2015/10/24

耽るスミレ(2014年記事、再アップ)




ビジネスでの独自性は喜ばれますが、
これが人間の独自性ではどうか、と聞けば、
多くが返答に困るのではないでしょうか。



僕は人にはそれぞれの生き方があって、
それが唯一無二の存在である証だと、
肯定的に考えています。



仮に突拍子もないことだと
世間で思われたとしても、



それはその人にとって
必要だからやってしまうのでしょう。



それが理論理屈ではなく、
心の底で感じているものなら、なおさらのこと。



言わば「すでに知っている」ところから
自然派生する、振る舞いではないでしょうか。



☞ ☞ ☞


赤子はそのうち自分で立ちあがろうとしますが、
歩ける事を「信じて」、やっているわけではない。



疑いもなく歩けるのだと
無意識下では、すでに分かっています。




それと同じく、本来のやりたいこと
なりたいものは頭に頼らず、
実際に手に触れ確かめながら、
あとは潜在する無意識裏に任せればいい。



まるほど、まさにスミレは、
スミレのように咲けばよいのであって、



そのことが春の野にどのような
影響があろうと、なかろうと、
それはスミレのあずかり知らない所です。








それ自体として咲きながらも
共同体として生きる我々からすれば、
必然的に自意識は内側へ向かうはず。



「才能は静けさの中で、
性格は世の激流の中で作られる」



これはゲーテの「タッソー」にある一説ですが、
まさに調和の方法とはそのようなものでしょう。



動態と静態のバランス感覚を
働かせることで、一定の法則性を生み出し、



自分の「快」が相手の「快」へと
繋がるような「加減」を経験則として掴むことで
無意識的な棲み分けを行う。



そこに「お互い様」の本来がある気がします。



☞☞


もちろん、他者の不快ばかり気にしてしまえば、
自己の感覚的な快は、感受できなくなり、
心身の軽やかな柔軟性は失われるでしょうし、



それでは自己の鋭い
喜びというものが、分からなくなってします。



故に、自分だけの「耽る(ふける)」行為が、
バランスを保つ均衡的なものとなる。




ここだけは「自己中心」で良いではないか、
僕はそう思います。



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