2016/01/30

日本流リゾーム



こんばんわ。




おしぼりで顔を拭きだしたら
おじさんの証拠だとか言われますが、




んなもん、高校時代からやってます
unreve代表、坂口です(笑点か)





あ゙いー





さて、日本の飲食店でおしぼりが出るのは
当たり前なんですが、実は他にやってる国は
世界中どこにもありません。



これは日本の文化、「禊」の精神なんですね。
古い神社は清流近くに建てられてるのも
参拝する人が穢れを洗い流すため。
滝に打たれるのだって同じ理由です。



なるほど、
古来より穢れを払うことは、
生命の清浄を意味していた、と。
それが古神道から派生していると思うと、
すごいことだなぁ、と感じます。




☞☞☞




しかし現在、その根幹である古事記を
我々は学校で教えられずに育っています。
戦後、アメリカのマッカーサー元帥は
学校で神話を教えることを禁止にしたんですね。
しかもあのオッサン、一番最初にそれをやったわけです。



逆を言えば、それだけこの国の
精神性を恐れてたんでしょう。



おでんのチクワだけが苦手です




イギリスの歴史学者のトインビー博士は
12~13歳までに民族の神話を学ばなかった
民族は例外なく滅びている言ってますが、
多分に、当時はそういった意図があったのでしょう。
ぶっちゃげ、民族ごと潰したかった、と。



この事実は専門書を読まなくとも
ネットでごく普通に掲載されているのですが、
なぜか教育現場へは広がってません。
(しかも文系廃止の流れにまでなってますね)




そう考えると、今は実に恐ろしい方向に
向かっているなあと感じるのですが、
見方を変えれば学校教育と距離を置く
丁度良いタイミングなのでしょう。



そもそも
今の学校教育なんて、ただ暗記するだけのもの。

受験に合格し、就職するための手段だと
思っていいんじゃないですかね。



本当に大事なのはもっと別のところにある。
登校拒否経験者の僕が言うのもなんですが、
そう思ってます。




てなわけで、これからちょこちょこと
この「古事記」について書こうと思ってるんですが、




。。。。。。。(゜゜)





膨大な内容なので、どこを使うか考え中。





2016/01/28

メタローグ的対話によって志向性を共有する




このブログではよく出てくる
単語に「志向性」というものがあります。



フッサールがブレンターノから継承し、
編集したこの概念(以前は志向的でした)、



その原型(雛型)は「イデア」より始まり、
アリストテレス、トマス・アクィナス(5つの道)にまで
遡れる持続性を持った演繹的要請でしょう。



それは未だ見ぬ真理への憧れか、
充足することのない欲望か。



そんな無自覚的で朧げな解は
一体どこからやってくるのかはわかりませんが、
それを共有するためにも対話は必要です。



理念もそう。壁に飾っておけば
浸透されるものではなく、対話によって伝えるもの。



まさに禅的な「不立文字」なんですが、
それこそ共有された見えない「資産」なんですね。




今日はそんな「対話」の小噺








以前お伝えしたように、相手を知ろうとする
態度を両者が行った結果、第三の主観性が生まれます。



それはunreveでいう「あいだ」、
フッサールならば「間主観性」の概念ですが、
この有無によって、結果は大きく異なるのは間違いありません。



なぜならメタローグ(深い対話)には「あいだ」があり、
ディベート(論争)にはそれがないから。



異なる価値観などをすり合わせる際、
一方的に自分の価値観を押し通す人は
対話ではなく、実は論争をやっている。



わかりやすい例で言えば「朝ナマ」とかそうですね。
見てたら切れ味よい個人の意見が
バンバン出てきてますが、あれはただの殴り合いです。
(討論目的でやってるので批判しませんが)



打ち負かした個人はスッキリしてるでしょう。
場合によってはケンカした後の様に、
お互いがスッキリしているかもしれません。



ただ、違いを認める(内包する)ことはありません。
問題自体は変わらず、水平線のままです。



現在、この「論争」を「対話」だと思ってしまい、
自論の正当化が「良い意見」だと思ってる人がいますが、



それは「多様な専門家の意見を取り入れる」
のではなく、異なる意見を潰そうとする意図。



本来、そういったレトリックは閉塞して
にっちもさっちも行かない場合において
はじめて有効性を持つものなのですが、



今は閉塞感の打破という共通の目的というよりも
自分の意見を押し通すことが先に来ているんですね。



☞☞


そもそも言語は形態であって実体ではない以上、
客観的実在は言葉では捉えられません。
(ソシュールがシニフィエとシニフィアンを
区別したのもそういった理由からでしょう)



言葉だけでは真の意味は掴めない。
だから僕は契約前に必ず一度会うのです。



個人事業主が協業先を見つけるのは容易いですが、
企業という共同体を形成すれば、必ず価値観の異なる
人との共同作業になります。



これが目の届く範囲の人数であれば
問題ないでしょうが、数百、あるいは千と
規模が大きくなるにつれ、風土や文化が重要となります。
それを作り出すのが「対話」なんですね。



ちなみにそれは「気軽に雑談できる雰囲気」とは違います。
それは価値観を受け入れる必要のない
「会話(ダイアログ)」的コミュニケーション。



本来は、心にある絵を一致させる行為、
カンバセーション(conversation)に近いものです。



現在、多くの企業がソーシャルを活用していますが、
あれも「会話」で関係性を繋げているところが多いので、
今後、生産者と消費者との「対話」がより重要になってくるでしょう。



社内外の深いエンゲージメントを求めるなら、
「メタローグ的対話」をやってみてはいかがでしょうか。
方法を知りたい方はこちら↓






2016/01/27

抽象




秩序形成とは何らかの犠牲を払わないと
成立し得ない以上、必ず要求されるものである。



故に、長い年月と膨大な犠牲によって
成り立っている自然派生的な慣習や秩序は
非常に強固な反面、脆い部分が隠されている。



村社会などまさにそうだろう。
あれは農耕に属する個人が犠牲となり
それが累積された場でもある。



なぜ、そういった秩序に従ったか。
多分にそれと上記の秩序形成はリンクする。



個人の作った秩序は本人次第で
いくらでも細かくできるけど、それに比例して
「個人が」対価を支払わなくてはいけない。



それは個人の作業としては非常に
骨が折れるもの、従属する理由はそれで十分だ。



僕は秩序を自然から学んでいるのだが、
それが最大にして最高の手本であるからに他ならない。



昨今の学者が唱えるような目新しさはないけれど、
その基盤の確かさは説明するまでもないだろう。



そりゃそうだ、植物の歴史は人間より古い。






ネットで見る限り、このリゾーム型組織を
提唱しているのは僕の他に数名いるようだが、
彼らが同じことを言っているかどうかは
書かれている文字だけでは判断できない。



無論、組織論である以上、なんらかの
イロハを自然から取り入れているのだろうが
飯の種である以上、容易に知ることはできないだろう。



ただ、それら概念が何らかのフォームをもって
実際の組織の中に入り込んでいるのは間違いない。



基本、他人のやってることなど気にしないが、
やはりここだけは。



☞☞☞



他の組織活性化は思想的なものが大半であるが、
実生活を離れた思想など、ただの空想に過ぎない。



だからと言って生々しい体験だけでも
同じように実態と乖離してしまうだろう。



体験の生々しさは、表現すらできないもの。
よって、そのリアリティに具現性を持たせるために、
創作活動があるわけだ。



それは現実的な抽象作業であって、
本来の抽象に空想は混じりえない。



完全なる理想的な作業は最も正確な
自然を得ることであり、それは余計なものを
削り取っていくことである。



結果、自然の「骨組み」だけが残る。
これが本質だろう。



この骨子まで到達するのが一番難しいのだが、
到達させすれば高尚な知識なども必要なく、
ごくごく平凡な言葉によって表すことができる。



だから本当の至言、名言は一見すると
平凡なものに見えるのだ。




これは「常識」の本来でもある。




2016/01/26

完全回復~からの自爆





こんばんわ。
体調も回復し、絶好調の僕です(´▽`)





雪もようやく落ち着いたこともあり、
食料調達も兼ねて、ラーメン食べてきました!




