2012/01/20

抑圧作用、魔女狩り反作用

女性にせよ男性にせよ、
親兄弟にせよ恋人にせよ、

何かを抑圧した時点で、それは破壊原理となる。


同じように、抑圧から生まれた社会は、
性質上「はけ口」を求める。


吐き出す事で昇華できればよし、
逆に、できなければ無意識にはけ口を求める。


これは自然の摂理でもある。
一方が受ける力と他方が受ける力は
向きが反対で大きさが等しい。



作用と反作用は必ず釣り合う。
よって抑圧すれば、同量の反発が生まれる。



メカニズムと書くと大げさだが、
感覚や感情はこの「反作用」を抑える事で麻痺していく。


それはやがて、心や体の問題となって現れる。
人によって症例や時期は様々だが、必ず起こる。


つまり、この仕組みを理解しておかないと
「人間関係、社会適応」という言葉によって自己が破壊されてしまうのだ。









この国は堪忍袋という単語があるように、
抑圧の国でもある。



当然、会話の潤滑油として使うなら問題ない、
しかし、納得いかない怒りまで、抑えなくてはいけない訳がない。




そんな事をすれば、内心は
抑圧でパンパンになるのは当然であって、
それは決して「良い人」ではない。



なぜなら、そうやっていると他人にも抑圧を強制し、
やっていない人を見れば、裁こうとしてしまうようになるからだ。



これが複数人集まったのが魔女狩りであり、
ムラ社会であり、全体主義、マクロの抑圧とは閉塞感の源泉である。


☞ ☞



極まり臨界点に達した時、
些細なきっかけがトリガーとなる。



風船を針で「パーン」と破裂させた状態は
理性のコントロールがきかない。



それはキレる、衝動的、ヒステリーである外部と、
鬱、自殺、ノイローゼである内部に分かれるだろう。




この状態にまで抑圧してしまった場合、
我々は逃げる(内部)か、戦う(外部)しか選択肢が見えないのだ。




そうなる前に、ガス抜きをしないといけない。
今すぐ。



☞ ☞


トルストイやガンジーは「非暴力・不服従」求め、
真の勇気とは忍耐から派生するといった。



「右の頬をぶたれたら、左を出せ」と。
しかし私は聖人ではない。反発しないと身も心も持たない。



だから僕は、少なくとも「抑圧」はしたくないし、
それを強制する相手に対しては「反」の立場をとっている。



この原理は子供でも分かるので、
抑圧癖のある方は、少しずつ、やってみてはいかがでしょうか。


2012/01/05

おかげ様、お互い様



「一即一切、一切即一」と言うものがあります。


それは全てが独立して存在しているのではなく
見えないものの「相互作用」によって生まれている、ということ。



個人主義が今の時代、ひとり歩きしていますが、
「全部、自分一人の意志で生きている」わけではありません。





例えば、あなたが地元でカフェをしているとしましょう。
開業3年目、常連さんも増えてきました。




そこで一人のお客さんが来ます。
どうやら初めての様子、



そのお客さんはスーツ姿、会社員のようです。
注文を聞くとアイスコーヒーを頼みました。



外は炎天下、真夏日です。お客さんは
おしぼりで汗を拭きながら、電話しています。



話している言葉は方言なまり、
どうやら出張でこちらに来ている様子。



電話を切ったお客さんはカバンから
手帳を取り出しながら、時間を見ています。


「わかりました、ではここでお待ちしてます」



どうやら、ここを待ち合わせ場所に使うようです。




☞☞




さて、一応この段階くらいにして、
ここからちょっと考察してみましょう。



まず、頭の中でもかまいませんから、
適当にこの辺が売上に「関係ある」と思う所と
売上に「関係ない」ところの「境界線」の部分をイメージしてみて下さい。



問題は正解うんぬんではなく、
どこからどこまでを境界線とするか、です。



境界線のラインは引けましたか?



では、その境界線の内側が売上と「関係ある」で、
外側は「関係ない」ではないということになりますよね。




では、自分の頭の中で、「関係ある」の外側にある
「関係ないもの」を全部取り去って、「完全に無の状態」にしてみて下さい。




例えば、電話もありません。炎天下でもない。
出張でもなく、その他一切のもの(条件)がない、とします。




どうですか?
そこに「アイスコーヒー」というものは「存在」できますか?




当然、それは成立しなくなって、消えてしまいますよね。




では、今度は、取り去ったものを一つずつ、
適当でいいですから、加えて元に戻してみて下さい。



なにか欠けている状態でも成立しますか?
成立しませんよね。



つまり、単体だけを加えたとしても
その「アイスコーヒー」は存在しないのです。




☞☞




あなたの頭の中で想定した内側と外側は
「複雑に入り組んでいた」のではありませんか?



そして、その「入り組み方」というものは、
無限に変化している(可能性があった)と言えませんか?



待ち合わせの相手のお腹が空いてたら
違う場所になってたでしょうし、



炎天下でなければ店に入らなかったかもしれません。




つまり、無限ともえいえる複雑構造によって、
「アイスコーヒーの売り上げ」は存在しているのです。



それだけではありません。
その提供したアイスコーヒー一杯にしても
たくさんの見えない人達が絡んでいます。



コーヒー豆を作る人、パッケージする人、
コップを作る人、それを販売する人・・・・



たった一つの出来事でも、このような条件が
無数に組み合わさって生成されている。



世の中に当たり前、というものは存在しないんですね。




これが「一即一切、一切即一」で、
そこから派生したのが、おかげ様、お互い様、と言う事です。




2012/01/03

経済道徳合一説



先日は世阿弥について書きましたが、
今日は日本資本主義の父と言われた
渋沢栄一氏をご紹介したいと思います。



日本流の事業を語る際、
この方抜きには語れません。






日本で初めて株式会社を作った渋沢氏は
現在のみずほ銀行のほか、東京ガス、東京海上火災保険、
王子製紙、キリンビール、理化学研究所など、
約500社以上の企業設立に関わり、P・ドラッカーも氏を称賛しています。



そんな渋沢氏の生家である渋沢家は、
藍玉の製造販売と養蚕を兼営しながら
米、麦、野菜の生産も手がけるという半農半商
(と言うより、豪農豪商)でした。氏の父親は
教育に熱心だったことから栄一氏は幼少から
論語などの中国古典を学んでいたのですが
同時に商売も早くからやっていて大人顔負けの商才を発揮していました。


なるほど。小さいころから哲学(学問)と
商売の知識を同時に詰め込んでいたんですね。
それが後に「論語と算盤」の基礎となったのでしょう。


☞☞


やがて尊王攘夷に参加した渋沢氏は
紆余曲折を経て京都で幕臣となり、
「農業・哲学・経済・政治」という様々な
経験をもとに「和魂漢才」を編集させた
「士魂商才」の思想を生み出します。


