2015/12/12

自信と傲慢は紙一重





ノウハウや考え方のヒントが増えるのは
一向に構わないが、それらを疑ってる人を
批判するのがどうも気にくわない。



やる、やらぬは本人の自由意思。
本人が決定した人生に他人がつべこべ言うもんじゃない。



人は「わかる」と勝手に「かわる」が、
逆を言えば、解らないと変わることはないだろう。



しかし、変わらないことは悪いことじゃない。
むしろ変わらないことで掴むものだってあるじゃないか。



僕はそういうスタンスで仕事をやっている。
例えば営業など、やった試しがないのだが、



別に「やりたくない」わけじゃない。
やりたいと「僕が」思えばやる、それだけである。




結果はどうあれ、本人が決定することに意義はある。





今日はそんな小噺でも。








懐疑のない信は脆弱である。
何かを信じる為には疑いはセットだ。



何か一つの方法を固く信じていると、
知らず知らずのうちに、その方法の
虜になってしまいがちなのは、古今東西変わらないもの。



その結果、信じるもの以外の現象が現れても
目を逸らすか、瞑ってしまう。理屈家や盲信者がよくやることだ。



なるほど、
疑うことを忘れると傲慢になる。




薄っぺらい信仰には軽薄な思想しか生まれないのは
信者が教祖のオウム返しをやってるのを見れば一目瞭然、



その傲慢さは自信と対極であるにも
関わらず、差は(表面的に見れば)紙一重なのだ。



自信から来る主張は「知らないことばかりだ」という
謙虚さが含まれているが、傲慢からくるものにはそれがない。



何でもかんでも
「俺は知っている、説明できる」。




自己肯定も、加減を知らないと
ロクなことにならない。



☞☞



原理的に未だ証明できないことを
自分がその身を持って証明することは
とても素晴らしい事であるのは間違いない。



ただ、それが普遍性を持っているかと言えば
そうじゃない場合が大半だろう。



例えば、経済的成功は科学できるか。
人の心は心理学ですべて理解できるか。
個人的な幸福達成は一つの方法で網羅できるか。



無論、答えはNOである。



自力で成功しているように見えても
その実、あらゆる縁が結ばれた結果に過ぎない。



我々はその自力の他力性を一つの
法則(科学)にしてしまいがちだが、
そんな表面的な理論は歪んだ科学偏重である。



もちろん、体系・論理性のないものがビジネスで
認められないのは分かっているが、



それを無理矢理に人に断言する行為に
僕は暴力的なものを感じてしまう。



☞☞



経済に対し、法則化でできるものなんて
ごく僅か、限られたものだ。



そもそも、それがあるかどうかすら疑問である。
福島の危険性だって、一流の専門家の意見は分かれてるじゃないか。



そうなると、一つの側面(方法)を「疑ってる人」が
間違っているわけではないし、劣っているわけでもない。
やらないという選択肢が正しい場合だってあるだろう。




逆にそんな人たちを無理矢理
説得させようとしたり、卑下したりする人の方が
間違っているし、劣っていると感じる。



なぜなら、論理云々という以前に
ごく普通の感覚が欠如しているから。



自分が言われたら傷つくことを
平気で言ってしまう心性、卑下による優越。



その時点で他者という関係性における
最低限のルールを無視している。



このルールに素人もプロも専門家も関係ない。



それは子供に「喧嘩するな」といいながら
戦争を肯定している大人と似たようなものであるが。








ハンナ・アーレントは我々が活動する
根幹には、「多数性」による差異があると言う。



我々はそれぞれ異なりながら(異質性)も
同時に平等(同質性)を志向するという、
二重の性格をもっているのだ、と。



もし我々が同質性がないのであれば、
お互いの差異を理解しようとは思わないだろう。



トカゲの気持ちなど分かろうとは
思わないように、異質性は異質性のままである。



そうなると我々は過去も
未来も現在も知ることはできない。
他者の「欲求や気持ち」が分からないという事はそういうことだ。



故にハンナは、他者との差異を超えようとする
無意識的な意思によって、自分の唯一性を
理解してもらうことができるのだという。



そのために活動(と言論)はあるのだ、と。




どのように他人と違うか(異質性)と同時に
どのように他人と「同じか」を自覚するのだ。



自己中心から他者(場所)中心へ、
他者中心から自己中心という理解の双方性。



それを支えるのはやはり、
思いやりや愛情ではないだろうか。



ここでよく出る「個性」というのもそう、
個性の「明瞭な輪郭」を他者に対して示すことは
他者と「重ね合わない」ものの自覚でもあるが、



同時に重ね合ったものを
発見することでもある。


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