2015/11/29

自然派生で起こる守破離




個人であっても法人であっても
独自性というものを得るためには



自己の本質的な欲求を見極め、
それに素直に従えばいいと毎回書いていますが、



端的に言えば「好きなことをやる」に尽きます。
対象との同一化はそこから始まるのです。



それは衝動に任せた自分の自意識を
「これが心の声だ」と正当化するものではない。



なぜなら好きという感覚的なものには、
論理的かつ本質的な部分が隠されているから。
むしろ逆に衝動を抑える時もあるでしょう。




というわけで、今日は守破離の概念を
現代風(笑)にご案内してみようと思います。




多分に、読者の中にはカラオケが好きな方が
結構いらっしゃると思いますので、




今回、それを使ってみますか(゜゜)フム








さて、好きなアーティストの曲を歌うときって
「歌い方」が似てきますよね。



本人の歌(リズム)を自分で体現したいという
欲求がある以上、それは自然なことでしょう。



バンドを始める時だってそうです。
いきなりオリジナルを歌うのではなく、
コピーバンドから入るところが大半ですから。
(ちなみに僕の時代はBOOWYが登竜門と言われてました)



いわばアートは模倣ありき。たくさんの専門書を読み
観念的解釈で頭を一杯にするよりも、



まず「真似る」ことが最短のスタートなのです。



ゴッホが模写した「種撒く人」



ミレーの「種撒く人」




もちろん、あらゆるアートの根幹は
激流のように現れた構想が形になったものである以上、



完全なオリジナルを「作らないと仕方ない」
という天才も稀にいます。




「自分は音楽家だから思想や感情を
音を使ってしか表現できない」といった
モーツァルトのように、



独特の解釈は独自の形式を
直接的に必要とするでしょうからね。
一種の宿命でもあります。




ただ、僕のような凡人はやはり
真似るべき「型」がなくては作れない。



故に最初は感性から派生した「好き」から
対象と同一化しようと試みるのです。



これが守破離の「守」。
明確な理由なんてない、けど「真似たい」。




この根幹には必ず「同一化したい」という
感性からの派生(好き)があります。




逆に、嫌いなものは真似たくないもの。




なるほど、宇宙に引力と斥力があるように、
我々もまた、引き寄せながら引き離していると言えますね。




☞☞




ただ、その人自身の個性を消すほどの、
模倣は(失礼な話)コピー、感動はしません。



なぜならそれは「守」で完結しているから。
美空ひばりさんの歌を完璧に歌えたとしても
本人ほどの感動は起こりませんよね。



個性然り、その人だけにしかできない「型」がある、と。




大事なのは、真似れば真似るほど
「浮き彫りになってくるじぶん」から
派生したものを一つの「型」にすること。



これが正しい守からの破。



型を破って「(自分の)型に着く」のです。




「後記」



独創と新奇性を追いかけるのに疲れ、
要求する形式が複雑になればなるほど、
我々の感性はその濫用に耐えることができません。



結果、その志向性が自壊作用を起こようになると
今度は逆に純粋でシンプルな形式を求めるようになります。



では純粋でシンプルな形式(型)とは何か?
還るべき原点はどこか?




それが内部からの声、内部派生です。





0 件のコメント:

コメントを投稿