無為の中空とはどちらにも属さず、異質なのだ。
第三者がいるだけで、二者の関係は相対的となる。
それは世界の監視者であり、変化のバランスを受け持っている。
そのフラクタル構造を模したのがunreveの三位一体構造だ。
☞ ☞ ☞
継承とは拡大ではない。
また、宗教や思想のように絶対性を繋げるものではない。
私のフランチャイズは和魂を継承する事、
ここが他社と大きく違う部分だ。
言わば「出会いの学問」と言える。
自然人類学を始め、文化・言語・社会・宗教・経済と
様々な生態の角度から自己を刷新する学問だろう。
それは哲学が受け持つ存在性の探求などとは違った意味での
ラディカルなポピュリズムを知ることができる。
個人の自由と、それを抑える社会性との葛藤、
権威による抵抗や二項対立を中和・統一する「ナニカ」。
それはベルクソンの「笑い」や、
今年亡くなった山口昌男の「道化」として表現された。
閉ざされた集団による「笑い」には、他者への優越性が内包され、
道化は笑いによって日常の秩序から抜け出す役目を果す。
つまり内部と外部が反転する境界線であり、
秩序(外部)の中に潜む痴愚性、その愚かな現実性をあらわにするのだ。
それはひとえに「機械的役割」なのだろうか。
サーカス芸人であるピエロは、生涯をさまよい、旅を続ける。
土地に縛られない自由人である。
冷徹な批判者であり自由の境界線にいるトリックスター、
大きな権力(秩序)に向かい、敗北しながらも笑いを求める。
神や王のような絶対者の言葉をひっくり返す異質な存在だ。
パブロ・ピカソが道化師を描いたていたのは、
なにかしら共感するものがあったのだろう。
さて、個人的には「二項対立」と無縁になりつつある、
二項同士の「反」の先には何も見つからないと分かったのだ。
「我ら」のアイデンティティが確認されるためには
「彼ら」は必要であり、
「我らと彼ら」の仲介者である「ナニカ」が
どちらにも属さない異質であるのは当然のことなのだ。
相手を責める、他者の意見を持論でひっくり返す。
これは正しさの戦いでありミクロ的な宗教の始まりである。
同じ意見を集め、共感し合う。とても大事な事だが、
個人の主観(我ら)である以上、必ず宗教的な要素を含んでいる。
私は共感や繋がりは必要であるが、
主観に対する完全な一致は不可能であり誤りだと思っている。
中心における「秩序」は「排除の原則」の上に成り立つ。
よって強烈な共感には危険な思想を孕んでいるのだが、
それが一番共同体を強く結びつけるものでもある。
その両義性、混沌と秩序の境界を明確に劃する異人が道化なのだ。
チャップリンは笑いと哀しみは表裏一体、分かち難いものであることを演じた。
我々は生きている以上、必ず他者(彼ら)と出会う。
同化する為ではなく、他者との差異を知り、調和する為に。
なぜなら「我らと彼ら」は切り離せないのだ。
☞ ☞ ☞
100年続く企業はある、200年続いている企業もあるだろう。
しかしさらに長い間、例えば1000年続いている共同体はあるだろうか?