寒い日のラーメン、んま~♪






しかしまー、よく降ったもんですな。



車通勤の皆さま、
特にドライバーさんは運転にお気を付けくださいな。


田舎の雪景色は凛とした空気です。








さて、今日は電話対応の日なんで
クライアントさん達と終日話してたんですが、




雑談の最中、僕の大失態が明らかになったんです。






電話にて↓




「いやー、坂口さん。
そっちはかなり大変みたいですね」




「そうなんですよ~、ただ
風邪ひいてたんで外出はしてなくて」




「そうみたいですね。
ブログ見てましたけど、今は大丈夫ですか」




「おかげ様で。動画撮るとき
魂抜かれたんでしょうかね(笑)」





「・・・・あー」





「(やべ、古かったか)」




「それも見てたんですけど。
ちょっとツッコんで良いですか(苦笑)」





「えっ、えっ?何かおかしかったですか」





「や、代表・・・羽生って・・・」





「ええ、羽生名人でしょ」




「ですよね。」




「ええ、そうですけど」




「はにゅうって言ってますよ」






「・・・・・・・」








(; ・`д・´)まじで?







「ちょっと気になったもんですから(笑)」







「・・・・・・ちょっと見てみます」






☞☞






(゜゜)








(゜゜)言ってる。









(゜゜;)はにゅーって、言ってる














なぜ間違えた・・・・
なぜ口走った・・・・






熱のせいか?
それとも思い込みか?






わからない・・・・・
(たぶん両方)








わからないけど、











カーーーーーーーーッっつ







早く教えてもらってよかった( ̄▽ ̄)あー恥ずかし








ちなみにこれ見て前に外食してたとき、
隣で話してたカップル(男性の方)が




「これ、センズリ大根じゃね?」
って言ってたのを彼女が
真顔で聞いてたのを思い出しました。





飲んでたお茶吹きそうになったわ。




2016/01/25

和の哲学と個人的な歴史考察




最近発信されている内容を見れば、
多くの人が日本の精神を見直そうという
流れが起こっていますが、



昨今の発信はちと「綺麗すぎる」気がしますね。
さらに言えば、他人を「巻き込もう」とする意図も見えます。



もちろん素晴らしいものが大半なのですが、
解釈とは必ず個人の思想フィルターを通るので、
全体主義的なレトリックのようなものは
一度疑ってかかったほうが良いでしょう。



例えば、この国の歴史は和の精神が
伝統であると言いますが、当然ながら
日本は争いがない社会ではありません。



聖徳太子が「和を以って~」と言いながらも、
実際は戦ばかりやってましたからね。



また、伝統の保守が日本だと言いますが、
この国は常に外国の文化を受け入れ、革新されてますし、



八百万の神と言いながら、天皇を頂点として
崇拝(国家神道)していた時代だってあります。



それを踏まえず単に「調和」だの
「持続性」だのといった言葉だけで語ってしまうと、
志向する「精神」を知ることができない。



汚れた精神性を肯定し、「タブーに触れろ、壊せ」と
破壊するだけを目的とする人間は消えることはありません。



つまりそれもまた、この国の側面ということでしょう。
今日はそんなところから。








(決してひとくくりにはできないけれど)
端的な結論として言えば、この国は
情緒によって志向している。僕はそう思っています。



理論理屈(漢意)というものを
この国は最上の価値にはしなかった。
むしろ「できなかった」のだと思ってます。



それが宣長の説く大和の心(魂)であって、
美的理念である「もののあはれ」。
自然派生に起こる美への志向性です。




そもそも西洋が心だと思っているものは自我。
いわば単純明快な「機能」にすぎません。



そんな自我の基本的動機とは、動物的なもの。
つまり「生存」と「獲得」による、いち戦略です。




縄張り意識しかり、競争派閥しかり、
求愛や養育だって同じところから派生してますし、
ゲゼル・ゲマイン(シャフト)構造もまた、似たようなものでしょう。



そんな基本的な生存パターンが動物と同じで
あるということは、生理的な「本能」ということ。



そこから表層的な感情は左右されますので、
優位性、劣等感、恐れ、支配欲などを
我々の純粋な「こころ」である、と思ってしまうんですが、



そんなわけありません。
そりゃ単なる生存動機じゃないですか。









多分に、自我は恐怖と自己保身を基盤にした
反射神経と定義して差し支えないでしょう。



誰も好き好んで作り出したわけじゃないし、
大事だけれど、人間の本質ではない。
今も昔も変わらない動物の癖、特殊性です。



しかし、西洋は(大半が)そう思わない。
いつでも、生存と獲得を志向するんです。



まさにここにこそ
人工的な国家たる所以があるんじゃないですか。




戦後、その精神がどっと輸入されてきた。
そして、多くが咀嚼せず「歓迎」してしまった。



その思想に対し必死に抵抗したのが、
三島由紀夫ではないかと思ってます。
(そういった意味で三島は保守主義ではない)



なぜなら、我々の精神の型が文化になるから。
つまり彼はこの国の文化が破壊されることを
受け入れることができなかったのでしょう。



しかし大半がそのことに気が付かなかった。



やがて、その思想が教育にまで及んでいき、
徐々に集団の行動パターンとして定着していった。
それがさらに行動様式として強化されたのが、
司法、立法、行政を始めとする「世間(空気)」じゃないですかね。



それを見て「まっとうな人」は嘆き抗い、
似非保守主義は自分のイデオロギーとして「利用し」、



インテリ達は「都合よく解釈」し、
大衆は「魅了された」わけでしょう。



☞☞



そんな世間の通念によって、この国に内在する
精神は実に巧妙に書き替えられたんですが、
震災後、確実に揺り戻しが起こったと感じます。



だから「原発は不可欠、否定しても仕方ない」と
言う人に対し「そんなのまっぴら御免だ」と認めないんです。



確かに、合理的な見解で考えれば
前者が正しいことかもしれないよ、
だけど、「良心」がそれを了解しないじゃないか。



そしてその良心が負の真実や歴史を「直視」し、
歴史的事実として遺そうとしているじゃないか。



だから、理屈なんて通用しないんです。
歴史を見れば、そういった流ればかりでしょう。



そこに動物的自我なんてありませんよ。
そうじゃない人が、隠蔽したり見て見ぬふりしたり
気楽に構えていたりするんです。



自分の生存だけ約束されてれば良いんですからね。
他人の痛みや死んだあとの世界なんて、知ったこっちゃないです。



だから自意識的な発想は常に動物的ですよ。
現状の本能を抑圧することはできません。







ただ、常に個人の生き様を点検し、
自己否定しながら生きろというのも間違ってます。



そんなのやってても疲れるだけです。
僕だって自分の思うようにやってますし、
こうやって好き勝手に書いてます。



だけど間違ってた場合、責任は取ります。
昔はトップが腹切っておしまいだったでしょう。



例えば僕はこうやって書いてますけどね、
実名を出すことで、すべての責任を所有しています。



もし僕が間違ったことを言ってるのであれば
その時点で僕は発信を止めるでしょう。
当然、やってる商売も廃業します



いたってシンプルな決着ですが、
それが責任を取るということです。




そうならないためにも、僕は信じるために
疑うんですが、それが集団的になると責任を取りません。



誰だって生存したいですからね。
言い訳したり、誤魔化したりして回避するんです。



理屈を使えばどんなものだって正しいと
証明できますからね。この間の廃棄食品の転売でも
本人は正当化してるじゃないですか。



小林はこういった無責任性を
非常に恐れていたんですね。



これだって、昔とちっとも変わってませんよ。








「良心」ある人は善いことだけでなく
悪しきこともまた歴史に刻んでいます。



それは理性と感性による想像力です。
真の意味の善悪の区別です。



昔の日本人が自然に対し、畏怖と畏敬の念を
同時に持って生活をしてきたのもそうでしょう。
(当然、空想的な迷信も中にはありましたが)



それはいつだって、幸福へ志向しています。
なぜなら生命を一回性ではなく、
連続性、リレーだと捉えてるから。



ここに自我の生存欲求を超えた精神がある。
自己中心はそのようなものだと、僕は思っています。



たくさん経験して、たくさん忘れて。




おはようございます、坂口です(゜゜)
大雪(と病み上がり)のため、今日は訪問を中止して
自宅でデスクワークやってるんですが、



なんか集中できない。
こんな時はいつも時間ばかり過ぎるので
休憩がてら、ブログを書いてます。




久しぶりに作ってみた(笑)





