2015/10/18

「わたし」解体新書




こんばんわ、坂口です(゜゜)
この間、視力を測る機会があったんですが、
両目とも1.2だったので、老眼が心配です←うそ




え?動画で眼鏡かけてるって?




んなもん、オサレ眼鏡に決まってるじゃないですか。




みなまで言わせるなや。





さて、そんな良好な僕の視力にも、
絶対に認識できないものがあります。



それは何かというと、認識する「視覚そのもの」。
認識(視覚)はそれ自体(認識)を認識できないんです。



こう書くとワケわからないですが(笑)
目は「目自体」を見る事ができません。




見た時点で「観る側(主体)」と
「観られる側(客体)」に分けられますから、
どう足掻いても、無理ですよね。



故に「わたし」という
観測者は「わたし」という
観測者を永遠に発見できない。



デカルトの言う「コギト(我、思う)」とは、
この「まなざし自体」であって、
「観測できないけど、存在している私」なんですね。




今日はそんなところから。。。








我々は視覚に頼り過ぎているため、
五感覚ではわからないものを「存在しない」と思いがちです。




人間ほど「みかけ」に囚われやすい動物はない。




例えば「わたし」とは脳の活動だという
「目に見えるもの」で解釈してしまうのが脳科学ですが、
「私=脳内活動だ」なんて、無理があります。




例えば、その脳をちょうど半分に分けたなら、
どちらの脳が「わたし」と言えるでしょうか。



そもそも我々の体は10年を待たずして、
全てが入れ替わるんだから、



物理的に見ても「わたし」は
存在していない(できない)んです。



☞☞



個人的に「わたし」とは、
実在であると定義しています。



実在するするものは、生まれもしなければ
消えて無くなることもないもの、神秘的に言えば
始まりもなく、終わりもないもの。



逆を言えば、始まりと終わりがあるもの、
生まれ、死ぬものは実在ではないと言えます。



それは「見えるものだけが真実」だと
考える人にとっては、認めることができない概念ですが、



やがて量子力学が登場し素粒子が
発見されたことで、その前提が崩れてしまいました。



当然、目に見える場所から作り上げた人は
全ての成果を御破算にしないといけませんが、
それがどうしても納得できない。



そりゃそうです、「一から間違ってた」なんて
認めれるわけありませんわ。



宇宙の構造を、やれ11次元だヒモだ膜だ
と言ってますが、それも似たようなものでしょう。



こうなってくると説明する(見える)手段は、
客体である数字に頼るしかなく、



その結果、今の宇宙は一般人に
理解できない数式の世界になってしまったんですね。



しかし、その数字自体(例えば1)も
実は非常に曖昧なもの、



だってそうでしょう。
例えば、リンゴもミカンも同じ「一(個)」です。




だから1+1は2だ、と。
それって、無理がありますわ。




ここに形式の限界性があるんですね。
つまり、彼らの「分かる」とは、バラバラに「分ける」ことなんです。








生まれてすぐ、名前を付けられ、
カテゴリー化された「わたし」という何某とは何か。



これは池田晶子さんがよく使っていた
言葉なんですが、



彼女はそんな分別、区別的な「分かる」ではなく、
「ほどく」という意味で「解る」を使っていたんですね。



つまり、絶対的な正解として言葉に出せないものを
いかに表現できるか、という試みです。




もちろん、形式が全て間違っているわけではありません。




前回書いたように、形が作られる際、
その形は本質の一部を表していると思っています。



なぜなら創られた物(形式)と本質は不可分。
必ず実在が内在している(はず)。



ただ、それは形を伴っている以上、
いつか崩れ、消えてしまうもの。「実在」ではないんですね。



我々は認識によって、「ビルが有る」とか
「自分の体が有る」とかいっていますが、



「有る」は限りがある。だから有限なんです。




本当に「在る」のは、それらを形作っているもの。




その前提(根幹・リゾーム)から派生したものを
僕は「リゾーム派生」と呼んでいます。





「後記」


とは言え、量子論のすべて信じるのもまた、
間違いであると思ってます。



これを盲信している人が「引き寄せ」という
現代の錬金術を語っているのですが、



言葉として「客体的に」語った時点で、
その意味は逃げてしまう。




例えば、もしそれが実在であれば、量子力学者は
もれなく、魔法使いになっているでしょう。



光は粒子であり、波である。
つまり、どちらの性質も内包している以上、





一方を断言しない境界線こそ、実在の場所に
一番近いではないか、と。





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