2012/10/17

現象と経験

僕は経済学など、人間の行為を数字で測るなんて
ナンセンスだし、ある意味冒涜だと感じているのですが、


現象哲学者であるフッサールもまた、
そういった考えの人だったようです。


そもそも、あらゆる学問には「人間らしさ」が大前提にあって、
それをより良く、豊かにすることが目的のはず。


今はそれとは逆で、数字や論理に人間が支配(説明)され
その人間らしさが失われようとしている気がします。



それは科学の進歩、すなわち帰納的手法によって
「絶対的な客観性」こそが正しい、と信じられてきたからでしょう。


客観性とは万人が納得する根拠である以上、
その証明性には数字が一番有効なのですが、


そもそも数字自体も人間が作ったもの。
僕らの価値は年収では測れないし、能力も数字では出せません、
人の美しさだって、決してランキングで比較できない。


今日はそんな「現象」についての小話でも。







現象学とは、経験世界における「本質」を追及するもの。
現象学が心理学の基礎になっているのも
こういった対象が科学では明らかにできない、という理由からでしょう。


よって「正当性」や「真理」は、自らの主観的な経験から
離れた客観性を持つものだ、という常識に対し、フッサールは
「それは間違ってる」と言います。


本質とは思考の限界や領域を越えた所にあり、
それは直観的な所へ行き着くのだ、と。


客観性は全くないけれど「見えてしまう」
何だか分からないけれど「そう感じてしまう」


そんな自分からすれば疑う事ができないもの、
すなわち自己の中心からくる直観的経験こそが、
全ての学問のコアにある、と。



そんな概念の本質を明らかにすることを
現象学では「解明」と言われます。



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見えないものなら何でもいいです。
例えば「彼女を愛している」でも
「心地がいい」でも「こりゃ美味い!」でもいい。


そして、そんな概念対象として捉えているものが
一体「何をもとに構成されているか?」これが解明の手法です。



以前書いたハイデガーは形而上に、ヘーゲルは精神に
その本質を置いたのですが、フッサールはそこに目を向けず、
あくまでも形而下(認識)の立場から離れませんでした。
(フッサールが新デカルト主義と言われるのはこのせい)



カントに近いのですが、もっと広義ですね。
失敗こそあれ、現象学的還元を始め、間主観や他我、 エポケーなど
フッサールは独自の単語を使ってそれを掴もうとしています。



これも偏にかれの「本質に対するあくなき追求」によるもの、
かれは世界が数値化・数式化されるのを何よりも嫌悪したのです。



それは我々のなかで物象化されていない
「答え」を純粋に探そうとしすぎて、行き着いた結果かもしれませんね。



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