それは「論語とソロバン」という矛盾した
存在を合一化するというもの。端的に言えば
武士の精神と商人の才能を兼備することです。


商売は多くの人に利益をもたらす営みであって
読み書きそろばんだけを学んでいた商人に対し、
自己本位の儲け主義に走ってはならない、と諭したんですね。


それが経済を発展させ、利益を独占するのではなく、
富は全体を豊かにする為に共有するものとして還元する
「経済道徳合一説」です。


論語と算盤/国書刊行
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現在、この国の成長政策と言えば金融や
財政、規制緩和ですが渋沢氏からすればそれは
「ソロバン」だけの話であって片手落ちなんですね。


現在行っている政策も数字だけの戦略、
GNIが増えれば消費も増える、法人税を下げれば
会社はそれを給与に回すという単純な計算でしょう
そもそもGNI(国民総所得)と給与を一緒くたに
する事自体的外れです。※日本の法人は約260万社中、約8割(200万社)は赤字ですから。


それでも「彼らは」ラーメン好きな人の
給料が2倍になったら2倍食べるだろう、と思ってる。


ビール好きな人は2倍飲み、
パスタ好きな人は2倍食べ、
3倍上がれば3倍飲み食いする、と。


んなアホな事はありませんよね。






戦前・戦後の時代を知る経営者は
一度は捨てそうになった人生を取り戻した
経験からか、自らを無にして本能に
大事な事が何か冷静に判断できる強みを感じます。



「幾たびか辛酸をへて志はじめて堅し」



そんな経験は、今の豊かな時代では
なかなか得難いものですが、unreveは
それを復活させたいと思っています。



懐古論ではなく、新しい価値を伴わせながら。





人生の行路は様々、
時に善人が悪人に負けたように見えることもあるが、

長い間の善悪の差は確然とつくものである




2011/12/13

稼ぎと務め

早いもので今年もあと半月となりました、
師走ですね(^▽^;)





さて、FC業界は現在、新しい時代に入っています。
第二世代型というべきFC本部が増えているのを肌で感じます。


第一次世代は欧米流、かの大手支援会社が作ったFCのように
(全てではありませんが)とにかく質より量。


短期集中と過大投資でドンドン開発。
現在FCは乱立し、スクラップ&ビルド、再編を繰り返しています。


そんな中、質の悪い本部は淘汰されたり
本部倒産しています、ネガティブな業界イメージも浸透しました。


「楽に儲かりますよ」と過激な煽り文句が
ネットを賑わしている風景は今も変わりません。


これは第一次世代のFC開発の限界を意味しています。



何回も書きますが、楽に儲かるFCなんてありません




FCとは成功の確率が高い業態の提案であり、
5年後の生存率70%というちゃんとした裏付けがあるのです。



それだけ覚えておいて下さいね^^


☞ ☞ ☞




さて、第二世代は量よりも質。
コストを抑え、地元に密着し長年続けれるような
コンテンツを持っています。



仕事に対する苦労もちゃんと伝え、
信頼を基軸とした関係性を重視するFC本部です。



今回ご支援しているスクルド&カンパニー様は
間違いなく第二世代。



また、現在の待機児童の問題を解決する事から
社会への貢献度も高い業態となっています。


☞ ☞ ☞


松岡正剛氏によれば、日本には「稼ぎ」と「務め」という、
ふたつの労働の観念があったといいます。



かつては「かせぎ」がたくさんあっても
一人前と認められませんでした。



もうひとつの「つとめ」はいくら稼いでいようと関係なく、
非営利的な側面を持ちます。



例えば堤防の決壊、火事、凶作、干害、死人が出た、
というとパッと出て行ってふんどし一丁で働く。


これが「つとめ」だそうです。


両方ができて、はじめて「おとな」として認められる。
そんな文化が日本にはあったのです。


松岡氏は人間を見る目、あるいは社会人を見る目が
「かせぎ」型になっているといいます。


売上高、経常利益、収益率といった
「かせぎ」のデータだけ出している。

これでは子供たちに労働の価値を伝えようとしても
なかなか伝える事ができません、


スクルド社のFCは、
「カセギとツトメ」を同時に兼ね備えています。


保育園のFCと聞くと、効率化や合理化をイメージしますが、
当然、そんな所が口コミで満員になる訳がありません。



自立型の教育である「モンテッソーリ」を取り入れ、
今まで保育園が手を付けていない「食育」にも積極的です。
FCのイベントで海で地引網を使って魚を取って、
その場で調理して食べた話を楽しそうに話しているのを見て、




ここは本当に子供の事を考えているんだなぁ、と
嬉しくなっちゃいました^^




てなわけで来年初頭、福岡で説明会を行います^^
場所は決まり次第、またアナウンスさせてもらいます♪




2011/11/14

未完成の美

こんにちわ、坂口ですo(^▽^)o
「おもてなし」って言葉が最近流行ってますね。


この「もてなし・しつらえ」の精神は
茶道や禅からのもの、道教や禅も矛盾を
含んだものを同一させる非対称の秩序です。
なるほど、だからこそ日本の「茶道」なのでしょう。


てなわけで今日はお・も・て・な・しの小話でも(笑)



☞ ☞ ☞


近代日本の思想家である岡倉天心は
茶道芸術の神髄であり、東洋の美学と言える
「茶の本」をニューヨークで出版しました。
それは「間」としての空間や広がり、間隔、余白空所、場、ゆとり、
そして遊びとしての隙間など、日本流ならではのものです。





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茶器や茶室を見れば分かるのですが、
全てが不均等であり、釣り合いが取れていません。
逆にそれこそが茶道の赴きであり面白みであり、「味わい」なのです。





味とは妙味の出て来るもの、不完全なものに対する美の感覚。




茶道の開祖である千利休は黒楽茶碗を
特に好みましたがそれは黒(陰)が
始まりであり、終わりでもあるから。
漆黒は色相環でも全てを網羅しています。
よって茶の色が一層引き立つのです。


表面にはゆがんだ凹凸があり、いびつともいえる茶器、
これが中国茶器のように、完璧に均衡が取れたものは
茶道には向きません。真面目すぎたそのフォルムからは
遊びやゆとりがないので「味」が湧いてこないんですね。
ありのままで飾り毛のない簡素なものこそ難しいのでしょう。



☞☞


茶室と露地の関係もまた独特な空間です。
決して閉め切られることはなく遠く深い
永遠へ導く開口が存在するかのよう、


茶道の空間は、茶室だけでなく、外の露地と
呼ばれる庭と一体に仕組まれている。
露地は茶室の中から眺めるための庭ではなく、
茶室へ通る道であり、露地に入った時にはもう茶の湯は始まっていると言います。




