2012/10/16

柔らかな束縛




リゾームは非線形、複雑系を踏まえた
ビジネスモデル。





それは資本主義の土台が理論操作可能な
ヒエラルキーから、理論では操作不可能な経済へと
パラダイム転換が生じているという予測から発案したものです。





散逸や自己組織化、創発などは、
閉鎖型では生まれません、
感情などを内包した生命的システムのみ、と言えます。





もちろん、感情だけでは片手落ちであって
大事なのは理論と感情を繋ぎ、一つのループとする事。
ミクロ・マクロ・ループは日本ならではの概念です。



そんな性質を持った複雑系経済に
対応するためには、どうすればよいのでしょうか。




今日はそんな小話を。





複雑さの帰結―複雑系経済学試論/NTT出版


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そもそも複雑系とは、理論が通用しない事から
意図的に設計、構築、管理ができません。


どのように構築され、管理できるのかなど、
正確に予測できないのです。





なぜなら我々個人が管理されず、自由に織りなす
行為(状態)が生みだすものである以上





階層を作り、上が作ったルールで管理しようとした途端、
閉鎖系となる。エントロピーよろしく崩壊するのです。



そこに管理の手が入る以上、必ず抑圧が生まれる。
よって組織においては適度な自由を個人が掴む必要があります。



ニュアンス的には「柔らかな束縛」とでも言うのでしょうか。



☞ ☞



内に外に開かれる。
フレキシブルな企業、風通しの良い企業、





止まることなく流れ、常に前向き、クリエイティブ。
自らを楽しめる人材が集まり、交流し、
そこから新しい発見が生まれていく・・・・



これは言葉にするのは容易いのですが、
いざ実行するとなると別問題です。





閉鎖系である管理社会に馴染みすぎた我々にとっては
開放系に憧れこそあるけれど、理解しずらいのです。



加減を掴まない自由は「放任」と同義である以上、
自己組織化を生みだすことはないでしょう。



下手すれば、とんでもない結果を迎える可能性もある。



☞ ☞




そこでリゾームの概念の登場です。
それは「管理」でも「放任」でもない第三の道です。



清水博氏は「動的なリズムが場の形態を形成する」と言ってます。




リズムとは中村雄二郎のリズム論、
unreveのいう拍子です。




まさに、秩序は動的な勢いの繰り返しなんですね。



生命知としての場の論理―柳生新陰流に見る共創の理 (中公新書)/中央公論社


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例えばプレゼン会議という「場」で、
個人がプレゼンを行う場合が近い。





クライアントがそれを見ている。
そこにはパワーポントや動画など、場としてのシステムがある。





プレゼン側は、あらかじめテーマやシナリオ
必要な情報を与えられているけれど、





いったん話しだすと、あとはもうその場の雰囲気で
臨機応変に演じるわけです。





つまり、大まかな筋という拘束条件のもとで、
大ざっぱに決められるのですが、





具体的にはプレゼンターとクライアントの相互関係によって、
選択されたり、再構築しながら進行させていくでしょう。





それは、全体として一つの筋を生成的に自己組織しながら
展開していく、故に場違いな発言はできません。




まsない自己生産しながら自己組織に組み込んでいくという、
意味のある操作情報がある、これが「場の動的なリズム」です。





ただ、そこに至る前段階が必要なのですが
それは時間がある時にでも。







☞ ☞ ☞



長くなったのでまとめます。



システムは外部によって画一化されますので
閉鎖系となります、それでは相転移は生まれない。



自立や自律は「自覚」によって生まれます。
それが内部から起こるまで、待たなくてはいけない。



近代は、その自立性を急ぐあまり、
結果として個(自我)の成長となりましたが、



本来の日本は仏教を基礎とし、
「場の文化」を生み出した経験をもつ、世界でも珍しい国。




その自覚さえあれば複雑系の経済はこの国にとって
歓迎すべきものとなる気がするのですが、皆さんはどう思われますか^^?


2012/10/15

正論居士



正論居士(せいろんこじ)という言葉がある。


居士とは気質を指し、意見に対し
反論するだけで対案を示さない人の事。



自分の意見を絶対としている為、
対話は全く生産性を持たない。
重箱の隅をつつく事が自分の能力だと勘違いしている。



当然、納得させる事は難しくなり、
タイミングが遅れ、失敗しまったら
「やっぱり、私の思った通りだ」とさらに過信してしまう。



私が支援する際、必ずお断りするのがこのタイプである。
使う労力が半端じゃない。



もし○○の場合は?○○がもし起きたら?
もし○○であるとするなら?・・・・etc



仮説に「if」を付けたらどんな些細な事でも
取り上げられる。これは当人に危機感が
ないのではない。あるからこそ…だろう。



ただ先の見えないvucaにおいて
何かを始める際、根拠なんてものはない。
その状態で根拠を求めれば一歩は踏み出せない。





当たるも八卦、当たらぬも八卦でやるのではない。
どんなに努力を尽くしても、精度を上げたとしても、
あらゆる将来の予測には不確実性が含まれている。




この不確実性というものを嫌うならば、何もしない事だ。信じるために疑ってるのかもしれませんが。





ホモ・ルーデンス



「遊びの文化」を最初に生みだしたのが、
ご存じギリシャやローマ帝国。この時代の労働は、
制度によって全て奴隷がやっていた為、
市民や政治家達は、やることがなさすぎたのが背景にあります。


歴代皇帝はどんどん記念日を作り続け、
しまいには1年の半分が休日となってしまった、と。
そんな快楽都市、ローマではありあまる余暇
(あそび)をどうにかしようと試みた結果、
あれほどの哲学や文学、芸術や娯楽が生まれたようです。


言わば、ローマ文化は莫大な富による
「あそび」によって作られたんですね。
それは後に「西洋文明」として引き継がれていきます。






剣闘士が戦う闘技場や、競馬場や大浴場など、
皇帝は「パンとサーカス」を国民に提供しました。
※パンとサーカス・・・・・食料と娯楽の事


まさに地上のユートピアのようですが、諸行無常の世界、
当然、それが長く続くわけがありません。栄華を極めた
ローマ帝国は、やがて内部腐敗を起こし、衰退から滅亡へと向かいました。


惰性と堕落は加減を超えた「楽」から派生します。
このパターン(拍子)は時代や場所を問わず、変わらない。



僕はこれを「毎日遠足効果」と呼んでいます。
毎日やってたら飽きるだろ、ってね。


☞ ☞


こう書くと良くないイメージになっちゃうけど
この時代のあそびは以前の記事で書いた
「行動と行為」でいう「行動」の方、本来は
人間の本性に沿った自然に派生する感応行為でしょう。


見れば日本はそれが分かってたようで
平安時代の歌謡集「梁塵秘抄」を見ると
そんな、あそびの歌を詠んでいますね。


遊びをせんとや生まれけん
戯れせんとや生まれけん


遊ぶ子供の声聞けば
わが身さえこそゆるがるれ。


(遊女の罪悪感を綴ったという解釈もありますが)
自然のままに、楽しい事をやるのに対しては、
何の罪悪感もないんですよ。



☞ ☞


遊びの文化を研究したヨハン・ホイジンガは、
遊びが大衆化し、陳腐化するのは危険だとしました。
大衆化されることによって、軽薄さと衰弱を生みだすと感じたのです。


当時はヒトラーがヨーロッパ侵攻を狙ってた時代。
ゆとりも余暇も遊びもないファシズムを見て、
危険だと思ったのでしょう。その経験をもとにヨハンは
「ホモ・ルーデンス」という作品を書き上げています。


ホモ・ルーデンスのルーデンスとは遊びです。
ホモ・サピエンスは「人間は理性があるから人間」、
ホモ・ファーベルは「人間は物を作るから人間」。



つまりホモ・ルーデンスは
人間は遊びをするから人間なんだよ
という彼の主張なんですね。


人間と動物の違いを一つ挙げるとするならば、
生存欲求だけで動く動物とは違い我々は踊り、
絵を描き、歌う。


物語を書き、それを読み、新しい概念を作る。
そういった生存と関係のないことこそ、
人を人たらしめているのではないでしょうか。




コムニタス

些細なことでも怒ってしまい、感情を抑えられず、
感情がコロコロ変わって自分でも疲れる。


周囲に理解してもらいたいが、なかなか理解してもらえず、
見捨てられることを極度に恐れ、なりふりかまわない努力をする。


そんな人を境界性人格障害(境界例)と言うらしい、
現代病の一種である。


さて、ネットを見ればこの境界例に近い心性を持っていると
思わずにはいられないサイトが数多く存在する、なぜだろう?



象徴人類学者ヴィクター・ターナーの説く
「コムニタス」という概念がある。


それは通過儀礼といった人間関係における在り方であり、
身分や地位財産男女の性別や階級とは違い、
非構造である環境において、自由で平等な相互関係を指す。



ネットの「完全なる表現の自由」はコムニタスとも考えられる為、
境界例のコムニタスへの希求はきわめて強いのだ。


慢性的な空虚感。そして感情の不安定さや絶望感。
これらを癒し、自己を支えているのがコムニタスであるネットなのかもしれない。



☞ ☞ ☞



このような、コムニタスと境界例を関連づけたのは
心理士を実質的に生みだした河合隼雄である。



境界例には構造的なものに対する徹底的な弱さと、
コムニタス的関係様式への絶対的希求があるとしている。


組織の一員として存在することができず、
コムニタスの様な自由で制約のない世界でしか、自己を保てないのだろう。



しかしコムニタスではアイデンティティは確立できない気がする、
重要なのは先にある「場」ではなく、その環境に身を置く自己の認識ではないだろうか。



私は独立する以前、組織の中間管理職として働いてきた、
当然組織は不条理なことも多いし、管理によるストレスも大きかった。



それでもこうやって健康でいられるのは理由がある。
ここでヒエラルキーを否定してはいるが、悪い所ばかりではなかったのだ。



毎年飲み会や旅行などの行事をまとめる幹事をやっていた。
仕事ではゴタゴタの多い職場であったが、飲み会ではガラリと変わり仲が良い、
これを見るのが楽しくもあった。


QC活動でメンバーと白熱しつつ、最終的に素晴らしい賞を頂いたのも、
衝突した上司が一番信頼できる人になったのも、ある意味「立場の差異」があったおかげだ。



結局何が言いたいかというと、我々の関係性とは「安心した土台」がなければ
脆弱なままなのである。



例えばコムニタスでは自由でこそある反面、社会的身分も役割もない。
つまり安定した土台自体がないのである。



よって常に生身がさらされ、互いに傷つきやすい関係であり
それはやがて、争いのタネとなる。



つまりコムニタスの状態のままでは、維持する事が困難なのだ。



仮にコムニタス的だった集団があったとしても、やがて「秩序」が起きる。
プリコジンの言うように、開放系の我々が無秩序に集まってたとしても、
散逸構造でいう「新しい秩序」が生まれるのだ。



これは実にもどかしい選択である。
つまり自由性は「常に変化し、脱皮することで保たれる」という事だ。



固定した瞬間、秩序が生まれる。
それは安定こそあるけれど、階層的な構造が必然的に同時発生するのだ。


聖人君主のような人格論からかもしれないし、ディベートの結果かもしれないし、
おかしな民主主義のような多数決かもしれない。


このように、自由な環境であっても
決断する時において我々は、この自由(自らに由る)を崩壊させるのだ。


しかしリアル社会と違い、ネットでは都合のいい一元論が通用する。
だからこそ境界例の多くはコムニタスとして帰依しているのだろう。



☞ ☞ ☞



ただし、これは非適応的な信念である。
非適応的な信念(思いこみ)と現実はリンクしない。


しないというより、認識で「我々が非適応になる」のであって、
逆に自由でも愛され、守られている人だっている。



それはその人が特別ではない。
その人の認識が「適応的」なだけなのだ。



時代は我々の認識を変える。
変わった認識が感情を決定し、決定した感情の集合体が時代を変える、
すなわち「多即一」、これが「場の創造」である。



コムニタスは場の創造が困難だ。
常に孤独で戦う為、認識が不安定となる。



それが可能なのは一部の芸術家や天才といったものだ。
彼らはどれだけ批判されても、一人で確固たる世界認識を創造する。



そして、その世界認識にやがて世間が追いつくのだ。
カフカ、宮沢賢治しかり、ゴッホ、アボガドロ、ロバチェフスキーしかり。



☞ ☞



リゾームが派生する場合において、
これらの概念は重要である。




なぜならリゾームは単純にやればコムニタスである。
それでは責任の所在も動機も意味もない、ただの遊び場である。




では何が必要か?
もしかしたら来月分かるかもしれないんだなぁ(笑)

