最近、国の出した統計を色々と
見ていたんですが、悲しい事に
若者の死因の第一位が「自殺」なのは
変わってませんね。
東京都では特に深刻化しているようです。
不景気で自殺者が増えるってことは
「万事、金次第」という社会になっていると
言えるでしょう。もちろん全てじゃないですが、
一つの原因としてある気がしますね。
こんな時ほど、僕は青臭い議論が
必要なんじゃないかな、と思ってます。
孟子は「恒産なければ恒心無し」の
言ってますが、それはお金じゃない「何か」しょう。
それはすなわち、自分の根を張ることのような気がします。
まあ、それも程度次第ですが。
てなわけで、今日のテーマ(゜゜)
さて、現在たくさんの人が
「幸せの方法」を発信していますが、
カントや釈迦は問いの立て方次第で
どうにでもなる、と言います。
例えば、体の中の細胞が知識を持って
話せたとしましょう。その際、いくら
頭の良い細胞君が世界を説明しようと
しても細胞である以上体内だけに限定されたものですよね。
これが世界の果てだ!と思ってたら
実は子供の身体の中であって、
宇宙の法則を発見した!と思ったら
心臓の鼓動だったとか。
(詳しくは過去記事「ヘビの味覚」を)
つまり「ない」のではなく答えが
別の次元にあるから「掴めない」ってことでしょう。
故に(親鸞批判じゃないですが)、
「なぜ」という命題は蜃気楼へ向かうジプシーになる気がするんです。
何故働かないといけないの?
何故生まれてきたの?
何故生きていかないといけないの?
何故、何ゆゑ、どうして?
掴めない不可知を断言し、
理屈を付ければどうとでも言えます。
しかし、大抵の答えって実感のない
干涸らびた概念じゃないですかね。
例えば「清く正しく美しく」とか。
それが徹底できた人なんて極悪人と同じくらい少ないもの。
☞☞☞
個人的に思う正しいと
思ってる問いの立て方は
「何故?」ではなく「とは何か?」。
働くとは何か?
生まれる(生存)とは何か?
生きて行くとは何か?
この問いは終わりがありません。
しかしプロセス即アンサー、
そのまま答えになってます。
ベルグソンはうまく出せた問いは
そのまま答えになると言いましたが
裏を返せば問いの質、正否を思考せず
いきなり正解へ向かうことへの批判でしょう。
分析や科学はいつになっても運動や生成をとらえられない
そもそも論に還るのであれば
人生において絶対的に動かしては
いけないものは個人の「幸・不幸」です。
そして幸不幸ってやつは「見」じゃなくて
「観」じゃないと掴めないわけでしょう。
人生観の「観」は「見」じゃなく、心眼に近いもんです。
しかしどうしても見たいし、説明したい。
その欲求から「なぜ」が生まれるのではないか。
なるほど、だから幸福をセロトニンとか
エンドルフィンだとか言ってるんでしょう。
物質(幸せホルモン)として捉えた、と。
しかし最近ではセロトニンが恐怖や
不安も引き起こすことが分かってます。
表面的な「見」ではどんどんわからなくなってくるんです。
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