成就そのものが目的ではない。



完成を意図的に排除し、想像の働きによって
完成させる状態を保つ、これが茶道の「未完成の美」です。





たかが茶一杯、されど茶一杯。
数奇の成せる業ですね~。




2011/11/03

怠慢と頽廃の違い

今日は怠慢と頽廃の違いについて。
組織の規模が拡大している所は
一度チェックされてみてはいかがでしょうか。








「組織の隠蔽体質によって今回の不祥事が・・・」
といった報道をよく見ますよね。


こういった不正行為は、組織内の怠慢から
起きている場合が多いのです。



つまり「良くないと知りながら」、
内部で歯止めが利かない状態が怠慢なのです。



とは言え、この状態ではまだ組織内に
まだ健全性が残っています。



汚職、権力の乱用、えり好み人事評価・・・
そんなモラルの低下はどこでも起きますが、



正しい理念が、根っこ(リゾーム)まで
浸透していれば、修正可能な領域です。



無能な人間がトップになれば、すぐさま
その地位を追われ、汚職や不正は内部から
告発・摘発されるでしょうし、



赤字となれば、全社員に危機感が募り、
受けた損害を取り戻すような力が「自然に」働くでしょう。



家と同様、一時的な被害を受けたとしても、
基礎がしっかりしている限り、修繕できるのです。



☞ ☞


問題は「頽廃」です。
頽廃とは、モラルの低下云々ではなく、


「何が悪いか自体、分からなくなる現象」のこと。



当たり前のことが当たり前にならない。
つまり屋台骨自体が腐敗してしまっている、



これが頽廃的な組織の特徴です。
言わば、精神的な腐敗。




過激派政治団体や暴力団、オウムのような
宗教団体がその典型的な例ですが、



一部のメディア機関や国家官僚組織もまた、
頽廃していると言えますし、ブラック企業も
組織の風土が頽廃している場合があります。



いくら忠告しても、向こうには
確かな「正義」を持っているのが分かるでしょう。



そこで、さらに資源分配が加われば、
ますます強化されてしまいます。




前回書いたように、個人の価値観重視は
組織運営において、取り扱いが難しいのです。


☞ ☞



このように、間違った場の空気を受け、
間違った実践を一生懸命していたら
当然、間違った結果になります。




戦時中は上層部が「間違った空気」に
気付かなかった、つまり頽廃していたのです。


そうならない為にも、こういった「場の理論」は
方法論として、構築しないといけない。




ほったからかせば、自然に起きるのが
怠慢と頽廃ですので、積極的に
歯止めの仕組みを取り入れましょう。



詳しくは「弥栄モデル」を参照ください^^


2011/11/01

愛煙家

どーも、坂口です。
11月に入りましたね、霜月です。



というか、あんまり寒くならない
ここ福岡。



今年は夏が涼しかったので
冬は暖かくなるんでしょうかね。



今も長袖一枚でブログを書いてます。



☞ ☞


さて、僕はパソコンに向かう時、
必ずタバコとコーヒーがセットです。


これがないと何もする気にならない(笑)




メディアに影響されてか、
喫煙者(愛煙家)の肩身はどんどん
狭いものになってますな。








もっとも強力なメッセージといえば
「肺ガンになる」というものなんですが、



過去40年間の「喫煙者」と「肺ガン死亡者」
のグラフをみると、喫煙者はどんどん減って
半分になっているのにも関わらず、
肺ガンで死亡している人は「10倍」になってます。



これはイギリスでも同じ結果です。
さて、これは何故でしょう?と。



都合のいい対比データですから、
一概には言えませんが、



一説では、ドーパミン、セロトニンなどの
脳内活性物質の状態をコントロールするのが
ニコチンだと言われます。



タバコを好むインディアンは平和主義者
である反面、禁煙者の多いアメリカでは攻撃的です。



つまり、体の因果関係で言えば喫煙は
間違いなく、体には良くないんですが、
脳内、全体の側面で言えば、そうじゃない、と。



そう考えれば、ロジカルでは説明できない
のではなく、「隠れた変数」が抜け落ちてる、



そう思った方が、よっぽど論理的です。



肺がんになるから吸うな、じゃなくて
「煙と匂いが嫌い」でいいじゃないですか(笑)




☞ ☞



ここでちょっと仕事の話に
なるんですけどね、




僕が、FC展開しようとする際、
その材料に売上データを重視しないんです。



もちろん、大赤字の店はしませんが
競争優位性とか、成長率とかは
ほとんど無視します。




なぜ既存の売上とか成長性とかを
見ないか?というと、「環境」という変数がない。



その変動数は予測から排除するか、
「誰でも使える数字」に変換してるだけです。




つまり、それを模倣した他社が
「今の環境下ではいない」、という前提になる。



仮に、そこと類似したビジネスモデルが
知らない所でどんどん広がっていたとすれば、



ブルーオーシャンでオンリーワン
戦略だったのに、いざ蓋を開けてみれば



競争原理に巻き込まれてしまった、と。
そんな話はゴロゴロしています。



サラリーマンの給与みたいに
毎月決まった日に、決まった額が
入るなんて、ありえませんからね。








タバコの件にしてもそうですが、
そこには肝心要の「流動する実体」がない。



これを仮説検証することが、
大事ではないでしょうか。



まっ、愛煙家の正当化と言われたら
それまでですけどね(笑)



2011/10/11

奇跡のリンゴ

奇跡のリンゴ―「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録 (幻冬舎文庫)/幻冬舎
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リンゴ栽培には農薬は必要不可欠、
これは誰もが信じて疑わない常識であった。


しかし、その常識を覆したに男がいる。
「奇跡のリンゴ」で有名な、木村秋則氏である。



奥さんが農薬の影響によって体調を壊した事から
彼は無農薬栽培のリンゴを作ることを決意した。



当然、何度も何度も失敗を繰り返す。
虫は葉を食い、花や芽は季節外れに咲いてしまう。



それでも木村さんは諦めなかった。
明確な動機があったからだ。



しかしその情熱を試すかのように
一向に無農薬のリンゴは生まれなかった。



☞☞



約10年の歳月が経ったが、
それでも一向に成果が実らない。



次第に周囲の農家からも孤立、借金は増すばかり。
極貧の生活の中、子供たちは一つの消しゴムを切り分けて使った。



私財も底をつき、精神的にも物質的にも
限界となった木村さんは、ついに自殺を決意する。



妻を元気にしたい、という動機であったのに、
なんという残酷な現実だろうか。



ここまでは誰もがそう思うだろう。



☞ ☞



木村さんは祭りの後、1人山に向かう。
首をくくるロープを「とあるくるみの木」へ投げ入れた。


しかしロープは引っかからず地面に落ちる。
それを拾おうとした木村さん、そこで「あることに気付く」。



その自生したくるみの木は枯れることなく、
害虫も発生していない。



そこで疑問が起こった。



死ぬ寸前であったにも関わらず、「それ」は自然に湧きあがったのだ。



なぜ山の中の木は肥料も農薬も使ってないのに
こんなにも青々しく茂っているのか?



