2013/02/13

アフォーダンスについて色々と。。。

今日はアフォーダンスについて。


アフォーダンスは「○○ができる」という
アフォードが語源で、 アメリカの知覚心理学者である
ジェームス・ギブソン氏が作った造語です。
 (ミームーみたいなもんですね)



アフォーダンス理論からすると、 
僕らは目や耳で感じているようで、
実は感じていないと言います。


目で確認していないし聞いて確認しているのではなく、
○○だろうと認知させられている、と。



つまり、モノ自体がそれをどうやって
扱えばいいのか メッセージを対象者に与えている、というのです。




例えば椅子があったとして、
僕がその椅子を初めてみたとします。
(仮にですよ)



「おっ、なんか木でできた作り物がある」。


「何本かの棒で板が支えられてる」。



まあ、そんな感じに思うでしょうね(笑)
しかし、アフォーダンスによれば、
僕が椅子の使い方を知らなくても、それを見れば座るというのです。




つまり「椅子自体」が「僕に」使い方を教えた、と。
誰からも教えられていないけれど、何となくそう思った。



これって面白いですね。
自動ドアのボタンを初めて見たとしても、
我々はつい、押してしまうようですから。



この「なんとなく・つい」ってやつは、
まさに「自分にとって意味のある情報」を
無意識的・身体的に掴もうとしているわけでしょう。




つまり「自分の持つ情報以外」でも、
我々は意味を感じる事ができるんですね。



☞ ☞




よく市場の声(ニーズ)を掴め、と言いますが、
このアフォーダンスのように、見えないものもあるわけです。



マニュアルだってそう、ブラッシュアップした答えこそ
唯一の道であるように言う人もいるでしょうが、
本来、自分流は自然派生的に見つけ出しています。



例えば人ごみの中を歩いててもうまくすり抜けれるのは
まさに「すり抜ける道すじ」がその人にアフォーダンスされているからでしょう、




これをもっと活用することをお勧めします^^
最後に、僕がアフォーダンスの達人だと思ってる
スティーブ・ジョブス氏の有名セリフでも。




美しい女性を口説こうと思った時、
ライバルの男がバラの花を一〇本贈ったら
君は一五本贈るかい? 


そう思った時点で君の負けだ。
その女性が本当に何を望んでいるのか、見きわめることが重要なんだ










2013/02/12

中空均衡構造




河合隼雄氏は日本の文化構造を
「中空構造」と定義しました。


それは、西洋の統合・統一理論とは異なり、
対立する原理の共存が前提としてあるのです。



二項を対立させ、勝ち負けによる
排除を行うのではなく、調和といった均衡点を探すというもの。



歴史を遡ればアマテラスとスサノオといった、
この国の古事記のよる神話構造も中空均衡といった
構造で描かれています。




八百万の神に中心はない、
ツクヨミ がいわゆる「均衡点」なのです。




日本は対立するあらゆる問題を解決するに当たり、
極論である統一論理ではなく、
やじろべえのような安定しない軸を中心とした
均衡モデルを展開している民族性があるのです。



中心が空であるということは、中心は「有且無」である
不安定な状態であり、相対的です。


これはまさに仏教の色即是空と同じ原理、
対立する原理は情況で変化し、それに伴い均衡点が変化するというもの。



相対立するものや矛盾するものを排除せず、共存するという「状態」を重視し、
原理を持ちだし、正解を導き出すといった考えではないんですね。



☞☞


日本人が意見を持たず、決定する事が
できないと言われているのはそんな歴史的背景から。




「正解はたった一つ」という考え方が
西洋の考え方ですが、この国は「複数の正解を持つ」と。




ビジネスだけに限らず人生において
真に大事なものはたいてい答えがありません。
それを問う事自体(プロセス)に意味が内包しているのです。



つまり「問い続ける」事が答えであり、
時と共にその関わり方は変化する、



まさに「中空均衡構造」はあらゆる場面において
相似的役割を果たすものではないでしょうか。



場を創造する、これがoffice unreveの提唱する「リゾーム式FC」の骨子です。

2013/02/07

饗宴



美意識というものがある、
今では廃れてしまった概念だが。



「恋愛とは美しいものに心惹かれること」、
これはプラトンの言葉であるが、



それは自己の中にある無意識的な「欠けたもの」を
対象に見出し、それを得たいという根源的な欲求なのだろう。




そんな、より完全なものに近づこうとする本能。
これがエロスというわけだ。





今日はそんなエッチな小話(違うか)




☞☞




我々が原理原則に忠実に従いたいと願うのは
我々がこういった「美」に心惹かれるからだろう。




そうなると原理(理性)は美の表象だと言われそうだが
あくまでも「理性的」ということだ。
(これはゲーテを引用するまでもない)





では理性的な美、とは一体なんだろう。




「潔し(いさぎよし)」というのも美意識である、
自決とはそんな美意識の忠義心から生まれたのだろう。
(半分は理解できるが)




生きようとするがゆえに、死を覚悟する、
なるほど、武士の嗜みとはそんなものなのだろう。




☞ ☞



僕はそんな強要は好きじゃない。
よって、馴染みや心地を重視する。




住み心地、夢見心地、居心地、履き心地、
着心地、人心地、生きた心地、呑み心地など、




日常でも頻繁に使われているこの心地であるが、
源氏物語(平安時代)にも、その言葉は使われている。



そんな約1000年の時を超えた言語であるから、
その発声自体にさえ、何かしらの心地良さを感じる。




(詳しく記述は割愛するが)
言葉には少なからず言霊という波が起きてるのだろう。
いやはや、仮名(神名(かむな))とは面白い。





知ることを知る大切さは、この歳になって分かるものだ。







閑話休題

そんなわけで心地の概念は概ね、そんなところだが、
これ以上は語る事ができない。




それは美を正確に語れないのと同じである、
そもそも、男の美学や美意識とは語るものではない。




逆を言えば、こうやってブログに書いている時点で
独りよがりの美意識にすぎないのだろう・・・・南無三、なむさん、と笑


2013/01/24

今を生き抜く力3

坂口です、こんばんわ。
今日から大寒ですね、寒い寒いあせる





この寒さを超えれば春ですね、





さて、山形市には「鶴岡食文化産業創造センター」
という地域団体があります。



市の職員である
鶴岡食文化創造都市推進協議会 が昨年から進め、



「食」から「職」の創造をテーマとした、
雇用の拡大を目指しています。
(ホームページはこちら


「人づくり」と「事業づくり」を柱にされたこのセンター、
食文化を支える為の人材育成や、

鶴岡市の食文化を盛り上げるため、
食と異分野との連携による新しいビジネスやイベントなどを開催しています。



山形の食文化継承がメインなのですが、
ビジネスの要素も取り入れてますので今後、楽しみですね^^



鶴岡食文化創造都市推進協議のみなさん




ここ福岡でも、福岡県庁がフランチャイズを
展開支援するという全国初の試みがスタートしています。



今後、各地方行政の横断的な連携が
もっと増えてくるでしょうね。



☞ ☞ ☞



さて、その鶴岡食文化創造センターでは
来月セミナーを予定していまして、



その講師として、クライアントである
ハンズバーガーの髙橋社長が講演されますo(^▽^)o


他にも地元で活躍されている各経営者さまが、
「店舗継続」や「新規立ち上げ」についてリアルな声をお届けしますよ♪


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近隣の皆様、ぜひこの機会をお見逃しなく!



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「飲食店経営者に学ぶ、独立開業の道」


■日時
2月17日(月)・2月19日(水)
14:00~16:00(質疑応答あり)




■定員
各30名(申し込み多数の場合は選考にて)


■参加費
無料


■対象者
・飲食店新規立ち上げをお考えの方、
・飲食店従事者・経営者の方



参加ご希望の方は電話かメール、
こちら をダウンロードしてファックスでお知らせ下さい♪



※担当の今野さん、
丁寧なメール対応、ありがとうございました!



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ちなみにブログのテーマである「今を生き抜く力」、
実はクライアントさんの商品に対する思いなんです。


それは「今この瞬間」を生きるという
生命力そのもの。



既製品や機械化や進み、
合理的な食事提供が溢れ、


偽装問題や某企業の農薬混入事件など、
最近の食に対する不安が多い中、



作り手の心のこもったものを食べれば、
無意識的な部分では、きっと感じるものがあると思います。



この思いを全国へ広げていきますので、
一緒にやって頂ける方のご連絡、お待ちしています^^


※ハンズバーガーは宮城・福島・岩手の方限定で
加盟条件を大幅に変えてます。



飲食店だけでなく、他にも志の高い経営者達が
あなたの独立を支援しますよ♪



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~PS~



帰る途中、牛タン食べてないことに気付き、
お昼を食べたばかりなのに、牛タン屋さんに行ってから帰りました(笑)



「タン先」「タン中」「タン元」「タンサガリ」が
全部入ってますアップ


美味し( ̄▽+ ̄*)ハライッペ






2013/01/23

遷宮とパラダイムシフトとエントロピー

ども。unreveのグッさんです^^

今、雪を見ながらブログ書いてます。




こう書くと、なんだかカッコいい感じですが。









こんな感じデス(笑)

ハア・・・春はまだですかね。





☞☞



さて、今年は伊勢神宮と出雲大社の遷宮が同じという

珍しい年でもあります。



遷宮(せんぐう)とは簡単に書くと「新築移転」、

修理とか新築する時、一時的に神体を移動します。




定期的に遷宮することを式年遷宮といい、

この行事で古いもの全てを取り壊し、また新しいものに変える、といったものです。




ちなみに寛文7年、出雲大社は朱塗りの旧本殿から、

白木の新本殿へ。



この遷宮により出雲大社からは仏教色が取り払われ、

また、周辺の地域でも仏教施設が取り除かれてます。




そこから出雲大社周辺が

「神道之地」と呼ばれるようになったんですね。




つまり「思想ごと変えちゃおうよ」と。

考えたら一大行事ですね。






さて我が国には、このように破壊と再生を繰り返しながら

永続的に世界が続く、弥栄(いさかや)の概念があります。




宇宙には始まりもなく、終わりもない。

ただただ弥栄に栄えていくのみ、と。




元来、日本人には「終焉」といった言葉がなかったんですね^^

「終わりが無い」という事が終わりの答えだ、と。




ただ、その流れの中には大きな転換期があって、

それが巷で言われる「パラダイムシフト」なのかもしれませんね。





冒頭の遷宮だけに限らず、

今は大きな「転換期」だというのは間違いないです。




昨年の冬至はマヤ歴で終焉だと言われてましたが、

人類滅亡ではありませんでした。




そのせいでネットを始め各国でも一時パニックになったり

買占めが起こりました。

(ノアの箱舟みたいなやつも売りだされてましたね)




若い世代の中には逆にそれを望んでたり。

言いかえると破壊の後の再生を期待していたのかもしれません。





個人的にはマヤ歴って、世界の「転換期」を指していると思うんです。

遷宮のように「ガラリと全く変わる時代の節目」である、と。





オカルティズムに傾倒するわけではないのですが、

新しい時代、すでにシフトしているのではないでしょうか。





だとすれば、これからの時代の変化、

とっても楽しみじゃないですか^^?




