2015/10/17

神は細部に宿り、細部とは言葉ではない「ナニカ」である





さて、人間は社会的な動物であるか。
それとも「動物的なナニカ」なのか。




ヒト科の哺乳類や考える葦など、色々
呼ぶのは勝手だが、とにかくまあ、
「動く物」であることには違いない。




他の動物たちと違うのは
それに加え、言葉が使えることだろう。



ここで言う言葉とは、記号の取り扱いの事。
記号である以上、鉱物的な意味合いを持つが、



そこに動物(的)である人間は生命を見る。
言霊がそうであるし、音符を付けて歌うこともある。



なるほど、言葉だけでは伝わらないものを
メロディーという素材へ繋げるのは我々だけだ。



寡黙な芸術家が絵を描くことで、本質世界を
表現しているのもまた、似たようなものである。



つまり(媒体は何であれ)我々はこのようにして
見えない「ナニカ」を具体化しているのだ。




その形に普遍的精神が宿ったものが
真の芸術であり、「型」と呼ばれるのだろう。



富岡鉄斎は、自分は儒学者であって
絵描きではないと始終言っていたようだが、



真に言いたいことはその絵にしか
現れていないのだから、



やはり彼は絵描きであり、書家なのである。






鉄斎は非常な読書家であったという。



その思想が何であったかは、釈迦や
達摩を始めとした仏達が一緒に船に乗っている
教祖渡海図によって感じることができるが、




もし仮に、鉄斎が絵を描くことを
しなかったとしたらどうだろう。
または、その才能がなかったとしたら?




多分に、その豊かな知識が向かう先はない。




間違いなく、言葉では掴みきれない表現の
端緒を伝えきれないまま、鉄斎の内部に留まっていたはずである。




なるほど、鉄斎の絵や書を見て
何かを感じるということは、



頭よりも鉄斎の手が、
目がモノを言ってるということである。




☞☞




理想主義者の考える概念、その知的活動の
努力ともいうべき思索の先端は、必然的に
動物的行為によって現れる。




それはデッサンであるかもしれないし、
メロディーかもしれないし、シェイクスピアのような
戯曲であるかもしれない。



そして、それは部分的な表層ではあるが、
観る人によっては、大きな全体を感じるのだ。




それは我々人間も似たようなもの。





認識できない全体が圧縮されることで、
先端は具体性を持った人間(わたし)として形成される。




そしてまた、私という一つの精神が
ある具体性を持つ唄や言葉や、デザインを作り出し、
またひとつの全体性へと戻っていく。



まさに相似律、フラクタルである。







こういった意味から見ても
一と多が表裏一体であるのは間違いなく、



我々が矛盾を同一した存在である理由も、
「全体そのもの」がそうであるからだろう。



全体(本質)から外れた部分など、ありえない。
姿こそ違えど、イモムシには蝶の本質が宿っているのだ。



それと同様、蝶も我々も同じ場所からの派生、
これがスピリチュアリズムの説くワンネスだろう。


その全体を認識できるのは
全体から超越した神くらいだろうが、




もしかしたら、細部に宿っているものの中に
それを発見するかもしれない。




果たして、僕の概念に「それ」は宿っているのだろうか。






0 件のコメント:

コメントを投稿