2017/01/07

毒にもなるし薬にもなる、だって人間だもの





内田樹さんの年末のブログに
こんなことが書かれてありました(゜-゜)




~初学修行は「我慢会」ではない。
心身の苦痛にどれくらい耐えられるかを
競うものではない。


自分の能力の限界の内側で生きようとする
生物としての自己保存本能と、
生き延びるために自分の限界を超えようとする、
これもまた生物としての自己超克本能の葛藤を
深く経験するためのものである。



初学修行者が経験するのは「葛藤」である。「忍耐」ではない。



「忍耐」は心身を鈍感にすれば切り抜けられる。
思考を停止し、感覚を遮断すれば、時間は経つ。



でも、それは修業ではない。
忍耐で人は成長することができない。
人は葛藤を通じてしか成長しない。~


「内田樹の研修室」より




僕の数少ない人生の師匠がここまで
断言されているのは珍しいですね(゜゜)



逆を言えば、全く葛藤がないのは
危険ってことでしょう。






例えばヒトラーやスターリンの
目指した理想は「千年王国」でした。



まさに希望たるべきユートピアですが、
彼らはそれを長い年月で作るのではなく
一代で、一気に変えようとしたんですね。



その結果があれほどの粛清や追放、
排除といった独裁主義へと向かったわけです。



なるほど、彼らは理想と現実の葛藤を
超えようとせず、頭の中にある理想の方に合わせた。




つまりそういうことでしょう。







そもそもあらゆる「手段」には毒と薬が
内包されています。
火や刃物然り、お金だってそう。



昔の人はよくお金は汚いと言いますが
それは火事になった人が「火は災いの元だ」と
言ってるようなもの、



逆に拝金主義も半分、どっちもどっち。
それをどちらか一方に限定してしまえば
不毛な議論がなくなることはありません。



☞☞☞




歴史の賢者たちの言葉を見れば
「分かりやすく考えろ」と言った人は
誰一人としていません。寧ろそれを
受け入れ超えることを説いています。



聖徳太子の憲法第十条を見れば
それが和への道であると「憲法」にまでしていますね。



十曰。絶忿棄瞋。不怒人違。人皆有心。心各有執。彼是則我非。我是則彼非。我必非聖。彼必非愚。共是凡夫耳。是非之理。詎能可定。相共賢愚。如鐶無端。是以彼人雖瞋。還恐我失。我獨雖得。從衆同擧。



人にはみんな心あり、それぞれが違う考えや
意見を持っている。


他人が怒ってたらまず自分を振り返り、反省せよ。
他人が正しければ自分が間違っていて
自分が正しければ、彼らが間違っているのだ。



誰もが聖人にはなれず、
誰もが愚者にはなれない。



我々は全員、凡夫(未熟者)に過ぎない。
それだけはいつまでも巡り巡って、終わることがない。



故に絶対的な真理(是非の理)とは
定めることはできない。



これは勝手に解釈したものですが、
まるで釈迦の説く無常のように感じます。



☞☞



矛盾の葛藤、そこからの超克は
人間をやっていくための宿命かもしれません。



それはまるで永遠に創造し続けよと
言われているかのよう、





神様は我々を楽にはしてくれませんな笑





「後記」




そんなことから、僕はいい意味で
衝突しながら自己刷新していくのが
一番最適なんじゃないかと思ってます。




つまり任せっきりにするのではなく、
かと言って何でも引き受けないという、
それぞれの加減の定義です。




例えば昨年は待機児童(保育園)が
ブログを発端に社会問題となりましたが、
仮に全てを受け入れ、全ての育児を
代行してくれる保育園(ベビーシッター)
が作れた場合、母親の必要性が消えてしまいますよね。



これを極端だと思うでしょうか。しかし
旧ソビエトはそれを国策としていましたよ。
子供を家庭から引き離し、保育所で教育したわけです。




その結果どうなったか、と。





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