完全な利他へのシフトとは思えませんが、

今年は今までの非常識が、常識になる気がしてならないんですね。




ただ、おかしな思想や説法が蔓延っている感は拭えません、

自分の目も養わないといけないな、と改めて感じます。




次回、これについて、

個人的な考察を書こうと思います^^


2013/01/14

シェイクスピアとマニュアル

人間は泣きながらこの世に生まれてくる。
阿呆ばかりの世に生まれたことを悲しんでな
」。


これはw・シェイクスピアの言葉であるらしい。
いやはや、なんとも豪胆な。


シェイクスピアと言えば、ご存じ世界一有名な劇作家。
ロミオとジュリエットやハムレット、リア王なんて誰もが知っている名作である。


私は劇場で見たことはないが、
映画大全集は持ってるんだなぁ(笑)



作品の全てがドキッとするくらい人間の内面を表現しているので、
個人的には心理学者や哲学者に近い気がする。


全ての人間が持つ原罪である猜疑や嫉妬、
マクベスはこれを鮮明に描き出した。


喜劇と史劇と悲劇・・・。
今回はそんなシェイクスピアにまつわる小話。


☞ ☞ ☞


シェイクスピアは活字を使わなかったらしい。
台本は個人のパートだけ与えられ、全体の物語を読むことができかった。


当然、観客も作品を見る事ができない。
つまりは耳でしかその舞台は体験できないものだったのだ。


実際の舞台と俳優のセリフを覚えながら各自、
一連の物語を再構成するしか、方法はなかった。


よって観客を始め、俳優たちそれぞれも、
各々が自由にその世界を感じたのである。


よってシェイクスピアの舞台そのものは
一義ではなく、多様な物語なのだ。











何と不親切な・・と思うだろうか?
私はそうは思わない、むしろ逆にこれこそが醍醐味である。



我々がその一部始終を目にできるような俯瞰的な視点とは
逆を言えばそのリアルな「場」から切り離された傍観者でもある。


そして客観的な場に居座れない代わりに、
我々は常に参加し、受け入れ、相互に影響を与えあうことができる。


内側から眺める視点、これがunreveの「場の創造」なのだ。


文字(テキスト)が存在すれば途端に内部から外部となる。
まるで台本を読む傍観者のように。



つまり全員が参加するには「文字」が邪魔なのだ。



岡目八目は立ち位置として重要だと書いたが、
その視点を自由に変える事ができるのが前提としてある。


☞ ☞ ☞

シェイクスピアの演劇は没後、その「曖昧さ」から
数学者からなる王立協会によって批判された。


それは数学者やプロテスタント(カルヴァン派)が求める
「万人共有」の対立概念だったからだ。


17世紀は「多様から一義へ」変わって行った時代ともいえる。


シェイクスピアの没後、世界中の人々が作品を共有した。
印刷技術とは、世界で初めての大量生産した「知の共有」である。


つまり今ある活字本とは、均質にして反復可能であり、
編集によって多くの人々が共通する意味を持てる、という
「再現性を売る商品」なのだ。



否、持てると勘違いさせてしまう商品なのである。



☞ ☞ ☞


フランシス・ベーコンは言語が個人の偏見(イドラ)によって
作られているとし、


デカルトは観念を正確に伝えうる言語以外の記号を考えた、
言語が記号である以上、解釈は一つではないのだ。


フランチャイズのマニュアルも当然「イドラ」である。
その台本を俯瞰しても捉える「フィルタ」が違うのは当然だ。



我々は自己完結、つまり「勝手に納得(解釈)」してしまう。
(解読と解釈の違いは前回書いた)



シェイクスピアはそれを危惧して、
あえて台本を書かなかったのかもしれない。
多様な捉え方そのものに価値を置いた気がしてならない。



つまり受け手が多様である以上、
一つの台本を作ったとしても、その解釈は多様のままなのだ。


unreveは「参加型マニュアル」を推進している。
それは本部と加盟店によるフラットな編集作業だ。



イノベーションが求められる時代において、
既存の閉鎖的になりつつある専門性や、俯瞰的マネジメントは台本である。



台本に当てはめ、再現し、大量に作る。
それはもう通用しない。



現在、時代を先読みする地図はない。
管理する設計書もない。



今はコンパスだけが頼りなのだ。
それは関係性の中から生まれる気がしてならない。

平和のノウハウ

さて、僕は最近全くテレビを見ないので
流行りの歌もアーティストも分からない
という、残念なやつなんですが(笑)



このところお気に入りが
「世界の終わり」でして。



歌詞の意味を問わないものが
多い中、すてきな歌詞書くなぁ、
と思いました。



「天使と悪魔」っていう曲の中に
「大人vs大人の正解、不正解のバトル」
って部分があるんですが、



確かに、大人って理性の塊だよね、
って感じたんです。



今日はそんなところからの小話でも。







さて、昔の僕もそうだったんですが、
矛盾する対立二項は統一したいものです。



矛盾して悩んだり葛藤したりするより、
科学みたく、スパっと断言したほうが
確かにスッキリします。



ただ、ずいぶん前にそれは止めまして、
統一ではなく回帰による統合、
超克的な組織構造論にシフトしました。



統一とは意図的に同じ状態を
作りだす画一化であり、



統合とは相互矛盾し、バラバラなものが
一つになる、調和的なもの、
似ているようで全く違います。



☞ ☞ ☞



ちなみに物理学は統一したがりますな。
例えば、素粒子を一本のヒモに統一したら、
そのヒモが5本に増えてしまった。



真実が5つあると困るもんだから、
11次元の膜で統一したのがM理論なんですが、
それでもパラドックスは消えてません。




なぜ矛盾が消えないか、
それはこの1400グラムの脳が
理性で考えてしまうからですわ。



だからさっきの歌詞の様な
「正解、不正解のバトル」になる。



それじゃあ部分の正しさが
全体にとって悪になる、ってことで、
両成敗式目が慣習化されてたんです。



これができたの、世界で日本だけ。
我々の文化は平和のノウハウを持っています。



☞ ☞



子供を見れば、正解を求めないし、
比べることもありません。



ただ、自分ができたことを
親に褒めて欲しいわけです。



比べ出すのは小学校くらいですな、
ちょうど理性が強くなる頃です。


誰々ちゃんの家は大きいだの、
誰々くんのお小遣は多いだの。



僕もよく言われてましたわ。
「他所は他所、うちはうち!」ってね(笑)



ここからなんとなく記憶が
ハッキリしてきませんか?
これは理性が働いているからでしょう。




☞ ☞



身近な統一理論は他にもあって、
歴史上、最も古いと言われる
西洋宗教なんて、まさにそうですな。




キリスト教、ユダヤ教、イスラム教。
それぞれが唯一無二の神を譲らない、と。



それじゃあさっきのヒモ理論みたいに
真実がいくつもある、って話になってしまう。



だから互いに仲が悪いんですな。
ただ、根の部分はまったく同根なんですがね。



フロイトだって世間の心理を
個人の心理に当てはめてるわけでしょう、



小林秀雄から怒られそうですが、
社会の心理が個人の心理のはずがない。
それならベルクソンの方がまだ分かる。




成功哲学のマーフィーもそう。
無意識を意識でコントロールできる、
と思っている。



つまり意識で統一するって事でしょ、
そんなもん、不自然かつ危険極まりない。



寝ている時は無意識なわけです。
その時、呼吸や心臓は勝手にやってくれてます。



逆を言えば、我々は「無意識」がないと
おちおち寝ることすら出来やしないわけです。



だから陰陽両面を陽で統一するんじゃなくて、
陰陽を統合する生き方は自然だと思うんです。



☞ ☞



そんなわけで、僕は原理主義が
どうしても苦手なんですが、



それすらも、極端になれば
「反原理主義」という原理を持ってしまう。
これじゃあミイラ取りがなんとやら、です。



ほどほどが一番ですな。
原理は太陽と一緒で、長い間見るもんじゃない。



客観的整合性がある原理は
あるかもしれないし、無いかもしれない。



しかしそれは理性では分からない、
逆に、故に、だからこそ、



我々は大いなる原理の存在みたいなものを
感じる事ができるんでしょう。





【後記】

とはいえ、僕の定義では
どうしても存在の悪、というものがありまして。


例えばそれは白痴のムシュイキン侯爵のような
純粋な存在だったりします。



純粋なものは美しいとは限らない、と。
まあ、この辺は難しいですね・・・

70億の波



「能力主義」は対象者を管理させるのみらならず、
人間を数値化し、価値を下落させる単なる「技術」になってしまう。



この事実が言わんとしているのは、
「システム」が本義から逸脱したのではなく、



その「管理機能」が社会に埋め込まれている
証拠であり、その影響から逃れられないことにある。



近代社会は「標準化・規格化」が常であり、
技術産業の域を超え、財務、情報、セキュリティ、教育にまで及んでいる。




標準化とは安心ではあるが規格外は排除される、
つまり規格とは、恣意的な選別の篩(ふるい)なのだ。







リゾームはそれら規格化への反対運動ではなく、
対立同化である。




すなわち既存構造の容認であり、
規格外である異質と共存できる環境作りであって、



主体でもなく客体でもない「場」へと向かう
「開かれた一つ」の再生である。




私は、我々のすべての活動には何らかの
創造的機会が潜んでいると思っている。
誰もが表現者であり、アーティストなのだ。



だから、もっと自己を表現できる世界を作りたい。




それが他者と共鳴し、それが集まり、
何かを達成し、元へと戻っていく。




まるで一つの海から派生する
70億の波のようである。



☞ ☞




他者から見る自己に反発し、独自の自己像を追求しても
他者の痕跡だけが浮き彫りになるだけにすぎない。



なぜなら自己の「固有性」や「特殊性」を、
他者とは反対の場所に位置づけてしまうからだ。




つまりそれらは差異の反発によって出来る
天邪鬼的な自己にすぎないのであって、




「独自性」を否定するつもりが、
逆に「独自性」を主張してしまい、
根本的な矛盾を孕んでしまう結果となってしまうだろう。



そんな無理強いなんて、本来は必要ないのだ。




☞ ☞


様々なタイプがいることは望ましいこと。
似たようなものばかりがいるより、互いに学びあえる。



同じ者同士ばかりが集まる環境下では
知的・文化的な視野は狭くなってしまう。




反面、多様体であるリゾームは、
別の多様体と接触された時、
その主体(自己)の性質を変えていく。




それは馴染む場所から異なる場所へと向かう
絶えない矛盾や葛藤による思想的変化を暗示している。




よって多様とは枠が広がるだけでなく、
混在した場における相互作用により、思想の質的な向上が起きるのだ。




縦と横が交差し、織りなす一つの「多様体」。
そこは常に開かれているので始まりや終わりという概念がない。





そんな世界は混沌ではない、逆に幸福という秩序がある。




2013/01/07

初心不可忘


office unreveの坂口です。
九州の元旦は天気にも恵まれてたようですね(^O^)



さて、本年最初の記事。
何を書こうかと迷ってましたが、


やはり正月と言えば決意表明ですね(笑)


と言う事で、
今日は「初心」についての小話でも。。。









さて、我々の意志はとても脆弱なもの。
これは個人差というよりも「人間」というものが、元来そうなのです。




「いや、私の意思は強い!」と思う方も多いでしょう。





しかし、ある簡単な質問でそれが違うと言う事が分かります。





ちょっと試してみましょうか^^
僕が今から書く内容を強い意志で跳ね返して下さい。





ではいきますよ。



















3分間、お金のことを一切考えないで下さい」。



















。。。。いかがでしょうか(笑)











僅か3分ではありますが、
お金のことを全く考えないでいれるほど、意思を強く保てたでしょうか。




ちょっと難しいですよね、
世阿弥はこのことがよく分かっていたのでしょう。




☞ ☞ ☞




さて、能楽を大成した天才、世阿弥は
秘伝「花鏡」において、その伝統を継承・発展させるため
初心不可忘」を説きました。




残したと言われる風姿花伝や花伝書、花鏡には
存続させる為のノウハウが詰まっています。
(「序・破・急」はアニメ「エヴァンゲリオン」の題材にもなりましたね)




世阿弥自身、仏教である「色即是空」や
禅宗(不立文字)の影響を受けていた。



つまりその秘伝は形式知ではなく暗黙知、
「言葉の先にあるものを掴む」ものではないでしょうか。



☞☞





世の中のタイミングを表す「時節」や「男時・女時」。


内省や俯瞰による「離見の見」、


慢心が人を朽ちさせるという「情識」。



これらはどんな時代の、どこの国にも当てはまるもの。



世阿弥の説く「継承からの創造」の原理は、
まさに「最高の暗黙知」なんですね。




よって知識として知るのではなく
身をもって感じる事が大切です。



それを踏まえ、根底にある精神の型を覚える。



世阿弥のいう初心とは失敗と苦労の末、身に付けたもの。
つまり「直接的な経験を忘れるな」と言う事なのですね^^




「初心の意味がわかった!!」という方は
office unreveの公式ホームページを、ぜひ一緒にご覧ください!