西洋ではそれが「宗教」にあたる。
宗教は共同体を永続させる「システム」でもあるのだ。
しかし宗教は共同体の差異を認めない。
その絶対的な基準を共有する事によって、同化させる。
ただ、人間は絶対的な良識・道徳・正義を必要としてはいるが、
それに従うことをも拒むようにできている。
多様と一義、我々はどちらにも染まれないのだ。
では、宗教以外で千年続くような共同体は存在しないのだろうか。
否、調べればここ日本にはあるのだ。
大阪の宮大工である金剛組(578年創業)
池坊華道会(生花教授・京都府・587年創業)、
他にも旅館を経営する西山温泉慶雲舘や古まん、
善吾楼などは全て創業以来、千年を超える。
金剛組の578年創業なんて、今から1400年以上前。
古墳時代の創業だ。
世界最古の企業は全てこの日本にある、
これは誇れる部分ではないだろうか。
☞ ☞ ☞
この国の仕事には神道的な精神性がある、
それは中空構造であり「我ら」も「彼ら」もない。
論理的整合性ではなく、美的な調和感覚。
無為の中空とはどちらにも属さず、異質なのだ。
第三者がいるだけで、二者の関係は相対的となる。
それは世界の監視者であり、変化のバランスを受け持っている。
そのフラクタル構造を模したのがunreveの三位一体構造だ。
☞ ☞ ☞
継承とは拡大ではない。
また、宗教や思想のように絶対性を繋げるものではない。
私のフランチャイズは和魂を継承する事、
ここが他社と大きく違う部分だ。
2012/11/06
濃霧と無風
どれだったか忘れましたが、
以前読んだ本の中にこんな言葉がありました。
「船乗りは暴風や時化(しけ)を怖がってたら三流だ」
「じゃあ、一流の船乗りが一番恐れるものってのは何だい?」
「決まってるだろ、それはな・・・・濃霧と無風だ」
うろ覚えですが、確かそんな内容でした。
例えば、北の海の濃霧での航海は
氷山や流氷に衝突する危険があります。
また、無風海域に迷いこめば、船自体が動きませんので
照りつける日差しにやられ、干からびてしまいます。
これが航海時代、もっとも恐れていたものです。
今でこそ、レーダーや蒸気船の開発でその危険は克服されましたが、
経営において、この「不透明と無流動」を
克服できていない所が多いのではないでしょうか。
テーマに書いた一番怖いもの、
それは経営の「濃霧と無風状態」です。
☞ ☞ ☞
ある意味、物価の乱高下や同じサービスの増加は
嵐や時化のようなものです。
それよりも、見通しが立たない「不透明」さと、
それに伴う売買の先細りといった「無流動」は始末が悪いもの。
何だか知らぬ間に、徐々に売上が落ちている。
なぜだろう、理由が分からない。
理由が分からないから手を打てない、
仮に手を打とうとしても徒手空拳で推進力がない。
経営には先を見通すレーダーもなければ、
お店が勝手にお客を連れてくるような蒸気機関もないのです。
☞ ☞ ☞
地方の商店街の多くは無流動化から抜け出せません。
シャッター通りが増え、新しい店舗が入らず、
入ったとしても、人の流れ自体がない。
そこには先を読み、明確なビジョンを見せる人がいません、
「不透明性」だからこそ、流動が起きないのです。
成熟期に当たる今の経済社会を巧みに生きるには
まず成熟社会がどんなものか、美化も卑下もなく知っておく必要がありますね。
以前読んだ本の中にこんな言葉がありました。
「船乗りは暴風や時化(しけ)を怖がってたら三流だ」
「じゃあ、一流の船乗りが一番恐れるものってのは何だい?」
「決まってるだろ、それはな・・・・濃霧と無風だ」
うろ覚えですが、確かそんな内容でした。
例えば、北の海の濃霧での航海は
氷山や流氷に衝突する危険があります。
また、無風海域に迷いこめば、船自体が動きませんので
照りつける日差しにやられ、干からびてしまいます。
これが航海時代、もっとも恐れていたものです。
今でこそ、レーダーや蒸気船の開発でその危険は克服されましたが、
経営において、この「不透明と無流動」を
克服できていない所が多いのではないでしょうか。
テーマに書いた一番怖いもの、
それは経営の「濃霧と無風状態」です。
☞ ☞ ☞
ある意味、物価の乱高下や同じサービスの増加は
嵐や時化のようなものです。
それよりも、見通しが立たない「不透明」さと、
それに伴う売買の先細りといった「無流動」は始末が悪いもの。
何だか知らぬ間に、徐々に売上が落ちている。
なぜだろう、理由が分からない。
理由が分からないから手を打てない、
仮に手を打とうとしても徒手空拳で推進力がない。
経営には先を見通すレーダーもなければ、
お店が勝手にお客を連れてくるような蒸気機関もないのです。
☞ ☞ ☞
地方の商店街の多くは無流動化から抜け出せません。
シャッター通りが増え、新しい店舗が入らず、
入ったとしても、人の流れ自体がない。
そこには先を読み、明確なビジョンを見せる人がいません、
「不透明性」だからこそ、流動が起きないのです。
成熟期に当たる今の経済社会を巧みに生きるには
まず成熟社会がどんなものか、美化も卑下もなく知っておく必要がありますね。
2012/11/05