年が明けて、ひと月経とうとしてますが、
いつもながら「あっという間」って感じですね。




この「あっと言う間」が後11回ほど来れば、
また一年が終わってしまうわけでしょう。
キムタクじゃなくても「ちょ待てよ」と言いたくもなります。




振り返れば色々とやってるんですよね。
たくさんの人と話したり、色んな体験だってしました。



ただ、それは自分から向かっているのではなく、
応接しているもんだから、流されてる気がするんですね。



時折、機械的に「数をこなしてる」気持ちになる。



そうなると、一つ一つが特別じゃなく
「習慣」になってしまうのかも、しれません。



☞☞


たくさん経験して、たくさん忘れていく。




その流れについ身を任せていると、
なんだか死に急いでいるみたいに感じます。



今の社会は僕らにたくさん情報をくれたり、
たくさん体験させてはくれるけど、
その「たくさん」を「もうたくさんだ!」と言う人は少ない。




聞けば、今の子供はオモチャをたくさん
与えられるので一つのものを大事にできず、
すぐ飽きてしまう子が多いようです。



なるほど。子供もまた、たくさん手に入れて
たくさん忘れているのかもしれませんね。



それは愛着と言う感情が起こる前に
別の何かへ興味が移ってしまうということでしょう。



つまり「僕にとっての特別」というものは
決して、比較対象の結果などではなく、
自分の中から作られているということでしょう。




それは人との関係性にも言える事。
自分が特別だと思うから、その人は特別なんです。




数の経験はその当たり前が分からなくなる。
何事も過ぎたるは、猶及ばざるが如しですね。



2016/01/24

風邪薬





病院嫌い、薬嫌いなので、
高知の純米吟醸酒、「四万十川」という風邪薬を飲んでます。




一日3回だっけ?(笑)







お風呂の窓を開けたら雪景色。




さっきまで、お風呂で雪見酒してました。






だからですかね、










((( ̄▽ ̄)))すげー回ってますわ。








ねよ。

久方ぶりの再開







この間の動画寺子屋を撮り終えたあとのこと。









(。-∀-)よしっ終わり。













(( ;*д*))グワン











(。-∀-)?















(。-∀-)ゾクッ


















( >д<)、;'. ヘブシ

















(゜-゜)誰か噂してやがんな。

















人気者はつら( >д<)、;'. ヘブシッ×2

















( >д<)、;'. ノブシ

















( ΤдΤ)ダラー


















まさか















ピピピっ(体温計の音)

























38.2℃















(´▽`)おー















って、風邪ひいとるやん!!
















(ノД`)あー (ノД`)らー (ノД`)まー












バタンQ








☞☞





てなわけで、この間
10年ぶりに風邪ひきましたん。




おかげ様でだいぶ回復しましたけど、
もう少しゆっくり休もうかと思います。











ちなみに起きて外をみたら雪国。
ある意味、いいタイミングだったのかもしれませんね。











2016/01/22

近況とか。




こんにちわ、坂口です。
先日はこちらの社長さんが視察がてら
福岡に来てましたので、お茶してました(゜゜)




現在、直営15店舗、
今年はさらに面白くなりそうですね。
とても楽しみです。




都内では既存のビジネスの独立開業支援もできますよ~





新しいことを始める際、組織というものは
つい、今いる責任者・管理者が担当してしまいがちですが、



0から1にするのと、1から10にするフェーズは
勝手が違うものですから、それぞれの段階に
適した人を選ぶことが大切です。



新規事業は何が当たるか分かりませんし、
何が正しいかも分かりませんので、ある意味
勢いに任せることができる人のほうが良い。



しかしそれだけでは賭博になってしまう。
この「推進」と同時に「安定」という矛盾する
二つの軸をいかに内包させるかということが、
新規事業においての経営者の仕事です。




まるで、パンっと両手を鳴らした後、
そっと手を合わせ合掌する参拝の型のように、
異なるリズムによって相反する左右を統合させる。




難しいですね。
でも、そういったものなのでしょう。



2016/01/21

独自性とは独学であり、「独力」は苦しみを伴う。






現在の時刻は午前4時半。
おかしな時間に目が覚めてしまいました。



今コーヒーを飲みながらタバコをくわえて
キーボードを叩いてますがね、なかなか目が覚めませんな。




さて、何を書こうか。





というか、何で書こうと思ってるのかしらん。





(笑)






ちと時代に反したテーマを
独白的に書きましょうかね。時間も時間だし
リアルタイムで見ている人は少ないでしょう。




あくまでも個人的な意見ですが、人によっては
腹の立つ内容かもしれませんので、そこはご勘弁ください。




☞☞




経験とは自分だけしか得ることのない
独学であって、そこからの理解とは
独力によって生きた知恵を得ること。



ここまでは間違いではないでしょう。
となれば、それは苦労を積み重ねることであると言えます。



もちろん、楽しい経験も学びになります。
ただ思い出してみれば、その楽しさというものは
困ったときの救いになるものではなく、「楽(らく)」でもない。



大きいものから小さなものまで千差万別、
事情も勝手も違いますから一緒くたにできませんが、
合点というものはそのようなものでしょう。



つまり今まで「点」に過ぎなかった知識の集合体を
「自分の力で」一つに繋げている、と。



ある日「ふと」とか言いますけどね、
我々はそれまでの間、ずー・・と考え続けてます。



まさに自問自答でしょう、こうだろうと仮説を
立てながら、同時に疑っているのはすべて
自分の「想像力」です。



もしこれが知識だけで楽に答えが出るならば、
四六時中ネットを見てればいいだけの話じゃないですか。



ただ、いくら知識をたくさん知ってたとしても
それは「乗り越えた誰かの経験」の後追いであって、
自分がそうなるかどうかは別問題です。



試しに経済学者は一から商売してごらんなさい。
知識が経験に勝るなら、全員大金持ちになるはずです。




☞☞☞



我々は生きている限り、必ず苦労は
ついて来る。そしてそれを自分なりに
解決できた分だけ、独力が身に付きます。



僕はこの認めたくない事実を認めるしかありませんね。
それはつまり、困難を引き受けるってことです。



見れば本当に生きている人は、
苦しみの連続の中から楽しさを作ってる。
初めからそれを掴もうだなんて思ってません。



なるほど、簡単に分かったものなんて
単に知識が一つ増えたにすぎないということを
彼らは心の底から理解しているわけだ。



上記のそれは分かるではなく、単にその言葉に
「寄りかかってる」だけのことでしょう。その人は
その文字や体系に自分を託しているわけでしょう。



文字は1000年経っても消えませんからね。
ピラミッドの三角錐構造もまた、永遠に変わりません。


しかし、それを丸暗記してあぐらをかいてると
間違いないく鈍くなるものがあります。



それがその人の持つ、身体的な
感性や想像力じゃないですか。



自分の頭と心を使わないと、いっこうに働かない。
やがて思考停止していることに気づかないんです。



想像力とは記憶の力です。疑う力です。
これは説明すると長くなりますが、
それを呼び覚ます力が主体性の源泉であって



そんな自分の独力を知識に託してしまった人を
僕は皮肉を込めてインテリと呼ぶんです。



インテリのコンサルは良い仕事など出来ませんよ。
知識から発想やひらめきは生まれませんから、
ずー・・・と覚えた単語を復唱するだけです。




知識は覚えれば覚えるほど、その言葉の枠に
はまってしまう性質があるんです。



☞☞



このブログを見た人がたまにこう言ってきます。
「小林秀雄は難しいから、もっと簡単に説明してくれ」と。



そんなもの、問いの時点で間違ってます。
一人の人間が一生かけて考え練り上げたものを
簡単に説明するなんて、出来っこありません。



どんな人間だって理解しようとすれば
難しくって、時間がかかって、苦労します。



僕だって半分も理解してない。
いや、半分は分かってるかもしれませんが(笑)