2013/01/03

急いで掘り起こさない

「現状がどうであれ、悲観することは一切ない」
人生とは何があるか分かりません。




そんな説法的な話を聞いてもいまいちピンと来ないのが
私たちの正直な感想ですが、





過去の成功者を見れば、
なるほど、と思わずにはいれません。







現在の有名FC企業もそういった歴史があります。
そして創業者は順調に成功していた訳ではありません。





例えばリンガーハットの米濱社長は小学生の時に
親の鮮魚卸会社が倒産、





大学受験に失敗した社長はその後兄と共に
トンカツ屋を創業、これが後に「浜勝」という巨大チェーンに成長し、
長崎ちゃんぽんもチェーン展開して成功します。





カレーハウスココ壱番屋の宗次社長、
孤児院で育ったのは有名な話です。





24歳で不動産と喫茶店を経営、その時喫茶店で奥さんが作った
カレーがヒットし、今の「ココイチ」となってます。





カギの110番で有名な上野社長も
27歳の時に始めた出張鍵屋、いわば露天商からのスタートです。







当時、まさかここまで巨大な企業に化けるとは、
誰も予想しなかったでしょう。







チェーン店(フランチャイズ)の元祖とも言えるKFC、
ケンタッキーの創業者であるカーネル・サンダース氏自身も
65歳で起業してあのような巨大企業になってますね。







「どん底の経験なんてしたくない」、「周りからバカ呼ばわりされたくない」。
現在、リスクばかりが先行し、そういった事を避ける傾向があるのですが、





どんなものにしろ、チャレンジするのは素晴らしい事だと思います。
いくつになってもその精神がある人は幸せです。





どん底を知っているからこそ、強くなれる。
何もない状態から始めたからこそ、実力が養われています。







最初から成果を期待しなくとも、
継続すればやがて実がなる、あとは時間の問題です。







FCチェーンの特性がスピード重視なのですが、
私は反面、継続重視のFCを提唱します。







トマトのタネを蒔いて、次の日に掘り起こして
食べる人がいないように、







FC構築が出来たとしても、
それがすぐにたくさんの実を結ぶ事はありません。





短期間に育てようとして、失敗している本部は
それこそたくさんあります。







ちゃんとした種をまき、それを大事に育てましょう。
経済成熟期にはそれが一番重要ですから。


2013/01/02

過剰な保護






植物はそれぞれに適した環境があって、
それを無視すれば、通常のような
生命力の強さは期待できません。





例えば植林のように
人工的に作りだした場合、




例えば杉なら杉だけ、
ヒノキならヒノキだけのように
一種がキチンと規則的に植えられます。



これは手入れをしやすくすることで
「効率よく短期間」で成長できるようにする為です。





ですがその木、その森を育てるには
絶えず人が手入れをしなければいけません。





また、何年、何十年もそうやって
手間暇かけて育てたとしても、
ちょっとした大雨や台風、地震や津波なんかで
簡単になぎ倒されたり枯れてしまうそうです。





成長が早く、背の高い木でも
根が浅い為」に保水力が低い、と。




☞ ☞



松の木も同様、
根が横に伸びる為、本来は地震や津波には弱い。




それに比べ人の手が入っていない通常の森では、
草木は太陽の光や根を張る為の場所を確保する為に競争します。



下の草が地面に根を張って低い木を支え、
その低い木がさらに高い木を支えるような関係性になっています。




まさにこれこそ自然の「共生」でしょう、
地球上で40億年続いている掟とも言えます。





まー、これについては色々と意見もありますし、
必ずしも上記のような環境が最適だとは言えませんが、






それを書きながら掴んでいこうかと^^







2013/01/01

加減を忘れた倫理の先

ドイツで長年に渡って「禁書」とされていた
「わが闘争」の著作権が来年切れるということで、話題になっている。


わが闘争(上)―民族主義的世界観(角川文庫)/角川書店
¥864
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全体主義の代名詞であるナチズム(ファシズム)。
この原理には歪んだ「正義」が潜んでいる。


誰もが正しいと「思ってる事」を厳守するのは正しいだろうか?
正直、私にはそうは思えない。


私自身、倫理やらなんやらと言ってはいるが、
それらも極端に走れば当然、弊害が起る。


例えばナチス時代のドイツ、
来日したナチス青年団の印象は倫理的で規律のある青年達だったそうだ。



その倫理性や規律の正しさでホロコーストを引き起こした。
それは矛盾した行為ではなく、その性質の延長線にあったのだ。


日本も同じである、戦時中は戦争反対などといった
反イデオロギーは許されなかった。


また、戦時中には愛国婦人会という団体があり、
若い女性がパーマをかけていたりすると、注意していたらしい。


当然化粧もダメ、さらには髪の毛が長いとハサミで切ってたと言う。
レースや刺繍のついた服も「その場で」切り刻まれていたのだ。


精神的に未成熟なのは昔だけではない、
倫理と名を付け「勝手な自己判断」で裁く類は未だに多い。


お互いが罵りあい、軽蔑しているのだ。
良い意味で「放っておく」事ができないのかなぁ、と思ったりする。


タカもハトも極端な倫理性の向かう先である。
だからといってリベラルも同じである。


以前私はリバタリアニズムであったが
目指す概念とちょっと違うな、と感じるようになってきた。
また、今の政治構造ではリバタリアニズムは不可能ともいえる。

前提そのものを疑う必要があるのだ。


☞ ☞ ☞


現在道徳を普及させようとしているのか
慎ましさや品格といった、武士道的な精神性を復活させようとしている。


もちろんそれらは美しくはある、
しかしそのような復古論や懐古的な教育手法は私は懐疑的だ。


そもそも背景が違う、現在はバターナリズム(父権主義)ではない。
これは平和な時代の副作用であるというのが個人的な感想である。


物事には必ず「功罪の側面」がある。
それを理解し、罪的側面も受け入れるという覚悟が必要なのだろう。



理想なんてものを設定するからおかしくなる。
物事には必ず「毒と薬」が一緒くたになっていて、



一流と言われる人はその毒が必ず回っているのだ。



その毒が上まらないよう、浄化し続けることで
均衡を保っている、これは道を極めた人に共通している。

バランスを保つには、自己否定もまた必要なのだろう。


☞ ☞


よって今は考え抜かなくてはならない時代である。
言い方を変えれば、そうしないとどうにもならない所まで来たのだ。



我々はやり尽した終着点にいて、根源的なものを確かめているように見える。
また、そこには新しい価値が内包されている気がするのだ。



最近読んだ本に坂口恭平氏の「独立国家の作り方」というものがある。
最近もっぱら古典ばかりだが、これは久々に読んだ現代著書の中でイチオシである。



著書内にとても響いた言葉がある、
最後にそれを引用したい。


独立国家のつくりかた (講談社現代新書)/講談社
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この無意識だらけの無思考な社会が、居心地がいいわけがないのだ。
そこにはたくさんの無視が存在している。
差別が存在している。階級が存在している。貧困が存在している。



それが苦しくないわけないのだ。
僕の症状は自然な精神であれば、当たり前の事だと気付いてきた。


だからこそ、行動に実行に実践に、
結びつけなくてはいけないと決める事ができた。
とはいえ、障害はやはり障害である。
死ぬかもしれないという可能性もある。




だから新政府を立ち上げた。こんな事を社会に表明しちゃったら、
多くの人も応援してくれているし、死ぬわけにはいかない。



つまり「死ねない」。
これ、すなわち「生きる」である。



生きるというのはそう言う事だ、仕事で成功するとか
いい会社に入るとか、有名になるとか、資格を取るとか、出世するとか、
お金を稼ぐことではない。



「生きるとは死ねないこと」。
死ねない環境を作る、これが「生きる」と言う事だ。




2012/11/20

道化のいる場所




文化人類学者である山口昌男は文化構造について
「道化論」という概念を提唱しました。


「道化」とは神話において、神や王のような
絶対者の言葉をひっくり返す異質な存在、
混沌と秩序の境界を明確に劃するものであり
自由の境界線にいるトリックスターとも言えます。


内部と外部が反転する「どちらでもない場所」に存在し、
秩序(外部)の中に潜む痴愚性や、愚かな現実性を露わにするもの。



だからでしょうか、道化であるジョーカーは
カードゲームでは「最強」でありながら
「最悪」の役割を持っています。


ピカソが道化師を好んで描いたていたのは、
なにかしら共感するものがあったのかもしれません。







世界で対立する二項には道化の位置、
境界線が必ずある、個人的にそう思ってます。
そのどちらにも属さない仲介者である
「異質者」が存在し、二項を調和・統合しているのだ、と。



N極とS極を分ける「あいだ」しかり。
「N極」のアイデンティティが確認されるためには
「S極」が必要であり、「N極とS極」の
仲介者である「境界線」はどちらにも属さない異質、


道化は極端を嫌う。



いとも容易く、ひっくり返す。



不思議な現象ですが、多分にそういう原理なんでしょう。



✍✍✍


我々は生きている以上、必ず他者(彼ら)と出会います。
同化する為ではなく、他者との差異を知り、調和する為に。



そんな多義と一義は表裏一体、切り離せないもの、
かのチャップリンは、笑いと哀しみは表裏一体、
分かち難いものであることを演じました。




もしかすると彼は「境界線」を演じていたのかもしれませんね。




2012/11/13

両成敗



運命と宿命、偶然と必然。
長い事生きていると、上記について考える事はよくある。



ライプニッツは可能世界において
根拠律(必然性)と矛盾律(偶然性)を分けて考え、
カントはそれは理性では解けないアンチノミーとした。


さて、あなたはどちらを信じるだろうか。



例えば、男性と女性が互いに惹かれ、愛情を持つ、
というものは、自然の必然的法則である。



しかし、どの男性とどの女性が巡り合うかということは、
運命的出会いという表現があるように、自然の偶然的法則である。



よって、自然の必然性は内的に偶然性が含まれる。
我々が何を選ぶかは、まさに我々に委ねられるが、
運ばれてくるもの自体には委ねるしかない。



このことから、科学が森羅万象を
完全に予知する時代は決して訪れないと断言できる。



逆に科学が進歩すればするほど、驚きや賛嘆、
さらには畏怖としての「生命の神秘」を覚えるだろう。



今日はたまたま、そんな小話をしようか、と(笑)






☞☞






さて、西洋の自我はものごとを判断するとき
「どっちか一方を選ぶ」傾向がある。



西洋宗教はそこから絶対性、必然性を目指した。
それが唯一無二の一神教、である。



例えば、キリスト、イスラムなどの一神教において、
我々人間の本性は「悪」である、と定義される。



なるほど、悪であるから善いことをしなければ
我々迷える子羊は天国には行けないとする教義と、



善い行いをしようがしまいが、神によって天へ行けるものは
すでに決まっている、という教義がある。



まあ、いずれにしても人間の本性は
前提条件では悪である、ということだ。



よって、聖書の御言葉に従うのみ、
そんな完全な外律型が西洋宗教の特徴だといえよう。



つまり絶対(悪))から絶対(善)へのシフトが
神を信仰することにより、可能となるのだ。




こういった原理主義は理性を外部に委ねているため、
いち人間の説得なんて、通用しない。



逆を言えば、だからこそ大義名分が成り立つのだ。
まさに蛙を睨む蛇のごとく、である。


現在、「この国の為」という幻想によって
ありえない大義が発動されているのだが、


これでは原理主義と全く変わらないのではないだろうか。





☞☞




話は逸れたが、西洋のそれと比べ、
日本の精神性はそれとはちょっと異なる。



それは対立二項のどちらか一方を選択するのではなく、
矛盾したそれを統一しようとする超克的意識である。



曖昧な態度とは、こういった精神性の
発達が未熟な状態とも言えるが、特質なのだ。



自分だけでなく他人も含めた「どっちも」を選ぶ、
人間の意味は「ヒューマン(人)」ではなく、世間である。


つまり我だけではなく非我への配慮があるのだ。
これはこの国ならではの「美点」であろう。



例えばあの大震災において、
暴動や略奪はほとんど起きなかった。




海外メディアは賞賛しているのだが、
当の日本人からすれば、ごく自然な「行為」である。



そしてこれが加減を間違えると
個人を認めないムラ社会となり「汚点」となるのだが、



本来、この国は個人と集団を両立できる
一段高い精神性を持っているのを忘れてはいけない。



☞ ☞



近江商人の3方良ししかり、お互い様の精神しかり、
また、日本には室町時代に作られた「喧嘩両成敗式目」がある。



両成敗とはつまり「争う」という事自体をやった以上、
互いの言い分はどうあれ、どちらもルール違反とみなされる。


今のガザ地区のような復讐の連鎖は
この制度からすれば、お互いが悪だ、と言う事だ。


当然、不公平になる場合もあるし
先に手を出した方が悪い、という場合もあるが、



我々の本質は清濁併吞、善悪は揺れ動くものである。
その善悪の境界線は、常に必然と偶然によって変動する以上、


場合によっては立場が逆になる場合だってある。
これを仏教では「縁起」・「因縁」と呼んだ。



何が起こるか分からないが、そこから何かを成すのだ。



☞ ☞



過去の慣習法によって身に付いた必然性は
ホメオスターシス的な恒常性を持ち、マスキングされ、アドレスを持つ。



世界はそんな「必然的」による選択と、
そのアドレスから派生した主観によって構築される。


言うまでもなく、現実とは選択の連続である。
我々は選択と対応によって現実(運命)を作り上げている。



宗教の説くように宿命的な流れにただ流されているのではなく、
その流れから、能動的に、主体的に対応しているのだ。




何処からともなくやって来る偶然的現実(実在)に対し、
我々がそれを必然的現実に再変換していると言える。


働く意味はあるのか?