見えすぎるのも考えもの




坂口安吾が出したブルーノ・タウトと
同名著書「日本文化私観」では



真の模倣とは発見であり、インスピレーションは、
多くの模倣の精神から出発し発見によって結実する、とあります。



そこには必然性も決定的な素因もない。



昔から日本に行われていたことが、
昔から行われていたという理由によって、
日本本来のものだとは言えない、と。



故に、タウトが愛した桂離宮が高尚であり、
東照宮が低俗だというものではなく、



「ミカタ」を変えてしまえば
どっちもどっちだというのです。



なるほど、安吾は物事が見えすぎていたのでしょう。



☞☞


さて、氏は近代文化を「芸道、地に堕つ」と
以下のように批判しています。



近頃は劇も映画も一夜づくりの安物ばかりで、
さながら文化は夜の街の暗さと共に明治時代へ逆戻りだ。


蚊取線香は蚊が落ちぬ。きかない売薬。火のつかぬマッチ。
しかし、これは商人のやること。芸は違う。



芸人にはカタギがあって、権門富貴も屈する能あたわず、
芸道一途いちずの良心に生きるがゆえに、芸をも自らをも高くした。


芸は蚊取線香と違う。
けれども昨今の日本文化は全く蚊の落ちない蚊取線香だ。


どんなヤクザな仕事でも請ける。
二昔前の書生劇でも大入り満員だというので、
劇も映画も明治の壮士芝居である。



職人芸人の良心などはくそくらえ、
影もとどめぬ。文化の破局、地獄である。


かくては日本は、戦争に勝っても文化的には
敗北せざるを得ないだろう。


即ち、戦争の終ると共に欧米文化は日本に汎濫し
日本文化はたちまち場末へ追いやられる。


芸人にカタギがなくては浮かぶ瀬がない。芸の魂は代用品では間に合わぬ。






芸道とは能楽や世阿弥、歌舞伎や人形浄瑠璃の他、
華・茶・武術など、あらゆる道を総称したもので、



その真意は、芸術思想と倫理思想とが交叉する
思想領域を切り開くことです。



世阿弥が利己的な精神なく修行することによって
その功徳が生まれ、極め尽くすことが寿福であると
説いているように、「前提」が全てを決定するのです。



なるほど、芸道のための自己練磨ではなく
自己利益(寿福)の為の芸道であれば、廃れてしまう。



安吾は目的を取り違えれば本質を
見失ってしまうことを、芸道に例えたのでしょう。



☞☞



本質主義とは余計なものや無駄なものを削ぎ落とし、
誤魔化しのないシンプルなものを目指す者ですが、
氏はまさにその道から逸れることはありませんでした。




今の時代にいるならばどんな作品を書いたでしょうか。
少なくとも、アフォリズム的なものは書かないでしょうね。




2012/10/11

花鳥風月



こんばんわ、坂口です。
9月も後半に入りましたね。




ビジネスに励むのもいいですが、
せっかくの秋です。




ちょっと時間を作って、
花鳥風月を楽しんでみませんか?










さて、僕らがモヤモヤした時って
お酒を飲んだり、カラオケで歌ったりと、
発散の方法は色々あると思います。





現代は、和み、とか癒し、といったものを
「意識的に」作ってるんですが、




一時的には解決できても、
なんだかこう、心からスッキリしなくないですか?




まるで慢性的に蓄積されてる、っていうか。
僕はこれって、理性の限界やと思うんです。





つまり「あたま」って万能じゃないな、って。





☞ ☞



アメリカなんかは意識の国ですから、
薬だったり、音楽だったり、香りなど、
あらゆる解決方法が存在します。





日本でも、α波がどうだとか、
エンドルフィンがどうだとか、
物質・数値化しているようですが、





実際のところ、どうでしょうな。
あまりハッピーじゃないような気がします。





僕はそれより、自然の景色を眺めたほうが
よっぽど安上がりで癒される、という考えです。




放っておけばどうにかなるさって(笑)
最近、その傾向が強いですね。





☞ ☞





養老孟司氏は自然の定義を
人間が作ったものではない、としています。



逆を言えば、作れない。
それが自然と意識の違いだっていうんです。




昔これ聞いた時にですね、
なんというか、すごく納得したんですよ。





エントロピーで考えてもそう。
意識は秩序を作るけれど、
その分の無秩序がどこかで生まれてるな、と。




ヒーラーの癒しの言葉だって立派な意識ですよ、
そこにはどうしても意図が入ってる。




だからいくらブロックを外そうと、
思考の書き換えをしようと、
潜在意識を書き変えようと、




それら全ては僕らの意識がやってる、と。
これって、逃れられないですよね。




ってことは、その意識的な癒しは
どこかで無秩序的な荒びが生まれてる、と。



だから、人の作ったメソッド(秩序)って
どことなく、危うい感じがするんです。





☞ ☞



以前、潜在意識にアプローチする
成功哲学の内容とか見てみましたが、




よくよく考えたら、意識できないからこそ
潜在無意識であって、



これを意識的に表層化しちゃうと
逆に危険だな、って思いました。




北風と太陽よろしく、問題を
解決しようとすればするほど、大きくなる。




旅人のマントっていう問題を意識的に
解決するために、風で吹き飛ばそうとしてるでしょ。




どっこい本人は抵抗するわけです。
あとはもう、力比べですわ。




その結果が顕著に出ているのが、
自殺率や鬱病や癌じゃないかしらん。




これら病理はGDPが高い国ほど多い。
普通に考えたら逆にならないとおかしい。






不思議だけれど、成長した豊かな先進国ほど
人って生きにくくなってるんです。





そういった「わけのわからないもの」って
最近、あちこちで見かけませんか。





☞ ☞



日本って本来はテーマにある
花鳥風月を上手に取り入れた国です。



意識を意識で解決する
っていうやり方をちょっとだけ置いといて、





ぼーっと野生を眺める時間とか、
無意識で「ついやっちゃう事」とか、
それを大事にしたいな、って思ってます。







ノープラン、ノーリターン。
ドントシンク、フィールってね(笑)


質を高める時代



デフレである現在、製品を安くするために、
様々な企業努力が行われる・・・・と言われますが、
企業の中にはコスト削減を
「製品の質を下げる努力」とイコールにしている所があります。



これが例えば構成要素ごとに検証し、
入り数(企画)を変え、安くするのはいいでしょう。
(6個入りを5個入りにしたりとか)



しかしこれが商品そのもの、
つまり製品の構成要素を安価やものにしたり、
補強すべき部分を安価なもので対応するのは、
ただの「劣化商品」を作っているにすぎません。



それをいかにも劣化していないように
外見を飾り立てる、というものをコスト削減だと思っている。



なるほど、これだけ劣化品が増えたのも、納得できます。









当然、それらは短期間で壊れたり、使えなくなりますが、
それを安いから買ったのであれば怒りもありません。



「まあ安物だし、いっか」と。



その考え方は、あらゆる側面において、
「使い捨ての発想になっている」のに気付きません。



製品に対する信頼なんてないけれど、
なぜか、安さを提供する企業には不思議な信頼がある。



否、「あった」というべきでしょうか。




本来、この国は「質」を高める文化であって、
低質なものは体感的に嫌う。そうじゃないですか



☞ ☞



もちろん、最初から「使い捨て」を目的とした
商品であれば、問題ありません。




しかし体内に入れる食事は、言わば一生ものですし、
家などは本来資産であって、耐久消費財ではない。




物を大事にし、大切に使う、という感情は
我々が持つ、基本的な感情、




信頼と保証は似てて異なります。
それは無形と有形の違いではなく、姿勢の問題です。



2012/10/10

間違った学び


300年前に出た思想本に「弁道」・「弁明」というものがある。
著者は荻生徂徠、伊藤仁斎と同じく古学派である。




荻生徂徠の思想のバックボーンは孔子、儒教であるが、儒教を体系化した朱子学は全く役に立たない空論であると喝破した。





それは伊藤仁斎も同じである。
それほどまでに批判された学問、それが朱子学である。







荻生徂徠の時代はその朱子学が公式学問である江戸時代。その思想は当然、正反対となった。




反進歩・反発展・反成長。
反都市化・反市場経済・反啓蒙・反自由・反民主主義。







政治、経済、世間と
見事なまでに対立した学問が荻生の古学思想といえる。






朱子学は馴染みのある言葉だが、あまり知られていない。朱子学が生まれた時代は中国が侵略された時代であり、その反発から生まれた学問でもある。その根底にはゆがんだ自国愛があるのだろう。




朱子学では、その気から欲望が生まれるとした。
我々人間は、気によって情念や欲望が起こり、



欲望によって本質的「理」が曇っている、としたのだ。
朱子学によれば、悪が発生する場所は「気」である。




長年の読者の方なら、この辺りの定義から
「漢意」になってきているのが分かるだろう。




そう。
予想通り、そこから先の答えは「悪い気の排除」である。



朱子学で言う聖人は、与えられた気が濁っていない。



よって「理」が分かるとし、善悪の定義を「気」の清濁の差であるとした。このように朱子学とは、一つの原理(理)によって、あらゆるものを理論体系化したものであり、極めて合理主義的な思想である。




そんな現実社会に全く役に立たない学問を
否定した伊東と荻生は、そこから独自の学問である古学を生みだしたのだ。





ちなみに朱子学は高い徳を持ち、品位ある生活こそが
人生最大の目的、という教義だ。



よって信仰者は、高い徳を持ち、
世界の為にお金を使うことを正当化する、



故に、その目的を果たすには
どんな汚い儲け方をしてもかまわない、と解釈されている。



汚く儲けてきれいに使う、
つまり現世主義では不正や汚職を
正当化させてしまう欠点がある。



最近、これに近いセリフを経営者からよく聞く。
多分、それが朱子学の影響とは本人は思っていないだろう。




今の経済競争を俯瞰すれば
個人派生の「宗教・思想の対立」なのである。



2012/10/08

大海へ接近する方法


フランチャイズ構築と書けば、
建築家のような仕事のようですが、
一番似ているのは農業かもしれません。



種をまいて育てるのが仕事であって、
そのオリジナリティ(独自性)とは
「見えないもの」から「見えるもの」を作ること。


よって種さえ選べば、あとは
自然に大きくなるのを見ているだけです。


なぜなら、大きくなる力は
むしろ「種子」の方にあるから。



農耕的、科学的、芸術的、
哲学的、宗教的・・・・
ビジネスの根幹は様々ですね。




今日はそんな小噺。




☞ ☞



現在、文化的、芸術的な概念と
ビジネスとを融合しようと、
実に多くの方が試みているようです。



素人ながら僕もやっているのですが、
その異質性のバランスが崩れると、
すぐに遊離的な概念となってしまいます。



素泳ぎで大海の沖を一生懸命
泳いだとしても、大海の流れに逆らえないように、



そこまでいけば、商売なのか、
芸術なのか、学術なのか、宗教なのか、
全く区別ができなくなる。




それで何度溺れたことか(笑)




海と陸とを分ける境界線の見極め、
渚より大海に接近しなくてはいけない、


この方法の確立が必要でした。











渚には、実質的な部分が
それこそ、たくさんあります。



手に触れる事ができる消費財や
耐久消費財、サービスがある。



反面、芸術はそうじゃない。
まさに大海へと飛び込むことで
流れそのものの表現です。



音楽・芸術・ダンスなども、
解放された表現の一つであって、



我々はそこに自然の本性を感じ
大きな感動を覚えるんじゃないでしょうか。



問題はそこにどうやって
現世的な利益を繋げるか。




これがきれいに結べないと
ボランティアか、心ない資本制になる。



この「結び方」さえ形式化すれば
スッキリするんだけど・・・と



つい漢意が出てしまう今日この頃(゜゜)





2012/09/27

起業家の妙

ども、FCオーガナイザーグッさんです^^





そう言えば、店舗の内装ががらっと変えました( ´ ▽ ` )ノ



【グッさんの、一期一会ブログ】



【グッさんの、一期一会ブログ】


良い感じになったと言われ、ちょっと嬉しいです。





あと洋風のアンティークショップで

ソファーを衝動買いしました。



【グッさんの、一期一会ブログ】



よく考えると、これはカップルシートですね(笑)