ハッとした木村さんはその土を手にとってみた。
そして自分の畑の土との決定的な違いを発見する。



「土だ、土が違ったんだ」



まるで天啓を受けたかのように、その足で畑へ向かい、
その後ついに「奇跡のリンゴ」が生まれた。




地獄の中に光明を見たとは、まさに事の事である。


☞☞



これが途中で常識に縛られたり、
知人たちの助言に従っていたとすれば、
奇跡のリンゴはこの世に存在しなかっただろう。



どんな分野であれ、ある専門性を特化すれば、
必然的に既存の知識によって「自縛自縄」となってしまい、
場合によっては「他縛他縄」となる。



帰納的形式知において成立する専門家達の業界が
タコつぼ化するのも、こういった事が理由である。



しかし、このように根拠も何もない所にこそ、
奇跡的な発見や常識を覆すアイデアが起る。





僕はこの話がとても好きだ。
その事実を経験したら、強くなれる気がする。







根幹を変えよう2





さて、理念の欠如とは、言うなれば
屋台骨の喪失を意味します。



思想哲学の拠り所がなくなってしまえば、
存在意義さえも消えてしまうでしょう。




それは原理主義とは違います。
とても似ているけれど、根本的な部分は異なっているのです。



理念共有は「個人尊重」があってこそ。



時代と共に変わる「日々新た」。
古いようで新しい、温故知新のロードマップが理念なのです。



☞ ☞




理念が原理主義となれば、
異質が入り込む隙間はありません。



現在「多様でフラットな職場」という
スローガンだけが、ひとり歩きをしているのですが、



多分、9割以上の組織は階層型のはずです。
肩書きをもった人に決定権がある以上、フラットではない。



その状態で異質を取り込もうとしても、
不整合を起こし、かえって混乱するでしょう。



「ではどうしたらいいのか?」
これについては企業ごとに違うのですが、



いきなり全てを変えてはいけません。
まずはモデル部署(チーム)を作ることです。



フラット化させたその部署は分社という概念、
そこには責任と権限を持たせることです。
(詳しくはお問い合わせのほど)




異質とは均質にならないからこそ異質、
単に、社外や中途を採用することではありません。




組織母体が1000名の中に異分子を
数十名いれたとしても、大河に一滴のしずくを
たらすようなもの、効果は期待できないでしょう。




生身の人間の集合体が組織である以上、
時間をかけて風土を作る以外、道はありません。




トップが近視眼的な不安に耐えきれず、
短期的な結果を求めはじめた途端、
それまでの努力は全て水泡に帰しますので、






理念によって、ぶれない軸を作ることが
最優先事項なんですね。




2011/10/03

それはパンのように

民主主義や自由の権利について
よく引用される言葉があります、


私はあなたの意見には反対だ、
しかしあなたがそれを主張する権利は命をかけても守る。


フランスの啓蒙主義の哲学者である
ヴォルテールが述べた、と言われます。




今回はそんな自己主張についての小話。












多様性に伴い、主義・主張は自我だと批判されています。
「それはあなたが勝手に思ってるだけでしょ」という事。


たしかに行きすぎた主張や権威を持った主観は
宗教的で危険な性質も持っていますが、



逆にそれがなければ我々はどこへ向かっていいのか
全く分からなくなります。



また、その先に「喜びや豊かさ」がなければ
誰もがそこへ向かおうと思いません。



問題はその主張の先にある「ビジョン」が
どれだけ価値を持っているか、それに尽きるのではないでしょうか。


また、その価値こそ主観を超えたものであって、
超える、ということは横軸ではなく縦軸。


つまりその言葉を裏付けする深さであり本質であり
政治家のマニフェストのような広く薄っぺらいものではないのです。


☞ ☞ ☞

人間とは挑戦と失敗によって得られるものがあります。
それは本物の喜びと「人格」です。



よって人格というのはパーソナル(個人・私的)ではなく、
何かしらの行為によって育まれれる後天的なもの、



よって私の思う魅力のある人とは両義的な経験から
鍛えられた精神性を得た方々の事です。



それは安楽や怠惰、そして平穏のどかな環境では
なかなか成熟できないものではないでしょうか、



苦しみや困難、孤独や絶望といった経験によって
精神性の年輪が深まり、人格と成る。そんな気がします。



人格は石のようにそこにある。というものではなく、
パンのように日々、作られるもの。



常に作られ、直され、新しいもの。
そんな動的なイメージがあります。



逆境が人に与える教訓ほど、麗しいものはない。
これはシェイクスピアの言葉です、



「苦や不」という概念はできれば避けて
取りたいのが心情ですが、



そこには「楽や喜」では決して手に入らないものが
手に入るんですね。


2011/09/06

蝶と蛹




神道によると、世界は「八百万の神」と言われます。
生物だけに限らず、形あるものはすべて神の面影がある、と。



神は花であり、鳥であり、風であり月。



今日は超個人的な小話。
正直、思いつき・思いこみの部分があるので
ご了承のほど(笑)



☞☞



さて、神道には様々なものがあります。
吉田(卜部)新道である唯一神道や
密教と結びついた両部神道、神仏習合である
山王一実神道に伊勢神道、本居宣長の説く復古神道まで様々です。



しかし、古来庶民に広がった神道は、
もっと素朴な感覚だったのではないか。
個人的にそう思ってます。



対象を暴こうとするのではなく、
おてんと様や、雷様という具合に
畏れ、敬うものとして共有するという
素朴な精神、神自体の存在の定義よりも
こころの拠り所としての、概念の共有化が大切なんじゃないかしらん。







神社の鳥居は自然(外部)と
人工(内部)を調和させた作りになっています。



我々は自然に生かされている、
その道を知ることが、神道(神ながらの道)だ、と。




「後記」


八百万の神である自然の偉大さ、
美しさは「雅(みやび)」と呼ばれ、
やがて様々な文化へ飛び火しました。



それが香道であり、書道であり、茶道であり、
侘びであり、粋。ちなみに雅は「宮ぶ」に由来し、
「宮」とは「御家」のことです。
つまり最終的に、それら文化的な模倣は、
必然的に神道的な雅を真似ぶこととなるんですね。



2011/07/18

自然界の自己組織




こんばんわ、坂口です。
なんか台風きそうですな( ̄_ ̄ )ムー



出張と、引きこもって一人で作業するのが
ハッキリしている僕からすれば、台風の日は引きこもりたい所です。




ちなみに(理科の時間みたいですが)
台風が起る原因は太陽の熱エネルギー、



日射により、海水温が高くなるにつれ、
大気の状態が不安定になっていきます。
(細かい説明はカット)