最近、ネットで炎上するのは
多様化に伴い、共感力が足りないからと言われます。



共感できない相手を攻撃しないと、
自己のアイデンティティが保てないのだ、と。
時代・性別を超えた共通テキストの不在、とでも
言うべきものでしょうか。



でも、それがないのは昔からですよね
「近頃の若者は・・・」というのは今も昔も使ってますわ(笑)



イデオロギーから自由になりつつある現代、
そんな所から、今日は労働と共感についての小話を。



☞ ☞



さて、フリーター増加が社会問題となり、
「働くことの意味がわからない」という悩みを抱えた人が増えました。



現在の「働く意味」というものは、多分に
順調に働いている人だけしか分からない。



言わば成功している時にしか、
その意味は通用しないのではないでしょうか。



なぜなら現在の労働とは
不自由で不寛容なものが多いですからね。



☞ ☞



一説では、働くことの本質は
「贈与すること」だともいわれます。



それが仕組みとして稼働してないから
現在はボランティアとしてみなされてるのだけれど、
これで共同体が成立するなら最高じゃないですか。



個人的に、人間は本来優しく、
相手の幸せを願う気持ちを無条件に備えていると思うんです。







結婚式に出席した方なら分かるでしょうが、
あの場は全員が幸せです。



結婚するのは友人や知人であり、
自分の幸せには全く、関与していませんが、



「あなたが幸せなのは、私達にとっても幸せ」という、
原理的に解けない場が、そこには発生していますよね^^



もちろん、人間は営利や損得によって
社会が形成されたのは構成要因としては間違いない。



しかし、その根底にはこういった
「無条件に相手の幸せを願う心」があったはず。



そして、これが共同体を結びつけるものであった、と
個人的に思っています。



「働くことの意味がわからない」という悩みは、
もしかすると、こういったものが失われているからかもしれませんね。




2012/11/12

加速する現代を眺める

年を取ると時の流れは早い、
とくに現代の社会ではことさら早く感じる。



社会人となって仕事をしている方も同じ気持ちだろう。
「もう?」と言いたいくらい、一年は過ぎる。




それは仕事というものが「未来予測」に基づいているからかもしれない。


以前、プロジェクトの語源が「前方へ投げる」という意味だと記事に書いた。
しかし、考えてみればビジネスそのものが前方である「プロ」で作られている。


例えば商売においては購買の見込みを予測する。
この「見込み」とはプロスペクトだ。


そして見込みに対し、計画する。
計画はそう、プロジェクトである。


販促するのはプロモーションであり、生産することはプロデュース、
そして契約とは約束、プロミスである。


結果、利益(プロフィット)が生まれ、
企業はさらなる進展(プログレス)をする。



商売の一連の流れを西洋の言葉で訳せば、
なるほど、仕事とはまさにプロプロプロ。
「前へ前へ」の時間に支配された連続行為であることが分かる。



文明は前進することで飛躍的に進化した。
ただ、前向きと「待てない事」は同じではない。



しかし前のめりな「プロ」は待つことを拒絶する。
現代人は、「待てない病」になりがちだ。



コマーシャルなんて見てられない、
手紙から携帯メールになり、
さらにレスポンスの早いLINEが浸透している。



これらはそこまで影響は(今のところ)ないが、
深刻なケースもある、それは「子育て」である。



今は待てないのか何なのか、子供がちょっとでも親が思うイメージと
異なった行動をしただけで、恐ろしく過敏になってしまってる。



すぐに育児書やらなんやらを持ち出して軌道修正に入ろうとする。
さらには「前もって」予想できるように、先に手を打つ始末である。



不安前提、これでは先に神経がまいってしまう。
これも以前書いたように、子供とは本来自然であるからコントロールできない。



だからといって「0・100思想」で在りのままに育てても上手く行かない。
子供は宝であるが、王様ではない、ここを勘違いしてはいけない。



子供であれ大人であれ、人間の本質は同じだ。
色んな場面にぶつかった結果、考え、学び、育つ。



これが待てないのだ。
予想できないものに対し、楽しみに待てないのだ。




待てない社会は必然的に
「待ってくれない社会」を引っ張ってくるのだが、




マイペースな僕からすれば、
これがどうにも息苦しく感じてしまう。




個人的に「プロ」以外のビジネス用語で
やっていける社会が望ましい。







根幹を変えよう






さて、リゾームを構築するには理念は必須ですが、
その理念は絶対命法でこそあるけれど、



内部派生である以上、教義化した時点で
閉鎖的な組織構造を作ってしまいます。




教義化すれば、必然的に純血主義となります。
それがもたらす閉鎖性はトレードオフとなる。



もっと閉じたり開いたりするには
どうしたら良いか。




例えば、アレグザンダーのセミラティス構造の
パターン数は実に253、だからこそ
ナラティブ構造であるといえるのですが、




この微妙なサジ加減を知ること、
やはり個人のバランス加減が大事なんでしょうね。



☞☞



数年前、理念を愚直に守らせている
管理職がいる現場を見たことがありますが、
ちょっと異様なものを感じたのです。



それは均質性というか、同質性というか、
まるで、恣意的な「一枚岩」のようにも見えました。




その現場には、なんというか
「楽しさ」を感じることができなかった。



楽しさというと誤解がありますが、
言わば、個人の積極的な「意思」です。



それは管理・抑圧されればされるほど、
得難いものだな、とその時に感じたんですね。







レールを敷いて、「さあ、自由に走って下さい」
というのは自由ではありません。



なぜならそれは、レールという条件があって
初めて意味を成しているのに過ぎないからです。



その背景には、相変わらずの排除の理論があり、
全体主義があり、画一化の意図が感じられます。



まず、この大前提・本音の部分を破壊しなくては
真の意味で多様な組織は作ることができない。



現在、それが破壊できないからこそ、
組織は変化と固定のジレンマに陥っているのであって、




ここをいかに変えるか?というと
やはり理念の共有になる、と。



つまり厳密的・原理的・純血主義的な
ものにしない為にやるべきことは、




理念ではなく、その対象を見ている
「あなたのフィルター」の認識なのです。





長くなったので続きます。



2012/11/11

習い・稽古・工夫

暗黙知についての考察。


実際の所、形式化できない部分である「暗黙知」を
言葉で表現するのは、大変難しい。


なぜなら、それを5感覚で認識・判断し、行動するまでの
理論体系を表現する為には言葉による論理では非常に甘く、


さらにその認識には、事実から乖離した各人の思い込みや
バイアスが大小差はあれ、多少なりとも含まれているからです。


そもそも実際に起きている事実をそっくりそのまま
言語化し、記述すること自体が不可能であるのは言うまでもありません。


それをいかに伝えるか、
歴史上の「求道者」を紐解けば、その知の結晶を借りる事ができます。



☞ ☞



新陰流では形(型)の事を「勢法」というそうです、
つまり、形稽古と呼ばれるものは、「かたち」自体を学ぶのではなく、
その動きの中にある武術の理論を学ぶ方法だというのです。 


「形」をひたすら稽古する事で動きの本質を学び、
それを習得し、最終的には自由・自在に動ける身体を追求する、


まさに「守破離」の精神ですね、
あらゆる道において、最終的な到着点は「自由」なのでしょう。



勢法にもう少し触れますと、そこには心身の姿勢「身構え」や
手足の働きを練る事「手足」、


そして太刀筋を使い覚える事「太刀」の三点に重きを置き、
勢法を実践することで、間積り・拍子を体で覚えます。


それは言わば「感覚的な心持ち」を経験する事であり、
日々の「習い・稽古・工夫」は欠かせないのはその為です。


最終的に「自分の技が絶対に正しい」と思えるまで・・・・。
そこへ至るにはやはり、実践による経験則が必要なのでしょう。


つまり端的に語る事が不可能な働きである以上、
観念のうちにあるのではなく、行為そのものの中から掴むのです。


☞ ☞ ☞



摂理と書くと大げさでしょうが、
(彼らは)その自然の摂理に従うことを目指したように感じます。


それは、生存価値の善悪や正誤に左右されるものではなく、
その価値は、続けること自体にある。


また、見えないそれら「心の型枠」を
ギリギリまで論理的に表し、示すことが
暗黙知を見つめる人の役割かもしれませんね。



これも偏に心の時代だからこそ・・・
オタクならではの楽しみでもあります^^



2012/11/07

In-der-Welt-sein

こんばんわ、unreveの坂口です。
今日はそんな趣味の分野から一冊、
ハイデガーについて書いてみます。



☞ ☞ ☞




人間は、楽しいことや、嬉しい事が
ずーっと続いていたとしても「なんとなくの不安」を抱えています。


インナーチャイルドを癒そうと、
豊かでワクワクで素敵なパートナーがいて
好きな仕事で成功している人生であろうとも、です。


それはなぜでしょう。
そんな「何となくの不安」を考えた哲学者が、
マルティン・ハイデガーです。








死へむかって開かれた自由のみが、 
現存在に端的な目標を与える 




ハイデガーの未完の著「存在と時間」の一説、
これは我々がどうやって本来的な生に立ち戻り、
人生を送れるかについて書かれています。
(実際はもっとたくさんありますが、省略して・・・)



「いつかは死ぬだろうが、それは明日ではない」
そんな気持ちで、私達は生きています。
これが何となくの不安の正体なんですね。



慢性的な不安は、死を直視していないから
起こっているのです。



不思議だと思いませんか。
 「死」は全ての生物に必ず訪れるもの、
この世界で唯一、絶対と呼べるものですが、


それを我々は考えているのを日々、
避けているのですから。



☞☞


確かに「それを考えてどうなるの?」と
言いたくもありますし、 そもそも
「どうやって考えるの?」という気持ちもあるでしょう。



しかし、それをやって初めて、
人間は孤独であり、 同時に
自由でもあることを知ることができるのです。



「死にむかって開かれた自由」、
まさにそれを 認識することで、我々は
世俗的な気遣いや苦労から解放され、


 「私はこの人生を使い、何を成すべきか」を
 自分自身によって委ねられる。



それこそが本来的な生き方であり、
可能性が開かれた世界だ、というのです。


それを端的に書けば、
人生という映画の役者から逃げられない
人間の宿命そのものを俯瞰し、裸の自己と出会うもの。



我々人間が、投げ出されている存在(形式的指標)であり、
それだけが存在(ある)しているのだ、という視点の変化です。


調和と同一の違い

人類学とは他者性を自己に取り込む学問、
言わば「出会いの学問」と言える。


自然人類学を始め、文化・言語・社会・宗教・経済と
様々な生態の角度から自己を刷新する学問だろう。



それは哲学が受け持つ存在性の探求などとは違った意味での
ラディカルなポピュリズムを知ることができる。


個人の自由と、それを抑える社会性との葛藤、
権威による抵抗や二項対立を中和・統一する「ナニカ」。



それはベルクソンの「笑い」や、
今年亡くなった山口昌男の「道化」として表現された。



閉ざされた集団による「笑い」には、他者への優越性が内包され、
道化は笑いによって日常の秩序から抜け出す役目を果す。



つまり内部と外部が反転する境界線であり、
秩序(外部)の中に潜む痴愚性、その愚かな現実性をあらわにするのだ。



それはひとえに「機械的役割」なのだろうか。



サーカス芸人であるピエロは、生涯をさまよい、旅を続ける。
土地に縛られない自由人である。



冷徹な批判者であり自由の境界線にいるトリックスター、
大きな権力(秩序)に向かい、敗北しながらも笑いを求める。



神や王のような絶対者の言葉をひっくり返す異質な存在だ。
パブロ・ピカソが道化師を描いたていたのは、
なにかしら共感するものがあったのだろう。






さて、個人的には「二項対立」と無縁になりつつある、
二項同士の「反」の先には何も見つからないと分かったのだ。



「我ら」のアイデンティティが確認されるためには
「彼ら」は必要であり、



「我らと彼ら」の仲介者である「ナニカ」が
どちらにも属さない異質であるのは当然のことなのだ。



相手を責める、他者の意見を持論でひっくり返す。
これは正しさの戦いでありミクロ的な宗教の始まりである。



同じ意見を集め、共感し合う。とても大事な事だが、
個人の主観(我ら)である以上、必ず宗教的な要素を含んでいる。



私は共感や繋がりは必要であるが、
主観に対する完全な一致は不可能であり誤りだと思っている。



中心における「秩序」は「排除の原則」の上に成り立つ。
よって強烈な共感には危険な思想を孕んでいるのだが、
それが一番共同体を強く結びつけるものでもある。



その両義性、混沌と秩序の境界を明確に劃する異人が道化なのだ。
チャップリンは笑いと哀しみは表裏一体、分かち難いものであることを演じた。



我々は生きている以上、必ず他者(彼ら)と出会う。
同化する為ではなく、他者との差異を知り、調和する為に。



なぜなら「我らと彼ら」は切り離せないのだ。


☞ ☞ ☞

100年続く企業はある、200年続いている企業もあるだろう。
しかしさらに長い間、例えば1000年続いている共同体はあるだろうか?


