内田樹さんの年末のブログに
こんなことが書かれてありました(゜-゜)
~初学修行は「我慢会」ではない。
心身の苦痛にどれくらい耐えられるかを
競うものではない。
自分の能力の限界の内側で生きようとする
生物としての自己保存本能と、
生き延びるために自分の限界を超えようとする、
これもまた生物としての自己超克本能の葛藤を
深く経験するためのものである。
初学修行者が経験するのは「葛藤」である。「忍耐」ではない。
「忍耐」は心身を鈍感にすれば切り抜けられる。
思考を停止し、感覚を遮断すれば、時間は経つ。
でも、それは修業ではない。
忍耐で人は成長することができない。
人は葛藤を通じてしか成長しない。~
「内田樹の研修室」より
僕の数少ない人生の師匠がここまで
断言されているのは珍しいですね(゜゜)
逆を言えば、全く葛藤がないのは
危険ってことでしょう。
例えばヒトラーやスターリンの
目指した理想は「千年王国」でした。
まさに希望たるべきユートピアですが、
目指した理想は「千年王国」でした。
まさに希望たるべきユートピアですが、
彼らはそれを長い年月で作るのではなく
一代で、一気に変えようとしたんですね。
その結果があれほどの粛清や追放、
排除といった独裁主義へと向かったわけです。
なるほど、彼らは理想と現実の葛藤を
超えようとせず、頭の中にある理想の方に合わせた。
つまりそういうことでしょう。
そもそもあらゆる「手段」には毒と薬が
内包されています。
火や刃物然り、お金だってそう。
「後記」
そんなことから、僕はいい意味で
衝突しながら自己刷新していくのが
一番最適なんじゃないかと思ってます。
つまり任せっきりにするのではなく、
かと言って何でも引き受けないという、
それぞれの加減の定義です。
例えば昨年は待機児童(保育園)が
ブログを発端に社会問題となりましたが、
その結果どうなったか、と。
一代で、一気に変えようとしたんですね。
その結果があれほどの粛清や追放、
排除といった独裁主義へと向かったわけです。
なるほど、彼らは理想と現実の葛藤を
超えようとせず、頭の中にある理想の方に合わせた。
つまりそういうことでしょう。
そもそもあらゆる「手段」には毒と薬が
内包されています。
火や刃物然り、お金だってそう。
昔の人はよくお金は汚いと言いますが
それは火事になった人が「火は災いの元だ」と
言ってるようなもの、
逆に拝金主義も半分、どっちもどっち。
それをどちらか一方に限定してしまえば
不毛な議論がなくなることはありません。
☞☞☞
歴史の賢者たちの言葉を見れば
「分かりやすく考えろ」と言った人は
誰一人としていません。寧ろそれを
受け入れ超えることを説いています。
聖徳太子の憲法第十条を見れば
それが和への道であると「憲法」にまでしていますね。
十曰。絶忿棄瞋。不怒人違。人皆有心。心各有執。彼是則我非。我是則彼非。我必非聖。彼必非愚。共是凡夫耳。是非之理。詎能可定。相共賢愚。如鐶無端。是以彼人雖瞋。還恐我失。我獨雖得。從衆同擧。
人にはみんな心あり、それぞれが違う考えや
意見を持っている。
他人が怒ってたらまず自分を振り返り、反省せよ。
他人が正しければ自分が間違っていて
自分が正しければ、彼らが間違っているのだ。
誰もが聖人にはなれず、
誰もが愚者にはなれない。
我々は全員、凡夫(未熟者)に過ぎない。
それだけはいつまでも巡り巡って、終わることがない。
故に絶対的な真理(是非の理)とは
定めることはできない。
これは勝手に解釈したものですが、
まるで釈迦の説く無常のように感じます。
☞☞
矛盾の葛藤、そこからの超克は
人間をやっていくための宿命かもしれません。
それは火事になった人が「火は災いの元だ」と
言ってるようなもの、
逆に拝金主義も半分、どっちもどっち。
それをどちらか一方に限定してしまえば
不毛な議論がなくなることはありません。
☞☞☞
歴史の賢者たちの言葉を見れば
「分かりやすく考えろ」と言った人は
誰一人としていません。寧ろそれを
受け入れ超えることを説いています。
聖徳太子の憲法第十条を見れば
それが和への道であると「憲法」にまでしていますね。
十曰。絶忿棄瞋。不怒人違。人皆有心。心各有執。彼是則我非。我是則彼非。我必非聖。彼必非愚。共是凡夫耳。是非之理。詎能可定。相共賢愚。如鐶無端。是以彼人雖瞋。還恐我失。我獨雖得。從衆同擧。
人にはみんな心あり、それぞれが違う考えや
意見を持っている。
他人が怒ってたらまず自分を振り返り、反省せよ。
他人が正しければ自分が間違っていて
自分が正しければ、彼らが間違っているのだ。
誰もが聖人にはなれず、
誰もが愚者にはなれない。
我々は全員、凡夫(未熟者)に過ぎない。
それだけはいつまでも巡り巡って、終わることがない。
故に絶対的な真理(是非の理)とは
定めることはできない。
これは勝手に解釈したものですが、
まるで釈迦の説く無常のように感じます。
☞☞
矛盾の葛藤、そこからの超克は
人間をやっていくための宿命かもしれません。
それはまるで永遠に創造し続けよと
言われているかのよう、
神様は我々を楽にはしてくれませんな笑
言われているかのよう、
神様は我々を楽にはしてくれませんな笑
「後記」
そんなことから、僕はいい意味で
衝突しながら自己刷新していくのが
一番最適なんじゃないかと思ってます。
つまり任せっきりにするのではなく、
かと言って何でも引き受けないという、
それぞれの加減の定義です。
例えば昨年は待機児童(保育園)が
ブログを発端に社会問題となりましたが、
仮に全てを受け入れ、全ての育児を
代行してくれる保育園(ベビーシッター)
が作れた場合、母親の必要性が消えてしまいますよね。
代行してくれる保育園(ベビーシッター)
が作れた場合、母親の必要性が消えてしまいますよね。
これを極端だと思うでしょうか。しかし
旧ソビエトはそれを国策としていましたよ。
旧ソビエトはそれを国策としていましたよ。
子供を家庭から引き離し、保育所で教育したわけです。
その結果どうなったか、と。
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