日記なら話は別ですよ。いついつ、どこどこに行って
何々をしたと言うだけですからね。




しかし人間は固定できないんです。
そして経済は常に、我々人間と言う
やっかいなものを抱え込んでいるんです。




ここに既婚者がどれだけいるか存じませんが、
奥さんを完全に理解している人って、どれだけいますか。



多分ほとんどいないでしょう。当たり前のことです。
真剣に理解しようとすればするほどそうなるはずなんです。



しかし誰だって簡単に分かる説明を求めてしまう。
すぐ知りたい、たくさん知りたい、簡単に説明しろ、と。



だから似非心理学やらビッグデータ
なんてもんが流行ってしまう。



こういったことをする人の心理はこうだ、
こういった人はこれをする可能性が高い。



そうなると「答えがある」と勘違いさせてしまう。
これはもう、現代の病理ですね。



snsで知らない人とでも繋がれますので、
たくさんの人を知ることができそうなイメージですが、




逆に、ますます人間ってもんが
分からなくなってきてるんじゃないですか。






学校もそう、先生がすでに答えを知ってて、
それを隠してるだけの形式になってますね。



生徒はただそれを探し当てるだけ。
基本、テストでは○か×しかないでしょう。



そんなものに自問自答なんてありません。
だって自分自身に質問していないじゃないですか。



それで反省や内省など起こりますか。
歴史の教科書で学んだものはすべて正解ですか?



違うでしょう。それが通用するのは
数字(数学)だけです。美術も音楽も○×では
判断できない世界なのに、どうして優越つけるんですか。



問う力はそんな小さな頃から奪われているんです。
聞けば、教育現場は「人間力」とか言ってますがね、
これもまた、大半が人間力という「正解」を教えるだけでしょう。



そうなるとまた、「人間力を養うにはどうすればいいのか」
と、答えを探す人が必ず出てきます。



この無意識の癖が分からないと
将来必ずやってくる「苦労」に対し、



どこかに「解決方法がある」と信じてしまい、
探し回る破目に陥るんじゃないですか。







だからこそ、学びながらも捉われず、
常に自分へ問い続ける形式(独学)と対話こそ
独自性であると思っています。




そこで信じえたものは盲信ではなく、
自らの経験によるぶれない軸、尊信になるでしょう。





あっ。そろそろ6時になりますね。
ではここらへんで、独白を終わりにします。





2016/01/20

雑記とか






スマップ、好きなんですよね。
この歌とか、この時期よく歌ってましたわ(゜゜)



 




やばい、泣きそうになってきた(笑)




2016/01/19

雪が溶けたら。





こんばんわ、坂口です(゜゜)
福岡では本日初雪でしたが、
みなさんの地域は雪、降ってますか?



夜明け前が一番暗いと言われるように、
今月は春が来る前の一番寒い時(寒の内)。



特に明後日は大寒ですから、
今週は特に暖かくして、お過ごしくださいな。









さて、この国では当たり前のことですが、
雪というものはやがて溶けていきます。



そして溶けた雪は水になって流れ、
太陽の熱によって蒸発されることで
また雨や雪となって地上に降っていくのですが、



この自然の作り出した循環性とは、
実に上手くできているものだなぁ、と感じますね。




思えば「水」という物質は不思議です。
環境次第で冷え固まることもあれば、蒸発して
水蒸気のように質量を感じなくなるようにもなる。




固いのか、柔らかいのか、
見えるのか、それとも見えないのか。
それもまた、決定することができない。



ただ流れ、巡ることで生命を維持している。
これだけは間違いないと言えます。



多分に水というものは、名詞ではなく
「動詞」として説明するものなのでしょう。



そして、この動詞(流れ)を感じることは
理性的な「わたし」という枠から
抜け出すための第一歩なのかもしれません。







千住博氏による「Watter Fall」




さて、unreveの対話では「動詞で捉える」という
認識をとても大事なこととして考えていますが、
現在この認識を忘れている人が非常に多いようです。



例えば、我々は川を見たとき、
「○○川が流れている」と、名詞から先にきますよね。



もし、見た川が「淀川」だとすれば、
「私が」、「淀川を見ている」わけです。



そうなると、あたかも「淀川」という「もの」が
存在しているかのように、思い込んでしまうんですね。



しかし実際は「水が流れている」という
現象だけしか存在していないじゃないですか。




なぜそう認識するかというと、対象との間に
「わたし」が介入しているからなんです。



☞☞



「我思う」もそう。
本来の我(名詞)などはなく、


あるのは「思う」という状態、動詞だけです。



その現象をそのままに直観できれば、
志向性はより広がりを見せるでしょう。



名詞を意識せず、形容詞やら
動詞だけで場を作ってみると面白いですよ。



例えば「私が世界を面くさせる」という
「面白く」だけに注目してみる。



「これこそ幸福になる方法だ」ではなく
みんなが「幸せ」について考えてみる。



そうすると価値観の異なる他者との中に
普遍を目指す「状態」が共有されるじゃないですか。




「幸せってどんな状態だろうね?」


「どうやれば面白くなるだろう、君はどう思う?」




これが「絶対的」なものへ志向する問いです。
誰も決定していない以上、誰のものでもありません。



その時に初めて、お互いは心を開いた
対話ができるのであって、ここで「わたし」が
先に来ると、心が開くことなんてことはありません。



なぜなら「わたし」が先に来るのはレトリックだからです。
雄弁に自己の理論を一方的に語り、相手に納得させる。



そんな場所に自己なんてありません。
あるのは一方通行の意図、それだけでしょう。




経営者はその中から責任を持って
選ぶ役割なだけ。場を作るのは全員なんです。



それを可能にするのが対話であって、
対話には誰のものでもない「問い」が必要だと
言っているのは、こういった意味なんですね。





「後記」


余談ですが、仏教の無我(無私)というものは
「我を無くしなさい」というものではなく、



「もともと、我なんてないんですよ~」と
気付くのが、本来の意味なんですよ。



2016/01/18

客観性の限界




人の性格を分類する際、よく「右脳タイプ」と
「左脳タイプ」に分けたりしますね。



左脳が言語や論理を司ることから
論理的に考えるデジタルな人は左脳タイプで
抽象的なものを好む人は右脳、みたいな。



もちろん利き腕と同様、そんなところに
「じぶん」というものなど存在しないのですが、


イメージや感情を司る右脳は左脳と比べ
約百万倍も容量が大きいという事実は興味深いですね。



百万倍も大きいということは、それだけ
感情の方が大切だと考えても、差支えないでしょう。



ビジネスを左脳的な理論でやらなくてはいけないのは、
概念的で統一できない個人の考えに客観性を持たせたり
合理的に運ぶためなのですが、



客観性というものに向かえば向かうほど
「じぶん」というものがどんどん遠くなっていくもの。



アップルは「パワーポイント禁止」が有名ですが、
本当に自分が分かっているなら、そんな資料に
頼らなくても良いと思ってたのかもしれませんね。
(うちは使いますけど)



