愛国心は戦争を生みだす卵という
モーパッサンの言葉は時代を貫いているなと
思う今日この頃(゜゜)
なるほど。右も左も性質こそ違えど
それぞれが国を「愛してる」のであって、
そんな相反する思想を「数の力によって」
押し付け合っているのでしょうな。
つまり自分の好きなように支配したい
という欲望を「愛国」という言葉で
誤魔化している、と。まるで母親が
子供に「あなたのためよ」と言いながら
都合よく支配するように。
歪んだ愛と所有欲。
今日はそんなところから。。。
二項の対話が起こらないのであれば
リベラル(中間層)もやがてどちらかへ
吸収されていき、完全に分裂するでしょう。
ここで言う二項とは自民と民進。
よく「野党は頼りにならない」という
理由から現政権を支持している人がいますが
短絡的な選択をしているに過ぎません。
大事なのは「拮抗の維持」です。
全ての政党を過半数割れにすることで
偏りのないバランスが生まれ、結果
どこも強行的な政策が「打てなくなる」。
以前、ソ連の保育園を例にしたのですが
均衡状態を保つにはこれが最善ということ。
我々が選挙でやることは白黒ハッキリ
するためにどこかの政党を選ぶのではなく
権力の偏りを無くすことが最大の目的であり
それによって初めて「民意を重視する状態」が作れるのです。
崇高な価値観(理念)をお互いが
共有していない以上、仕方ないんですな。
そんなわけで僕は「集団」には期待しません。
✍✍
守り、与え、解放するか。
それとも奪い、拘束し、従わせるか。
仏教は地獄と極楽の世界は
まったく同じだというものだと言いますね。
「我が我が」と長い箸を使って食い物を
奪い合う餓鬼は誰も食べることが出来ず、
極楽ではその長い箸を使ってお互いに
食べさせているので全員が飢えることなく
穏やかに過ごしている、と。
同一した世界や環境、条件の中にある
異なる在り方。これはあの世だけでなく
この世もまた、似たようなかもしれませんな(゜゜)
量子力学かぶれの言うような
「世界は認識で作られる」ではなく
もっと奥にある「在り方」で作られている、と。
さて、愛国者の「集団」はどちらの世界にいるのでしょうか。
「後記」
この国の価値基準の根底には古来より
「情を尊ぶ」がありました。それは民族的な
先天性な性質もあるだろうが共有経験から
生まれ、成立したものでしょう。
戦国時代であったり戦後であったり。
「争いはもうたくさんだ」という全体の心の声。
ゲーム理論のような合理的連帯感ではなく
「情」によって自然派生した秩序だと個人的に思ってます。
コモンセンスに近いかもね。
ま、長くなるのでこれくらいにします。