多くの海域はそんな不安定な状態でも、
安定しているのですが、 熱帯収束帯付近になると、
下層の不安定な空気が集まり、強い上昇流を生じるのです。



これが積乱雲となり、雲の塊を作り
さらにその雲の塊は持つ凝結熱によって上空を暖めて。。ペラペラ




まあ、そんな感じで次第に雲は「自己組織化」され、
台風になるんですね。



様々な「無秩序」が絡み合い、
台風と言う一つの「秩序」を生み出す、ってことです。



☞ ☞



そういったものは他にもあって、例えば
「ソリトン」といった波は非線形かつ孤立しながらも、
自己組織化したもの。



だから津波の形状を保って、どんどん進み続けます。
まさに無秩序から秩序が生まれている証拠ですよね。



僕は、これが本来の自然界だと思ってます。



仮に自然がエントロピーの法則だけで説明できるなら、
無秩序にこそなれど、秩序に向かうことはありません。



しかし、現実はこうやって自己組織化(秩序)が
起きているわけじゃないですか。



この事実にもっと目を向けなくてはいけないんだけど、
人間は「自分たちが秩序を作れるのだ」と、色々と考えちゃうんですよね。



我々人間は賢いから、と。




でも理性ってそんなに万能なんでしょうかね。



☞☞



現在、情報や知識はものすごく深まりましたが、
それがかえって真実から遠ざかっているように感じます。




深く知れば知る程、本質的な意味が曖昧になって
答えが簡単に出せなくなってしまうことはよくあること。




だからこそ、「脱マネジメント(理論)」、
感性に戻すための「回帰論」を提唱してます。





(情報を)捨てられないなら
とことんやって、早よケリつけてまえ(・∀・)








2011/06/06

チャーハン

料理を説明するのに
「コショウと塩を少々」とよく言われますけど、


それはどのぐらいなのか、や
何gか、ではありません。


「少しの間、中火で煮込む」や
「火加減を見ながら」も、そうですよね^^


結局のところ、美味しい料理を作る「加減」というのは
料理を何回も繰り返していくことで分かるもの。



「なんとなくこんな感じ」、
この「何となく」といった、ファジーな感覚が「体験科学」です。



料理本などの知識があれば、結果は分かります。
しかし、それと上記の加減を知ることは同じではないんですね。






チャーハン大好き



さて、我々コンサルは成果が出た
戦術を形式化し、クライアントへと提供します。


しかし、同じようにコピーした際、
全く成果を出せない人がいますし、



逆に同じ効果、もしくはさらに高い成果を出す人がいます。



知識(ノウハウ)が同じであるにもかかわらず、
両者にはには大きな「違い」が出ているのは明白です。


知っただけで満足してしまうのが我々人間ですが、
得た知識には経験(実践)が必要ですし、
さらに探究心や情熱などの在り方も大切です。


それは外因による偶発的に起きた成功ではなく、
内外要因を歯車のごとく回せる人のことであり、



さらに、それらを「無理なく」継続して続けられる人なのです。




2011/02/18

多世界解釈




ピカソの絵を見て、ラクガキ書きにしか見えない人と
そこに価値を見る人がいます。



「俺には絵を見るセンスがないのだろうか・・・?」
そう感じる人も中にはいるかもしれません。



なぜ一人一人、こういった感性が違うのか?



そもそも我々はインプットから
アウトプットまでの過程から、処理まで全て違います。


つまりピカソの絵に価値があると
処理できない人が変なのではない、ということ。



余談ですが岡潔はピカソの絵を「無明の絵」とします。
あれは自我を最大化させた作品であって、
ずっと眺める場所に飾れる代物ではない、と。



面白いですね、そこまで感じる人もいれば、
ピカソだからといって「素晴らしい」という人もいます。







これはどんな対象でもそうでしょう。
例えば世界中に人たちが同一の太陽を見ていますが、



その太陽は全員で一つを共有していないので、
人数分の違う太陽が作成されているとも考えられます。



普通に考えたら当然の事、
逆に全く一緒に見えていると考えるほうが、無理があります。




そう考えると、一つの仮定が生まれます。
我々が世界に一つしかない完全オリジナル世界を
作り出しているというのならば、



人間もまた、万物の創造主ではないでしょうか?
これが量子力学で言う世界は「人数分(思考分)だけ存在する」という事です



コペンハーゲン解釈しかり、
エヴェレットの多世界解釈しかり、
ホーキングのベビーユニバースしかり。



多世界解釈は旧科学者のあいだでは

SF的な目で見られているので
支持者はあまりいないらしいのですが、




はたして・・・どうでしょうかね。



シュレディンガーの猫でいう所の
可能性の波(並行世界)、



人だろうが地球だろうが宇宙だろうが

「あらゆる可能性を持っている状態」こそ、
本来ではないでしょうか。




2011/02/08

フランチャイズ版「第三の波」

現代の日本を予言したかのようでもある

アルビン・トフラー氏の著書「第三の波」。





数十年前に書かれた予想と近い状態が

日本で起こっているんですね。



第三の波 (中公文庫 M 178-3)/中央公論新社


¥999
Amazon.co.jp



これは占い師のような未来予言というよりも、

論理的な予報図でもある気がします。





科学、技術、社会学、宗教など、

あらゆる分野からの情報を集積統合し、

世界の将来を予測しています。







別の著書である「未来の衝撃」なんて出たの1970年です、

パソコンが世に出る何年も前。







そんなアナログ時代に書かれた本には

やがて来る情報過多と技術革新の加速、







それに伴う「絶え間ない変化」の要求についていくことが、

非常に苦しく思われるだろう、と書かれているからビックリですね。







日本ではP・ドラッガーやF・コトラーが有名になってますが、

僕は断然トフラー氏が好きです。

と言う事で、今後来るであろう新しいFCの波。





■□■□■□■□■□









トフラー氏が予測した大きな特徴は

以下のような内容です。





○組織が不適切な行為を隠すことは不可能になる





○情報量が急速に増えることに加えて、

プロフェショナル・コンシューマ向けの分析ツールが“拡散”することで、

組織の行動を見張り、その情報を他者に伝えやすくなる。





○消費者が選択を動かすようになる





○コミュニケーション技術やソーシャルネットワークが

ますます影響力を持つようになり、製品やサービスの提供において

決定的ファクターとなる。











おそらく、メディアはテレビからネットへと変わるでしょう。



つまり購買者間の透明な声が影響を持つ、と。



企業はもう、隠し通せなくなるんです。

もちろん、企業以外でも。




2011/01/05

「恕」

ども、unreveのグッさんです(^^)
九州南部が梅雨入りしましたね。



これが明ければ夏の到来です、
雨にも負けず頑張りましょう(どっかで聞いたような・・)




そういや日本ではあまり知られてない(失礼)
ラーメン店の「陣屋」さんが、


カリフォルニアに直営店5店舗オープンさせ、
フランチャイズ展開してますね。




先に海外を攻めますか。
第二の味千ラーメンになるのでしょうか?