やり方はあり方から、手段は目的から、理性は。。。。



今日はそんな派生元である「種」の小噺でも。










さて、我々が当たり前のように感じている
「ココロ」をよく調べてみると、実に不思議なものです。



美意識なんて、まさにそうですね。
原理的には解けません。




例えば、桜を見たとき「美しい」と思うのは「なぜか?」




桜を分析すれば単なる「物質」です。
樹皮であり、花びらの集合体であって、
さらに調べれば分子や原子から構成されたものです。



そして、それを観察する我々の
「視覚(眼球)」もまた、分析すれば水晶体などの
細胞の塊にすぎませんよね。



つまり石と石がぶつかり合うのと同様、
「見る」という行為は見える「物質と物質」との出会いなのですが、



なぜかその衝突によって
見えない「精神」が生じているのです。



モノとモノが出会うことで「ココロ」が生まれる。
この不思議さは、解けませんよね。



☞☞



脳科学では我々の内部にある
様々な心が、全て脳内によって作られていると
言ってますが、果たしてそうでしょうか。



例えば、感情は脳からの信号だと言いますが、
なぜ、その信号が発信しているのか」という問いには
答えることはできません。



つまり観測(客観)者としての脳は説明できてるけど、
その「観測者自体」には言及することは不可能なのです。



僕の右手の「人指し指」はあらゆるものを指せるけど、
「右手の人差し指」自体は指せないように、
「ココロ」は説明できない(指させない)場所にある。




この事実に気づけば、脳科学では
決して手の届かない場所は自ずと見えてきます。



ニーチェが樹木にとって一番大切なものは
果実ではなく種だと言っているように、
まさに自分の心が応対した個別の経験が
全ての派生元となっているのでしょう。



☞☞



仏教の唯識はここを「説明」しているわけで、
「唯だ(ただ)、識る(しる)」働きだけがあり、
それが変化(唯識所変)していると言います。



そしてその根幹はどこかというのが
阿頼耶識(根本心)なんですが、量子力学同様、
原理こそ分かれど、主観的には経験できませんよね。



例えば、釈迦は「一生は夢の中の出来事である」と
説き、ありのままの実相を識なさいと説きます。



言わばプロジェクターに映った映像ではなく
実物を見る事(唯識無境)が覚者であって、



それが見れない我々をマトリックスで言う
サイファーみたいなものだと言っているんですね。





サイファーは仮想世界の成功を選んだ



しかし我々はその「意味」は分かっても
実際的に「経験」した人はごく僅かです。



本当の意味で語れる人は
自ら「経験」した人だけなのですが、
「知識」はその経験を不要にしてしまいます。



誤解を恐れずに言えば、知識(教義)は
主観的「感性」に「客観性」を持たせるため、
言葉だけが独り歩きしてしまうのではないでしょうか。



まさに「仏を作って魂入れず」。
仏教の唯識無境が出来ない人が
「知識として」知っているだけの状態です。



多分に、真我だの悟りだのチャネリングだの
知識をメッセンジャーボーイのように流すだけの
不自然な「救済」はどんどん増えていくでしょう。



なぜならそれは誰でも取得可能な「知識」だから。
しかし、それで分かるのは「意味」だけです。







極論、医者だってそうでしょう。
この病気はこうだから、こういった薬を飲めと、
かかった病気の「意味や法則性」は教えてくれますが、



本人の「痛み・苦しみ」というものは
誰も分からないでしょう、それは主観でも客観でもありません。



さらに言えば、その病気にかかった自分が
「これからどう生きるか」も自分以外決めることはできませんよね。



それだけは答えることができない。
答えることができるのは科学的理性ではない理性(智慧)だけです。



そういった智慧の部分をunreveでは
「暗黙知」と呼んでいます。





2016/01/17

日本の自由を伝え続けなくてはいけない。



・アメリカという国は、個性を尊重するようでいて
じつは個性を大事にすることを知らない国です。
それを真似ているんですから食べ物にも個性がなくなっていきますね。



これは岡潔さんの言ってた言葉ですが、
実に思想の的を得ていますね。
本質を掴んだ言葉は色褪せることはありません。



僕のクライアントさんには若い頃に
アメリカに渡り、働いてた方がいるのですが、
やはり似たようなことを仰ってました。




自由、自由、自由の国アメリカ。




一見、幸福の象徴のように感じますが、
自由の意味である英語「Free」を見れば
必ずと言っていいほど「from」がセットです。



つまり「from(~からの)」自由であって、
自らが主体的に獲得するという意味ではないんですね。
(フリーダムも拘束や障害などがないという意味)



そんな抑圧からの解放から来る個性や自由は
壊れた蛇口ですから、ひとたび都合が悪くなれば
放縦的な振る舞いになる場合があるのです。
(もちろん、全てではありませんが)



なるほど、岡はそれを見て
「個性を大事にしていない」と言っているのでしょう。



反面、日本の自由は「自らに由る」こと。
つまり「主体的に」結果を「受け入れる」という
覚悟と責任が伴っているんですね。



日本流の自由意識とは何か。
自由自在の精神とは何か。



今日はそんなところから。。。







さて、この国の自由とは自己主張だけではなく
自己抑制を兼ね備えていました。



例えば博愛とはまさに自己犠牲を
伴った精神に他ならず、かの震災で
世界中から賛美された我々の行動規律も
そういった精神によるものでしょう。



それは誰から言われたわけでもなく、
自らが主体的に決定した個別結果の集積ということ。



中にはどこぞの国と同様、どさくさに紛れて
盗みや性犯罪を行う人もいたようですが、
多くの人が生きるか死ぬかの状況にも
関わらず、自らの本能や欲望を抑えていた。
自衛隊だってその精神で任務を遂行しました。



そんな精神の自由は決して目には見えません。
上記のように、個人の心の奥で働いている以上、
集団的に理解する事はできないものなのです。




☞☞☞



こういった主張と抑制のバランス加減は
他の国には真似することが難しいもの、



例えば、表現の自由、言論の自由は
権利であるのは間違いありませんが、
行き過ぎた風刺画を表現の自由だと言うように、
自己の正当性や権利ばかりを主張してしまいがちです。



お互い権利や主張を譲らなければ、
勝ち負けによってしか決着がつかないのは当然のこと。



自分を活かすことと、放縦は別問題。
これを一緒くたに考えるから、混線してしまうのです。



知識ばかり詰め込むと「我慢は悪」だの
「自己肯定せよ」だのという言葉を都合よく
解釈してしまいますが、そうなると大半が「ブレーキ」を嫌がるでしょう。




あれは嫌だ、これはしたくない、偉そうに指図するな、と。




もちろん、ムラ社会ですから
極端に抑圧を強要する人もいますが、
加減を知らない人は全員放っておけばいいんです。



問題はこのような精神(条件)だけでは
意見の異なる他者との折り合いがつかないということ。



そうなったら、アメリカみたいに正論を主張し合って、
仲良くできないなら攻撃しますか?



そんなもの傍から見て無益でしょう。
抑圧なき自由は戦うか逃げるかの
二者択一しかないんです。



☞☞



今の政治はそれと同じことをやっています。
もし、そういった自由が欲しいのであれば、
今の政治を肯定し、認めなくてはいけません。



そうなると大半が反対するでしょう、
まさに「されたら嫌なこと」である証拠じゃないですか。
国家だけでなく、我々は必ず組織や集団に
属する以上、自由の意味を再度理解しなくてはいけない。



現在、国家だけでなく、組織の構造を
トップダウンからボトムアップへと言ってますが、
リゾーム組織では同時に捉えなくてはいけません。



国家で言えば、完全なる国民主導の行き着く先は
大衆政治であり、国家主導であればその先にあるのは独裁政治です。



つまりどちらにも偏在させてはいけないということ。
個人である多と全体的である一との矛盾的自己同一
によってはじめて個が生き、全体が維持できる以上、
その統合概念を支える精神「矛盾の統合」を
学ぶ必要があるのです。







一即多・多即一(即非・ヘーゲルでいう絶対精神)は、
集団と個人だけではなく、あらゆる考えを調和する
認識的根幹であると、unreveは考えています。



これこそ、継承されるべく伝わって来た
日本流の精神であって、その精神によって
この国は長年に渡って絶対矛盾(相反)するものを
統合し、自己同一化してきた歴史を持っています。