自己組織化と散逸構造
エントロピー増大則とは、世界は常に秩序から
混沌に向かっており、新しい秩序は生まれないといったもの。
ただそうなると、世界は常に壊れ続けるだけであり
宇宙すべての秩序はいつか消滅し、無意味世界となるだろう。
「世界(宇宙)はやがて静止する運命なのだろうか・・・?」
それに異を唱えたのが科学者である
イリヤ・プリゴジンである。
氏は「逆エントロピー」である無秩序から
秩序の事象転換が生じるという非平衡熱力学を提唱した。
無秩序(カオス)状態では決定論でない
選択が無限に連鎖することで、外部へエントロピ-を
流出させ、もう一つの秩序を作りだすことができる、と。
氏は、その構造を内部でエネルギーを
消費(散逸)させることから散逸構造論と名付けた。
この革命的な発見により、
宇宙は無秩序の海にならないという事が分かったのだ。
☞☞☞
ちなみに散逸構造では超局所的に小さな秩序を作る
可能性となる「ゆらぎ」が起こるという。
一見、その小さなゆらぎはほんの僅かな影響だが
「確実に」周囲に影響を及ぼすことができるのだ。
その小さな影響は、さらに周囲に影響を与え、
それがまた影響を与え・・・・と、連鎖的な反応を起こし、
そんな僅かな秩序を中心とした波及が
全体の構造に影響を与え、さらにその影響された周囲は、
中心である「最初の秩序」を強化するように働く。
これが「ポジティブ・フィードバックによる自己組織化」、
突如として大きな秩序が生まれる前には
小さな「変異」が生まれている、ということだろう。
これはミクロの世界においても
同じ現象になるのではないだろうか。
(塩沢由典氏も経済は散逸構造だと言っている)
最初は小さな産声かもしれないけれど、
それが時代の舵を切る可能性かもしれないのだ。
2012/10/17
現象と経験
僕は経済学など、人間の行為を数字で測るなんて
ナンセンスだし、ある意味冒涜だと感じているのですが、
現象哲学者であるフッサールもまた、
そういった考えの人だったようです。
そもそも、あらゆる学問には「人間らしさ」が大前提にあって、
それをより良く、豊かにすることが目的のはず。
今はそれとは逆で、数字や論理に人間が支配(説明)され
その人間らしさが失われようとしている気がします。
それは科学の進歩、すなわち帰納的手法によって
「絶対的な客観性」こそが正しい、と信じられてきたからでしょう。
客観性とは万人が納得する根拠である以上、
その証明性には数字が一番有効なのですが、
そもそも数字自体も人間が作ったもの。
僕らの価値は年収では測れないし、能力も数字では出せません、
人の美しさだって、決してランキングで比較できない。
今日はそんな「現象」についての小話でも。
現象学とは、経験世界における「本質」を追及するもの。
現象学が心理学の基礎になっているのも
こういった対象が科学では明らかにできない、という理由からでしょう。
よって「正当性」や「真理」は、自らの主観的な経験から
離れた客観性を持つものだ、という常識に対し、フッサールは
「それは間違ってる」と言います。
本質とは思考の限界や領域を越えた所にあり、
それは直観的な所へ行き着くのだ、と。
客観性は全くないけれど「見えてしまう」
何だか分からないけれど「そう感じてしまう」
そんな自分からすれば疑う事ができないもの、
すなわち自己の中心からくる直観的経験こそが、
全ての学問のコアにある、と。
そんな概念の本質を明らかにすることを
現象学では「解明」と言われます。
☞ ☞ ☞
見えないものなら何でもいいです。
例えば「彼女を愛している」でも
「心地がいい」でも「こりゃ美味い!」でもいい。
そして、そんな概念対象として捉えているものが
一体「何をもとに構成されているか?」これが解明の手法です。
以前書いたハイデガーは形而上に、ヘーゲルは精神に
その本質を置いたのですが、フッサールはそこに目を向けず、
あくまでも形而下(認識)の立場から離れませんでした。
(フッサールが新デカルト主義と言われるのはこのせい)
カントに近いのですが、もっと広義ですね。
失敗こそあれ、現象学的還元を始め、間主観や他我、 エポケーなど
フッサールは独自の単語を使ってそれを掴もうとしています。
これも偏にかれの「本質に対するあくなき追求」によるもの、
かれは世界が数値化・数式化されるのを何よりも嫌悪したのです。
それは我々のなかで物象化されていない
「答え」を純粋に探そうとしすぎて、行き着いた結果かもしれませんね。
ナンセンスだし、ある意味冒涜だと感じているのですが、
現象哲学者であるフッサールもまた、
そういった考えの人だったようです。
そもそも、あらゆる学問には「人間らしさ」が大前提にあって、
それをより良く、豊かにすることが目的のはず。
今はそれとは逆で、数字や論理に人間が支配(説明)され
その人間らしさが失われようとしている気がします。
それは科学の進歩、すなわち帰納的手法によって
「絶対的な客観性」こそが正しい、と信じられてきたからでしょう。
客観性とは万人が納得する根拠である以上、
その証明性には数字が一番有効なのですが、