大小関係なく、FC形態のビジネスモデルの需要は
これからどんどん高まると思います。




さてさて今日のテーマは「恕」。
あくまでも個人的な意見なので盲信なく、です(・ω・)b


☞ ☞



江戸時代の記録には「我よし、相手よし」といった
考え方がよく記載されていると言います。



共存の精神がこの時代には、すでに根付いていたんですね。
また、奈良時代以前にもそれはあって、



聖徳太子で有名な「和を以って・・・・」がそうです。
ただ、戦国時代はどうなの?というと、通用しなかった。




長ー・・い戦国の時代が終焉を迎え、
泰平の世と言われた江戸に入った時、




今まで押さえていた共存・共栄の意識が
一気に吹き出したのかもしれません。




もう人と争うのは嫌だ、自分の事しか考えれない世の中なんて嫌だ!
そう思っていたのかもしれませんね。



天下を取った(治めた)徳川家康は
元号を「元和(げんな)」としました。



これは何を意味するかと言うと「平和のはじめ」です。




平和の為には武士たちに文官の意識を
持たせる事が重要と思った家康は
儒学者である林羅山の勧めで儒学を
武士の心構えにしようとしたんですね。




ちなみに、孔子の教えにある言葉で
「恕」という言葉があります。




これは弱い者の立場に立ちなさい、というもの。




相手を思いやる心、許す心を持つ事を孔子は「恕」という
たった一文字で表しています。




その後孟子がもっと分かりやすく「忍びざる心」と言いかえ、
江戸の文化はこの共生の精神が広がったと言います。




つまり「三方よし」とは、競争の行きつく先までいった
人たちが経験した心の声から派生しているんですよ。




2010/11/23

4方よし

どもグッさんです(^^)♪




さて今日は近江商人の
「三方よし」について。
これって海外でも注目されているんですよ(^^)
歴史は時に教訓として、僕らに教えてくれますね。



最近のサブプライムショックは、
金融のマネーゲームがそもそもの始まり。




アダムスミスは国家が経済には介入せず
市場原理に任せた方がいいと著書の国富論で書いてますが、



それはパイの奪い合いである現在の
競争社会では難しいですね。
市場原理に任せるというのは言わば「性善説」が
ないとダメなんじゃないかな。


そんな事からこの「三方よし」が
共有されていってるのかもしれませんね。
しかしこれだけ経済が複雑(煩雑?)化し、
インターネットでグローバル化した
最先端科学を駆使しているとも言える先進国が
300年以上前の原始的な商売スタイルに目を向けるなんて
実に興味深いです。



まあ強者生存が仮にまかり通るならば
動物界ではライオンなどの肉食獣しか残りません。
そして、かりに残れたとしても餌自体がなくなるので
最終的には餓死してしまうのは明白ですからね。






さてさて今回テーマでは「4方良し」と
書いてるんですが、僕が事業として
やっているFC事業、考えたら「4方」なんです。


3方よしが「我よし、客よし、世間よし」に対し、
FCはさらに先があって、本部から見れば
その「お客さん」には加盟店と消費者がいるわけです。



そう考えると「我よし、本部よし、加盟店よし、世間よし」
となります。



その全てにおいて「良し」と言えるかどうか?
それがunreveが提唱する新しいFCです。





確かに欧米のスキルは素晴らしい、
インテリジェンスだし、システマティックだしロジカルです。



あとマーベラスだしバットマンだしアルマゲドンです。



ただ、これらは機械的な大量生産に近い。
フランチャイズは大量のコピーを生み出すものではないですよね。





和洋折衷のバランスの取れた本部を展開されたい方は
ぜひご相談下さい^^


2010/11/09

世界共和国とナウシカとグッさん



夜においては、光も音もなく対象も空間もない。
しかし、これは「無」ではなく、そこには、闇が「在る」


~エマニュエル・レヴィナス~




ども、unreveのグッさんです。
いつものように自己中心的に、



そして「風の谷のナウシカを入れつつ」
書いてみようと思います(どんな企みだ・・・)




今回は時間と、ちょっとばかりの
寛大さがある方だけお願いします(笑)








社会秩序という構造はどのようにして成立するのか?
その前提として人間は「暴力」と「優しさ」が
同居しているという、本質構造を知る必要があるのではないでしょうか。




社会の根底にある、暴力性。
フロイトはイド、ニーチェは権力への意思と呼びます。



当然その本質は無秩序で無方向な欲望なので、
集まれば、混沌と無秩序の闘争社会になるでしょう。




そこで(個人的な宗教の起源定義ですが)、
統率という管理方法が「何者かによって」定義する必要が出てきます。



問題は、それを誰がするか。
また、どうやって暴力を制御するか。




多分に、西洋はその多数がもつ暴力性を
一人の人間に集中させ、犠牲にしたのでしょう。



このたった一人の人間を犠牲にすることによって
人間のもう一つの側面である善良性を引き出した。



つまり「罪の意識」によって負い目を感じさせ、
それによって社会に秩序が生まれ、共同体が成立した、と。




また、その犠牲者は神の象徴として潜在的に居座る。
(どことは書きませんが)そんな儀式的なもので
秩序を形成しているのでしょう。




逆を言えば、その秩序は
「すでに死んでいる聖人によって」支配されている。



これが人間は罪人だと言う宗教起源かもしれません。
あくまでも、個人的な意見ですが。




人間の切っても切れない生まれ持った「暴力性」。
それを管理する為には「反対の力」が必要だった。



僕はそんなの、嫌だな~









ルネ・ジラールの欲望論では、
僕らは他人に優越しようとする社会的欲望があり、



結果として相互的な競争が生まれ、
そこからは誰か一人を排除することによってしか
安定した秩序が形成されないと言ってます。



「秩序」というものは安定性が乏しく、
人の根底に潜む暴力性は完全に消えないというのでしょう。




それは今でも心の奥の潜在性として残っている。
特に今はそのタカが外れやすくも感じます。




よって、この暴力性の新しい取り扱い方が、
今後必要ではないでしょうか。




欲望は破壊や所有を伴った活動であって、
自分の「欠けている部分を補うこと」だと言います。



その欠けている部分を得たいがために
人は心の奥底にある「暴力性」が出てしまうので、



それを抑圧する為に「社会制度」が
出来あがったと考えられなくもないです。




制度によって人を縛り不自由にさせ、
共通の共同体に取り入れてしまう制度、




そんな監視社会においては
自分は特別な人間とは考えらず、
その共同体の一部分だと思ってしまいます。




思考や行動など、あらゆるものを
全体としてでしか考えなくなる。



それは秩序こそ生まれるけれど
動物園にいるのと変わりません。






じゃあ・・・・・どうしましょ?と考えたグッさん。




多分、今一番必要なのは欲望を制御させる
外部の法ではなく、



自分で自分を律する事ができる
「自分の法律(哲学)」ではないでしょうか?




