2016/01/18

客観性の限界




人の性格を分類する際、よく「右脳タイプ」と
「左脳タイプ」に分けたりしますね。



左脳が言語や論理を司ることから
論理的に考えるデジタルな人は左脳タイプで
抽象的なものを好む人は右脳、みたいな。



もちろん利き腕と同様、そんなところに
「じぶん」というものなど存在しないのですが、


イメージや感情を司る右脳は左脳と比べ
約百万倍も容量が大きいという事実は興味深いですね。



百万倍も大きいということは、それだけ
感情の方が大切だと考えても、差支えないでしょう。



ビジネスを左脳的な理論でやらなくてはいけないのは、
概念的で統一できない個人の考えに客観性を持たせたり
合理的に運ぶためなのですが、



客観性というものに向かえば向かうほど
「じぶん」というものがどんどん遠くなっていくもの。



アップルは「パワーポイント禁止」が有名ですが、
本当に自分が分かっているなら、そんな資料に
頼らなくても良いと思ってたのかもしれませんね。
(うちは使いますけど)



やり方はあり方から、手段は目的から、理性は。。。。



今日はそんな派生元である「種」の小噺でも。










さて、我々が当たり前のように感じている
「ココロ」をよく調べてみると、実に不思議なものです。



美意識なんて、まさにそうですね。
原理的には解けません。




例えば、桜を見たとき「美しい」と思うのは「なぜか?」




桜を分析すれば単なる「物質」です。
樹皮であり、花びらの集合体であって、
さらに調べれば分子や原子から構成されたものです。



そして、それを観察する我々の
「視覚(眼球)」もまた、分析すれば水晶体などの
細胞の塊にすぎませんよね。



つまり石と石がぶつかり合うのと同様、
「見る」という行為は見える「物質と物質」との出会いなのですが、



なぜかその衝突によって
見えない「精神」が生じているのです。



モノとモノが出会うことで「ココロ」が生まれる。
この不思議さは、解けませんよね。



☞☞



脳科学では我々の内部にある
様々な心が、全て脳内によって作られていると
言ってますが、果たしてそうでしょうか。



例えば、感情は脳からの信号だと言いますが、
なぜ、その信号が発信しているのか」という問いには
答えることはできません。



つまり観測(客観)者としての脳は説明できてるけど、
その「観測者自体」には言及することは不可能なのです。



僕の右手の「人指し指」はあらゆるものを指せるけど、
「右手の人差し指」自体は指せないように、
「ココロ」は説明できない(指させない)場所にある。




この事実に気づけば、脳科学では
決して手の届かない場所は自ずと見えてきます。



ニーチェが樹木にとって一番大切なものは
果実ではなく種だと言っているように、
まさに自分の心が応対した個別の経験が
全ての派生元となっているのでしょう。



☞☞



仏教の唯識はここを「説明」しているわけで、
「唯だ(ただ)、識る(しる)」働きだけがあり、
それが変化(唯識所変)していると言います。



そしてその根幹はどこかというのが
阿頼耶識(根本心)なんですが、量子力学同様、
原理こそ分かれど、主観的には経験できませんよね。



例えば、釈迦は「一生は夢の中の出来事である」と
説き、ありのままの実相を識なさいと説きます。



言わばプロジェクターに映った映像ではなく
実物を見る事(唯識無境)が覚者であって、



それが見れない我々をマトリックスで言う
サイファーみたいなものだと言っているんですね。





サイファーは仮想世界の成功を選んだ



しかし我々はその「意味」は分かっても
実際的に「経験」した人はごく僅かです。



本当の意味で語れる人は
自ら「経験」した人だけなのですが、
「知識」はその経験を不要にしてしまいます。



誤解を恐れずに言えば、知識(教義)は
主観的「感性」に「客観性」を持たせるため、
言葉だけが独り歩きしてしまうのではないでしょうか。



まさに「仏を作って魂入れず」。
仏教の唯識無境が出来ない人が
「知識として」知っているだけの状態です。



多分に、真我だの悟りだのチャネリングだの
知識をメッセンジャーボーイのように流すだけの
不自然な「救済」はどんどん増えていくでしょう。



なぜならそれは誰でも取得可能な「知識」だから。
しかし、それで分かるのは「意味」だけです。







極論、医者だってそうでしょう。
この病気はこうだから、こういった薬を飲めと、
かかった病気の「意味や法則性」は教えてくれますが、



本人の「痛み・苦しみ」というものは
誰も分からないでしょう、それは主観でも客観でもありません。



さらに言えば、その病気にかかった自分が
「これからどう生きるか」も自分以外決めることはできませんよね。



それだけは答えることができない。
答えることができるのは科学的理性ではない理性(智慧)だけです。



そういった智慧の部分をunreveでは
「暗黙知」と呼んでいます。





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