神仏習合、和洋折衷、和漢洋など、
統合するための精神はまさに「和魂」によるもの。




この歴史を永遠に伝えていきたいですね。




2016/01/15

無常の中から掴む常。





「冬来たりなば 春遠からじ」。



この国では「冬を超えれば、やがて春が来る」の
意味から、頑張って耐える時に使われています。



まるで日本の無常観を歌ってるように見えますが、
実はこの詩はイギリスのロマン派詩人である
シェリーという人物が書いたものなんですね。



語源は「If winter comes, can spring be far behind?」
冬が来るなら,春が遥かに在り得ようか?」。



原文が疑問符になっている、ということは、
「来るかどうかは定かではない」と言うのが本来の意味でしょう。



季節は常に巡る「とは限らない」。
ということで、今日はそんな無常観の小噺でも。








さて、あらゆる循環の裏に動く力とは
「自然の力」であるのは言うまでもありませんが、
その自然の循環もまた、必然ではありません。



以前書いた「特異点」のように、世界は
結論できないことが科学によって明確にされた以上、



世界は「ああすれば、こうなる」という単純な
法則ではなく、保障などできるものは何もないと。



なるほど、最近の世界気候の異常さ・極端さを見ると、
四季ですらそうではないのだろうなと、実感しますね。




こちらのサイトより引用





予測不可能性。
現在はまさに何が起こるか分からない
無秩序な性質が露わになっていますが、



これに世界の社会混沌が加わることで、
人生に絶望している人が増えているようです。



この間、この国の若者たちの自殺率が
世界トップクラスになったという記事を見ましたが、



「耐えられない寒さ」が永遠に続くとなれば、
誰だって生きることを放棄したくなってしまいます。



「一寸先」が闇となってしまえば、
生きる気力が失われるのは当然のこと。



「世界」は四季と違いある時期を過ぎれば
勝手に暖かくなるわけではなく、



世界が春になったからといって
「自分の人生が」春になるとは限らない。



結果「分からないもの」=「不安」=「絶望」という
図式が成立してしまうのでしょう。



☞☞☞


しかし、古来より我々は時節を待つことを
明るく捉えていました。



辛い時は永遠に続くものではなく、
明るい時代がやってくる前触れなんだ、と。
まさに「冬来たりなば、春遠からじ」と同じ考えです。



では、これは単なる「思い込み」でしょうか。



いいえ、むしろこの精神態度こそ今を生きるために
必要な「あいだ」の構えであって、



それが出来るのは、間に位置する
人間だけだと思っています。



なぜなら「知っている」のではなく、
積極的に「信じている」から。



世界は「0」ではないが「1」でもなく、
0になる場合もあれば、1になることもある以上、



絶対的な希望はないという認識(諦め)によって、
そこから自分自身が「希望」となり幸福を目指しているのです。



☞☞



平常の心を作り、秩序を作れるのは自分だということ。



本来の神社参拝も参拝するのは自己(内在神)。
神社に仏像がなく、中心に鏡があるのはそういうことです。






外の環境だけを頼りにしてしまえば、
僅かな希望と絶望の狭間を彷徨い続けるのは必然、
特に今の社会では、拠り所になるものは見つからないでしょう。




無常の中の常は
自己の中心にしか存在しないものを発見し、
それを掴んだら離さないこと。




僕の弥栄もそう、円転回帰概念もそう。
季節のような「外部」ではなく、内在した循環性を
積極的に信じる態度です。



これは本来の信仰にも通じる気がしますね。
自己中に生きるとは、そのようなものです。





2016/01/13

多分、そのラインから先は変わらない




「若い頃に想像していた50代と全然違うね」



このあいだ飲んでいた際、そう言われた。
親しくさせて頂いているその人は、今月で52になる。




「イメージと違うんですね」。



「うん、若い頃は別人になるかと思ってたけど」。




思えば、僕も今年で不惑の40だが、
20代と比べても、何も違ってはいない。



僕にとって「40代」は当然ながら
初体験ではあるけれど、だからといって
特別なにかが変わることはないだろう。




世間は変わるのは必然のように言うけれど、
具体的に何がどう変わったかを答えられる人は
たぶんかなり少ない。



三つ子の魂なんとやら。
皺や白髪の数に比例して精神は成熟しないのは
政治家をはじめ、昨今の老害を見るまでもない。



成熟とは変化か、進化か、深化か。
それとも退化か。



それにはまだ答えられないけれど、
我々は長い年月を費やしながら、公的なものと
折り合いをつけていかなければいけないのは間違いないだろう。



しかし、あるラインを超えたところで
私的な「魂」はその折り合いを完全に拒絶する。



自意識ではない奥底から発するその魂の声は
60になろうが70になろうが、変わることはない。




なるほど。小林が言うように
「わたし」は「わたし」以外になることはできないのだ。








ブログを書き始めたのも、それを知りたい
気持ちが多少あったのかもしれない。



ある日を境に、3年分の日記を捨ててしまったが
書き留めたいという気持ちは消えなかったのだろう。



ただ、「ここ」は日記と違い開かれている。
人間同様、「公的」でもあり「私的」な媒体である。



この二項は永遠に決着がつかない。
「書く自由」と「見られる責任」は水平線だ。



自論からすれば、ここは庭のようなもの。
世間に直結する手前の「あいだ」である。



なぜなら、止めるのも、始めるのも
決定権は自分にあるから。



何を書くか、書かないかを
決めるのも自分以外いないじゃないか。



そして、そこからくる責任と自由さが、
まさに庭を庭たらしめているのだ。



故に、実名の書くブログは匿名性では
決して届かない部分を響かせることができるのだろう。
面白くもあり、感情移入できるのは書き手が「リアル」に
近い場所にいるからだ。



とは言え、見てて「大変だろうな」と、
余計なことを考えてしまうものもある。



例えば、若い世代が思想・主張的な事を書き、
結果、世界観として「完成された(させられた)」もの。



いったん人気が出て影響力を持ってしまうと、
エクリチュールよろしく、それを崩すことは
相当に難しいのではないだろうか。




特に、感受性豊かな頃は影響を受けたものを
自己に取り込みながら、進んだり戻ったりを
繰り返されながら作られていくものである。



そんな思想は「部分」であっても全体ではない。
四六時中、小難しいことを考え、書き綴ってる人は
ただの病気だ。



盛り上がったり、落ち込んだり、悩んだりするのは
「まとも」な証拠であって、真面目な僕に不真面目な僕が
同居しているのは「普通」であって、



そのどれかひとつだけで形成された
人格は僕ではないのだ。



☞☞



このブログではバカなことや重たいことなど、
公私入り混じって好きに書いているけれど、



そんな混じり合った自分こそ、
混じりっ気のない、等身大の自分である。



これがもし、一側面的な自分だけを
書き続けなければいけない状況になったとしたら
それはもはや苦痛以外何物でもないだろう。




なぜなら、それは個人ではなく「演者」。
相応しさを要請された「別キャラ」なのだから。




そんな「僕のもの」で始まったものなのに、
いつの間にか「僕じゃないもの」となる可能性が
言葉だけの世界ではよく起こる。




それは「公私」の「私」が分からなくなるということだ。









あるラインと超えたところで
私的な「魂」はその折り合いを拒絶する。



自意識ではない奥底から発する心の声は、
60になろうが70になろうがたぶん変わることはない。




2016/01/11

雑記とか。





我々がある目的を持てば、
それと同時に手段が生まれる。



例えば、空腹を満たそうという目的が生まれれば、
我々は魚を食べ、野菜を食べ、肉を食う。


極論、水だって良い。
現実で可能な方法を選択するだけである。
つまり「手段」は目的さえ達成できるならば
いくらでも代替えが可能だということだ。



では、そういった「目的→手段→選択」の流れを
我々個人に適用するとどうなるか。



例えば社会的な目的、組織的な目的など、
公共(顔の見えない)が目的になってしまうと
社会的な存在であり個人である「わたし」は
社会適合という目的に対する「手段」として、適用されてしまう。



そうなると、我々がその秩序に適応すればするほど
我々は「代替え可能」な存在となってしまうだろう。
それを否定するには内部から出るか誰でもない
「外部(超越)」の存在(または象徴)を具現化させるしかない。




三島由紀夫はその具体的な超越者を
(皮肉を込め)天皇だとしていたのかも。
しかし天皇制と天皇ではまた話が違う。



それは多分、昨今の「右か左か」という
単純なスタンスの違いではなく右に理念(イデア)、
左に現実(リアル・ビジョン)の違いである。



理念は永遠に現実化されないからこそ
理念たらしめているのであって現実化されるものは
全てビジョンなのだから。














2016/01/09

リゾーム派生超克理論「上級編」




新春特別企画第二弾
リゾーム派生超克理論「上級編」です




が、




前回の中級がさわりの部分しか
書けてないんですよね(゜゜)ドウシマショ




いきなり組織に適用するとかえって
混乱しますので、「なんとなく分かった」
くらいでいいかもしれませんね。




てなわけで、そろそろ進みますか。
上級編、「状態と流れ」です。







状態の構築とは、端的に言えば
「流れ続けること」。



ホームページでもお伝えしているように、
活用する「Do」ではなく、自身もそこへ溶け込む「Be」。
「何をするか」ではなく、「どうありたいか」です。



ただ、感性はその過程を明確にすると
その実証性により、内在知が形式知となってしまう。



この理由から、unreveの方ではマニュアルを
形式知と暗黙知に分けているんですね。



例えは、ルーティン作業は形式知ですから、
合理的に効率よくしても問題ありません。
(極論、機械化でも良い)