西洋ではそれが「宗教」にあたる。
宗教は共同体を永続させる「システム」でもあるのだ。



しかし宗教は共同体の差異を認めない。
その絶対的な基準を共有する事によって、同化させる。



ただ、人間は絶対的な良識・道徳・正義を必要としてはいるが、
それに従うことをも拒むようにできている。



多様と一義、我々はどちらにも染まれないのだ。



では、宗教以外で千年続くような共同体は存在しないのだろうか。
否、調べればここ日本にはあるのだ。



大阪の宮大工である金剛組(578年創業)
池坊華道会(生花教授・京都府・587年創業)、



他にも旅館を経営する西山温泉慶雲舘や古まん、
善吾楼などは全て創業以来、千年を超える。



金剛組の578年創業なんて、今から1400年以上前。
古墳時代の創業だ。



世界最古の企業は全てこの日本にある、
これは誇れる部分ではないだろうか。



☞ ☞ ☞



この国の仕事には神道的な精神性がある、
それは中空構造であり「我ら」も「彼ら」もない。



論理的整合性ではなく、美的な調和感覚。
無為の中空とはどちらにも属さず、異質なのだ。



第三者がいるだけで、二者の関係は相対的となる。
それは世界の監視者であり、変化のバランスを受け持っている。



そのフラクタル構造を模したのがunreveの三位一体構造だ。



☞ ☞ ☞


継承とは拡大ではない。
また、宗教や思想のように絶対性を繋げるものではない。



私のフランチャイズは和魂を継承する事、
ここが他社と大きく違う部分だ。

2012/11/06

濃霧と無風

どれだったか忘れましたが、
以前読んだ本の中にこんな言葉がありました。



「船乗りは暴風や時化(しけ)を怖がってたら三流だ」


「じゃあ、一流の船乗りが一番恐れるものってのは何だい?」



「決まってるだろ、それはな・・・・濃霧と無風だ」



うろ覚えですが、確かそんな内容でした。








例えば、北の海の濃霧での航海は
氷山や流氷に衝突する危険があります。


また、無風海域に迷いこめば、船自体が動きませんので
照りつける日差しにやられ、干からびてしまいます。


これが航海時代、もっとも恐れていたものです。
今でこそ、レーダーや蒸気船の開発でその危険は克服されましたが、



経営において、この「不透明と無流動」を
克服できていない所が多いのではないでしょうか。


テーマに書いた一番怖いもの、
それは経営の「濃霧と無風状態」です。



☞ ☞ ☞



ある意味、物価の乱高下や同じサービスの増加は
嵐や時化のようなものです。



それよりも、見通しが立たない「不透明」さと、
それに伴う売買の先細りといった「無流動」は始末が悪いもの。



何だか知らぬ間に、徐々に売上が落ちている。
なぜだろう、理由が分からない。



理由が分からないから手を打てない、
仮に手を打とうとしても徒手空拳で推進力がない。


経営には先を見通すレーダーもなければ、
お店が勝手にお客を連れてくるような蒸気機関もないのです。



☞ ☞ ☞



地方の商店街の多くは無流動化から抜け出せません。
シャッター通りが増え、新しい店舗が入らず、
入ったとしても、人の流れ自体がない。



そこには先を読み、明確なビジョンを見せる人がいません、
「不透明性」だからこそ、流動が起きないのです。




成熟期に当たる今の経済社会を巧みに生きるには
まず成熟社会がどんなものか、美化も卑下もなく知っておく必要がありますね。



2012/11/05

自己組織化と散逸構造





エントロピー増大則とは、世界は常に秩序から
混沌に向かっており、新しい秩序は生まれないといったもの。



ただそうなると、世界は常に壊れ続けるだけであり
宇宙すべての秩序はいつか消滅し、無意味世界となるだろう。



「世界(宇宙)はやがて静止する運命なのだろうか・・・?」



それに異を唱えたのが科学者である
イリヤ・プリゴジンである。



氏は「逆エントロピー」である無秩序から
秩序の事象転換が生じるという非平衡熱力学を提唱した。



無秩序(カオス)状態では決定論でない
選択が無限に連鎖することで、外部へエントロピ-を
流出させ、もう一つの秩序を作りだすことができる、と。



氏は、その構造を内部でエネルギーを
消費(散逸)させることから散逸構造論と名付けた。



この革命的な発見により、
宇宙は無秩序の海にならないという事が分かったのだ。



☞☞☞



ちなみに散逸構造では超局所的に小さな秩序を作る
可能性となる「ゆらぎ」が起こるという。



一見、その小さなゆらぎはほんの僅かな影響だが
「確実に」周囲に影響を及ぼすことができるのだ。



その小さな影響は、さらに周囲に影響を与え、
それがまた影響を与え・・・・と、連鎖的な反応を起こし、



そんな僅かな秩序を中心とした波及が
全体の構造に影響を与え、さらにその影響された周囲は、
中心である「最初の秩序」を強化するように働く。



これが「ポジティブ・フィードバックによる自己組織化」、
突如として大きな秩序が生まれる前には
小さな「変異」が生まれている、ということだろう。



これはミクロの世界においても
同じ現象になるのではないだろうか。
(塩沢由典氏も経済は散逸構造だと言っている)





最初は小さな産声かもしれないけれど、
それが時代の舵を切る可能性かもしれないのだ。





2012/10/17

現象と経験

僕は経済学など、人間の行為を数字で測るなんて
ナンセンスだし、ある意味冒涜だと感じているのですが、


現象哲学者であるフッサールもまた、
そういった考えの人だったようです。


そもそも、あらゆる学問には「人間らしさ」が大前提にあって、
それをより良く、豊かにすることが目的のはず。


今はそれとは逆で、数字や論理に人間が支配(説明)され
その人間らしさが失われようとしている気がします。



それは科学の進歩、すなわち帰納的手法によって
「絶対的な客観性」こそが正しい、と信じられてきたからでしょう。


客観性とは万人が納得する根拠である以上、
その証明性には数字が一番有効なのですが、


そもそも数字自体も人間が作ったもの。
僕らの価値は年収では測れないし、能力も数字では出せません、
人の美しさだって、決してランキングで比較できない。


今日はそんな「現象」についての小話でも。







現象学とは、経験世界における「本質」を追及するもの。
現象学が心理学の基礎になっているのも
こういった対象が科学では明らかにできない、という理由からでしょう。


よって「正当性」や「真理」は、自らの主観的な経験から
離れた客観性を持つものだ、という常識に対し、フッサールは
「それは間違ってる」と言います。


本質とは思考の限界や領域を越えた所にあり、
それは直観的な所へ行き着くのだ、と。


客観性は全くないけれど「見えてしまう」
何だか分からないけれど「そう感じてしまう」


そんな自分からすれば疑う事ができないもの、
すなわち自己の中心からくる直観的経験こそが、
全ての学問のコアにある、と。



そんな概念の本質を明らかにすることを
現象学では「解明」と言われます。



☞ ☞ ☞


見えないものなら何でもいいです。
例えば「彼女を愛している」でも
「心地がいい」でも「こりゃ美味い!」でもいい。


そして、そんな概念対象として捉えているものが
一体「何をもとに構成されているか?」これが解明の手法です。



以前書いたハイデガーは形而上に、ヘーゲルは精神に
その本質を置いたのですが、フッサールはそこに目を向けず、
あくまでも形而下(認識)の立場から離れませんでした。
(フッサールが新デカルト主義と言われるのはこのせい)



カントに近いのですが、もっと広義ですね。
失敗こそあれ、現象学的還元を始め、間主観や他我、 エポケーなど
フッサールは独自の単語を使ってそれを掴もうとしています。



これも偏にかれの「本質に対するあくなき追求」によるもの、
かれは世界が数値化・数式化されるのを何よりも嫌悪したのです。



それは我々のなかで物象化されていない
「答え」を純粋に探そうとしすぎて、行き着いた結果かもしれませんね。



面影とシステム

unreveの坂口です、
お忙しい中、訪問ありがとうございます。


今日は「守破離」の守(型)について。
僕がご支援しているFCで起業したいと思われてる方に
参考になれば幸いです。



☞☞



さて、unreveの目指す型とは主観の認識、
つまり演繹的な「おもかげ」です。


能の大成者、世阿弥が観阿弥の口述を記録したという
風姿花伝は、この「おもかげ」を型としています。


例えば、同じ種類の木であっても、その枝葉は全て違うように、
同じ植物であっても、その根の張りようが異なるように。


同一ではなく表出する形象を「真似ぶ」こと。
それはまさに帰納的テキストではなく主観から来る認識によるものです。


☞ ☞ ☞


小さい頃、近所のお巡りさんに憧れた少年が
警察官を目指そうとした際、必ずそのお巡りさんの「おもかげ」があります。


母親が台所に立って料理をしている姿もそう、
自分が母親になった際、その「おもかげ」を見るでしょう。


尊敬できた上司や先輩がいた方なら分かるでしょうが、
学んだのは「やり方」ではなく、生き方や考えの方ではないでしょうか。


そんなおもかげ、名残。
記憶によって心に「象(かたど)られた」ものは
他者に説明できるものではなく、自分だけのもの。



それはデジタルでシステマティックな「コピー」と違い、
目に見える肉体的なものの奥にあるものの「再帰」です。


言葉ではなく構造でもない、これがunreveの目指す
日本流の普遍化、「型」です。



☞☞



西洋は言語的構成体(テクスト)による普遍化を目指します。
機械生産的なものには再現性はあれど、それはオリジナルの消失を意味します、


マニュアルに原本という概念はないですよね。
僕の家にあるパソコンの取り扱い説明書は
あなたの家にある説明書と同じ仕様です。


動く原理や壊れる原因は全く同じ。
閉鎖されたシステムは、逆にそうでないといけません。



昔のテレビのように、
本体を叩けば映る、だと困りますよね(笑)


成功されている経営者とお会いした際、
成功した方法(正解)とその説明はそれぞれ違いました。


しかし(全て該当するかは分かりませんが)、
それぞれに共通したパターン(型)はとても類似していた。


そんな抽象概念から言語としてすくいだしたものが
編集・対話・場・間・拍子・ゆらぎ・・・といった、非線形・非構造です。


非線形・非構造を、螺旋的に上がるように「構造化」する。
そんな矛盾を統合させたのが日本の継承にはあるような気がします。


それは決して累積された素因から判断できるものではなく、
また、還元・分析できるものでもない。


だから過去の文学者は進化ではなく、変化と呼んだのでしょう。
リゾーム派生も無理矢理言語化してますが、そもそも言葉にすること自体がナンセンスです。


本当の価値(知価)とは、同じモノサシで測れない。
だからこそ独自、僕はそう思います。



ただ。僕の知ってる女性の考えるシステム化は、
愛があるから好きなんですけどね(^∇^)



閑話休題。
そんなわけで、継承の守、型とは
方法の先にある「オモカゲ」を掴むものなんですね。




みなさんに学ぶべき型はありますか?