まあ、一人で優雅に座ってコーヒーを飲むもよしです^^






さて、co-gateでは独立希望者に向けて

「zoro one」というサービスを行っています。



zero one、つまり「0→1」にすることが目的です。

例えば既存の事業にはない、まったく新しいビジネスモデル。



これを約3カ月で体制を作り、キャッシュを得よう、という

発明に近い起業方法です。




もちろん僕はそれに対するアドバイスなんて出来ませんが、

環境を貸す事ができますし、コストを押さえたツール提供も可能です。




「いいアイデアが浮かんだかも・・」という人は

気軽にお越しくださいね^^




さて、人生においては正解はひとつではないように、

独立の方法も同じく、決まった答えなんてありません。




いろいろな解釈、いろいろなアプローチが新たな可能性を生みます。

とにかく、自分なりにやってみる事が大切。




それが僕の考えでもあります。





例えば10個、ビジネスに着手して、結果1つしか自分に合わないとしても

自分に合った1つが分かっただけいいじゃないですか。


後はその1つを大事に継続して行けばいいと思います。




ちなみに僕の本業はそれとは逆、フランチャイズの魅力を伝える仕事です。

起業の始めの一歩は優良なFC加盟が最適だと思うのですが、




自分の中に「これだ!」というアイデアがあるならば

無理にFCを検討しなくてもいい、と思っています。




大事なのは継続してやれるかどうか、

儲かってもやってて苦しいだけなら会社員と変わりません。




自由な選択肢、そして自由な発想。

これが起業家の妙ではないでしょうか。





さて、次回の「イマココ会
」はそんな独立の一側面、

「フランチャイズ加盟」について語ろうかな、と思っています^^





私が絶対的な自信をもって紹介できる全国のFC本部さんや

無料でできる代理店さんについての紹介と





「そもそも独立って何が大事なの?」という内面の部分も含め

お話しできればな~と思っています。





次回は盛りだくさんな内容でっせ♪






2012/09/11

加減の定義

時は江戸時代。
徳川家康が武将達を集め、食べ物についてこう尋ねたという。




「この世で一番おいしいものは何か」。






武将たちの答えはそれぞれ。
酒と答える者もいれば、好きな菓子や果物の名前を挙げたという。


当然、家康は不満である。


そこで家康は、側室である、英勝院(お梶)に
「なにが一番、美味しいと思うか」 とたずねた。



お梶はこう答えた、
「一番おいしいものは塩でございます」 と。



家康はさらに「では、一番まずいものは何か」と尋ねた所、
「一番まずいものも塩でございます」 と答えたそうだ。



家康は、お梶の聡明さに大変感心したという。







さて、今でも塩は「味の決め手」である。
つまりあらゆる味を活かす素材だ。



よって、お梶が言うように一番美味しいものに間違いない。



また、全ての味を殺すのも塩だろう。
よって塩は一番まずいものでもあるのだ。




つまり塩とは「美味しくも不味くもないもの」。
こう定義できる。



このように、塩とはサジ加減一つで変化する
一番分かりやすい食材なのだ。



塩とはあらゆる素材をまとめる「部分」である。
その加減を知ってこそ、本質(肉や魚)は活かされる。



火加減もそう、ゆで加減もそう。
あらゆるものは「加減」によってその持ち味が際立つのだ。




☞ ☞ ☞



料理に限らず一流ほど、素材にこだわる。




しかし、どんなによい素材を手に入れても、
加減がなければ、その素材を殺してしまうだろう。




活殺はその人次第、「加減覚の知」。
これがリゾームで一番難しい概念だ。









多様の妙

日本流FC、場の理論について。







古来、市場は「市庭」が語源であり、
以前の場は「庭」と書いていました。




道と道が交差するのを「辻」とも言い、
市場は、どちらのものでもない辻でも行われたのです。



それは隙間であり、空間であり誰もものでもないもの。
しかしその無である「空間」が有を作るのでしょう。




☞ ☞



ちなみに脳内で情報を伝達するニューロン同士も
繋がっているのではなく、そこには「隙間」があります。




それをシナプス間隙といい、隙間を超えて
伝達する物質を神経伝達物質と言います。



つまりそこでも「辻」や「庭」のように
交流が行わているんですね。







それによって伝わり方は微妙に変換される、と。



これは、我々がそれぞれ異なる感覚や思考を
持ってしまう理由でもあるのですが、



そんな2つの自己は協調的な働きによって、
整合性を持つのです。



なるほど、両極の自己の中心が
それぞれを中心として成立・整合するように
誘導し合うということでしょう。



行ってみれば、それは
「二つの視点による中心の創造」です。



それぞれが中心でありながらも、それが軸として働き
互いに誘導され、影響を受け、



結果、どちらもが自立と自律に働く、と。
交差によって「相互自立依存」が成立するのです。



これは海で例えるなら、
海面と深海の違いでもありますね。
海面も深海も一つの海を形成しています。



波しぶきを見て「これが海だ」とは言えないし、
深海を見て「これが海だ」とも言えませんよね。




☞☞



そんな異なる自己を中心(自律的に)決める。
これが場の形成です。



しかし近代的自意識では、まず
「自分」というものが存在していて、
その「自分」が、何それをする(している)と
考えるのですが、そうではない。




他者だけでなく、自他の「間」による
交流によって、我々は自ずと変化している。





不思議ですが、
多分に我々とはそういう存在なのでしょう。



2012/09/10

卒啄同時、相対を超えて




近年の自己啓発セミナーで
取り扱っている主張の核、それは「心」。


悩まない、楽になる、思い通りに行く、
重荷が取れる、平常心で生きられる・・・etc



論じ方は千差万別あれど、
それが「あなたの心」である以上、
今感じている気持を押し殺すものではない。



そもそも我々は喜怒哀楽という
プラスとマイナスの感情を持っています。



まるで磁石のようなものであって、
どちらか一方だけは選べないんですよね。



当然ですが、N極だけの磁石は存在しません。
(人工的なモノボールは抜きにして)



そんな矛盾した「二項」との
付き合い方さえ、理解すればいいのかもしれません。



☞ ☞


例えば、仏教はもともと絶対自力だったのですが、
親鸞が絶対他力である仏教を広めました。



ただ、それを突き詰めていくと
単なる他力、単なる自力ではないものが見えてくるようです。




自力はただの自力ではなくなり、
他力はただの他力ではない。



つまり自力と他力は同体として、一なのでしょう。




禅も自力といいますが、同じくこれも「自他力」で、
それを表現したものに卒啄同時があります。



それは雛鳥と親鳥との関係に
見立てたもの。



雛が卵から出ようとするとき、
雛は殻の中(内)から卵の殻を突き、音をたてます。



「コツコツコツ、コツコツコツ」。



「もう産まれるよ~」と言う合図、
これを「卒(そつ)」と言います。



そこで親鳥がすぐに外から
殻をくちばしで破ります。



「コツコツコツ、コツコツコツ」。



「今出してやるからね」という行為、
これを「啄(たく)」と言います。



この「卒」と「啄」が「同時に起こって」
卵の殻が割れ、生まれることができる、と。




どちらか一方が遅くても、
逆に早くても雛は死んでしまいます。



よって、そのタイミングは「同時」であることが条件、
故に禅の自力も他力であり、他力は自力なのでしょうね。












2012/09/04

ふたつの欲求

unreveの坂口です、
お忙しい中、訪問ありがとうございます^^



さて、我々が生きて行く上で、重要なものは何か?
と聞かれたら、多くの人が「自由と安定」と答えるでしょうね。


しかしそれがなかなか手に入らない(ノ_・。)


そんな単純な命題を解決するのに
なぜこんなにも苦労しているかというと、

自由と安定という、「ふたつの欲求」、
その性質が根本的に矛盾しているからなんですね。



今日はそんな二項同体の小話を。














さて自由とは、束縛から解放される事。


お金からの自由、労働からの自由、
の自由など、色々あります。



で、安定とは一体何じゃらほい?というと、
マズロー的に言えば、何らかの共同体に帰属する欲求です。



まさに「解放(自由)」と「安定」が矛盾し、
相容れない根本原因がここにあります。



なぜなら、何らかの共同体に帰属先を求めれば、
個人の自由をある程度放棄しなければいけません。


解放(自由)を取れば、不安定になり、
安定を取れば、自由は制限されるというジレンマ。


これが社会性の生き物である人間が持つ、
永遠の「悩み」です。



お互いがある程度譲り合い、我慢するからこそ
「現在の」共同体が成立するという前提がある以上、




お互いが衝動の赴くまま、自由にやれば
当然、共同体は崩壊します。



逆に、だからこそ人は権力者になりたがるのです。
権力を持ち、共同体の中で安定と自由が手に入りますからね。



さて、あなたはどっちを選びますか?
それとも、どっちも欲しいですか?



独立起業と会社員もそうですし、
結婚と独身だってそうですな笑



ただ、これを選択するのって、
まさに「自由」なんですね。



☞ ☞




エーリッヒ・フロムの著書「自由からの逃走」では、
我々は完全な自由よりも、国家の権威や、
世間大衆と同一化することを望む傾向があると言います。




言わば「特殊な縛り」に身を投げ出し、
犠牲になることで、安定と共同体に所属するのです。




歴史を紐解けば、これが原因で多くの争いが起こっている。



見方を変えるなら、全員が「自由であり、
安心もできる帰属先」を作れないんですね。



おたーく、な僕はそれをもう少し
突っ込んでみました笑





☞ ☞

そもそも、自由とはそれ自体に有効性はなく、
呼応する社会の義務によって初めて有効なものです。




共同体での義務の観念が権利の観念に先立つ以上、
その権利は義務に従属します。



例えば無人島で一人の場合、
自由の権利を主張する必要はありませんよね。



誰からも承認してもらう必要がないので、
それ自体の意味も価値も一切無くなるからです。



つまり、この「自由」や「安定」とは、
社会(他者)ありき、客体なくして主体は生まれないんですな。




そう考えると、自由であり、かつ安心もできる
帰属先が必要ということ。




これを教義という「外律」で教えようとするのが
宗教・国家のような「権威」なんですが、



止めときましょう、足元を掬われるだけです。




というわけで、みなさんも暇な時に考えてみませんか^^
暇つぶしには十分すぎるテーマだと思いますので。


2012/09/03

人と自然の統合的秩序



「合理化・効率化」というキーワードは
最高の口説き文句であるが、成熟期においては
そこからいったん、離れる必要がある。



そもそも私たちの発想とは、実はかなり縛られている。
縛られた環境とはすなわち「不自然」であるが、
この「不自然さ」こそが経済の秩序を生み出しているのだ。




秩序は自然的に作られたものと
人工的につくられたものがあるが、



僕はこれからは自然派生的な秩序と
人為的な秩序の統合が必要だと思っている。




ヒュームは、人間の意図的な設計のみで作られたわけではないが、
人間の影響は受けている、ということから、
秩序は「自然でも人工でもない第三の範疇(中庸の選択)だ」とした。



機械的な閉鎖システムとは違い、
その秩序概念とは選択の結果であり、
多様性の相互触発である。



問題はその相互性がどれだけフラットかつ、
アン・コントロールで触発されるかだろう。



多くのマネジャーはそういった要因や関連を
考慮に入れず、議論することもなかったのだが、



このような態度は選択か必修かという
問題に対する関心の薄さでもある。



口では弾力性に富んだ、自由度の高い
状態が望ましいとはいうが、
現実問題それほど柔軟にはできない。



マネジャーはある種の「センス」が必要なのだ。
バランス感覚のような「感性」ともいえる。



☞ ☞ ☞


構築的合理主義者は、制度の意味を理性を駆使し、
明示的に命題を演繹して人工的に作り上げる事だと信じている。




この考えこそが複雑なシステムを構成するための
最初の原理ともいえる。



我々のような開放系相互作用システムにおいて、
「体系と効率」は演繹として使えないということだ。



かといって帰納かといえばそうでもない。
言わば「アブダクション」に近い。




2012/09/02

押しつけ


ども、グッさんです^^
9月に入りましたね。




もうすぐ僕の一番好きな季節「秋」が来ます。
この時期にお店(兼事務所)を新しくオープン出来るって嬉しいことです。





てなわけで今回のテーマ。
あくまでも個人的な意見なので暇な方はどぞ^^





○○○





アメリカのカルフォルニアでは法律で「フォアグラ」を禁止しました。
ガチョウの飼育方法が動物愛護からすると許せない、と。





また、ニューヨークではビッグサイズのジュースを
映画館や飲食店で出すのを禁止する方針だそうです。



日本とアメリカのサイズ比較 ↓








スモールサイズは日本が300mlに対し、向こうは700ml、
ビッグサイズは1300ml、





ビッグサイズの禁止の理由は「肥満防止」とのこと。
ちょっと笑えてきますね。





一番小さいのが700mlrって、そもそもが間違ってるだろって(笑)





まあこんな感じで、アメリカ行政は昔から
食べ物を始め、色んな事に干渉し
自分たちの理屈を押し付けるクセがあります。




1900年初頭にはプロヒビジョン(禁酒法)で
お酒の製造、販売を禁止してますね。
クジラだってそう、シーシェパードが「捕鯨反対」とか
よくやってます。



そんな余計な干渉とは本来独善的なものであり、
暴力を内包しているというのが個人的な意見です。
(余計な干渉と言うところがポイント)



日本人を始め、どこの民族だって自分たちの
食料を過剰に奪い絶滅させるようなバカな真似は普通しません。
しかしアメリカの場合、クジラは食べないけど「鯨油」はガンガン採ります。




クジラを捕っては油を絞り、その後どうするかと言うと
そのまま海へ捨てているんです。






昔からクジラを食料とし、クジラの供養をしてた
日本から見ると「動物愛護」という大義名分が、
実に独善的な勝手主義だと映りますね。





ちなみにライオンやワニは凶暴ですが、
例え空腹で死にそうになっても仲間は絶対に襲わないそうです。




食べる時も空腹を満たす以上はしない。
反面、人間はカニバリズムの歴史もあるし、
必要以上の食料を作っては捨ててるし、
戦争では殺人が正当化されるという奇妙な習慣さえある。