厳格な数字を扱う経理などの事務作業に
ファジーな感性は不要だと言えますよね。




どれが作業で、どれが仕事か。



この区分けをしないと混線してしまうので、
一度、明確にしてみてはいかがでしょうか。



☞☞



そのライン引きが分かれば、
暗黙知の部分(心得)は自ずとハッキリしてきます。



暗黙知の部分は厳格にしてはいけません。
マニュアル化なんて、正直意味ないです。
(それなら、漫画にして見せたほうがいい)



自己組織化は道徳教義を必要としない
自然派生(内部)な秩序構築ですから、



流れを作るというよりも「固定させないこと」が
大事だと言えるでしょう。



現在、多くの組織は固定体系ありき。
あらゆるものを形式、体系化しようとしていますが、



閉鎖的なまま専門性が磨かれるに伴い、
部分最適の衝突が起こってます。



現場と乖離した企画部門しかり。
重箱の隅をつつくだけのマネージャしかり。
数字だけで評価する人事部門しかり。



それぞれ折り合いが付いていない。
部分最大の総和は全体最適ではないと言う事です。




リゾーム派生の組織論は
そこを出発点として作り上げていますから、
既存組織の「秩序」とは前提が違うんですね。




まあ、「軍隊」を作ろうとしている人だったら
話は別でしょうけど。




☞☞



通常の秩序形成は言葉にしたものを
維持させることが正しいと思われてきました。



言葉は法になり、道徳になり教義になる。
つまり、絶対的な意味を持ちだすのです。



しかし、お伝えしたように固めてしまうことは、
衰退や劣化の原因だと思ってるんですね。



我々の身体だってそう、無秩序である
エントロピーはどんどん増大していきます。



そこで人間の場合、どうしてるかと言うと、
自らを壊す(動的平衡)ことで秩序を維持しているんです。



マクロで見ても、ミクロで見てもそう。



分かりやすい例で言えば、我々の体は
使わないと固くなっていきます。



すると次第に血行(流れ)が悪くなり、柔軟さが消え、
代謝が起こらなくなりますよね。



だから、マッサージしたり(外部)、
生活習慣やストレス(内部)を改善・解消したりして、
流れを作り出すのです。




動かさないと流れが起こらないのは自然の理。
衰退のプロセスには必ず「固定」されたものが
隠されているので、



それを取り除き「自らで動ける」環境を作る。
それがリゾーム、内部派生です。












では、最後に当事務所が行っている
組織基礎体温チェックをやってみましょう。




本来は50項目ほどあるのですが、
今回はその内10項目だけご紹介します。



皆さんの組織が以下の項目に
どれだけ該当するか、調べてみてはいかがでしょうか。





【基礎体温チェック】
※「レ点」が多ければ多いほど、固定してます。




□一度雑談しだすと、止まらない事が多い。



□社内レクレーションが少ない、
あっても参加しない人が多い。



□個人のミスを朝礼や昼礼などで
引き合いにして、注意する。



□部署外の仕事をやったり、
業務と関係ない仕事をするのは厳禁。



□個人の意見やアイデアを
職場に浸透させることができない。



□上司が個人の不満を聞くとき、
マンツーマンで片づけてしまう。



□ベテランのパートに対し、
無意識な権威を与えてしまっている。



□規則やルールは絶対的に
遵守する正当なものだと思っている。



□顧客に関係ない自社満足の仕事が
人事評価に繋がっている。



□時間内にみっちり仕事を与え
隙間(余裕)時間が30分以上取れない。




ちなみにこの項目のいくつかは派生元。



unreveの場合、そこから
「なぜ~なのか」という感じで掘り下げていきます。



そこで最終的に出てきたのが
「根幹」であり、「前提」。




つまりあなたの組織が無自覚的に
作り出している恒常志向性(風土)なんですね。









長くなりましたが、こんな感じで
表面的な問題ではなくその奥の奥を
探り当てるのは、僕の仕事でもあります。




通常の企業さんにはやってないのですが
興味がある方はメール頂ければご検討しますよ(゜゜)と




2016/01/08




今回、必ず行こうと決めてた
果報バンタに行ってきました。
(・ω・)



ぬちまーす製塩工場から行けます。







車を駐車場に止め、
高台をテクテク登ること数分。





頂上が見えてきました!





ふおー( ゚д゚)絶景なり








目の前に広がる一面の海。
海もいちいち綺麗ですな。





ちょっと天気悪いけど。






さらに僕1人。
贅沢な時間でした(o^^o)







プロボーズするなら、ここやな(妄想)







2016/01/07

リゾーム派生超克理論「中級編」③


こんばんわ、坂口です。
リゾーム派生超克理論、三回目となります。



さて、自社組織の体温を知ることが
風土変革の第一歩ということをお伝えしてきました。



人間の場合、食事や生活習慣を変えることで
体温は上がると言われていますが、



組織の場合それを決定しているのは「感情」です。




よく、社外的な研修を取り入れることで
従業員の意識を改革しようとしていますが、



それは「薬を使って健康にしている」
状態であって、持続的な効果は期待できません。



「新卒者ならいいじゃないか」というでしょうが、
働く環境が変わらないのであれば、結果は同じですよね。



しかも、その薬が強力であればあるほど、
副作用は大きいのです。



そこでunreveでは、心地や馴染みという
土台作りを提唱しています。



この土台がなければ、理念や志向性は
ただの飾りになってしまうでしょう。



まずは内部派生、そこから外部。




主体性や情熱、誇りや自信はこの順番なんですね。
(詳しくは動画寺子屋で)








土台から先は管理しない」ということも大事です。



経営者は基本的に有能(というより当事者意識そのもの)
ですから、色々と口出ししたくなるのですが、
それではいつまでたっても根幹は変わりません。



「厳密でも間違ってる」と「適度でも正しい」は
どっちが良いか、言うまでもありませんよね。



どうしても気になる人は、他のメンバーを
上手に調整するファシリテーターやコーディネーターを
育成することから始めてみてはいかがでしょうか。




FCも同様。
本部が引っ張るのではなく、加盟店が
協働できるような環境を作ることが必要です。




てなわけで、超克理論中級編でした。
ここまで見て興味を持ったは
お気軽にお問い合わせください(´▽`)
















なんくるないさ〜




仕事の2日間はずっと雨でしたけど



終わってオフに入った日から
晴れてきました( ´ ▽ ` )ノ



ヒヤヒヤさせやがって(笑)





しかも気温は22℃
初夏ですね(笑)




てなわけで、レンタカー借りて
ドライブしてます(o^^o)

まずは浜比嘉島に行ってきました




平日だからか誰もおらず、




いるのは僕と山猫だけです(笑)




残ってた酒のつまみをやると、
スゴイ勢いで食べてました。



まさにネコまっしぐら。





つか昨日雨なのに、
透明感がスゴイな〜(°_°)





残り2日間、ゆっくり
しようと思います( ´ ▽ ` )ノ










2016/01/06

リゾーム派生超克理論「中級編」②




リゾーム派生超克理論、二回目となります。




さて、組織を自然に活性化させるための
ロジックやノウハウはたくさんありますが、



複雑に考えなくては見つからないものではなく、
とてもシンプルな形式になるのではないかと思ってます。



それがunreveがお伝えしている
「自立と自律」、いわゆる「当事者意識」です。



これは昔から変わらない至言なのですが、
正しく理解し、教育させているところはとても少ない。



なぜなら、多くの組織はシンプルではなく
「単純」に捉えたり、真逆の事をやっているから。



結果、自分の強みをごり押しをするだけで
チームワークが成立しなかったり、
迎合をチームワークだと勘違いしてしまったりと、




「会議は踊れど進まず」の状態になっているのです。






その最大の原因は環境だと言えるでしょう。
風土であり、空気であり、心地の部分です。



見れば、多くが短期的な成果を求められ、
メンバーは常に切迫した環境の中にいます。



貢献、成果、能力、強みetc・・・
こんな問いを四六時中浴びせられた結果、



戦う人と逃げ出す人が分かれた。
これが風土悪化の原因だけでなく、
依存や格差の正体でもあります。



「当事者意識」は減点主義や
イエスマン教育という土台からでは生まれません。



「言う事に従え!」と言いながら「自由にやれ!」って
言ってるようなもんですからね(笑)



そんなダブルバインドによって、
失われたのは意思や意欲という「精神」である以上、




心のことは心に聞くしかないんです。



☞☞☞



組織を人体として考えると、
組織環境や風土は我々の精神状態です。



暗い環境であれば、比例して生産性は低下しますし、
明るい環境であれば、生産性は上がってきます。



これは我々の体温で考えると、もっと分かり易い。



例えば、依存と無責任体質が広がれば、
比例して体温はどんどん低くなってしまいます。



そうなると病気になりやすく、治りにくい。
人間の身体だって、基礎体温を上げたほうが
免疫力が向上しますよね。




組織もそれと同じです。そしてこの場合、
体温を下げる要因を消していくことが重要です。





ではここでお題をひとつ。





経営者や人材育成の担当者は
この要因をいくつ言えますか?