2012/10/16

柔らかな束縛




リゾームは非線形、複雑系を踏まえた
ビジネスモデル。





それは資本主義の土台が理論操作可能な
ヒエラルキーから、理論では操作不可能な経済へと
パラダイム転換が生じているという予測から発案したものです。





散逸や自己組織化、創発などは、
閉鎖型では生まれません、
感情などを内包した生命的システムのみ、と言えます。





もちろん、感情だけでは片手落ちであって
大事なのは理論と感情を繋ぎ、一つのループとする事。
ミクロ・マクロ・ループは日本ならではの概念です。



そんな性質を持った複雑系経済に
対応するためには、どうすればよいのでしょうか。




今日はそんな小話を。





複雑さの帰結―複雑系経済学試論/NTT出版


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そもそも複雑系とは、理論が通用しない事から
意図的に設計、構築、管理ができません。


どのように構築され、管理できるのかなど、
正確に予測できないのです。





なぜなら我々個人が管理されず、自由に織りなす
行為(状態)が生みだすものである以上





階層を作り、上が作ったルールで管理しようとした途端、
閉鎖系となる。エントロピーよろしく崩壊するのです。



そこに管理の手が入る以上、必ず抑圧が生まれる。
よって組織においては適度な自由を個人が掴む必要があります。



ニュアンス的には「柔らかな束縛」とでも言うのでしょうか。



☞ ☞



内に外に開かれる。
フレキシブルな企業、風通しの良い企業、





止まることなく流れ、常に前向き、クリエイティブ。
自らを楽しめる人材が集まり、交流し、
そこから新しい発見が生まれていく・・・・



これは言葉にするのは容易いのですが、
いざ実行するとなると別問題です。





閉鎖系である管理社会に馴染みすぎた我々にとっては
開放系に憧れこそあるけれど、理解しずらいのです。



加減を掴まない自由は「放任」と同義である以上、
自己組織化を生みだすことはないでしょう。



下手すれば、とんでもない結果を迎える可能性もある。



☞ ☞




そこでリゾームの概念の登場です。
それは「管理」でも「放任」でもない第三の道です。



清水博氏は「動的なリズムが場の形態を形成する」と言ってます。




リズムとは中村雄二郎のリズム論、
unreveのいう拍子です。




まさに、秩序は動的な勢いの繰り返しなんですね。



生命知としての場の論理―柳生新陰流に見る共創の理 (中公新書)/中央公論社


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例えばプレゼン会議という「場」で、
個人がプレゼンを行う場合が近い。





クライアントがそれを見ている。
そこにはパワーポントや動画など、場としてのシステムがある。





プレゼン側は、あらかじめテーマやシナリオ
必要な情報を与えられているけれど、





いったん話しだすと、あとはもうその場の雰囲気で
臨機応変に演じるわけです。





つまり、大まかな筋という拘束条件のもとで、
大ざっぱに決められるのですが、





具体的にはプレゼンターとクライアントの相互関係によって、
選択されたり、再構築しながら進行させていくでしょう。





それは、全体として一つの筋を生成的に自己組織しながら
展開していく、故に場違いな発言はできません。




まsない自己生産しながら自己組織に組み込んでいくという、
意味のある操作情報がある、これが「場の動的なリズム」です。





ただ、そこに至る前段階が必要なのですが
それは時間がある時にでも。







☞ ☞ ☞



長くなったのでまとめます。



システムは外部によって画一化されますので
閉鎖系となります、それでは相転移は生まれない。



自立や自律は「自覚」によって生まれます。
それが内部から起こるまで、待たなくてはいけない。



近代は、その自立性を急ぐあまり、
結果として個(自我)の成長となりましたが、



本来の日本は仏教を基礎とし、
「場の文化」を生み出した経験をもつ、世界でも珍しい国。




その自覚さえあれば複雑系の経済はこの国にとって
歓迎すべきものとなる気がするのですが、皆さんはどう思われますか^^?


2012/10/15

正論居士



正論居士(せいろんこじ)という言葉がある。


居士とは気質を指し、意見に対し
反論するだけで対案を示さない人の事。



自分の意見を絶対としている為、
対話は全く生産性を持たない。
重箱の隅をつつく事が自分の能力だと勘違いしている。



当然、納得させる事は難しくなり、
タイミングが遅れ、失敗しまったら
「やっぱり、私の思った通りだ」とさらに過信してしまう。



私が支援する際、必ずお断りするのがこのタイプである。
使う労力が半端じゃない。



もし○○の場合は?○○がもし起きたら?
もし○○であるとするなら?・・・・etc



仮説に「if」を付けたらどんな些細な事でも
取り上げられる。これは当人に危機感が
ないのではない。あるからこそ…だろう。



ただ先の見えないvucaにおいて
何かを始める際、根拠なんてものはない。
その状態で根拠を求めれば一歩は踏み出せない。





当たるも八卦、当たらぬも八卦でやるのではない。
どんなに努力を尽くしても、精度を上げたとしても、
あらゆる将来の予測には不確実性が含まれている。




この不確実性というものを嫌うならば、何もしない事だ。信じるために疑ってるのかもしれませんが。





ホモ・ルーデンス



「遊びの文化」を最初に生みだしたのが、
ご存じギリシャやローマ帝国。この時代の労働は、
制度によって全て奴隷がやっていた為、
市民や政治家達は、やることがなさすぎたのが背景にあります。


歴代皇帝はどんどん記念日を作り続け、
しまいには1年の半分が休日となってしまった、と。
そんな快楽都市、ローマではありあまる余暇
(あそび)をどうにかしようと試みた結果、
あれほどの哲学や文学、芸術や娯楽が生まれたようです。


言わば、ローマ文化は莫大な富による
「あそび」によって作られたんですね。
それは後に「西洋文明」として引き継がれていきます。






剣闘士が戦う闘技場や、競馬場や大浴場など、
皇帝は「パンとサーカス」を国民に提供しました。
※パンとサーカス・・・・・食料と娯楽の事


まさに地上のユートピアのようですが、諸行無常の世界、
当然、それが長く続くわけがありません。栄華を極めた
ローマ帝国は、やがて内部腐敗を起こし、衰退から滅亡へと向かいました。


惰性と堕落は加減を超えた「楽」から派生します。
このパターン(拍子)は時代や場所を問わず、変わらない。



僕はこれを「毎日遠足効果」と呼んでいます。
毎日やってたら飽きるだろ、ってね。


☞ ☞


こう書くと良くないイメージになっちゃうけど
この時代のあそびは以前の記事で書いた
「行動と行為」でいう「行動」の方、本来は
人間の本性に沿った自然に派生する感応行為でしょう。


見れば日本はそれが分かってたようで
平安時代の歌謡集「梁塵秘抄」を見ると
そんな、あそびの歌を詠んでいますね。


遊びをせんとや生まれけん
戯れせんとや生まれけん


遊ぶ子供の声聞けば
わが身さえこそゆるがるれ。


(遊女の罪悪感を綴ったという解釈もありますが)
自然のままに、楽しい事をやるのに対しては、
何の罪悪感もないんですよ。



☞ ☞


遊びの文化を研究したヨハン・ホイジンガは、
遊びが大衆化し、陳腐化するのは危険だとしました。
大衆化されることによって、軽薄さと衰弱を生みだすと感じたのです。


当時はヒトラーがヨーロッパ侵攻を狙ってた時代。
ゆとりも余暇も遊びもないファシズムを見て、
危険だと思ったのでしょう。その経験をもとにヨハンは
「ホモ・ルーデンス」という作品を書き上げています。


ホモ・ルーデンスのルーデンスとは遊びです。
ホモ・サピエンスは「人間は理性があるから人間」、
ホモ・ファーベルは「人間は物を作るから人間」。



つまりホモ・ルーデンスは
人間は遊びをするから人間なんだよ
という彼の主張なんですね。


人間と動物の違いを一つ挙げるとするならば、
生存欲求だけで動く動物とは違い我々は踊り、
絵を描き、歌う。


物語を書き、それを読み、新しい概念を作る。
そういった生存と関係のないことこそ、
人を人たらしめているのではないでしょうか。




コムニタス

些細なことでも怒ってしまい、感情を抑えられず、
感情がコロコロ変わって自分でも疲れる。


周囲に理解してもらいたいが、なかなか理解してもらえず、
見捨てられることを極度に恐れ、なりふりかまわない努力をする。


そんな人を境界性人格障害(境界例)と言うらしい、
現代病の一種である。


さて、ネットを見ればこの境界例に近い心性を持っていると
思わずにはいられないサイトが数多く存在する、なぜだろう?



象徴人類学者ヴィクター・ターナーの説く
「コムニタス」という概念がある。


それは通過儀礼といった人間関係における在り方であり、
身分や地位財産男女の性別や階級とは違い、
非構造である環境において、自由で平等な相互関係を指す。



ネットの「完全なる表現の自由」はコムニタスとも考えられる為、
境界例のコムニタスへの希求はきわめて強いのだ。


慢性的な空虚感。そして感情の不安定さや絶望感。
これらを癒し、自己を支えているのがコムニタスであるネットなのかもしれない。



☞ ☞ ☞



このような、コムニタスと境界例を関連づけたのは
心理士を実質的に生みだした河合隼雄である。



境界例には構造的なものに対する徹底的な弱さと、
コムニタス的関係様式への絶対的希求があるとしている。


組織の一員として存在することができず、
コムニタスの様な自由で制約のない世界でしか、自己を保てないのだろう。



しかしコムニタスではアイデンティティは確立できない気がする、
重要なのは先にある「場」ではなく、その環境に身を置く自己の認識ではないだろうか。



私は独立する以前、組織の中間管理職として働いてきた、
当然組織は不条理なことも多いし、管理によるストレスも大きかった。



それでもこうやって健康でいられるのは理由がある。
ここでヒエラルキーを否定してはいるが、悪い所ばかりではなかったのだ。



毎年飲み会や旅行などの行事をまとめる幹事をやっていた。
仕事ではゴタゴタの多い職場であったが、飲み会ではガラリと変わり仲が良い、
これを見るのが楽しくもあった。


QC活動でメンバーと白熱しつつ、最終的に素晴らしい賞を頂いたのも、
衝突した上司が一番信頼できる人になったのも、ある意味「立場の差異」があったおかげだ。



結局何が言いたいかというと、我々の関係性とは「安心した土台」がなければ
脆弱なままなのである。



例えばコムニタスでは自由でこそある反面、社会的身分も役割もない。
つまり安定した土台自体がないのである。



よって常に生身がさらされ、互いに傷つきやすい関係であり
それはやがて、争いのタネとなる。



つまりコムニタスの状態のままでは、維持する事が困難なのだ。



仮にコムニタス的だった集団があったとしても、やがて「秩序」が起きる。
プリコジンの言うように、開放系の我々が無秩序に集まってたとしても、
散逸構造でいう「新しい秩序」が生まれるのだ。



これは実にもどかしい選択である。
つまり自由性は「常に変化し、脱皮することで保たれる」という事だ。



固定した瞬間、秩序が生まれる。
それは安定こそあるけれど、階層的な構造が必然的に同時発生するのだ。


聖人君主のような人格論からかもしれないし、ディベートの結果かもしれないし、
おかしな民主主義のような多数決かもしれない。


このように、自由な環境であっても
決断する時において我々は、この自由(自らに由る)を崩壊させるのだ。


しかしリアル社会と違い、ネットでは都合のいい一元論が通用する。
だからこそ境界例の多くはコムニタスとして帰依しているのだろう。



☞ ☞ ☞



ただし、これは非適応的な信念である。
非適応的な信念(思いこみ)と現実はリンクしない。


しないというより、認識で「我々が非適応になる」のであって、
逆に自由でも愛され、守られている人だっている。



それはその人が特別ではない。
その人の認識が「適応的」なだけなのだ。



時代は我々の認識を変える。
変わった認識が感情を決定し、決定した感情の集合体が時代を変える、
すなわち「多即一」、これが「場の創造」である。



コムニタスは場の創造が困難だ。
常に孤独で戦う為、認識が不安定となる。



それが可能なのは一部の芸術家や天才といったものだ。
彼らはどれだけ批判されても、一人で確固たる世界認識を創造する。



そして、その世界認識にやがて世間が追いつくのだ。
カフカ、宮沢賢治しかり、ゴッホ、アボガドロ、ロバチェフスキーしかり。



☞ ☞



リゾームが派生する場合において、
これらの概念は重要である。




なぜならリゾームは単純にやればコムニタスである。
それでは責任の所在も動機も意味もない、ただの遊び場である。




では何が必要か?
もしかしたら来月分かるかもしれないんだなぁ(笑)

見えすぎるのも考えもの




坂口安吾が出したブルーノ・タウトと
同名著書「日本文化私観」では



真の模倣とは発見であり、インスピレーションは、
多くの模倣の精神から出発し発見によって結実する、とあります。



そこには必然性も決定的な素因もない。



昔から日本に行われていたことが、
昔から行われていたという理由によって、
日本本来のものだとは言えない、と。



故に、タウトが愛した桂離宮が高尚であり、
東照宮が低俗だというものではなく、



「ミカタ」を変えてしまえば
どっちもどっちだというのです。



なるほど、安吾は物事が見えすぎていたのでしょう。



☞☞


さて、氏は近代文化を「芸道、地に堕つ」と
以下のように批判しています。



近頃は劇も映画も一夜づくりの安物ばかりで、
さながら文化は夜の街の暗さと共に明治時代へ逆戻りだ。


蚊取線香は蚊が落ちぬ。きかない売薬。火のつかぬマッチ。
しかし、これは商人のやること。芸は違う。



芸人にはカタギがあって、権門富貴も屈する能あたわず、
芸道一途いちずの良心に生きるがゆえに、芸をも自らをも高くした。


芸は蚊取線香と違う。
けれども昨今の日本文化は全く蚊の落ちない蚊取線香だ。


どんなヤクザな仕事でも請ける。
二昔前の書生劇でも大入り満員だというので、
劇も映画も明治の壮士芝居である。



職人芸人の良心などはくそくらえ、
影もとどめぬ。文化の破局、地獄である。


かくては日本は、戦争に勝っても文化的には
敗北せざるを得ないだろう。


即ち、戦争の終ると共に欧米文化は日本に汎濫し
日本文化はたちまち場末へ追いやられる。


芸人にカタギがなくては浮かぶ瀬がない。芸の魂は代用品では間に合わぬ。






芸道とは能楽や世阿弥、歌舞伎や人形浄瑠璃の他、
華・茶・武術など、あらゆる道を総称したもので、



その真意は、芸術思想と倫理思想とが交叉する
思想領域を切り開くことです。



世阿弥が利己的な精神なく修行することによって
その功徳が生まれ、極め尽くすことが寿福であると
説いているように、「前提」が全てを決定するのです。



なるほど、芸道のための自己練磨ではなく
自己利益(寿福)の為の芸道であれば、廃れてしまう。



安吾は目的を取り違えれば本質を
見失ってしまうことを、芸道に例えたのでしょう。



☞☞



本質主義とは余計なものや無駄なものを削ぎ落とし、
誤魔化しのないシンプルなものを目指す者ですが、
氏はまさにその道から逸れることはありませんでした。




今の時代にいるならばどんな作品を書いたでしょうか。
少なくとも、アフォリズム的なものは書かないでしょうね。




2012/10/11

花鳥風月



こんばんわ、坂口です。
9月も後半に入りましたね。




ビジネスに励むのもいいですが、
せっかくの秋です。




ちょっと時間を作って、
花鳥風月を楽しんでみませんか?










