2015/10/05

退化への道




矛盾とはなにか。
それは理屈としての辻褄が合わないことである。




全てを貫く矛と、全てを通さない盾は
お互い勝つことができないが、負けることもない。




だからといって引き分けという
単純な解決になることもないだろう。





そもそも、引き分けとはどんな状態か。




容易に考えれば、半分貫かれた状態だと
思ってしまいがちである。



(矛は)貫いたが貫き通すことはできず、
(盾は)貫かれてこそいるが、貫ききれてはいない、と。



まるで釈迦の説いた中道の例え話のようだが、
これでは矛盾の意味が変わってくる。




それは絶対的二項の妥協点を見つけるのが
加減や中道ではなく、足して二で割るような
単純なものではない。




例えば、途中まで貫いたにも関わらず、
貫ききれなかったのはなぜか。




まさか半分がナマクラだったという
くだらない理由ではあるまい。






今日はそんなところから。。。。






竜虎図屏風




小林秀雄はこれを
「神の将棋指し」に例えた。




全ての手を読みつくす神様同士が
将棋を指した場合、どうなるのか、と。
素朴な疑問から、矛盾を定義したのだ。




当然、その質問はナンセンス。
無意味な結果しかでない。



その無意味な結果とは、すなわち
勝負を無意味にする結果である。



お互いの神は盤面全てを読み切れる以上、
そこに思案はない。



故に、先手必勝か後手必勝か、
千日手(引き分け)かの、どれか一つだろう。



そこでもし、先手必勝がすべてを決定するのであれば、
神様は、先手だけを取れば良い。つまり先手を決める振り駒だけが
モノをいう勝負となってしまうに違いない。



もちろん、神様なら振り駒の偶然性も解ってる。



このことから、前提に神様(絶対)を二人設定した時点で
間違ってるのだということを、小林は看破したのだ。



☞☞



将棋を始め、そんな分かりきったものは
勝負とは言えない。



退屈どころか、やること自体が無意味である。
だれがやるか、そんなもの。



我々はパーフェクトを求めるが、
これ即ち無意味と同義である。



なぜなら未完全性の我々人間同士の
約束事があってこそ、あらゆるものに対し
意味が生まれるのであって



この人間の無知と不完全性とは
動かしてはいけない条件なのだから。



その不完全性や無知性こそ、
退屈を避ける素材である以上、



我々は「あえて」不完全性を
選んでいるといえるだろう。



☞☞



真理とは絶対的な一つであるが、
これを二元性の我々が説くのはナンセンスだ。



最近、非二元(ノン・デュアリティー)が
流行っているようだが、この概念は
ずいぶん前に痛い目を見た経験がある。



仮に、自我や現在が個人が作り出した
幻想だと解っていたとしても、



やはり生きて行くのはその幻想である。
我々は(この世界では)水や空気や食料が必要なのだ。



そもそも、非二元を体験したことを他人に伝える為、
「わたし」があれこれ考えてるじゃないか。



参加費用も貰わなくては生活できない。
「自我幻想」は約束事として不可欠なのだ。







確かに、自我の消失した全体性(無私)は
真(自己)へ触れるだろう。



ただ、それだけでは「一即多」の一。
片手落ちである。




(坂口安吾派ではないが)
個々の物語を幻想とし、自己の世界だけを
肯定できるほど、有限の「肉体」は素直ではない。




腹も減れば腹も立つ。
金がなくては生きていけぬ。




人間が人間たる所以とは、
そんな「わたし」が前提に居座っているのだ。



その「わたし」から離れることも
寄り添うこともできるようになる。



これが僕の「自在」の境地である。







もし、現実世界に絶対真理と言う
揺るがないものがあるならば、
我々は思考するという動作を止めてしまうだろう。



それを小林は批判したのだ。
常識とは、まさにこの思考の働きである。





電卓があるなら九九を覚えなくてもいいか。




これは機械という真理の盲目によって、
思考という、人間の根源的行為を捨てようとする考えであるが、




これと似たようなことを、多くが求めている。
それは進歩ではなく、退化への欲求である。





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