そもそも数字自体も人間が作ったもの。
僕らの価値は年収では測れないし、能力も数字では出せません、
人の美しさだって、決してランキングで比較できない。
今日はそんな「現象」についての小話でも。
現象学とは、経験世界における「本質」を追及するもの。
現象学が心理学の基礎になっているのも
こういった対象が科学では明らかにできない、という理由からでしょう。
よって「正当性」や「真理」は、自らの主観的な経験から
離れた客観性を持つものだ、という常識に対し、フッサールは
「それは間違ってる」と言います。
本質とは思考の限界や領域を越えた所にあり、
それは直観的な所へ行き着くのだ、と。
客観性は全くないけれど「見えてしまう」
何だか分からないけれど「そう感じてしまう」
そんな自分からすれば疑う事ができないもの、
すなわち自己の中心からくる直観的経験こそが、
全ての学問のコアにある、と。
そんな概念の本質を明らかにすることを
現象学では「解明」と言われます。
☞ ☞ ☞
見えないものなら何でもいいです。
例えば「彼女を愛している」でも
「心地がいい」でも「こりゃ美味い!」でもいい。
そして、そんな概念対象として捉えているものが
一体「何をもとに構成されているか?」これが解明の手法です。
以前書いたハイデガーは形而上に、ヘーゲルは精神に
その本質を置いたのですが、フッサールはそこに目を向けず、
あくまでも形而下(認識)の立場から離れませんでした。
(フッサールが新デカルト主義と言われるのはこのせい)
カントに近いのですが、もっと広義ですね。
失敗こそあれ、現象学的還元を始め、間主観や他我、 エポケーなど
フッサールは独自の単語を使ってそれを掴もうとしています。
これも偏にかれの「本質に対するあくなき追求」によるもの、
かれは世界が数値化・数式化されるのを何よりも嫌悪したのです。
それは我々のなかで物象化されていない
「答え」を純粋に探そうとしすぎて、行き着いた結果かもしれませんね。
面影とシステム
unreveの坂口です、
お忙しい中、訪問ありがとうございます。
今日は「守破離」の守(型)について。
僕がご支援しているFCで起業したいと思われてる方に
参考になれば幸いです。
☞☞
さて、unreveの目指す型とは主観の認識、
つまり演繹的な「おもかげ」です。
能の大成者、世阿弥が観阿弥の口述を記録したという
風姿花伝は、この「おもかげ」を型としています。
例えば、同じ種類の木であっても、その枝葉は全て違うように、
同じ植物であっても、その根の張りようが異なるように。
同一ではなく表出する形象を「真似ぶ」こと。
それはまさに帰納的テキストではなく主観から来る認識によるものです。
☞ ☞ ☞
小さい頃、近所のお巡りさんに憧れた少年が
警察官を目指そうとした際、必ずそのお巡りさんの「おもかげ」があります。
母親が台所に立って料理をしている姿もそう、
自分が母親になった際、その「おもかげ」を見るでしょう。
尊敬できた上司や先輩がいた方なら分かるでしょうが、
学んだのは「やり方」ではなく、生き方や考えの方ではないでしょうか。
そんなおもかげ、名残。
記憶によって心に「象(かたど)られた」ものは
他者に説明できるものではなく、自分だけのもの。
それはデジタルでシステマティックな「コピー」と違い、
目に見える肉体的なものの奥にあるものの「再帰」です。
言葉ではなく構造でもない、これがunreveの目指す
日本流の普遍化、「型」です。
☞☞
西洋は言語的構成体(テクスト)による普遍化を目指します。
機械生産的なものには再現性はあれど、それはオリジナルの消失を意味します、
マニュアルに原本という概念はないですよね。
僕の家にあるパソコンの取り扱い説明書は
あなたの家にある説明書と同じ仕様です。
動く原理や壊れる原因は全く同じ。
閉鎖されたシステムは、逆にそうでないといけません。
昔のテレビのように、
本体を叩けば映る、だと困りますよね(笑)
成功されている経営者とお会いした際、
成功した方法(正解)とその説明はそれぞれ違いました。
しかし(全て該当するかは分かりませんが)、
それぞれに共通したパターン(型)はとても類似していた。
そんな抽象概念から言語としてすくいだしたものが
編集・対話・場・間・拍子・ゆらぎ・・・といった、非線形・非構造です。
非線形・非構造を、螺旋的に上がるように「構造化」する。
そんな矛盾を統合させたのが日本の継承にはあるような気がします。
それは決して累積された素因から判断できるものではなく、
また、還元・分析できるものでもない。
だから過去の文学者は進化ではなく、変化と呼んだのでしょう。
リゾーム派生も無理矢理言語化してますが、そもそも言葉にすること自体がナンセンスです。
本当の価値(知価)とは、同じモノサシで測れない。
だからこそ独自、僕はそう思います。
ただ。僕の知ってる女性の考えるシステム化は、
愛があるから好きなんですけどね(^∇^)
閑話休題。
そんなわけで、継承の守、型とは
方法の先にある「オモカゲ」を掴むものなんですね。
みなさんに学ぶべき型はありますか?