その点に限れば、人間は動物以下ですよ。




○○




しかし、当然それだけじゃぁありません。
それだと、とっくの昔に滅んでいます。






我々には相手の心を感じることができる
能力がある、それが共感です。




喜びや悲しみを自分の事のように感じれる。
先日のオリンピックでは国民が喜びを共有しましたよね。




会社で支え合い、励まし合って組織を作るのも
共感能力のおかげだといえるでしょう。





このように、人間は「暴力と慈愛」の
両方がセットという清濁併吞、グレーな存在です。



この狭間(バランス)で自己が形成され、
社会、やがて国家となる。




善悪併呑なのはマクロ的に見ても
ミクロ的に見ても変わらないんです。





だからこのバランスが今後重要になるだろうと
個人的に予測してますが、







それを書くとニーチェのようになりたくないのでやめときます(笑)




ではでは。


2012/08/14

クロポトキンとパノプティコン



この間、友人と話していた際、
アメリカでは市民監視プログラムが暴露され、
最近アップルのIOSには監視用バックドアがある、
という流れからクロポトキンとパノプティコンの話題となった。




今日はそんな話。







クロポトキン思想とは端的に書くと相互扶助、
政府支配のないコミュニティー社会の形成である。
しかし反的な、つまり意図的(人為的)な無政府は
自然崩壊ではない為、必ず誰かの思惑がある。


猿山のボスが変わればやがてそのボスが新しい支配体系を形成す。人工的な秩序とは「設計者」がいる証拠である。その他律的なものを一切排除しなくてはならない。


相互扶助が個人の思想と直結しなければ永遠にヒエラルキーとアナーキーの振り子状態となる。ホッブス「リヴァイアサン」はロックから、その絶対権力を批判されたわけだが。


「人はキツネやイタチの被害を避けるため、
ライオンに喰われるのを選ぶほど愚かなのか」と。
恣意的なものは全て偽物。当然である。




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「クロポトキン思想は代案ありのアナーキズムだ」
それが友人の意見だった。しかし、僕はそれに容易に賛同できなかった。「無政府」とは、あらゆる機関を民営化することじゃないの?小泉は正しい?あれはぶっとんだアナーキズムである。





管理社会と無法地帯。混在している現代社会。


さて、これからどちらへ傾くのやら。




雪が消えれば

ソニーの創業者である井深大氏は
経営理念を大事に語った人の一人です。



氏は教育の重要性を語り、
企業理念にもそれが如実に表れています。

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一、不当なる儲け主義を廃し、あくまで内容の充実、
実質的な活動に重点を置き、いたずらに規模の大を追わず。


一、経営規模としては、むしろ小なるを望み、
大経営企業の大経営なるがために進み得ざる分野に、
技術の進路と経営活動を期する。


一、極力製品の選択に努め、技術上の困難はむしろ
これを歓迎、量の多少に関せず最も社会的に利用度の
高い高級技術製品を対象とす。


また、単に電気、機械等の形式的分類は避け、
その両者を統合せるがごとき、他社の追随を絶対許さざる境地に独自なる製品化を行う。





これら経営方針の一部を見れば、
創業者の言葉は時代を超えても錆びないことが分かります。



古臭い信念と言うのは大いに結構、
ただ、それを否定される筋合はない。




僕がやっているフランチャイズはあくまでも手段、
目的はこの国の失われた精神性を取り戻す事です。





最後に井深氏の著書の一節を。



国会議論で、おもしろい問答がありおましたな、


「総理、雪が消えたら何になると思いますか?」

「水になる」


「いや、雪が消えたら春になるのです」


知識の詰め込み教育だけでは、
春になるという答えが出ません。


弱いは強い、強いは弱い




unreveが構築するFCは既存の縦割りFCと比べ、
限りなくフラットに近い連携を理想としています。




「連携、連帯」などと、口では簡単に言えますが、
これほど難しいものはありません。



ただ、これからは人と人との繋がり方次第で
ビジネスは大きく変わってくるのは間違いありません。



今日はそんなunreveの組織論、について。



☞ ☞ ☞



経営者だけに限らず、我々人間が
この「連携」を求めている時代というのはどんな時でしょう。



それは困っている時、
もしくは現状を変えたいという時ではないでしょうか。



そして現在それを強く求めているのはどこか、といえば、
企業の9割以上を占める中小企業です。




自社が潤っていれば連携を真剣に考えることはありません。
連携の必要性は自分の弱さを自覚したときにしか分かりませんから。



逆を言えば、その位置だからこそ
わかるものもあるのではないでしょうか。



☞☞




弱者ってそもそも何でしょう、
僕は横断的に本部を構築してるせいか、疑問に思います。



FCの本部には、「弱い加盟店を助ける、支える」
という面は確かにあるけれど、


加盟店が本部を支えることもあるのです。



そんな力関係の逆転や矛盾を説明するのは難しく、
とくに損得一義である経営の世界では理解されにくいもの。



「加盟店が指示通り動かない」
「いや、本部の指導がおかしい」



不毛な主導権争い、そんなFCはゴロゴロしています
契約書と言うものは連携の証にはならない。



そんな状況において、その力関係の正しさを
証明する事に執着し、 肝心の目的や理念が
達成できないのであれば、本末転倒です。



度々書きますが、連携は簡単ではありません。
時には叱咤激励は必要ですし、耳を傾ける受容や傾聴も大事です。



そんな正解のないものを、あーでもない、
こーでもない、とやる事が出来るかどうか。




そのプロセスが重要なキーワードです^^


☞ ☞


強さを前面に打ち出し、人を動かすのは
仕事に対する自信の現れであって素晴らしいこと。



ただ、「自分だけでは限界がある」
そんな弱さを知る人もまた、強いと思います。



そして、矛盾する言葉なのですが、
弱さを知る人が「依存なく」集まれば、強い力になると思っています。



2012/08/13

7%のシステム言語を超えて



言葉自体が相手に与える影響はどれくらいかご存じだろうか、
実はたったの7%程度だと言われている。



「メラビアンの法則」で有名なアルバート・メラビアンは、
伝達に関する影響度を調べた結果、


言語7%、口調・早さなどの声のテンポが38%、
そして、身ぶり手ぶり(振る舞い)が55%という結果を出した。



つまり、相手に伝えるのはボディ・アクションが一番大事であり、
伝える(伝わる)という相互作用には「振る舞い」が大事なのだ。



世界最高のプレゼンテーターと言われたスティーブ・ジョブスも
これら「振る舞い」を上手に使っている。



☞☞☞




つまり伝道者は「最高の役者」であればあるほど、
その影響力は強い、というものだ。


「振る舞い」はビジネスだけに限らない、
ビジュアル情報によって我々は影響を受けやすい。



そして(逆説的だが)それをもう一度
「言語に練り上げる」、それが私がやっている事だ。



理由は一つ「感性に響かせる為」だ。


☞ ☞ ☞


感性のシステム構築とはなんだろう。
そもそもシステムとは何を指すのだろう。


あらゆる組織はシステムによって動いている、
そしてシステムは「静態・動態」の2つに分けられている。


以前記事に書いたように、静態とは「閉鎖システム」、
機械のように内部完結で外部との入出力がない。


反面動態とは「開放システム」であり、
我々人間は常に開かれ、外部と相互作用を繰り返す。



言わばシステムとは「部分間の結合」であり、
その相互作用を一段上から観た時、それを「システム」と呼ぶのだろう。



つまり結合や作用を行っている「部分」の視点からでは
そのシステム全体は理解できない、と言う事だ。



ちなみにシステムには「対義語がない」。
デジタルはシステムではない、対義であるアナログにもシステムはある。


つまりシステムは「静と動」のように対こそ成すが、
我々の世界のあらゆるものに存在する「全体枠」なのだ。


枠(システム)を理解する為に科学や化学、
哲学や心理学や脳科学や量子力学が生まれた。



しかしそれを知っても子供の無邪気さは説明できない。
私を科学で笑わせる事はできない。



理性は感性のほんの僅かな部分を説明しているだけ、
だからこそ感性に興味を持った。


前回書いたが私は「システム」という言葉が嫌いだ、
それより「仕組み」の方が体温を感じる。


「感性システム」というよりも
「感性が織りなす仕組み」を作りたいと思っている。




キアスムと顛倒の真理

非局所性とは、この宇宙における現象が、
離れた場所にあっても相互に絡み合い、影響し合っているという性質のこと。


非局所的な応答が起きるということは、
喩えて言うならば、ゴムひもの1点に力を加えると
他の全ての点に変形が起きる、というようなものである


我々の本質は突き詰めると非局在的な存在であり、
本来は物理次元の制限を受けない存在なのではないか?



今回はそんな小話


☞ ☞ ☞


キアスムという概念がある。
提唱者はモーリス・メルロ・ポンティ。



西田のように主体と客体を超えようとした現象学者であり、
生涯、関係性(関係化)について考えた哲学者である。



日本では中沢新一氏がキアスムを「交差」と定義し、
以下のように説明している。


社会というものはどこでも、具体的な人間の心のつながりでできている。
社会のなかの個人は、程度の違いはあっても、けっして孤立して存在していない。


さまざまな回路をとおして、人間同士の心のつながりを維持しようという方向に、
社会は働きをおこなおうとする。つまり、人間同士を分解するのではなく、


結びつける作用が、社会には内在しているのである。
このような社会の本質を交差(キアスム)構造としてとらえることができる



それは多様な人格の交差した状態である。
私の心とあなたの心には、何らかのつながりが発生している状態があるというのだ。


これすなわち「縁」だろう。



異なる対象でも根源的なところでは共通、交差する点がある、と。



この交差点が無数の人との「関係性=縁」によって
複雑に絡み合っているのだ。



この縁とは昔からある概念、
縁結び、縁切り、縁日は新道である神社の行事。




縁は糸で「結」ばれるという、
この「結」という字は糸偏に吉と書くが、



良縁を頂いているからこそ結ばれ、
結ばれた縁が「結果」へ繋がるのだ。



☞☞




キアスムの交換はモノやサービスだけでなく、
提供者のつながり(縁)も一緒に手渡されると言う。



その要素が組み込まれた交換だけが、
贈与という性質を持っているのだ。



例えば「形見」が贈与的特性を持っているのは、まさにその媒体によって心が交差するからだろう。


☞ ☞ ☞



経済にやがて贈与的な原理が甦るだろう、と多くの専門家が言っている。
つまりそれは人間関係性の積極的な「回復」への希求である。



それについて私は多少(悪縁切り難しのように)懐疑的だが、



101匹目のサルが芋を洗いだしたように、キアスムは交差だけでなく同調するかもしれない。



ハイデガーが「ツハンデネス」と呼ぶ、
根っこの部分である見えない本質は
我々の目に見える関係性(フォルハンデネス)の認識によってあぶりだされる。



まるでイーゼンハイムの祭壇画のように
神聖さを神聖らしく表現するのではなく、



人間存在の絶望的な醜悪さが極限で示されることで
本質的な「神聖さ」が発光するという、「顛倒の真理」。



対立している対象が、飽和となり、豊穣よってに崩れていくとき、
同時にその反対物が浮かび上がってくるのだ。



やがて我々は無の本質をあぶりだす為、回帰し、経験するのだろう。

2012/08/08

雑草

昭和天皇は付き人が「雑草」というと、
「世の中に雑草というものはございません」
と言ったそうな。



確かに、そっちの方が正しい。
しかし我々は意味のある・なしに対し、
「雑」という言葉を無意識的に使ってしまう。



雑用、雑談、雑学、
これらはちゃんと必要性があるんですが、



意識はこれを「意味なし」と
捉える分別癖があるんですな。



今日は、そんな「揺らぎ・遊び」と
自然派生について。








我々は一見無駄だと思えるようなことを
やってしまう生き物なんですが、


これは生きている証拠であり、
全てを効率的かつ合理的にやってると
文字通り息が詰まっちゃいます。



僕はそんな規則正しい生き方を見ると
どうもメカニックなものを想定してしまうのです。



例えばプログラム構築の際、バグがでれば
当然、そのシステムは動くことはありません。



バグを訂正すればシステムは
「正常」に作動します。



ここでいう「正常」とは、
「変わらず、何も問題なく」、ということですよね。



では、人を管理するシステムにおいて、
「バグ」というものはあるんでしょうか、
逆に、「正常」というものはあるのでしょうか。



もちろんそんなものはない、
当たり前の話なわけです。



「正常」とは、機械の操作だけの話であって、
人に当てはめても、ロクな事にならない。



例えば、従業員が風邪を引いたとします。
その人は当然、休むわけです。



しかし、その人が重要なポストの場合、
上司なり職場のチームなりが文句を言ってくる。



「こんな時に風邪なんか引いて」と。
まるで本人にすべて原因がある、言わんばかりに。



しかし、風邪は本人の意図ではない。
逆に意識して風邪引けるわけないでしょうが。



この「勝手にそうなったもの」、
これを拒絶するのが、現代の暗黙の考えなわけです。



そこの店長さん、
そう思ってるでしょ?(笑)



☞ ☞



体調管理やら言いますけどね、
どれだけやっても体調悪い時はあるんです。


これが本人だけならまだしも、
母親だったら子供の面倒だってみている。



子供は全然、自然体ですから、
それこそすぐ、体調が悪くなる。



これはどうにもできないもの。
母親が休みの日だけ体調が悪くなる子供なんて、いるわけがない。




「雑」なものは「自然派生」なんです。
人工の建物にもハエや入ってくるし
コンクリートから雑草だって生えてるでしょう。




それがない世界は居心地良いですか?



