閉鎖的なコミュニケーションが
一般化されている中、僕のFCは対話型。
場の形成を目的としています。
その場を迎合的な空気にしないためには、
境界線である加減が必要。それによって初めて、
我々は開いたり、閉じたりすることが出来るのです。
これは企業と消費者との関係性もそう。
売り手(企業)と買い手(消費者)は
水と油、対極の位置にいますよね。
近すぎれば離れられ、
遠すぎれば、忘れられる。
高ければ良いわけでなく、
安ければ良いってもんじゃない。
価格、距離感、関係性。
これをいかに「丁度良い感じ」に馴染ませるかが
大事であって、その均衡点は常に揺らいでる。
境界線とは、そこに注目する技術です。
![](https://blogger.googleusercontent.com/img/b/R29vZ2xl/AVvXsEhacGguGMtjDXhkfjbKQt9iHYFhDu-Cr0DfqRTHI4a9yxcNZ9w-ttugbiMdXG9i4AcQPzD2Yih5Qr_LU7X5P8HyNcs455PzK4DOxijvE56TAaX9neP2eYOi3IgNiLK_UG3qJuPLpwut_D2j/s400/woman-789146_640.jpg)
一見難しそうですが、
この国ではこういった境界線の概念を
無意識的に掴んでいました。
例えば以前書いたように、場とは「庭(は)」であり、
庭という境界線によって、共存空間を作り出していたんですね。
家というものは、生育環境である以上、
個人の精神生理や空間環境を決定します。
ある意味、家は「母胎」と言えるでしょう。
それと世界をダイレクトに繋がず、
庭を作ることでワンクッション置いてたんです。
しかし高度経済期に入り、そういった
日本家屋ではなく、団地建設やマンションなどが
新しい「家のモデル」となります。
ニュータウンに新築の一軒家。
高級団地で便利なライフスタイル。
それらを「憧れの生活」だと
コマーシャルによって刷り込まされてきた結果、
他者(世間)との精神的な距離感が遠くなる一方、
物理的な距離だけが近くなった、と。
だから大勢の人の中にいて、
孤独になってしまう人がこれだけ増えたのでしょう。
そもそも、これらの建設モデルは
イギリスの「牢獄」の概念。
大勢を管理する為のシステムなんですが、
あまり知られてはいないようです。
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昔は近所の人と「垣根越し」で話したり、
庭にある縁側で交流していました。
自然についても同じように、
庭が自然と人間が交流する場所だった。
仏壇や神棚も「人と神」交流の場です。
そう考えると、あらゆる共同体の中に
「あいだ」が抜けてることに気が付きませんか?
僕は二項だけでは統合ができず、
衝突を繰り返すだけだと言っているんですが、
その理由はこういった「繋がる場」が
失われているからなんですね。