さて、僕らがモヤモヤした時って
お酒を飲んだり、カラオケで歌ったりと、
発散の方法は色々あると思います。





現代は、和み、とか癒し、といったものを
「意識的に」作ってるんですが、




一時的には解決できても、
なんだかこう、心からスッキリしなくないですか?




まるで慢性的に蓄積されてる、っていうか。
僕はこれって、理性の限界やと思うんです。





つまり「あたま」って万能じゃないな、って。





☞ ☞



アメリカなんかは意識の国ですから、
薬だったり、音楽だったり、香りなど、
あらゆる解決方法が存在します。





日本でも、α波がどうだとか、
エンドルフィンがどうだとか、
物質・数値化しているようですが、





実際のところ、どうでしょうな。
あまりハッピーじゃないような気がします。





僕はそれより、自然の景色を眺めたほうが
よっぽど安上がりで癒される、という考えです。




放っておけばどうにかなるさって(笑)
最近、その傾向が強いですね。





☞ ☞





養老孟司氏は自然の定義を
人間が作ったものではない、としています。



逆を言えば、作れない。
それが自然と意識の違いだっていうんです。




昔これ聞いた時にですね、
なんというか、すごく納得したんですよ。





エントロピーで考えてもそう。
意識は秩序を作るけれど、
その分の無秩序がどこかで生まれてるな、と。




ヒーラーの癒しの言葉だって立派な意識ですよ、
そこにはどうしても意図が入ってる。




だからいくらブロックを外そうと、
思考の書き換えをしようと、
潜在意識を書き変えようと、




それら全ては僕らの意識がやってる、と。
これって、逃れられないですよね。




ってことは、その意識的な癒しは
どこかで無秩序的な荒びが生まれてる、と。



だから、人の作ったメソッド(秩序)って
どことなく、危うい感じがするんです。





☞ ☞



以前、潜在意識にアプローチする
成功哲学の内容とか見てみましたが、




よくよく考えたら、意識できないからこそ
潜在無意識であって、



これを意識的に表層化しちゃうと
逆に危険だな、って思いました。




北風と太陽よろしく、問題を
解決しようとすればするほど、大きくなる。




旅人のマントっていう問題を意識的に
解決するために、風で吹き飛ばそうとしてるでしょ。




どっこい本人は抵抗するわけです。
あとはもう、力比べですわ。




その結果が顕著に出ているのが、
自殺率や鬱病や癌じゃないかしらん。




これら病理はGDPが高い国ほど多い。
普通に考えたら逆にならないとおかしい。






不思議だけれど、成長した豊かな先進国ほど
人って生きにくくなってるんです。





そういった「わけのわからないもの」って
最近、あちこちで見かけませんか。





☞ ☞



日本って本来はテーマにある
花鳥風月を上手に取り入れた国です。



意識を意識で解決する
っていうやり方をちょっとだけ置いといて、





ぼーっと野生を眺める時間とか、
無意識で「ついやっちゃう事」とか、
それを大事にしたいな、って思ってます。







ノープラン、ノーリターン。
ドントシンク、フィールってね(笑)


質を高める時代



デフレである現在、製品を安くするために、
様々な企業努力が行われる・・・・と言われますが、
企業の中にはコスト削減を
「製品の質を下げる努力」とイコールにしている所があります。



これが例えば構成要素ごとに検証し、
入り数(企画)を変え、安くするのはいいでしょう。
(6個入りを5個入りにしたりとか)



しかしこれが商品そのもの、
つまり製品の構成要素を安価やものにしたり、
補強すべき部分を安価なもので対応するのは、
ただの「劣化商品」を作っているにすぎません。



それをいかにも劣化していないように
外見を飾り立てる、というものをコスト削減だと思っている。



なるほど、これだけ劣化品が増えたのも、納得できます。









当然、それらは短期間で壊れたり、使えなくなりますが、
それを安いから買ったのであれば怒りもありません。



「まあ安物だし、いっか」と。



その考え方は、あらゆる側面において、
「使い捨ての発想になっている」のに気付きません。



製品に対する信頼なんてないけれど、
なぜか、安さを提供する企業には不思議な信頼がある。



否、「あった」というべきでしょうか。




本来、この国は「質」を高める文化であって、
低質なものは体感的に嫌う。そうじゃないですか



☞ ☞



もちろん、最初から「使い捨て」を目的とした
商品であれば、問題ありません。




しかし体内に入れる食事は、言わば一生ものですし、
家などは本来資産であって、耐久消費財ではない。




物を大事にし、大切に使う、という感情は
我々が持つ、基本的な感情、




信頼と保証は似てて異なります。
それは無形と有形の違いではなく、姿勢の問題です。



2012/10/10

間違った学び


300年前に出た思想本に「弁道」・「弁明」というものがある。
著者は荻生徂徠、伊藤仁斎と同じく古学派である。




荻生徂徠の思想のバックボーンは孔子、儒教であるが、儒教を体系化した朱子学は全く役に立たない空論であると喝破した。





それは伊藤仁斎も同じである。
それほどまでに批判された学問、それが朱子学である。







荻生徂徠の時代はその朱子学が公式学問である江戸時代。その思想は当然、正反対となった。




反進歩・反発展・反成長。
反都市化・反市場経済・反啓蒙・反自由・反民主主義。







政治、経済、世間と
見事なまでに対立した学問が荻生の古学思想といえる。






朱子学は馴染みのある言葉だが、あまり知られていない。朱子学が生まれた時代は中国が侵略された時代であり、その反発から生まれた学問でもある。その根底にはゆがんだ自国愛があるのだろう。




朱子学では、その気から欲望が生まれるとした。
我々人間は、気によって情念や欲望が起こり、



欲望によって本質的「理」が曇っている、としたのだ。
朱子学によれば、悪が発生する場所は「気」である。




長年の読者の方なら、この辺りの定義から
「漢意」になってきているのが分かるだろう。




そう。
予想通り、そこから先の答えは「悪い気の排除」である。



朱子学で言う聖人は、与えられた気が濁っていない。



よって「理」が分かるとし、善悪の定義を「気」の清濁の差であるとした。このように朱子学とは、一つの原理(理)によって、あらゆるものを理論体系化したものであり、極めて合理主義的な思想である。




そんな現実社会に全く役に立たない学問を
否定した伊東と荻生は、そこから独自の学問である古学を生みだしたのだ。





ちなみに朱子学は高い徳を持ち、品位ある生活こそが
人生最大の目的、という教義だ。



よって信仰者は、高い徳を持ち、
世界の為にお金を使うことを正当化する、



故に、その目的を果たすには
どんな汚い儲け方をしてもかまわない、と解釈されている。



汚く儲けてきれいに使う、
つまり現世主義では不正や汚職を
正当化させてしまう欠点がある。



最近、これに近いセリフを経営者からよく聞く。
多分、それが朱子学の影響とは本人は思っていないだろう。




今の経済競争を俯瞰すれば
個人派生の「宗教・思想の対立」なのである。



2012/10/08

大海へ接近する方法


フランチャイズ構築と書けば、
建築家のような仕事のようですが、
一番似ているのは農業かもしれません。



種をまいて育てるのが仕事であって、
そのオリジナリティ(独自性)とは
「見えないもの」から「見えるもの」を作ること。


よって種さえ選べば、あとは
自然に大きくなるのを見ているだけです。


なぜなら、大きくなる力は
むしろ「種子」の方にあるから。



農耕的、科学的、芸術的、
哲学的、宗教的・・・・
ビジネスの根幹は様々ですね。




今日はそんな小噺。




☞ ☞



現在、文化的、芸術的な概念と
ビジネスとを融合しようと、
実に多くの方が試みているようです。



素人ながら僕もやっているのですが、
その異質性のバランスが崩れると、
すぐに遊離的な概念となってしまいます。



素泳ぎで大海の沖を一生懸命
泳いだとしても、大海の流れに逆らえないように、



そこまでいけば、商売なのか、
芸術なのか、学術なのか、宗教なのか、
全く区別ができなくなる。




それで何度溺れたことか(笑)




海と陸とを分ける境界線の見極め、
渚より大海に接近しなくてはいけない、


この方法の確立が必要でした。











渚には、実質的な部分が
それこそ、たくさんあります。



手に触れる事ができる消費財や
耐久消費財、サービスがある。



反面、芸術はそうじゃない。
まさに大海へと飛び込むことで
流れそのものの表現です。



音楽・芸術・ダンスなども、
解放された表現の一つであって、



我々はそこに自然の本性を感じ
大きな感動を覚えるんじゃないでしょうか。



問題はそこにどうやって
現世的な利益を繋げるか。




これがきれいに結べないと
ボランティアか、心ない資本制になる。



この「結び方」さえ形式化すれば
スッキリするんだけど・・・と



つい漢意が出てしまう今日この頃(゜゜)





2012/09/27

起業家の妙

ども、FCオーガナイザーグッさんです^^





そう言えば、店舗の内装ががらっと変えました( ´ ▽ ` )ノ



【グッさんの、一期一会ブログ】



【グッさんの、一期一会ブログ】


良い感じになったと言われ、ちょっと嬉しいです。





あと洋風のアンティークショップで

ソファーを衝動買いしました。



【グッさんの、一期一会ブログ】



よく考えると、これはカップルシートですね(笑)