つまりそう言う事です。





2012/07/16

マルチチュードという主体




ルネッサンス期を代表する政治思想家である
マキャベリの著書「君主論」では、統治者が
権力を獲得し大衆を管理するために
何をなさねばならないかについて書かれている。



そこで出てくる「マルチチュード」という言葉、
これは欽定訳聖書の中にもある政治概念である。
(欽定訳聖書とは国王の命令によって翻訳された聖書)



マルチチュードとは、中央制御が及ばない、
多数性が主体になっているいうこと。
つまり特定の誰かではなく、どこにいるのかも特定できない。



つまりそれは「特異点を持つ者」の総称なのだ。



後にスピノザがその概念を引き受け
「国家論」や「エチカ」を、



またアントニオ・ネグリとマイケル・ハートは
スピノザとマルクスを融合させようと試み
「帝国論」として世に送り出した。



まとめようとしてもまとまらない。
今回はそんな「マルチ」な小噺(ちがうか)。




☞ ☞ ☞



一部の特権階級層がどうにかして
システム化(ツリー)にしようとしているのは
今も昔も変わらない人間の習性のようなもの。



しかし一部の人間が作る秩序(ツリー)に、
異質で巨大な無秩序(リゾーム)がぶら下がるような構造は、
本来、非常に不自然なのだ。



結果、それに抗うようにマルチチュードの反乱が起きる。
それは同一構造である限り、誰がやっても同じ結果だろう。



しかも、ツリーを切り落としても無秩序である根が、
同じように少数のツリーを作る、と。



なるほど「まとめる」という段階で
すでに落とし穴に入り込んでいるのかもしれない。


☞☞☞


テオドール・アドルトは個人の真理追及への願望は、
いつのまにか、「頑固な自己認識」へと変わる
可能性があると示しているが、つまりそういう事だろう。




一見正しい道へと向かうようだが、
「反」の精神性では、永遠に統一されることは
不可能ではないだろうか。



そもそも論で言えば集権化した思想は必ず墜落する。
エスノセントリズムという名の「独立運動」も同じ事だ。



価値ある創造とは、マルチチュードを解放する。
決して「一部のアンチ解放」ではない。




個人的にですが、そう思っています。



2012/07/10

かに座のヴィーコ



蟹座は直感と感性と母性の星座だと毎回言われる。
なるほど、確かに僕は論理より感覚で決定するタイプだ。


暇人な僕は、歴史上の人物で
一体どんな人物がいるのか調べてみた。



なるほど、ヘルマンヘッセやガウディがいる。
ルソーにサンテグジュベリ、ルーベンスがいる。


二宮尊徳にヘミング・ウェイ、カフカにジャン・コクトー、
極めつけは、ジャンバッティスタ・ヴィーコである。



改めて驚いた、
見れば全員、僕が好きな人ばかりではないか。

ということで(?)
今日は蟹座の偉人、ヴィーコについての小話でも(笑)


ヴィーコ - 学問の起源へ (中公新書)/中央公論新社
ヴィーコについて書くと、テンションがあがります。





さて、ヴィーコはスピノザ同様、
反デカルト主義である(もともとはデカルト主義)



数学信仰であるデカルト主義者の認識論に対し、
ヴィーゴは、必要なのは「認識可能なものと
不可能なものを区別する原理である」という立場を取った。



しかし、これは排除目的の批判ではない、
ヴィーコはそれらを統合させようとしたのだ。



つまり「閉じられたテキスト」だけではなく、
「開かれ、編集されるテキスト」も必要、と言う事である。




☞ ☞ ☞



当時はデカルトの教育手法がメインであった。
それは幾何学を取りれた「クリティカ」、


それは会話を削ぎ落としたシンプルなもの。
合理的でスマート、まさに現代の「システム」だ。


反面ヴィーコが取り入れたのは「トピカ」、
「発見の知」と言われ、共通する「感覚」への注目である。



見れば、デカルトとヴィーコは「相補的」であって、
対立ではなく「共存」しているのが分かるだろう。



完全なる知の秩序を目指したデカルト、
そして、その「裏面」であるヴィーコ、



そんな矛盾が裏表として同一化している。
まるでルパンと銭形警部である(笑)









ヴィーコは自身の学問体系「トピカ」を絶対化していない


「どちらの方法も欠点を持つ」、
ヴィーコはこう切り出した。



トピカは虚偽を捕らえ
逆にクリティカは真を捉えようとしない。



つまりどちらも「真理っぽいもの」に近づくことしか
出来ないのであって「そのもの」を手に入れる事はできないのだ。




☞ ☞ ☞




あらゆるものは相対、逆を言えば「相補」、


現代は理論(科学)へバランスが傾きすぎている
僕が世間に問いたいのは、この「偏在」している事実だ。





2012/07/09

巫女舞い



神子神楽では処女の巫女が、神懸りするのを巫女舞と言います。
つまり太古の踊りとは、降臨の儀式でもあったんですね。


巫女が交互に旋回運動をしだすと、やがてトランス状態となり
神が憑依し、神託を得る、と。


これは神招(かみお)と呼ばれ、古事記や日本書紀では
岩戸隠れにおいてアマノウズメが同じように神懸かりして舞った、とされます。








「舞」という言葉の語源は、この巫女舞の旋回から来ていて
踊りの原点だとも言われてますね。



意識を超えた行為を無我夢中といいますが
とても類似している気がします。



肉体が精神に近づき、精神が肉体となり表面化する。
純粋経験とはそんなものでしょう。



☞ ☞ ☞



最近、この状態が天職なのかもしれないと、
個人的に思ってます。アイデアや発想も
この時に降りてくるんじゃないかな。




つまり、その仕事自体が独立して存在しているのではなく、
人の生命活動が結果としてそういった名詞となっている、と思うのです。



一見、仕事と自分が分かれているようですが、
行為が「働いている」という、労働の形を取っているだけで、



それは本来、人間の生命活動の一側面であり、
一つの存在を別の角度から眺めた結果かもしれません。




我々は、何かいい「仕事」はないかな?とか
楽で稼げる「仕事」はないかな?と探したりします。



ただ、そんなものが独立して存在してるなら
その仕事をしている人全員が同じ状態になってないといけない。



弁護士や医者が全員金持ちかと言えば、
そうではない人も意外と多いと分かります。



つまり、同じ仕事なのに結果が違うと言う事は
仕事の結果とは「自己の表現次第」だという証明じゃないでしょうか。



「儲かる仕事」は存在せず、
あるのはが夢中になった結果、儲けたと。







何度か経験したけれど、最近は経験がない。




また、その領域に達してみたい今日この頃ですな。


2012/07/08

最近のグッさん

この間、タイのコンテンツ案内が届きました。
多分、あの人経緯で来たんでしょう(笑)






後援が経済産業省の中国経済産業局みたいです。
なんで中国なんだろ?



今月と来月は予定が埋まってるので
行けないんですが、こういった場所にいくのは好きです。



こっちのビジネスを持っていくだけでなく、
向こうのビジネスも取り入れる、相互交流って大事ですよね^^



資料を見れば、タイも映像技術を積極的に取り入れ
クオリティもとても高いものがあります。
(あとスパとか)



ただ、飲食店は接客を始め、
質においても、まだこちらの方が強い。




相互の啓蒙って意味では、グローバルも
大事ですよね^^



☞ ☞



さて、現在手掛けている案件も面白く(かつ壮大に)
なってきました。




前面に出て、バーンとやるのも良いですけど、
黒子でやる楽しさは、距離感が分かってないとできません。



良い意味で手から離れて行く。
やる人はやる、やらない人はやらない。
待つ人は待ち、諦める人は諦める。



主体は相手ありき、
それをコントロールする事はできません。
そういったちょうどいい関係だからこそ、
ここって時には、濃密な場が生まれるんですね。


男は40歳を過ぎたら自分の顔に責任を持たなければならない
リンカーンの有名なセリフである。



この間37の誕生日を迎え、
もうすぐ40だなぁ、と思ったらなんだかゾッとしてしまった(笑)


性格は変わらないと言うけれど、
毎朝、鏡で見る自分は日々変わっていく。


否、性格もまた、変わっているのだろう、
それこそ徐々に皺が刻まれていくように。



ちなみに、顔と言うのは
自分の内側から作られるらしい。


今日はそんなところから…




imagesCAKXB0B3.jpg




日々私たちの容姿は変化する、
否、ほんの刹那の瞬間で変わることもある。



斬首刑を宣告されたマリー・アントワネットは一夜にして
頭髪が全て白髪になったというが、たぶん本当だろう。



我々はそんな経験はまず起こらないが、
痛みや苦痛の表情は誰だって経験している。



逆に嬉しい時は喜びの表情を、悲しい時は悲しみの表情。
感情と表情はまさに表裏一体である。



感情は一時的ではあるが性格はどうだろう?
個人的に人格は表情に現れると思っている。



目は口ほどに・・・・というように、
年を重ねるにつれ、容姿はその人の内面や本質を表している。



本来、人はそれが直感的に分かっていると思う。
その人の人格や生き様を多分、感覚では分かってるのではないだろうか?



だから冒頭に書いたようにゾッとする、
3年後、私は自分の顔に責任を持てるのだろうか、と(笑)



さて、偉大なる功績を残したり、天才的な才能を持った肖像画を見れば、
普通の人の容姿とは間違いなく異なっているのが分かるだろう。



特に文化や芸術分野の天才の顔、哲学者などは
その独創性からか、孤独や苦悩が昇華したような顔をしているし、



有名な経営者は人への感謝を心から知っている顔もあれば、
全ての人が自分より下だと思ってるような顔もある。



他人を信じられない、平気で裏切る顔。
正直すぎて騙される顔、信頼できる顔。



同じ顔は世界に2つとないけれど、不思議と共通する感覚知、
これは人間の無意識と意識の狭間の感覚なので表面化できる。



多分人の顔は見た目が良い、悪いといった単純なものではない。
第一印象、見た目とは外見ではない気がするのだ。




それはもっと深い所にある「フック」に何かが引っかかるようなイメージに近い。

2012/06/11

オーダー、フォーム、シェイプ


建築家であるルイス・カーンは建築の思想のコアに
「オーダー」・「フォーム」・「シェイプ」といった建築論があります。


オーダーとは秩序を生み出す原動力、
そしてフォームは見えない形式的な本性。


最後のシェイプとは表層的な形態を指します。


建築家は形態といった視覚可能なものだけでなく、
その先にある見えない論理(フォーム)を把握するんですね。


それは近代化や大量生産・構造主義に対する抵抗であり、
素材そのものに対する、深い審美眼じゃないでしょうか。


構成する見えない不可視そのものを対象とし、
制御しようとする意思、


それはまさに「見えない、理解できない」ものを掴むという
非線形の世界解釈のようです。







構造設計家であるセシルバルモンドは、
非線形的構造を構造力学へ導入しました。


これは世界でも初めての試みであって、
形態生成と科学と芸術の重なり合い、
不可視の構成ルールという全く新しい創造手法です。



常識として建築とは、全て構造原理から
作られているという「構造合理主義」だったんですが、
必ずしもそうではなかったということですね。
あのガウディ(僕も同じ誕生日)も
ゴシックの構造は合理的ではないという結論に達した結果、
あの有名な三次元逆さ吊り模型実験を行いました。


リゾームとツリー。
どちらかだけ選ぶのではなく、融合と言う選択肢。
そういや2026年には未完の大聖堂「サグラダファミリア」が完成するのだとか。


300年かかると言われたのに・・・・
生きてる間に見れるなんて幸せ者です^^




☞☞


定義から外れているものって
説明が難しい、できないものが多いですが、
説明ができない=価値がない。ではないですよね。



何だか分からない。
けれど、そのように感じていた。


何かしらの背景や、科学的な根拠があったとしても、
それ抜きで「良い」と思える何かがあった。


批評も考察もなく、ただ良い、と感じる心って大切ですね。





芸術作品の創造は必要を満たす行為ではなく、
必要を創造する行為なのだ。

ベートーヴェンが第五交響曲をを作曲するまで、
世界はそれを必要としていなかった。


今は、それなしではいられない





2012/06/05

自然とは、異なる事なり


さて、unreveでは個性を重視している反面、
守破離といった「型」のFCの継承を説いています。



矛盾しているようですが、そもそも個性とは
「100%の独自」ではない。




人間の遺伝子の約93%は全く同じです。
よって、共通する遺伝子の組換えが起こっても
それを受け継いだ遺伝子には何ら変化はありません。




残りの7%が大事なのです。
この「僅か7%」の違いこそが、多様な個性を生んでいる。




ちなみに、その異なる遺伝子の数は7千個以上と言います。
よって、その組み合わせの累計は2の7千乗。



すごくないですか?



