ビジネスでの独自性は喜ばれますが、
これが人間の独自性ではどうか、と聞けば、
多くが返答に困るのではないでしょうか。
僕は人にはそれぞれの生き方があって、
それが唯一無二の存在である証だと、
肯定的に考えています。
仮に突拍子もないことだと
世間で思われたとしても、
それはその人にとって
必要だからやってしまうのでしょう。
それが理論理屈ではなく、
心の底で感じているものなら、なおさらのこと。
言わば「すでに知っている」ところから
自然派生する、振る舞いではないでしょうか。
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赤子はそのうち自分で立ちあがろうとしますが、
歩ける事を「信じて」、やっているわけではない。
疑いもなく歩けるのだと
無意識下では、すでに分かっています。
それと同じく、本来のやりたいこと
なりたいものは頭に頼らず、
実際に手に触れ確かめながら、
あとは潜在する無意識裏に任せればいい。
まるほど、まさにスミレは、
スミレのように咲けばよいのであって、
そのことが春の野にどのような
影響があろうと、なかろうと、
それはスミレのあずかり知らない所です。
それ自体として咲きながらも
共同体として生きる我々からすれば、
必然的に自意識は内側へ向かうはず。
「才能は静けさの中で、
性格は世の激流の中で作られる」
これはゲーテの「タッソー」にある一説ですが、
まさに調和の方法とはそのようなものでしょう。
動態と静態のバランス感覚を
働かせることで、一定の法則性を生み出し、
自分の「快」が相手の「快」へと
繋がるような「加減」を経験則として掴むことで
無意識的な棲み分けを行う。
そこに「お互い様」の本来がある気がします。
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もちろん、他者の不快ばかり気にしてしまえば、
自己の感覚的な快は、感受できなくなり、
心身の軽やかな柔軟性は失われるでしょうし、
それでは自己の鋭い
喜びというものが、分からなくなってします。
故に、自分だけの「耽る(ふける)」行為が、
バランスを保つ均衡的なものとなる。
ここだけは「自己中心」で良いではないか、
僕はそう思います。
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