2015/09/23

たまたま、なんとなく作られたもの



以前の僕は自分の人生は自分が全て
創造している、できると思っていたんですが、
今は全然そう思ってません。


もちろん、創造はしている。
しかし全てではないな、と。


例えば、今こうしてブログを書いているんですが、
書き出した行為は予め予定されていたものではなく、
偶然、たまたま、なんとなくです。


見ている読者の方もそうじゃないでしょうか。
少なくとも数時間前はこれを読むという
選択肢は頭になかったと思います。
あったら、すごく嬉しいけど(笑)



そんな僅か数時間前の行為であっても、
決定し、予定しないのが「日常」である以上、
自らの意思ですべてを創造してるとは言えない。
そう思ったんですな(゜゜)


意識的活動ってね、ホント僅かなもんですよ。






もちろん大枠ではある程度の予定は
コントロールできる。しかし狭義で考えれば
それは確実ではない。


その証拠に何かをするつもりだったけれど、
やらなかった時の方が日常の大半を占めますよね。


気分が乗らないからやめることあるし、
急に電話やメールが入って、後回しになったり。
逆にちょっと見るつもりが、芋ずる式に
何時間も集中して見てしまった、という時だってある。
それは習慣や怠惰が原因ではないでしょう。



そんな偶然の累積である「未来」は
その流れにおいて限定された「ある具体性」を持った
「いち環境」だといえるんじゃないかしらん。



曖昧な精神によって作られた環境を
我々は必然のものとして受け止め
その切り取った代替え不可能性において、
必然性を持った可能性が、世界に応対している。
こういった「自ら」の意識と「自ずから」という
無意識が複雑に入り組むことが人生である以上、
万能感だけでなくある種の(信仰的)無能感を、感じてしまいますね。



☞☞


多分に、自意識を超えた所に
抗えないナニカの流れがある。



例えばリチャード・ドーキンスが作った造語「ミーム」は、
別名「模倣子」、精神のやりとりのことで、
氏はそんな、我々の心の奥に浸透した
ミームが文化であったり、歴史を作ってきたのだと言います。



まさに歴史創造の種子。
遺伝子にとても似ていますよね。
遺伝子内のパターンで自分の姿形、
血液型や髪、肌の色などが決まるように、
ミームによって行動のパターンが決まる以上、
自分以外が「決定権」を持っている、と。



なるほど、自分の力では肌や髪の色を
自由に変えることができないように、
自分が所有していることと自分の完全な
管理下であることはイコールではないのでしょう。
ちなみに「優れたミーム」は人の心や習慣を
変えてどんどん広がって行くけれど、
優れたミーム=優れた考えじゃない、と言います。



面白いね。
そんな歴史を動かしてきたミームは
我々をどこに連れていくというのだろう。




秋の夜長、その妄想は
抗いつつ、流されていきます。






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