だって「2の100乗」でも、
126穣、7650杼、6002垓、2823京、8993兆、375億、6641万、
752パターンあるんですから(笑)






2012/06/04

金閣寺

眠れないので、
久々に三島由紀夫の金閣寺を開いてみた。


金閣寺 (新潮文庫)/新潮社
¥637
Amazon.co.jp

吃音(どもり)である、主人公の溝口少年は、
世界において、己が己であるために「隔離」が必要であった。
逆説的だが、絶対的な存在証明が「世界との断絶」、というわけだ。


自己の意思や感情の表現がうまくできない溝口は、
内に閉じこもり、人から愛されなかった。


溝口は世間と融和することができない(と信じてる)。
そんな劣等感と虚栄心、そして多層的なニヒリズム。



まさに三島文学、というべきだろう。


☞ ☞


普通、誰しも世界との距離を感じれば、
なにかしらその(世間)距離感を補正しようと試みる。


なぜなら(形式こそ違えど)我々にはある種の
帰属意識、共同体の一員だという存在証明が必要なのだ。



しかし彼は放棄した。
否、吃音によって放棄せざるを得なかったのだ。
これは最低限の手段の喪失によるものである。



これを見ると、会話というものが
いかに有効な接続手段であるという事が、よく分かる。



そこから、世界に認められないこと自体が、
彼のレーゾン・デートル(存在証明)になったのだ。
ただ、その確信は永遠的な支えにはならない。



なぜなら、彼は特別な人間ではないのだから。



☞ ☞

「この世界を変貌させるの認識だ」という友人に対し
「世界を変貌させるのは行為なんだ」と反論する溝口、


そして、絶対的な美とされる金閣寺を放火することで、
彼は生きることを決める。


つまりこの物語の溝口は三島であり、
金閣寺や母親とは彼にとっての絶望と希望のシンボルではないだろうか。



絶対的な美(金閣寺)の対極にある、
不治の希望を持つ醜悪な母親とは、「世間」を投影したものである。



この2つは溝口の自己存在の源泉だ。
産んだ母親はこの世界、そして金閣寺とは日本の魂の美意識。



主人公である溝口は、過去の三島そのものなのだ。



溝口が金閣寺を愛するように、
三島は根底にある「日本の魂」を愛していた。



金閣寺に火を付けて得た「生」とは永遠の面影である。
これは多義的、実に多義的な物語なのだ。



読み終わった後にくる、この何とも言えない
哀愁と悲壮感の入り混じった感覚を何倍も希釈すれば、



現代の政治を見て感じるものと、似たようなものかもしれない。



☞ ☞



本であれ、器であれ、思想であれ、
本物と呼ばれるものには、ある共通点がある。



それは、ある固有性が軸にありながらも、
多層的なレイヤーを内包しているというものだ。



そんな薄皮を一枚一枚剥がして行くと
巨大なものが顔を出す。



故に、そういった作品を安易に批判したり、
認めたりする評論家たちを見ると、僕は違和感を覚えてしまう。




これは人生にも当てはまるかもしれない。
もうそろそろ変わる気がするが。






2012/05/14

シンプル・ルール・イズ・ベスト




「DNA情報は言語に似た構造を持っている」。
これはデヴィット・サールスの仮説です。


「話す能力は遺伝」といわれるように、
DNAと言語は密接な関係性があるようですね。




はじめに言葉ありき





つまり我々のDNA は言葉とその振動によって
再プログラムされている、かもしれません。



今回はそんなトンデモ話を使った
unreveの「拍子」の概念でも。




☞ ☞ ☞



さて、DNAは単純なルールしかありません、
DNA上のデータは「A・T・G・C」の4記号で表現されます。



まるで機械言語の「0・1」のようですね、
DNAの場合ではアデニン、グアニン、チミン、シトシンという
塩基がその役割を果たしているのです。



DNA分子は2本が寄り添った螺旋(らせん)状の構造です。



(4重螺旋の話はひとまず置いといて)
その2本は塩基の部分で結合しており、
AはTと、GはCと対になってる。これを塩基対といいます。



DNAのプログラムは4つの記号で
完全に表現できるということは、



まるで、その4つの中に宇宙の起源が詰まっているようですね。








さて、塩基対の組み合わせは単純かつ「絶対的なルール」、
この厳密なルールに対応することを相補的といいます。



DNAに保存された遺伝情報がRNAによってタンパク質を作る。
これがセントラルドグマと言われています。


自然の現象を観測すれば、
一見複雑のようで単純な結果の組み合わせ、
「かつ厳格」です。



しかし、作為のない厳格さの裏には
美しい自然の法則がまさにパズルのように隠されている。



前回書いたフィボナッチ数列も一つ前の情報に沿っています、
その形態を作るのは単純、「n-1」。



指が短くても長くても同じ「手」として機能するのは、
この厳格なルールに従っているからなんですね。



我々はあまりにもルールをいじくり、数値化した結果、
進化したつもりが退化したのかもしれません。



☞ ☞ ☞



リゾーム組織を構築する際、
こういった単純かつ絶対的なルールがあります。



単純なコアバリューを徹底的(厳格)に伝える。
これは主観のエゴや思惑、原理が入っていると不可能でしょう。



だからこそ、その理念は「全体」である必要が出てくるのです。
見れば働く側の「内部報酬」が組み込まれていますよね。



つまりこの「コアバリュー」はルールではなく、環境や条件によって
内容や結果がおのずと変わる仕組み、ということ。




それが浸透すればやがて「文化・風土」となる。
日本が得意とする長期的視点、「千客万来」の仕組みです。




2012/05/08

杉と楠

剣道では、基本の道として
「杉と楠の教え」というものがあります。



杉の木はその成長こそ、早いけど、
地下に張る根はとても短いため、
台風が来れば、すぐ倒木してしまうといいます。



反面、楠の木は、杉の木と比べ、
成長がとても遅い。



しかし、その地中を見れば、
根(リゾーム)は大変深く伸びながら、
どんどん広がっているというのです。



結果、ちょっとやそっとの台風が
来ても倒れない「土台」が出来る。



さらには、楠の成長は「持続性」があり、
根も幹も、ゆっくりではありますが、
どんどん伸び続けるのです。




なるほど、
「外側」が強烈に襲ってくる際、
それに抵抗する免疫機能でもあるのでしょう。




そんな前置きから
今日の小話でも。








さて、内面を見つめるなんて行為、
これほどsnsが発達した現代では
もはや死語に近いのかもしれません。



そんな精神性を口にすれば、
無視されるか、冷笑されて
しまう事もあるでしょう。




確かに(おおげさな言い方をすれば)、
生命の本質は関係性ですので、
それは収束ではなく、拡散の中にこそ
あるのかもしれません。




故に、我々の価値評価は常に
「外部」によって、担保されていますが、
その外部評価を決定するものこそ、
「内部派生」によるものではないでしょうか。



ここで言う「内面」とは、
孤独で一人ぼっちになることではなく、
フェイスブックやラインなどの
snsを辞めることでもありません。



それは、周りの評価に距離を置き、
自分だけの「想い」の時間を持つこと。
想う事を失った反射神経的な
コミュニケーションは、確かに
他人との「距離」こそ短くするのですが、
そこには、人と比べる事によって得る
相対的な欲求と、それによる満足が
優先されてしまうことがある、
これは個人に限らず企業でも同じようなものでしょう。



儲けてナンボ、会社規模でナンボ。
年商1億の社長は、10億と比べ、
その都度劣等感を覚え、



年商10億の社長は、
年商100億と比べる。



そんなところに本当の満足なんて
ありはしません。



逆に謙虚で、とても静かなもの。
そうじゃないですか。


ヒエラルキーのネジを緩める



絵に描いたような美しい構造でも、
蓋を開けてみれば、うまく機能しない。
そんなことって、よくありますよね。


経営の世界では
「キレイな組織を作ろうとすると失敗する」と
よく言われますが、原理原則のロジカル思考では、
どうしても美しい組織を作りがちです。


それは美しいかもしれない、けれど静止している。
つまりそういうことでしょう。


今日はちょっと個人的な研究分野ですので
お暇なかただけどうぞ^^


☞ ☞ ☞




さて医学者であり複雑系の研究者であるアシュビーは
その研究の結果を実にシンプルに説明していますね。


複雑な環境に対応することができるものとは、
それと同じくらい複雑さを内包している」。



アシュビーの言う「最小多様度の原理」とは、
内部の複雑さこそが外部の複雑さを引き下げる
というもの。多様度とはその主体対象が可能な
「状態の数」、つまり、あるシステムの境界を
維持しうるためには、システム内に多様な
「状態」を維持する事が大事です。



よって冒頭にある「美しい構造」とは違い、
複雑系である以上、歪な形になるのは必然のこと。
そこに合理的な理由があるからこそ、その
イビツで複雑で多様な「ソレ」を内包させる意味があるのです。


リゾーム派生概念がブリコラージュ的だというのは
野性的な思考を内包する理論だから、と言えますね。
(詳しくはレヴィ=ストロースの記事を参照)



例えば、まかない飯の「賄い(まかない)」とは
「用意」を意味します、お客に用意して
食材が余った「状態」から自分達の食事を
作るという、ブリコラージュ的発想です。



子供が作る秘密基地もそう、
漫画「アキラ」の鉄男の右腕もそう、
パンクロック衣装の安全ピンもそう、
ロジカル思考が構造から出来事を作るのに対して、
ブリコラージュは出来事から構造を作るのです。


鉄雄は無理だったけどね。



閑話休題、
価値観が多様化している現在の成熟社会
システムにおいて、アシュビーの言う
最小多様度である多様な「対応構造」を
包摂させることが、今後必要になってくるでしょう。



複雑系である以上、非線形である
「不確実性」や「矛盾」をも内包する。
それがunreveの定義する「ゆらぎ・あそび・加減」です。





ストーブは点火したらそれまでです。
一定の温度でずっと燃え続けます。


反面、エアコンは室内の温度を一定に保ちます、
「サーモスイッチ」によって部屋が暖かくなれば
自動的に止まり、部屋の温度が下がれば自動的に温めるのです。


つまりエアコンではなく、サーモスイッチが
外部環境の変化に対応する仕組みである、と。



最後はめちゃくちゃ味気ない感じですが(笑)
我々はそんな機械より、もっと優れた「状態」を作りだせるのです。




「実際どうやるの!?」という方は
office unreveの公式ホームページ も、ぜひ一緒にご覧ください!


2012/05/01

啓蒙とコムーネ


unreveの坂口です、
お忙しい中、訪問ありがとうございます^^



世間はGWに突入しましたね。クライアントさんの仕事を始め、
個人的に色々とやる事があって、今年は連休とかは無理ですが、



福岡の有名なお祭り「博多どんたく」には
必ず行きます( ̄∇ ̄+)ニパッ



今日のテーマは「啓蒙とコムーネ」。
連休中の息抜き程度にお付き合い下さい。



☞ ☞ ☞



さて、啓蒙とは「蒙を啓く」という言葉通り、
「暗い無知な状態を明るくする」という意味です。



古い偏見を捨て去り、理性的・合理的に考えようという事から、
ヨーロッパを中心として広がったんですね。



今でもヨーロッパ圏ではバル・カフェ等で議論がさかんに行われており、
特にイタリア人は「議論好き」です。



なるほど、世界で最初に大学を作ったのも、
イタリア(ボローニャ)ですし、そういった心性があるのでしょう。



彼らは深いテーマをごく当たり前のように捉え、
夜中まで延々とディスカッションを続けます。


それを聞いて感動したので、もしかすると僕には
イタリア人の血が10ccくらい混じっているのかもしれません(笑)





イタリアでは歴史上の背景からか、独自のミクロ単位の
自治体が数多く存在し、その単位は「コムーネ」と呼ばれています。


英語ではコミューン、共同体の事です。
各コムーネの数はイタリア全土で約9000とも言われ、
独自の自治スタイルを取り入れているようです。



驚くことに、そこではなんと
市長や議員も「ボランティア」で
手伝っているのだとか。


その「場」での論議は日本の本音と建前のようなものではなく、
国の政治から自分のコムーネ内の政治まで何でもテーマにします。



そこで自分が支持している党を隠すのはご法度らしく、
それを名乗ってから議論するようです。



本当のことをありのままに語るのは
なかなか難しいもの、
それを可能にするコムーネは
実に素晴らしい仕組みだと言えますね。



ちなみに向こうでは精神的な病気にかかる人がほとんどなく、病院も増やしてません。



反面、この国はどんどん増えてます。
論議と精神衛生の因果関係は僕も詳しくは知りませんが、



「対話の場」というのは、精神衛生上
あった方が良いですよね。



幸い、僕にはコーヒー1杯で数時間話せる人がいますが、


将来、奥さんともそうできれば良いな(笑)