欲望は否定しません、しかし「二の次」。




そもそも哲学論理は必ず暴力の世界からのスタート。
そう考えると、哲学の生みの親は暴力であって、
暴力なしには哲学や理性は存在しなかったのかもしれません。



国家の法律に追放、監禁、矯正、処罰等があるように、
哲学にも追放や矯正があります。



つまり法律と哲学は近い。



自分の中に哲学を持っている人は言わば
「自分自身の法律」を持っていると言う事。



つまり自分の暴力性を自分で抑える為の「法」が
哲学なのかもしれませんね。



・・・・・・・・




僕ら(人間は)生来、語るか暴力かという
二つの選択可能性を持っています。
(逃げると言う選択肢もありますが)



そして暴力は最も実現しやすく、また最も簡単な行為です。




現在の資本主義の象徴である「お金」は、
欲望を制限するのではなく、(欲望を)交換し
円滑に流動させるため、作られました。




つまり欲望が良い意味で「すり替えられた」わけです。
絶えず自らを生み出す「生産力」という肯定的なものとして。



しかしそれはあくまでも「本質的な暴力を抑制する為」、
この制御を相互で主体的に認識することが大事なのかな、と




ナウシカのラストあたりで思ったグッさんでした( ̄▽+ ̄*)ラ ラララ ランランラン



ではでは、また次回。

Bless youアップ


2010/10/06

絶対的価値と相対的価値

ども、unreveのグッさん(遺伝子組み換えではない)です。



さて、今回のテーマは「絶対的価値と相対的価値」について。




絶対的価値とは
「あなたじゃないと得る事ができない価値」。



特定の歌声や絵画、思想など
いわゆる「創造的価値」です。



ミケランジェロの作品やバッハの作った
楽譜と競争して勝つことなんて誰も出来ませんし、
逆に負けると言う概念もありませんよね。



「対がない」。それが絶対的な価値です。




それに対して相対価値は
「あなたじゃないといけない必要」がありません
競争して、比較して得られる価値、それが相対価値です。



それはコピー(模倣)や同一作業によって
得られる「数値」として優勢を争います。
受験や選挙、競争や価格などですよね。



同じものを売る小売店の場合はオリジナルを目指し
PB(プライベートブランド)という絶対的な価値に向かいますが、
その大半は相対価値、似たようなものしかありません。



そうなれば当然価格競争やチェーン店舗数で
その価値を生みださなくてはいけない。



「早い、安い」は結局「相対的価値」を
向上させる(と思っている)指針なわけです(・ω・)b



□■□■



自分の価値に気付かない人は大勢いますが、
誰にでも絶対的な価値はあると思っています。



なぜ自分に価値がないと思っているのか?
理由は簡単、今までの人生でやってきたのが
たまたま「相対的価値」だけだったから。



しゃーないですもん、ものごころついた時は
すぐに「お受験」ですし、



それが終われば就職競争ですし、
就職したら「誰にでも出来る仕事」を与えられるわけですから。



もちろん全てではないんですが、
そういった道から外れるとなんだか
「人生を踏み外している」と錯覚してしまう。



親は心配するし世間の目も気になるし
彼女からは「夢ばっかり追ってないでちゃんと現実を考えて」と言われるわけで(笑)




定年後に大事にとっておいても
その時はすでに忘れてるか枯れてしまう。
「才能とは継続できる事」なんで結果、萎んでしまうんです。




「俺には才能がなかったんだよ・・・」と。
いえいえ、才能は誰にでもありますよ。




「あの時こうしてれば良かった」とか
「あれがなければこんな結果じゃなかった」
といのは結局のとこ、



もっと上手くやれば別の良い結果が
あったのかもしれないという、期待に満ちた「if」ですが、



哲学者キルケゴールは
「船の中にある希望の積み荷を捨てれば、船は初めて芸術的航海をはじめる」と言ってます。




つまり、希望とは一見無くしてはいけない言葉のようですが
求めないことでこそ与えられる「何か」があるのではないかtって
言ってるんでしょうな。




確かに、希望は欲望と同じ、夢を追う事や
願望は下手すると「渇望」となりがちです。




ただ、前回の断捨離の話ではないんですが、
簡単に手放せないからこそ、今まで持っていたわけでしょ?



グッさんは捨て方には順序があると思っています。
(本来「ある」と言い切る状態から話をするのはルール違反ですが)



無理に捨てなくても、必要ないものは
自然にゴミ箱に行くんじゃないかしらん。



つまり「全てが方法論(思考)ありき」では
いつまでたっても苦労すると思ったグッさんは、
「まずはベース(幹)からでしょ~」と思ったわけです。



希望や願望や執着はあってもいいし、無くてもいい。



あって苦しいなら捨てれはいいし
それが嫌なら持ってていい。



その選択の結果が「絶対的な価値」ではないでしょうか?



自分で選ぶことで「あなたじゃないと得られない人生」が、
価値であり、それが後悔のない人生を作る。




ジョンロックのリベラリズムや
相互依存論に近いんですが



グッさん的には仏教哲理「不二論」の方が
馴染みます( ̄∇ ̄+)オマエ ホントニムシュウキョウ?




これ自体も無条件に正しいとは思えないへそ曲がりなグッさんですが、
お互いに内包している「共通項」がそうさせるんです。



つまり僕のせいじゃないです(爆)





「究極的真理は究極的真理がないことである」という空と、
「究極的真理は実はある」という空の空(より高度な矛盾、限界矛盾)がありますが、




「対立しているもの同士でもある点では一致している」。
目指すもの、必要なものは実はそれなんじゃないかと思うんです。




「グッさん暗い・・・・・暗すぎるよ」と言う意見は却下します(ノ´▽`)ノ ⌒(呪)



ではでは今日はこの辺で、

Bless youアップ


2010/09/14

歎異抄を開いても・・・



ども、unreveのグッさんです。




以前「仏教は日本を救う」とか書いてましたら、
最近仏教、というか仏像がブームになっているのだとか。



仏像ブーム 若者をひきつける魅力とは- MSN産経ニュース



また、仏教本でもある「歎異抄をひらく」
などは20万部近く売れているとの事、
成功哲学の次は宗教で幸せを得たいのでしょうか?



しかしマーフィーを1000回読んでも
成功できない人がいるように、
歎異抄を読んでも幸せにはなれません。



てなわけで、今日は親鸞の弟子である
唯円が書いたとされた歎異抄について。



個人的な意見ですが盲信なく、です(・ω・)b



○○○



「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」(『歎異抄』第三章)


歎異抄でも特に有名で、よく知られる言葉ですね。
以前はこの言葉を「悪党の方が天国に行ける」と勘違いし、
極悪非道を行う「造悪無碍」と呼ばれる人もいたそうです。



善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる、と。



やれやれ。とんでもない話ですが
影響力のある人の言葉は正確に理解しないと
時として大衆を間違った道に進ませてしまうのは
何時の時代もかわりませんね。



そこで文章全体を読み解いていきます(・ω・)b



善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。

しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、



いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、

本願他力の意趣にそむけり。



そのゆえは、自力作善のひとは、

ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、



弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、

他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。



煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、

生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、

願をおこしたまう本意、悪人成仏のためなれば、



他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。

よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おおせそうらいき。



弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、

他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり



ここで本文で出てくる
「自力作善のひとは、ひとえに
他力をたのむこころかけたるあいだ・・・」の部分。



細かい説明、解説は人によって様々ですが、
概念として歎異抄では善人とは自力作善の人、
つまり他人の力を頼らないで生きていて
自分の本質を知らず、自分が善人だと勘違いしてる人です。



