2015/12/03

これでもう間違えない!(笑) ただしい「○○○」とは?





こんばんわ、坂口です(゜゜)



さて、今日は日本流FC概念で誤解しやすい
「境界線(間)」の概念について書いてみようかと思います。




最近、世間を始めビジネスでも白黒論から
偏らない「加減」や「境界線(間)」が認知されてるようですが、



内容を見てると、どーも「どっちもどっちだけ」で
完結しているような気がするんですね。



そして決まり文句の「認め合おう」になり、
そこから「自分らしく生きようぜ~!」に繋がるんですが、



それでは全然意味が違ってくる。
全員が腫れ物になってしまえば
誰だって関係性を深めようと思いません。



迎合と調和は似てて非なるもの。
是を是とし、非を非とするのが本来であって、
おかしい事は逆立ちしてもおかしいと言っていい。



多分に、その「おかしい」ということに対し、
自信を持って「違うだろ!」と言えなくなってきたことが
個性尊重、多様化社会の弊害かもしれませんね。




前置きが長くなりましたが
そんなところから。。。。。





さて、そもそも論から話せば、どんな主義主張であれ
限定性である以上、必ず排除性がセットです。



これは聖人君主だろうがお釈迦さまだろうが
逃れることができない。Aを主張すれば必ず
「NOT A」を排除してしまいます。



その結果、(仮に良いとされてても)
主義主張というものはどうしても、他人を
「型」へはめこもうとする志向性が働きますよね。




当然、全員が納得できる事は言えませんから
あらゆる主義主張は必ず衝突してしまいます。



なぜなら「甘党と辛党、どっちが正しいか勝負
をやってるから。そこに正解なんてありません。




☞☞☞




で、ここが間違えやすい部分。




誤解している人はここで
「甘すぎてもダメだし辛すぎてもダメだね」
と捉えてしまうんですね。




つまり両極の「中間値」に正しい
真理があると思ってしまってる。




ただ(釈迦の悟った中庸もそうですが)
中道と中間は同じじゃないんですね。




その場所は常に揺らいでいるわけです。


はい、中道





「苦しい」と「楽しい」や「個人」と「全体」など、
我々はそのどちらか一方で物事考えがちですが、
相対の世界は両方あることで意味を持ちます。



これによって「どっちもどっち」が成立する。
僕が教義(絶対)を批判するとき、よく使うのがこれです。




しかし、そのどちらにも偏らない場所に
突っ立ったままの状態が正しいとは思ってません。




なぜなら、本来の境界線は変化流動する
時代に対し、自らを「自在に変化すること」。
そこには「両極」が同時に存在します。




その時々の状況に応じた「正しい」判断は
「どっちも包括している」のです。




例えば、長く生きることも大事ですが、
今この瞬間をも生きるのも大事ですよね。



スピード勝負は大事だと思いますが、
じっと待つことも必要でしょう。




悩む思慮深さも大事だけれど
クヨクヨ悩んでも仕方ない時もある。




じゃあ、それをどうやって「決定」するか?




これを見極めるのがunreveの「自在」の概念、
「正しく考えることができる自分」を
確立するために自立と自律が必要なんです。




☞☞



正しい志向性は定型化できませんが、
正しく考えることは誰だってできます。
(問いの共有ですね)



逆にその正しさに対する確信がなければ
どちらも、一長一短ありますからね~」で終わりです。



当然、自分のやってることも定義できない。
偏りを正当化し、まっとうな思想を蹴とばす人もいるでしょう。



逆にその極端な偏りから抜け出し、観察者側として
ノージャッジしているだけという、「一貫性なき無定見」になる可能性もあります。



誤解を恐れずに言えば、
これは多様性だと言えません。







現在、ビジネスでもたくさんの「ノウハウ」が存在しますが、
情報が増えれば、必然的に両極端になります。




「○○をやれ」という人もいれば、
「○○はやるな」という人もいる。
結局、どっちもどっちです。





大事なのはそれを「どう使っていくか」。
間違っても「ほどほどにやる」のが正解だと思わないように(゜゜)





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