2012/04/10

パタン・ランゲージ




スキルが発達すればマニュアルはかえって邪魔になる、
これは熟練のプロフェショナルなら頷ける部分だろう。


マニュアルとは言わば「制約」である。
遵守であるが厳守ではない。



しかし、この制約によって
暴走に歯止めをかける場合もあるのだ。



今日はそんなところから。
あくまでも個人的な意見です。









アレグザンダーはセミラティス構造による認識が重要だと説いた、
セミラティスとは、組み合った集合の包含関係のことである。



長い年月によって自然に派生した都市の形態に
物質的要素の集合が関係性を持ち合う、
まさに統合的な構造論だと言えるだろう。



氏は自然構造はすべてセミラティスだが、
我々人間は、それらを全てツリー構造に
還元してしまう傾向があるという、



「都市はツリーではない」。


なるほど。アレグザンダーの目には
ハイエク同様、不自然な都市に映っていたのだろう。



☞☞



建築家の創造性は時として暴走してしまう。
ツリーへの希求とは、まさに理性的な偏在である。



しかし、専門家以外の人からすれば、その
暴走性に対し、反論することができない。



これでは集団の力はますます強固になる。
国家もまた、同じことが言えるだろう。



故にアレグザンダーはそこに境界線を引いた。
それが「パタン・ランゲージ」である。



それは建物や街の形態に繰り返し現れる
法則性(パターン)を言語(ランゲージ)にして
誰でも参加できる共有言語のこと、



その数、実に253種類パターン。
これによって、専門家ではなくとも、
意見することができるし、チェックすることもできるだろう、と。



いわばクリエイティブである創造性に
ある種の制約をかけることを目的としているのだ。




ちなみにこのパターンはコンセプトと違って変化する。
だからこそ、「生き生きとした有機的な都市」が
生まれると言うことだ。










現代人は法則とか概念とか、建物や町を
生き生きとさせるにはなにをすべきかと言った
ことに捕らわれすぎていて、事物がなすがままに
発生するのを恐れるようになった。

「体系」や「手順」とともに作業をしないと
自分たちの環境が混沌に陥ると思い込んでいる。 



~「時を超えた建築への道より」~





一人の天才が作り出すものと
最大公約数的な集合知、そのどちらが
優れているかは断言できないが、




氏が作った「共有地」であるこのパタン概念は
我々も参考になるのではないだろうか。






「後記」


とは言え、パタンだけでは
どうもうまく行かなかったらしい。



そこでアレグザンダーは解決策として
「秩序の本質」を書き出している。




それがまるで哲学書か神秘主義者が
書いたような内容になっているのは、
多分に本質を追及した結果だろう。




もしかすると、アレグザンダーは
形式できない形式美を求めているのかもしれない。




2012/04/09

ビッグの終焉

松岡正剛氏の「千夜千冊」より一部引用



日本社会では「大きいもの」や「大きいこと」が
いまだ罷り通っている。

とくに大企業は生き延びるためにはひたすらM&Aをしつづけて、
巨体を虚体にしながらも「ビッグ」を維持しようとする。
よせばいいのに、それを四半期ごとにチェックする。


中略~

すでに「大きいもの」は偏向しているか、
荷重に喘いでいるか、衰弱しつつあると見るわけだ。


中略~

もはや「大きいもの」が信用できるとはかぎらなくなったのだ。
大軍事、大原発、大農業、大銀行、大証券、大企業、大コンサル、大流通、大団体、大新聞、大代理店‥‥。


引用終了



ちなみにこれが題材とした著書「ビッグの終焉」、
「大きなもの好き」のアメリカ発というのがまた興味深いです。

ビッグの終焉: ラディカル・コネクティビティがもたらす未来社会/東洋経済新報社
¥1,944
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unreveのFC概念にも通じることから
今日はそんな所からの小話でも。


☞ ☞ ☞


さて僕自身、これを手にとって読んでいないので、
都合のよい解釈をしているかもしれませんが、


新しい時代の組織形態は、すでにその概念から
可視化レベルにまで進んでいるんじゃないか、と感じます。


以前予想したように、あともう数年もすれば
FCの形態は大企業だけの特権ではなく中小にまで浸透するでしょう。


問題はその少数FCが「小よく大を制す」には、
その質において特化しなくてはいけない、と言う事です。


だからこそ、各自が主体性を持った「少数精鋭」であって、
これが「少数緩鈍」ではただの談合、仲良しグループです。


さらに、一部が引っ張るだけの構造では
ヒエラルキーのフラクタルにすぎません、大事なのは加減の定義です。


☞ ☞ ☞


思えば僕が4年前、このようなFC構造を持った
「小さくても最適なFC」を提唱した際、同業者からかなり批判を受けてました。


「フランチャイズは短期間で拡大する為のものですよ」と冷笑されたり、
「小さいFCなんて、全く意味がない」と言われました。


ただ今現在、その立場が変わってきたのを感じます。
アルビン・トフラーの第3の波は正しく押し寄せている、と。


・・・・リンク張ろうとしたけど、この記事も消えてますね(ノω・、)



兎にも角にも、もう少しです(笑)



ひっくり返す為には(数ではない)実績が必要です、
クライアントの皆さん、共にティッピングポイントを目指しましょう^^


☞ ☞ ☞


閑話休題
本書にあるラディカル・コネクティビティとは
電子ネットワークの「根っこ」(radical)で互いに繋がる
相互連接力(connectivity)だ、とあります。


つまり少数が「精鋭」となるためには
積み上げ式の階層ではなく流動性を内包したものでなくてはいけない。


それがリゾーム派生であり、組織論において
その非線形の最適な状態(間・場・拍子・あそび)を提唱しています。


「最適化」、これが一番難しい部分ですが、
これが持続性・継続性であるサスティナビリティを内包しているのは間違いありません。


最適化はサーモスタットの役割を持ちます、
つまり流動化するのです。


先ほど書いたように、階層型は積み上げる事はできますが、
固定されるが故、流動性は乏しく出る杭と見なされがちです。


逆にベクトル(または志向性)だけを枠とした組織は
積み上げる事やトップダウンには不向きな反面、その流動性は高い。


また、前者は拡大する為の吸収・合併が常に必要ですが
派生式はその自主・自生的な側面において最適に「浸透する」というニュアンス(散逸)に近いです。


両者を比べると大きな違いはその「境界線」であり、
それが分別のないフラットな形態を生み出すのでは・・・
というのを現段階、概念の定義としています。


☞ ☞

そんな流動性を保つためにも
「言語」を使って「対話」しなくてはいけません。


数字は客観性を持つ事から万人に共有できます、
しかし数字や理論だけではリゾームは派生しません。


例えば「前年比120%」と言えば誰もが同じ認識ですが、
「あなたが好き」と言えばその意味は人によって異なります。


その千差万別な「状態」を崩さない寛容さに加え、
数字とは別の「係数」を生み出す必要があるのです。


感情がリゾームのトリガーである以上、
数値・形式的だけのマネジメントから脱却しないといけません。


その感情でさえも数式化しようと試みるのは問題外です、
それはもう二進数の「01」と変わりません。


そして、だからこそ、優秀な人材が辞めていくのです。
選んでいるのは企業ではありません、伝わってますでしょうか。


リゾームと色相環



我々が持っている自信とは、内的動機の主材料であり、
それはモチベーションとは意味が全然違う。



そもそも自信があるからこそモチベーションが上がり、
自信があるからこそ、行動や決断に迷いが無いのだ。



仕事だけでなく、
人生においてはこの「自信=信念」で全てが決まると言っても過言ではない。



自信ひとつで認識がガラリと変わるのだ、
不可能を可能にし、非常識を常識とする。



自信がない人は他人に振り回される。
己の意見の正しさを己に認める事ができないからだ。



なぜ認められないか?
それは自分に正解が用意されていないからである。



そもそも意見や選択とは、どれもが正しくどれもが間違っている。
微分方程式である以上、絶対はない。



選択と決定は周囲の意見や社会通念、
通説、常識から判断するのが一般的なのだが、
それは多くの意見であり、マジョリティなだけである。




マジョリティは変化する。
なぜならそれは「部分的」を超えることがないからだ。



つまりマジョリティは「ミカンの意見」である、
そこではリンコの意見は当然「異論」となっているだけだ。



仮にあなたがミカンだとすれば、その意見は正しい。
絶対的な正解でもかまわない。



しかしあなたがリンゴである場合、それは正しくはない。
だからといってその意見が間違っているか、といえばそうではない。



これが覚えるべき第一の原則である。
本来、意見とは立場や環境など、特性の数だけあるのだ。



それを相手に合わせる必要はないし、その意見は我儘ではない。
我儘というのは自分の意見を「相手に押し付ける」事である。



今の世の中は「協調性と同調性」が同じ意味で使われている。
「世間の我儘」を全員で受け入れようとしているのだ。



当然人の精神は変形するし、奇形する。
それは美徳ではなく、ただのストレスだというのは言うまでもない。



本来、意見とは水と油の場合がほとんどである、
それをやれ油が正しいとか水が正しいとかで争っているのが現在の風潮だ。



「同じ意見の人もいるだろう」と思うだろうが、
それは、ただ「水と海水」のように属性が近いだけである。



例えば、好きな歌手が同じだとしても、好きな曲まで同じではないし、
仮に同じ曲が好きだとしても、テンポや部分まで全く同じ人なんていない。



意見が同一しないのは自然なことであって、
両親媒性物質のような対立した意見を混合させる媒体はないのである。



余談だが宇宙では水と油は混ざる。比重がないからだ。
悟りを端的に説明するならば、比重(差)を取った状態(一如)なのだろう。



☞☞


閑話休題

我々コンサルの最終的な目的はクライアントに自信を持たせる事だ。
意見を押し付けたり、一から十までやるコンサルはコンサルではない。
それは受注、請負業の仕事であって役割が違う。



悲しいかな、今の時代では自信は勝ち得るものであり、
場合によっては戦う時もある。



対立する意見を持った相手が同調圧力を強いる限り、それは続く。
つまり相手は排除か修正を強いているのだ。



ミカンの意見が正しいと、どうリンゴに納得させるというのか?
リンゴの樹はミカンの実がなるとでも言うのだろうか?



前回に続き書いてしまうが、一番やってはいけないのは同調である、
これが自信が失われる最大の原因なのだろう。



☞ ☞ ☞



今の同調社会は自信の欠如である、
今の若者が希望を持てないのは、何者にもなれないと思っている。



もちろんそんな事はない。
自分を知りさえすれば、自然に自信や希望や動機は起こるもの。



今の資本主義、つまり経済システムで生きている我々は
同調せざるを得ない環境にいるが、



現在、組織はどんどん縮小化されるか統合しされているかに向かっている。
属性をとことん無視するシステムか、属性ごとに分類しているか、である。



これだけコミュニティや異業種交流、草の根運動が増えたのも
近い属性同士が集まりだしている証拠だろう。



今までバラバラなものを会社と言う一つの箱に詰め込んでいたのが
崩壊し、新しく「再結合」されているように私には映る。




また、同じ属性が集まるのではなく(今はそれに近いが)
色相環の「補色」、五行の「相生・相克」を組み合わせたようなイメージである。




2012/04/08

職人のすすめ



鋭さと柔らかさを同時に持つのは難しいこと。



例えば、多くの人が関われば関わるほど、
良くも悪くもエッジの利いた部分が減ってしまいます。




シャープでとんがった部分と言うのは
僕の中では調和と同じくらい大事なもの、




職人的な事をやってる人なら分かると思うのですが、
妥協に愛情なんてそうそう感じませんよね。




市場は顧客から作られてるのは間違いない、
しかし、別の視点から見れば作り手が
市場価値を生み出してる側面だってある。




ここで「どっちが正解か?」となるから、
白黒になってくるんです。




今回はそんなことをツラツラと、
あくまでも個人的な意見です(・ω・)b









うちのクライアントさんのは圧倒的に後者である職人気質、
新たな価値を創りだし、そこに需要が生まれています。



通常のFCでは企画開発が一元管理し、
それを各店舗に広げていく流れですが、



FC加盟店がそれぞれの地域で、
それぞれの価値を生み出せるのが理想だと思っています。



そんな職人的なFCは今までありませんでした、
本来のFCの定義は「より簡素に、よりスピーディーに」。
そして「より画一的に」でしたから。




欧米的なFCをそのまま輸入して当てはめたもんだから、
スキル・テクニックのような「やり方重視」に走っちゃった。



そう言ってる私自信も以前はそうでした、
数字は経営を語ると信じていましたから(笑)



しかし、現場との乖離が一向に縮まらない、
例えば固定費なんてそもそも固定はしていないわけで、



人件費だってベテランと入ったばかりの人が一緒くただから、
人件費だけ見ても効率性(言い方悪いですが)が全く違う。



それを突っ込んで突っ込んでいくと
そこには数値化されない「人」に行き着くんですね。



人って不思議なもんで、その人の実力が仮に「50」だとしても、
環境次第で10にもなれば100にもなる。




在庫や光熱費のように一定化できないんですね。
だからこそ、「人材」です。




経営者の本を比べればすぐに分かると思うのですが、
海外の経営書が実質的な技術面(やり方)特化しているのに対し、



日本の経営書と言えば技術云々ではなく
考え方(在り方)を滔々と語っています。




日本なら、日本流のFCを目指すべきではないでしょうか、
そんな理由から「暖簾」というスタイルで継承するFCを構築しています。




職人のこだわりを暖簾に乗せ、
全国へ広げられたらどれだけ素晴らしいだろう、と。




そう思ってます( ̄▽+ ̄*)