ここで気を付けないといけないことは、
「上げ過ぎてもいけない」ということ。




俗にいう体育会系の企業やキラキラ飲食店、
ワクワク系の起業家は体温が異常に高すぎる。
(本人だけなら良いでしょうが)




37度ならまだ耐えれるでしょうが、
39度なら立派な病気ですよね。




よって自己治癒力、免疫力を上げるには、
理想的な平熱(基礎体温)を知り、それを
維持する必要があるのです。




というわけで、次回に続きます(゜゜)






2016/01/05

リゾーム派生超克理論「中級編」①





こんばんわ、坂口です。
今回から数回に分けて新春企画でも(゜゜)




第一弾はリゾーム派生超克の中級編。
(ちなみに初級編はこちら



有機的組織、感性経営を目指している方の
参考になれば幸いです。






さて、現在の経営資源は昔の「ヒト・モノ・カネ」に、
「情報・知識資本」を加えた5つとなっています。



それだけ今の市場が複雑になったのは
言うまでもないのですが、一番大切な資源は
昔も今も「人」であるのは間違いないと言えるでしょう。



組織の原動力を推進するのは
経営者の力が決定すると言われますが、
それは所属するメンバーの感情を
ないがしろにしていい理由にはなりません。



例えるなら、いくら車のエンジンが頑丈でも
動力を伝えるトランスミッションがボロボロだと
正常に動きませんし、ブレーキや曲がるための
ステアリングがないと「まともに」走ることさえできない。



つまり活性化のサイクルとは、エンジンを始め、
あらゆる部分が自発的に回る仕組み(自然派生)であって、



これを歯車の一部だと思っているから
組織に対し、不信や不満が起こるのです。



よって内部を整備し、憂慮することのない
状態にすれば、あとは勝手に外に向かいます。



それでも向かわない、成果が出ないのであれば、
それはもう、ビジネスモデル自体が間違っているか、



とんでもない従業員ばかりなのか、
そのどちらかでしょう。



☞☞☞


閑話休題。
この活性化サイクルは
我々の身体に置き換えることができます。



例えば、上記5大資源の内、4つは手足と同様、
脳(経営者)の意思によってコントロールすることができますが、



人は(人の感情は)「臓器」の部分ですから、
コントロール出来ない領域というのが分かりますよね。



多くの組織が「身体中、全てを管理できる」
と思ってしまいがちですですが、それは外部限定であって
内部はホメオスタシスによって保たれています。



僕自身、医学書を見て止血はできるけれど、
自分の意思で胃の中のものを消化することはできません。
それと同じことです。



「一つ一つは正しいけど、どこか腑に落ちない」と、
従業員が無意識的に感じているのは、これら内部を
「外部」として取り扱ってしまっているからなんですね。




繰り返しになりますが、人為的な
「外部」のアプローチは「目に見えるもの」に
対して有効であって、




それは目に見えない意欲や主体性といった
ところには手が届かないのです。




ではどうするか?



ということで、次回に続きます。





2016/01/04

敬えど、頼らず



2016年の干支は申年。



申年は物事を良い方向へ導く
道案内の年でもあると言われますね。
その起源は日本書紀。天孫降臨の際、
ニニギノミコトを道案内をした猿田彦大神からの派生です。



我々日本人はそこはかとなく神社へ
参拝しますけど、こういった起源があると
思えばまた違った意味を持つのではないでしょうか。





福岡(早良区)にある猿田彦神社




猿田彦大神の教えと言われる天成神道と
天照大御神の道である皇道を統合させた
神儒一致の神道を垂加神道と言います。
提唱者は山崎闇斎。荘子・孟子が説いた
天人合一(天人唯一の理)に近い思想です。



中国思想の最大のテーマでもあるこの概念は
時を超え、ここ日本では山崎闇斎が火付け役に
なったんですね。






闇斎は皇居のある京都で天皇崇拝(封建体制)を唱えた。




こういった儒学(朱子学)を展開させたのは
他にも藤原惺窩や林羅山がいるのですが、
もともと彼らは、禅を学ぶ仏教徒でした。
しかし学んだ仏教や禅を包括しようとはせず、
「排他的」な理由から、朱子学に傾倒しています。


つまりアンチ仏教からの派生ということ。
この時点で古来の神道や天成神道の考えと
かけ離れているのは言うまでもありませんが、
当時は庶民や武士から大きな支持を得たと言います。



なぜ、そのような思想が歓迎されたのか。
その背景には、江戸社会を統治するための
観念が不在だったことが挙げられるようです。
長い戦国時代の末、ようやく社会統合された
初期の江戸ですが要となる社会統合観念が
ありませんでした。いわば良い意味での
イデオロギーが存在していなかったんですね。
いつの時代も、安心した環境が続けば
余計なことを考えるもの、当時の江戸も
もれなく「人間とは何か」といったような
根源的な問題に突き当たったのです。



「奪う、騙す、殺す」の戦国に終止符を
打つ以上、この命題は避けて通れない。
この問いに対し自前の答えを持ってない
徳川幕府は仏教や儒教など他国の既成概念を
輸入・編集することで社会統合観念を作り
出そうと考えたのですが借り物である禅や
仏教は社会統合できず、やがて神秘主義に陥ってしまったと言います。



それに対抗するかのように、現世的な利益を
追求する儒教(朱子学)が支持された、と。
個人的に、ここに揺り戻しの原理をみますね。



本来の中国儒学(朱子学)は
国を管理する官僚たちの正当化観念であって、
普遍的思想と呼べるものではありませんが、
偏った思想は真逆へ向かうもの。
資本主義はスピリチュアルの呼び水であり、
多様な社会はスパッと言い切る独裁主義を期待してしまいがちです。



もちろん規模が小さいものであれば何の
問題もなく自己責任の枠内で済むのでしょうが、
利口なバカが極端な思想を手にすると弾みがつく。
また、その利口さによって大きなバカの渦を生み出すこともある。



特に現状が閉塞している時はアンチや
逆張りの思想が最大の効果を発揮するのは
今も昔も変わりません。



まるでハーメルンの笛吹のように。





垂加思想もそう。
幕末には尊皇攘夷から倒幕、そして
明治維新という社会変革の源泉となります。
山本七平は「廃仏毀釈」の原型イデオロギーだと
言ってますが、それもあるでしょう。



猿田彦大神は最良の道へと導いたのですが、
その思想を取り入れた垂加神道が導いた場所は
果たして、最良だと言えるでしょうか。






形こそ変われど、こういった流れは
イデオロギー不在の社会ではよく起こります。



特に現代のように多様な思想が主義主張を
している時は、正解や拠り所を「外部へ」求めてしまいがちです。



しかしかながら、正しい道は自分で作り、
自分の足を使って歩くもの。



法がなくとも、ドグマがなくとも、自らの意思と
自己規制さえ確立していれば、違う道へ
進むことはありません。



迷い、違った道に向かったとしても、
「見抜く力」があれば、すぐに引き返すことができる。



「敬えど、頼らず」。
この姿勢が大事ですね。