この間「人に惚れた自分ってやつは
なんであんなに必死になるんだろうね」と
知人が言ってたんですが、
それは「変わらない私」ってやつが簡単に
変化してしまうことに対する驚きでしょうな。
一種の気の迷いであんなに必死になるわきゃない(笑)
小林秀雄はそれが分かってたようで、
「人は事件によってでしか変わらない」と言ってますね。
人間を現実への情熱に導かないものは
ただの便覧(マニュアル)に過ぎない、
人はマニュアルで教える事は出来るけど、
マニュアルで人を動かせることはできない。
これって仕事にも言えますね。
てなわけで、今日は変化の小噺でも。。。
さて、我々は自らを繕う社会的な
動物である以上、無意識的に衣や
仮面をつけながら生きているんですが、
「あるきっかけ」でその纏ったものが
剥がされることがあります。
それは先ほどのように恋愛した時や
結婚した時、家族が出来た時。
逆に失恋や失業、大病をした時や
財産を全て失ったときも
「わたし」は変わってしまいますよね。
つまり強烈な出来事によって自分が
全否定され、素の「わたし」が顔を出すわけです。
この素ってやつは非常に脆く
コロコロと変わっていくもの、
例えば子供なんてわんわん泣いたかと
思いきや、次の瞬間はケロッとしているでしょう。
大人には到底できっこありませんが
素の子供からすれば、それが普通なんです。
さて、そんな変化の種を抱えているのが
素の自分であると思っているのですが、
社会はそんな変化をなかなか許してはくれませんね。
なぜなら今の社会は変化しないものを
積み上げることでしか成り立たないから。
約束事である契約書とかが必要になってくるわけです。
つまり情報で保存・固定しないと正常に
回って行かないものが、秩序ある社会構造ってことですが、
上記のように、我々の本質は変化
そのものでしょう。だから関係性とか
社会性とか制度ってやつは、ほどほどの
距離にしないと疲れちゃうんですね。
で、疲れすぎるとどうなるかというと、
引きこもちゃったり、鬱になっちゃう。
つまり精神が耐えられなくなって世間から離れる、と。
その究極が自殺でしょう。
まさに体ごと、世間から出ていってしまうのです。
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無意識的にそっち側に引っ張られていると、
それがさも自分だと信じて疑わなくなってくるけれど、
それは意図的に作り上げた「じぶん」に過ぎません。
だから自分は臆病だとか弱いとか
コミュニケーションが苦手だとかで
落ち込まなくても良いんですよ。
世間で言う「一般常識」ってやつもそう、
あれは社会用に作った「ファッション」です。
もちろん素っ裸はダメだけど、
逆に服着たままで風呂入る人はいませんからね。
変化するしなやかな自分を軸にしましょう。
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