思えば職人の人って今はかなり減少しつつあります、
飲食店なんてまさにそう。



多くの飲食店は既製品でのオペレーションが確立されましたし、
中食産業の形態も定着しました。



結果、優れた職人を高給で雇わずとも
チェーン店ではアルバイトやパートで運営できています。



しかしながら、知的労働にせよ、肉体労働にせよ、
今後は逆にこの職人が必要と思うのです。



職人はその業種の「裏と表」が分かってる、
やってる対象の「マイナス面」も知っている人が多い。




機械関係に携わる人だって、機械の「愚かさ」を分かってる。
「機械万歳」のような都合のいい一元論の人ではないんですね。




だからこそ、基本を始めとした「やり方」だけでなく、
全体の「在り方」までも見て、そこから自分の意見が出せている。




それを聞くと、冒頭に書いた独自の「エッジ」がある。
「あー、この人って職人なんだなぁ」と思ったりします。




そんな人には嘘や建前が通用しません、
職人タイプの人って、基本騙されない人が多いんですよ。




詐欺的なセールストークで騙されたり、
世間に出回ってる偽物思想に染まってる
一流職人なんて見た事ありませんよね(笑)




今は端的な「やり方」を情報化し広げ、売り、流動させるという、
フランチャイズばかり。




プロはいるけど職人はいない。
だからこそ、職人のFCを広げていこうかな、と。





2012/04/04

雪の轍

ロイヤルホストが中国から撤退したようですね。

(朝日デジタルより)



原因は、より高い賃金を求めて従業員が入れ替わり、
調理や接客などのノウハウが定着しなかったためだ、と。


確かに、いくら高性能なオペーレーションシステムがあっても
ノウハウの定着・蓄積がなければ水泡に帰す結果となります。



当たり前の事ですが、ノウハウを定着・蓄積するのは
開発部でも管理本部でもなく、「現場で働く人たち」です。



ここを備え付けのマニュアルと教育テキストで
管理できると思う事自体が間違っています。



国内でも人材不足で悩んでいる所の多くが
「オペレーション」ありきなんですが、


そんな欧米輸入のチェーン理論でやっていたから、
こぞってこの段階で躓いているんですね。


根っこ(本質的な原因)はもう分かってるはずです。
しかし、どうにか転換しようにも、母体は大きくなりすぎてるし
「根っこ(リゾーム)」が深いため、容易には変えれないのでしょう。



故に、簡単で短期的な「お金」で解決しているんですが、
現在、お金だけでは人が集まらない。



皮肉にも、彼らは価格で人(お客)を集める事に成功し、
価格で人(従業員)が集まらないのです。




結果、数千万をかけて作った店舗や
赤字ではない「黒字店舗」が「空箱」になっています。



☞ ☞


このように、国内にせよ海外にせよ、
撤退する背景には不完全な運営状態による、
「らしさの喪失」があります。


今回の件しかり、以前のユニクロしかり、
誤解を恐れずに言えば、資本がある企業が
拡大しようと思えば、いくらでもできます。



事業の拡大自体はさほど重要ではないのです、
DNAをいかに引き継ぐか、これが重要なのです。



そのDNA(らしさ)が、継承すべき暗黙知です。
それは、ブランドやマニュアルとは違う場所にあります。

この概念を失ったまま、規模だけを拡大する。
それはもう拡大ではなく、単なる「肥大化」です。


肥満体になって「成長した」とは言えません。
逆にそれは「劣化した状態」なのですから。



☞ ☞



そもそも拡大の欲求は、人間の根源的な本能です。
よって、誰もがこの欲求を持っています。



それを抑えろ、ではありません。
本来の拡大の定義は「成長」という事を理解するのです。



ブクブク太りたい、という人なんていません。
この加減の定義が日本流FCの最大のポイントです。


膨張や肥大化は、ただの「暴走」であって、
風船やバブルのように、やがて弾けるのは必然、



有限の世界である以上、必ず飽和点があります。


昨今のM&Aを見れば、拡大なのか、肥大なのか
もはや分からなくなっている感さえありますが、



あちらにはあちらの事情があるのでしょう、
最近は静観することにしています。



☞ ☞



閑話休題
正しい拡大には必ず「最適値の見極め」が必要、
僕はそう思っています。


よってunreveは最適な状態を保つため、
日本流「型の継承」としてお伝えしています。



その型とは言わば、ラインシステム、
多様な要素を有機的に統合したものです。



多様が一本のラインと成る。
雪の積もる道をみんなが歩くことで、出来た道のようなイメージです。









その「らしさ」を継承するための「守破離の仕組み」であり、
場であり、間であり、拍子であり、馴染み、散逸、加減、自己組織化といった概念があります。



本に折り目をつければ、勝手に開くように、
まずはそれを繰り返し体感すること、それが「守」の定義です。





2012/04/03

人間の条件

久方ぶりにハンナ・アーレントを読み返してみる。


人間の条件、革命について、全体主義の起源・・・
意外と、内容覚えているもんだなぁ。



ちなみに暗い所で暗い本読むと、
その反動で明るい性格になれますよ←大嘘



☞☞




朝から何杯もコーヒーを飲むのが日課のハンナ、
その習慣を守るため、学校の授業をボイコットし、
退学させられるような一面も。

そんなハンナが追及しようとしたもの、
それは「自由とは何か?」



彼女は、政治哲学をギリシャ的な公共性を元に、
自由を定義し、構築しようと試みた。



精神だけでは自由は掴めない、
精神と現象の関係性において、それは可能だ、と。



ニーチェとは違った、関係性においての自由、
ハイデガーとの出会いがそうさせたのでしょうか。
(ちょっと意地悪な疑問ですが)



ナチスの強制収容所から脱出し、
アメリカに亡命したハンナ、



奪われた自由、取り戻す自由によって、
人間の根源的な自由を問い続けたのです。


今日はそんな、ハンナ、話でも。
(ここからちょっと文体が堅くなります)


ハンナ・アーレント [DVD]/ポニーキャニオン
¥5,076
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さて、題名には「人間の条件」とあるが、
ハンナは、条件そのものの定義はしていない。



彼女が言う条件とは、公共性(公共空間論)
という概念である。


パブリックにプライベート(自由)を組み合わせた、
政治システムの完成形(不死の活動共同体)、



これは二項同体であり、永続的な「活動状態」とは
リゾーム派生の流動的組織形態の概念に近い。



リゾームがヒエラルキーのアンチテーゼではないように、
二分し、別物としながら繋がるように、並列的な構造なのだ。



なぜ公共性や流動性が必要なのか?は
度々書いているので詳細は省くが、



全体(マジョリティ)を部分(マイノリティ)で
破壊しても、やがて新しい全体が生まれ、固定するからである。



よって、ヒエラルキーのような階層にはリゾーム式は
分類(分散)という構造が必要であり、
それが「誰のものでもない」場所によって統合される。



そこに「米国の絶対原理」を持ってきているからこそ、
今の国際社会、グローバルは不和を起こしているのだ。



社会性はどうしても空気によって一体感を強要する。
なぜならば、社会性(空気)とは全体の結果である。



そんな必然的な抑制を生み出す社会の
空気感は、生まれた以上、どうにもできない。



ただ、それを変え「続ける」ことができる
「場所」があればいいのだ。


☞ ☞



公的領域をハンナは自由と排除への抵抗だとし、
それは一種の「テーブルのようなもの」だと定義する。



それは我々を結びつけると同時に、異なる存在として
分離させることができる「シンボル」なのだ。



つまり、公共領域とは全員が自由意思を持って
全員が参加し、決定する場所である。



世界(社会)と共生するというのは、この
「家族が集まるテーブル」に自主的に参加することで可能となる。



☞☞



自由は解放するだけでは余計に害悪となる。
これは革命後の国家を見れば明らかだ。



自由を手にする為には、各自がそれを自覚し、
建設的に参加する場の「状態維持」が必須なのだ。
これを古代ギリシャはポリス(最高善)として確立していた。



故にネグリは公共善を説く、確かにその場の決定が
社会性を持つ以上、前提には善がなくてはならない。



ではその「善」とは何か?
目指すべき「志向性」は何か?


個人が多様で自由なまま、集団として
成立する国家とはどういったモデルなのか?



これに答えられないままの解放運動が、今の革命なのだ。



今のこの国の自由(解放)を見れば、
「新しい時代」という大義だけで形成されている。



それが「参加しなことによる自由」である以上、、
極端な話、国際社会における北朝鮮の立場と変わらない。



しかし、そうすることでしか
自由を得られないのも事実である。



つまり現代システムの最大の欠陥は
テーブルが「父権社会」のまま変わっていない事、


ここが最大のボトルネックになっているのだ。


☞ ☞


世論(社会の空気)と個人の意志・意見の自由は
根本的に水と油の性質である以上、そこには境界線である「場」が必須となる。



それはロールズの無知のヴェールから派生する、
先駆的な正義ではなく、都度構成する状態の場ではないだろうか。



そんな共和政治体の代案基礎を持った者たちの革命、
これが真の革命だ、というのがハンナの意見である。



これはまさに、一神教であるキリスト教に対する
多神教の仏教が対立しているようにも見える。

そして、その統合素材には「中空無為」と、「場の形成」、
「志向性」の定義が必要ではないか、というのが僕の考えだ。

☞ ☞


革命によって既存構造を破壊しても、我々が共同体・
社会を形成する生き物である以上、必然的に
同じようなもの(またはそれ以下)が生まれる。



反による解放は永遠のいたちごっこなのだ。



既存の組織を変える、新しい代案。
それが一体いつ、誰が、どこで、生まれるのか。



それとも「すでに生まれているのか?」


と言う事で、次回はハイエクでも。


2012/03/08



スティーブ・ジョブスは若い頃から禅に傾倒していた。


禅宗の乙川弘文を精神的指導者とし、
スピーチなどでは禅の教えをよく引用したという。



以前書いたのだが、禅はもともとが
大乗仏教からの派生である。



ただ、不立文字が原則のため
仏教のように経典はなく、教外別伝。
(言葉や文字で伝えられない為、心から心へと伝えるもの)



そして師資相承(師から直接教えられる)性質を持つ。



暖簾分けの「のれん」は、見えない「信頼」を意味する、
それと似たようなものである。



さて、ここ福岡では座禅を行っている所がいくつかある、
「座禅会」というものである。



私は地元の寺で定期的にやっている、
ちなみにここはホームページがあるが、掲載している言葉で以下の様な言葉がある。



入会条件・・・・・・生きている人老若男女
入会費・・・・・・・・無し
会費・・・・・・・・・・気の向くままのお賽銭
用意するもの・・・己の身体



あなたの参加を待ってます。電話のみで来ない人ばかりです。
来ないのなら 電話もしないでください~




なかなかに手厳しい(笑)
ちなみにここの本会員は、10回通わないとなれない。



最近は鬱やらパニック障害やら統合失調症など、
社会病理である精神疾患が多い為か、坐禅を体験に来る方が増えているらしい。



世間一般の坐禅とは「癒される」と
言ったようイメージが先行している。



無我の境地とか悟りとか、
いわゆる「無の状態」というものが実に神秘的に映るのだ。



しかし、実際に経験すれば分かるのだが、
足の痛さがとにかく半端ない、坐り続けると言う事は、想像以上に大変なのである。



だから一回来ただけの人が絶えないという、
なるほど、だからあのHPの文言なんだ、と一人納得してしまったわけだ。




☞☞



さて、私は禅を独立後に学び出し、
いくつか場所を巡ってきた。



知行同一が売りの私だが、
今回はメッキがすぐ剥がれてしまった。



イメージと体がまったく揃わない、
とくに座禅の命といえる呼吸がそろわない。



経験は己の体に積み重ねるもの、



例えば、絵の鑑賞眼を養おうと思うのならば、
色彩理論やら美術史を学んでも意味が無いだろう。



そういえば、刀の目利きを育てるには、
小さい頃から名刀ばかりを見せておくそうだ、



そうすれば自然と、真贋の微妙な違いが
肌感覚で分かると言うのだ。




感覚は情報と違い、共有できない。
禅での文字は不立なのは、暗黙知が暗黙たる所以である。







西田幾多朗の禅の師は雪門玄松。
同級生はあの鈴木大拙である。
水上勉の著書「破鞋(はあい)」ではその生涯が書かれている。



彼の人生のテーマには「禅」と「無」があった。
自分を語りながら無を語り、禅と無を語り、語る事を問う。



座禅とは禅の基本である、そもそも座禅とは存在を「無から座りなおす事」。
二足歩行の人間世界観を文字通り「坐る事」で終局させるのだ。



その座禅から立ち上がるのを
「出定(しゅつじょう)」といい、日常へ戻る。



迷えばまた坐る、これが座禅である。