阿弥陀仏の救いに身を任せずに、
自分の力で善を積んで悟ろうと、
「自力作善する」意味での善人ってこと。


また、悪人は煩悩具足(心が落ち着かず、
常に悩みの原因となる欲望がある人)の事であって
自分の力では輪廻を離れることができない、
阿弥陀仏の本願力をたのむことしかないと「自覚した人」のことです。




つまり道徳的な意味は関係がなく、
「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」とう言葉の意味は、
阿弥陀仏の本願を頼まずに自分で善業を行っていく人でも往生できる。
ましてや阿弥陀仏の本願を頼っている人が往生できることは当然だ。といった意味なんですね(たぶん)



阿弥陀は全人類すべての人間を
「金輪際助かる縁なき者」と言っていますが
人間が罪人であり、悪人なんだと本人が自覚した時、
そんな自分をも救ってくれる阿弥陀仏の本願を知り「このような罪人である人間でも往生できるんだ!」と、信仰するのだと。


最初から人間は「善い者」と
思ってるからそれぞれが「悪の対象」を作るわけで、
そうじゃなくて人が全員悪いんだけど
「こうやって現世に生まれたんだから良い事をして人生を送ろうね~」ってことです。



「おいおい、自己評価が低すぎるだろ」と思うでしょうが、
その考えの愚かさを、仏教では人間の本質として見抜いたのでしょう。



まあそんな事を書いてしまうと身も蓋も
コンサルタントの仕事もアメブロの自動ペタツールも無くなってしまうのですが



「俺ってスゲー良い事やってる!」という
思いの裏側に潜む「心の狭さ」が自覚ができない人には
ならないように心がけたいですね(^^♪




ではでは、また次回。


Bless youアップ


暖簾分け


日本の退職金の始まりは江戸時代。
現在の三越(旧三井グループ)が始めたという「暖簾分け」が起源だと言われます。



店で働いている奉公人が独立して店を持つ際、
その手助けとして、現物支給でのれんを渡してたのが発祥なんですね。



それが、長年の勤労へ対する報奨として
現物から退職金というお金になりました。




暖簾とはお店の屋号を記すことから
信頼を意味するんですね。





今回はその「暖簾」について。
FCとは暖簾分けだと思っているunreveのグッさんです^^










さて、暖簾分けは料理の世界では特にさかんに行われています、
有名料理人のお弟子さんがオープンさせた店とかよく聞きますよね。



これはその店の味、その店の技術を守って行きたい、という
純粋な継承スタイルだと思うのです。



フランチャイズと書くとビジネス寄りなんですが、
暖簾を分ける、というとなんだか人間味が出てきます^^




成功とか投資の概念だけでは本部と加盟店は
どうしてもステークホルダーの枠が出てくるんですが、




この味・このサービスを自分の住む地域に伝えたい!
という加盟店側の意識なら、ずいぶんと違ってきますよね。




そう考えると暖簾とは、親から子。孫からひ孫へと続いていく
家系図と似たようなところがあります。




何百年と続く歴史が暖簾という形に凝縮される、
これって日本的な情緒があると思うのは僕だけでしょうか^^?



お店が繁盛した。その店にほれ込んで弟子ができた。
その弟子が独立した時、同じ名前(暖簾)で増えていく。



そこに縦割りの組織体系とか中央集権とかはなく、
受け継ぎたい、伝えたいという気持ちだけです。




□■□■□




そこから生まれる「守・破・離」の精神、




「守」とは、師に教えられたことを正しく守りつつ修行し、
それをしっかりと身につける。



そこからの「破」で、師に教えられしっかり身につけたことを
自らの特性に合うように修行し、自らの境地を見つけ、



それらの段階を通過し何物にもとらわれない「離」へ向かう。







うーん・・・実にいーです( ̄▽+ ̄*)ジミジミ






ちなみに蕎麦屋さんって、
昔から暖簾分けの文化が根強い、と言われます。




でも味が同じかというとそんなことない。



しょっぱいものを好む地域とか
甘いものを好む地域とか、


量が多いほうがいいとか、逆に少なくして上品なほうがいいとか。
その地域地域の特性に合わせて商品を作っているので、
結果味も変わっていくらしいですね。



ただ、暖簾の精神が根底にある。
「こういう所を大事にしてる」とか、「この精神でやってる」と。




それって理念共有の一番大事な部分だと思うんです。
だから同じ屋号でもコピーではない、
FCのサービスの統一とは全く違う部分ですが、




僕はこれが一番大事な「お客に対する心配り」だと思うんですよね。
FCにしても同じ事が言えるんじゃないでしょうか?




FCの既成概念をここまでぶっ壊すのは僕くらいなんですが、
実用・現場主義で考えるとこれがベストな気がするんですよね。


2010/06/25

暖簾分け、日本流フランチャイズのすゞめ!





「日本流フランチャイズのすゞめ」とは
この国に長く息づく伝統の継承のこと。




こう書いてしまうと古臭く感じてしまいますが、
これからこの「日本流」の概念が大事になってくるのは
間違いないと思います。




なぜなら情報が溢れた今の時代ほど
この温故知新である「シンプルな価値」が
求められているから。




ではその「シンプルな価値」とは何か?




それが蓄積された実績を継承し、守るという
在り方に隠されていたんですね。




この国が桜が好きなのも、そんな一回性と
連続性を同時に感じるからかもしれません。




余談になりましたが、
今日はそんなところから。。。







さて、「フランチャイズ展開」と聞いて
イメージするのが「ブランドの形成」でしょうが、



当事務所では巷に溢れているような
「ブランディング」を目的にしたFCはやってません。




そもそも今のブランディングの概念は、
単に「目立つこと」だけを目的とした単純なもの、
手段である以上、いくらでも真似することができます。



確かに奇抜的なことをすれば一時的には
数は集まるでしょう、



しかしそれが「ブランド」になるか否かは
全くの別問題。本質はその奥にあります。



それが誇りであったり情熱(感性)。




他者の真似ではない、
自社だけが持つ「精神」ではないでしょうか。



☞☞☞



調べてみれば、この国には100年以上続く企業が
約2万社ほど存在し、中には数百年、千年続く企業もあります。



これは世界トップレベル。
まさにこの国が誇れる部分だと言えるでしょう。




ではその企業は上記のような
「目立つこと(ブランディング)」をやっていたのでしょうか?



もちろん、そんなことはやってません。
ただひたすら「事業の根幹」である暖簾を
守ってきたのです。




これこそ継承の本質であることから、
当事務所ではそれをフランチャイズに編集しました。





そんな簡単に形式化できないその精神と
向き合うことで初めて、自社の言葉で語ることができ、




それが真の「ブランディング」になるのです。