まあ、一人で優雅に座ってコーヒーを飲むもよしです^^






さて、co-gateでは独立希望者に向けて

「zoro one」というサービスを行っています。



zero one、つまり「0→1」にすることが目的です。

例えば既存の事業にはない、まったく新しいビジネスモデル。



これを約3カ月で体制を作り、キャッシュを得よう、という

発明に近い起業方法です。




もちろん僕はそれに対するアドバイスなんて出来ませんが、

環境を貸す事ができますし、コストを押さえたツール提供も可能です。




「いいアイデアが浮かんだかも・・」という人は

気軽にお越しくださいね^^




さて、人生においては正解はひとつではないように、

独立の方法も同じく、決まった答えなんてありません。




いろいろな解釈、いろいろなアプローチが新たな可能性を生みます。

とにかく、自分なりにやってみる事が大切。




それが僕の考えでもあります。





例えば10個、ビジネスに着手して、結果1つしか自分に合わないとしても

自分に合った1つが分かっただけいいじゃないですか。


後はその1つを大事に継続して行けばいいと思います。




ちなみに僕の本業はそれとは逆、フランチャイズの魅力を伝える仕事です。

起業の始めの一歩は優良なFC加盟が最適だと思うのですが、




自分の中に「これだ!」というアイデアがあるならば

無理にFCを検討しなくてもいい、と思っています。




大事なのは継続してやれるかどうか、

儲かってもやってて苦しいだけなら会社員と変わりません。




自由な選択肢、そして自由な発想。

これが起業家の妙ではないでしょうか。





さて、次回の「イマココ会
」はそんな独立の一側面、

「フランチャイズ加盟」について語ろうかな、と思っています^^





私が絶対的な自信をもって紹介できる全国のFC本部さんや

無料でできる代理店さんについての紹介と





「そもそも独立って何が大事なの?」という内面の部分も含め

お話しできればな~と思っています。





次回は盛りだくさんな内容でっせ♪






2012/09/11

加減の定義

時は江戸時代。
徳川家康が武将達を集め、食べ物についてこう尋ねたという。




「この世で一番おいしいものは何か」。






武将たちの答えはそれぞれ。
酒と答える者もいれば、好きな菓子や果物の名前を挙げたという。


当然、家康は不満である。


そこで家康は、側室である、英勝院(お梶)に
「なにが一番、美味しいと思うか」 とたずねた。



お梶はこう答えた、
「一番おいしいものは塩でございます」 と。



家康はさらに「では、一番まずいものは何か」と尋ねた所、
「一番まずいものも塩でございます」 と答えたそうだ。



家康は、お梶の聡明さに大変感心したという。







さて、今でも塩は「味の決め手」である。
つまりあらゆる味を活かす素材だ。



よって、お梶が言うように一番美味しいものに間違いない。



また、全ての味を殺すのも塩だろう。
よって塩は一番まずいものでもあるのだ。




つまり塩とは「美味しくも不味くもないもの」。
こう定義できる。



このように、塩とはサジ加減一つで変化する
一番分かりやすい食材なのだ。



塩とはあらゆる素材をまとめる「部分」である。
その加減を知ってこそ、本質(肉や魚)は活かされる。



火加減もそう、ゆで加減もそう。
あらゆるものは「加減」によってその持ち味が際立つのだ。




☞ ☞ ☞



料理に限らず一流ほど、素材にこだわる。




しかし、どんなによい素材を手に入れても、
加減がなければ、その素材を殺してしまうだろう。




活殺はその人次第、「加減覚の知」。
これがリゾームで一番難しい概念だ。









多様の妙

日本流FC、場の理論について。







古来、市場は「市庭」が語源であり、
以前の場は「庭」と書いていました。




道と道が交差するのを「辻」とも言い、
市場は、どちらのものでもない辻でも行われたのです。



それは隙間であり、空間であり誰もものでもないもの。
しかしその無である「空間」が有を作るのでしょう。




☞ ☞



ちなみに脳内で情報を伝達するニューロン同士も
繋がっているのではなく、そこには「隙間」があります。




それをシナプス間隙といい、隙間を超えて
伝達する物質を神経伝達物質と言います。



つまりそこでも「辻」や「庭」のように
交流が行わているんですね。







それによって伝わり方は微妙に変換される、と。



これは、我々がそれぞれ異なる感覚や思考を
持ってしまう理由でもあるのですが、



そんな2つの自己は協調的な働きによって、
整合性を持つのです。



なるほど、両極の自己の中心が
それぞれを中心として成立・整合するように
誘導し合うということでしょう。



行ってみれば、それは
「二つの視点による中心の創造」です。



それぞれが中心でありながらも、それが軸として働き
互いに誘導され、影響を受け、



結果、どちらもが自立と自律に働く、と。
交差によって「相互自立依存」が成立するのです。



これは海で例えるなら、
海面と深海の違いでもありますね。
海面も深海も一つの海を形成しています。



波しぶきを見て「これが海だ」とは言えないし、
深海を見て「これが海だ」とも言えませんよね。




☞☞



そんな異なる自己を中心(自律的に)決める。
これが場の形成です。



しかし近代的自意識では、まず
「自分」というものが存在していて、
その「自分」が、何それをする(している)と
考えるのですが、そうではない。




他者だけでなく、自他の「間」による
交流によって、我々は自ずと変化している。





不思議ですが、
多分に我々とはそういう存在なのでしょう。



2012/09/10

卒啄同時、相対を超えて




近年の自己啓発セミナーで
取り扱っている主張の核、それは「心」。


悩まない、楽になる、思い通りに行く、
重荷が取れる、平常心で生きられる・・・etc



論じ方は千差万別あれど、
それが「あなたの心」である以上、
今感じている気持を押し殺すものではない。



そもそも我々は喜怒哀楽という
プラスとマイナスの感情を持っています。



まるで磁石のようなものであって、
どちらか一方だけは選べないんですよね。



当然ですが、N極だけの磁石は存在しません。
(人工的なモノボールは抜きにして)



そんな矛盾した「二項」との
付き合い方さえ、理解すればいいのかもしれません。



☞ ☞


例えば、仏教はもともと絶対自力だったのですが、
親鸞が絶対他力である仏教を広めました。



ただ、それを突き詰めていくと
単なる他力、単なる自力ではないものが見えてくるようです。




自力はただの自力ではなくなり、
他力はただの他力ではない。



つまり自力と他力は同体として、一なのでしょう。




禅も自力といいますが、同じくこれも「自他力」で、
それを表現したものに卒啄同時があります。



それは雛鳥と親鳥との関係に
見立てたもの。



雛が卵から出ようとするとき、
雛は殻の中(内)から卵の殻を突き、音をたてます。



「コツコツコツ、コツコツコツ」。



「もう産まれるよ~」と言う合図、
これを「卒(そつ)」と言います。



そこで親鳥がすぐに外から
殻をくちばしで破ります。



「コツコツコツ、コツコツコツ」。



「今出してやるからね」という行為、
これを「啄(たく)」と言います。



この「卒」と「啄」が「同時に起こって」
卵の殻が割れ、生まれることができる、と。




どちらか一方が遅くても、
逆に早くても雛は死んでしまいます。



よって、そのタイミングは「同時」であることが条件、
故に禅の自力も他力であり、他力は自力なのでしょうね。












2012/09/04

ふたつの欲求

unreveの坂口です、
お忙しい中、訪問ありがとうございます^^



さて、我々が生きて行く上で、重要なものは何か?
と聞かれたら、多くの人が「自由と安定」と答えるでしょうね。


しかしそれがなかなか手に入らない(ノ_・。)


そんな単純な命題を解決するのに
なぜこんなにも苦労しているかというと、

自由と安定という、「ふたつの欲求」、
その性質が根本的に矛盾しているからなんですね。



今日はそんな二項同体の小話を。














さて自由とは、束縛から解放される事。


お金からの自由、労働からの自由、
の自由など、色々あります。



で、安定とは一体何じゃらほい?というと、
マズロー的に言えば、何らかの共同体に帰属する欲求です。



まさに「解放(自由)」と「安定」が矛盾し、
相容れない根本原因がここにあります。



なぜなら、何らかの共同体に帰属先を求めれば、
個人の自由をある程度放棄しなければいけません。


解放(自由)を取れば、不安定になり、
安定を取れば、自由は制限されるというジレンマ。


これが社会性の生き物である人間が持つ、
永遠の「悩み」です。



お互いがある程度譲り合い、我慢するからこそ
「現在の」共同体が成立するという前提がある以上、




お互いが衝動の赴くまま、自由にやれば
当然、共同体は崩壊します。



逆に、だからこそ人は権力者になりたがるのです。
権力を持ち、共同体の中で安定と自由が手に入りますからね。



さて、あなたはどっちを選びますか?
それとも、どっちも欲しいですか?



独立起業と会社員もそうですし、
結婚と独身だってそうですな笑



ただ、これを選択するのって、
まさに「自由」なんですね。



☞ ☞




エーリッヒ・フロムの著書「自由からの逃走」では、
我々は完全な自由よりも、国家の権威や、
世間大衆と同一化することを望む傾向があると言います。




言わば「特殊な縛り」に身を投げ出し、
犠牲になることで、安定と共同体に所属するのです。




歴史を紐解けば、これが原因で多くの争いが起こっている。



見方を変えるなら、全員が「自由であり、
安心もできる帰属先」を作れないんですね。



おたーく、な僕はそれをもう少し
突っ込んでみました笑





☞ ☞

そもそも、自由とはそれ自体に有効性はなく、
呼応する社会の義務によって初めて有効なものです。




共同体での義務の観念が権利の観念に先立つ以上、
その権利は義務に従属します。



例えば無人島で一人の場合、
自由の権利を主張する必要はありませんよね。



誰からも承認してもらう必要がないので、
それ自体の意味も価値も一切無くなるからです。



つまり、この「自由」や「安定」とは、
社会(他者)ありき、客体なくして主体は生まれないんですな。




そう考えると、自由であり、かつ安心もできる
帰属先が必要ということ。




これを教義という「外律」で教えようとするのが
宗教・国家のような「権威」なんですが、



止めときましょう、足元を掬われるだけです。




というわけで、みなさんも暇な時に考えてみませんか^^
暇つぶしには十分すぎるテーマだと思いますので。


2012/09/03

人と自然の統合的秩序



「合理化・効率化」というキーワードは
最高の口説き文句であるが、成熟期においては
そこからいったん、離れる必要がある。



そもそも私たちの発想とは、実はかなり縛られている。
縛られた環境とはすなわち「不自然」であるが、
この「不自然さ」こそが経済の秩序を生み出しているのだ。




秩序は自然的に作られたものと
人工的につくられたものがあるが、



僕はこれからは自然派生的な秩序と
人為的な秩序の統合が必要だと思っている。




ヒュームは、人間の意図的な設計のみで作られたわけではないが、
人間の影響は受けている、ということから、
秩序は「自然でも人工でもない第三の範疇(中庸の選択)だ」とした。



機械的な閉鎖システムとは違い、
その秩序概念とは選択の結果であり、
多様性の相互触発である。



問題はその相互性がどれだけフラットかつ、
アン・コントロールで触発されるかだろう。



多くのマネジャーはそういった要因や関連を
考慮に入れず、議論することもなかったのだが、



このような態度は選択か必修かという
問題に対する関心の薄さでもある。



口では弾力性に富んだ、自由度の高い
状態が望ましいとはいうが、
現実問題それほど柔軟にはできない。



マネジャーはある種の「センス」が必要なのだ。
バランス感覚のような「感性」ともいえる。



☞ ☞ ☞


構築的合理主義者は、制度の意味を理性を駆使し、
明示的に命題を演繹して人工的に作り上げる事だと信じている。




この考えこそが複雑なシステムを構成するための
最初の原理ともいえる。



我々のような開放系相互作用システムにおいて、
「体系と効率」は演繹として使えないということだ。



かといって帰納かといえばそうでもない。
言わば「アブダクション」に近い。




2012/09/02

押しつけ


ども、グッさんです^^
9月に入りましたね。




もうすぐ僕の一番好きな季節「秋」が来ます。
この時期にお店(兼事務所)を新しくオープン出来るって嬉しいことです。





てなわけで今回のテーマ。
あくまでも個人的な意見なので暇な方はどぞ^^





○○○





アメリカのカルフォルニアでは法律で「フォアグラ」を禁止しました。
ガチョウの飼育方法が動物愛護からすると許せない、と。





また、ニューヨークではビッグサイズのジュースを
映画館や飲食店で出すのを禁止する方針だそうです。



日本とアメリカのサイズ比較 ↓








スモールサイズは日本が300mlに対し、向こうは700ml、
ビッグサイズは1300ml、





ビッグサイズの禁止の理由は「肥満防止」とのこと。
ちょっと笑えてきますね。





一番小さいのが700mlrって、そもそもが間違ってるだろって(笑)





まあこんな感じで、アメリカ行政は昔から
食べ物を始め、色んな事に干渉し
自分たちの理屈を押し付けるクセがあります。




1900年初頭にはプロヒビジョン(禁酒法)で
お酒の製造、販売を禁止してますね。
クジラだってそう、シーシェパードが「捕鯨反対」とか
よくやってます。



そんな余計な干渉とは本来独善的なものであり、
暴力を内包しているというのが個人的な意見です。
(余計な干渉と言うところがポイント)



日本人を始め、どこの民族だって自分たちの
食料を過剰に奪い絶滅させるようなバカな真似は普通しません。
しかしアメリカの場合、クジラは食べないけど「鯨油」はガンガン採ります。




クジラを捕っては油を絞り、その後どうするかと言うと
そのまま海へ捨てているんです。






昔からクジラを食料とし、クジラの供養をしてた
日本から見ると「動物愛護」という大義名分が、
実に独善的な勝手主義だと映りますね。





ちなみにライオンやワニは凶暴ですが、
例え空腹で死にそうになっても仲間は絶対に襲わないそうです。




食べる時も空腹を満たす以上はしない。
反面、人間はカニバリズムの歴史もあるし、
必要以上の食料を作っては捨ててるし、
戦争では殺人が正当化されるという奇妙な習慣さえある。




その点に限れば、人間は動物以下ですよ。




○○




しかし、当然それだけじゃぁありません。
それだと、とっくの昔に滅んでいます。






我々には相手の心を感じることができる
能力がある、それが共感です。




喜びや悲しみを自分の事のように感じれる。
先日のオリンピックでは国民が喜びを共有しましたよね。




会社で支え合い、励まし合って組織を作るのも
共感能力のおかげだといえるでしょう。





このように、人間は「暴力と慈愛」の
両方がセットという清濁併吞、グレーな存在です。



この狭間(バランス)で自己が形成され、
社会、やがて国家となる。




善悪併呑なのはマクロ的に見ても
ミクロ的に見ても変わらないんです。





だからこのバランスが今後重要になるだろうと
個人的に予測してますが、







それを書くとニーチェのようになりたくないのでやめときます(笑)




ではでは。