2015/11/25

自由自在②~矛盾なんてない~





こんばんわ、坂口です(゜゜)
前回に続き、二回目です。




さて、このテーマは同じことを
言葉や例を変えながらお伝えしていますが、



もっと深く理解したいという方に
今回、過去記事を掲載しました。



多分、参考になるかと思います(笑)



退化への道


たまたま、なんとなく作られたもの



直観的という事



対話篇~回帰~




てなわけで「矛盾なんてない」、
始まりはじまり~








さて、今も昔も極楽浄土(彼岸)の到達は
永遠のテーマ、人生のゴールになってますね。



世界は苦しみに溢れてるから
とっとと抜け出したいのでしょうが、



悟るためにとても苦労している人を見ると、
なんだか本末転倒のような気がしてしまいます。



ちなみに仏陀もまた、悟るために様々な
苦行を繰り返していたようで、



(ざっくり話すと)
結果「苦行では悟れない」と思った仏陀は
菩薩樹の下で瞑想に入り、49日後に
悟ることができた、と言われていますね。




しかしなぜ、苦行中に悟れなかったのに
座禅瞑想で悟れたのでしょうか。



(ここからはあくまでも個人的推測ですが)
それは対象を掴もうとする「じぶん(自意識)」が
あったからではないでしょうか。



自意識は主観(観察者)を生み出します。
この時点ですでに対象と「分離」してしまうのです。



菩提樹の下で瞑想に入っている間、
悪魔たちが悟りを妨害してきたと言いますが、



実はこの悪魔の正体は「自意識」だった。
個人的にそう思っています。



☞☞☞



調伏(降魔成道)した相手とは
求め続ける「わたし自身」だと仮定すると、



問いもなく、悟ってやろうという意識もなく、
立ち向かう自己が消えることが、悟りかもしれません。



経験してないから断言できませんけどね(゜゜)
ただそうであれば、悟りは一瞬の出来事だったと思います。



弟子に教えているということは、教えを説く
「わたし」が現れている証拠でもありますからね。



失礼、こんなこと素人が書いてたら敵作りますな。






閑話休題
そうなると、自意識は常に敵を作り出している、
悩みの創造者(発生源)と言えるでしょう。



故に、我執となる煩悩を取り除き
四苦八苦から解放(解脱)されなさい、と。



これが仏教の目的でしょうが、
僕は人間にとって飢餓感(悩み)は
大事な生命の糧、捨てるものじゃないと思ってます。



だってそうでしょう。
飢餓感(空腹)を知らないという事は、
満たされること(満足)も同時に分からないじゃないですか。



「永遠の自由に満たされてたまま、生きていきたい!」
これって「不幸になりたい」と言ってるようなものです。



だとすれば、どっちも必要でしょう。
食欲と同様、不足と充足が交互に来るのは
自然な流れであって、循環の一形態ですから。



一つの流れにすれば矛盾は起こらない。
この視点を持つことが「自由自在」です。



☞☞



禅は内なる無分別(無心)と外の分別(自意識)を
同時に持つことを「無分別の分別」と呼びますが、



上記もまた、そういった分別されたものを
分けずに一つにする概念(無分別)だと思ってます。



誰だって根源的な「飢え」があります。
それは我執として手放すものではない。



なぜならそれは「個性」の発見に繋がると
思っているからです。



大半の人が当たり前だと思うところに、
なぜか自分だけ違和感がある。



それってまさに未表現に対する「飢餓感」でしょう。



そこから出発し、表現、具現化
することを仕事にしてる人を見て、
我々は天職とか使命があると思っているのでは。







それは自分だけが知ってます。



てんじょーてんげ、唯我を独尊に仕上げること。



(中心軸にはしないけど)
これが、僕なりの自我肯定です。






「お詫び」


編集途中のまま、ブログをアップしてたようです。
乱雑な記事、失礼しました|д゚)









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