お忙しい中、訪問ありがとうございます。
今日は「守破離」の守(型)について。
僕がご支援しているFCで起業したいと思われてる方に
参考になれば幸いです。
☞☞
さて、unreveの目指す型とは主観の認識、
つまり演繹的な「おもかげ」です。
能の大成者、世阿弥が観阿弥の口述を記録したという
風姿花伝は、この「おもかげ」を型としています。
例えば、同じ種類の木であっても、その枝葉は全て違うように、
同じ植物であっても、その根の張りようが異なるように。
同一ではなく表出する形象を「真似ぶ」こと。
それはまさに帰納的テキストではなく主観から来る認識によるものです。
☞ ☞ ☞
小さい頃、近所のお巡りさんに憧れた少年が
警察官を目指そうとした際、必ずそのお巡りさんの「おもかげ」があります。
母親が台所に立って料理をしている姿もそう、
自分が母親になった際、その「おもかげ」を見るでしょう。
尊敬できた上司や先輩がいた方なら分かるでしょうが、
学んだのは「やり方」ではなく、生き方や考えの方ではないでしょうか。
そんなおもかげ、名残。
記憶によって心に「象(かたど)られた」ものは
他者に説明できるものではなく、自分だけのもの。
それはデジタルでシステマティックな「コピー」と違い、
目に見える肉体的なものの奥にあるものの「再帰」です。
言葉ではなく構造でもない、これがunreveの目指す
日本流の普遍化、「型」です。
☞☞
西洋は言語的構成体(テクスト)による普遍化を目指します。
機械生産的なものには再現性はあれど、それはオリジナルの消失を意味します、
マニュアルに原本という概念はないですよね。
僕の家にあるパソコンの取り扱い説明書は
あなたの家にある説明書と同じ仕様です。
動く原理や壊れる原因は全く同じ。
閉鎖されたシステムは、逆にそうでないといけません。
昔のテレビのように、
本体を叩けば映る、だと困りますよね(笑)
成功されている経営者とお会いした際、
成功した方法(正解)とその説明はそれぞれ違いました。
しかし(全て該当するかは分かりませんが)、
それぞれに共通したパターン(型)はとても類似していた。
そんな抽象概念から言語としてすくいだしたものが
編集・対話・場・間・拍子・ゆらぎ・・・といった、非線形・非構造です。
非線形・非構造を、螺旋的に上がるように「構造化」する。
そんな矛盾を統合させたのが日本の継承にはあるような気がします。
それは決して累積された素因から判断できるものではなく、
また、還元・分析できるものでもない。
だから過去の文学者は進化ではなく、変化と呼んだのでしょう。
リゾーム派生も無理矢理言語化してますが、そもそも言葉にすること自体がナンセンスです。
本当の価値(知価)とは、同じモノサシで測れない。
だからこそ独自、僕はそう思います。
ただ。僕の知ってる女性の考えるシステム化は、
愛があるから好きなんですけどね(^∇^)
閑話休題。
そんなわけで、継承の守、型とは
方法の先にある「オモカゲ」を掴むものなんですね。
みなさんに学ぶべき型はありますか?
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