2015/09/05

リゾーム派生概念「拍子」




リゾーム派生式超克理論について。



自然派生には必ず作用、反作用が起こる。
吸って吐く呼吸しかり、満ちれば引く海の潮しかり。



それは一つのリズム、拍子であって、
生命はそんな無常のリズムによって成立している。



そんな一つの性質が互いに統合され、
新しい何かが創造されているということは、



その素材は二つで一つではなく、
「一つの半分」だと言えるだろう。





片手だけで音は鳴る道理などない。
お互いの掌を衝突されることで「パンッ」と音が生まれるだ。











誰もが皆、どちらかの掌に偏る主義者であるが、
そんなもの、利き腕の違いを論じているだけである。



我々の定義する善悪の判断にしても同様、
そこに完全性はなく、保証することもできない。



なるほど、「善」が何かの圧力によって
最高の価値として観念化されれば、



その定義された「善」は必然的に
対立概念である「悪」も引っ張っくる。



つまり「極」になれないからこそ、
多様性は自然の拍子によって担保されるのだろう。



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必要なのはその結合認識である。
どちらの性質も蔑ろにしてはいけない。



商売で言えば、ビジネスとアート、
商売と学門といったものの領域を
分けて考える思考ではなく、繋げ方を模索するのだ。



三越を改革した高橋義雄が茶人であるように
商業と美術を結びつけようとする精神が
以前の産業界にはあったのだろう。



なるほど、商売を度外視したからこそ
成立され、持続性を持っているものは
探せばいくらでも見つけることができる。



そうした文化的経済サイクルが
これからの拍子であり、日本流である。




もちろん、ホトトギスが鳴くまで待てるほど
呑気でもないし、潤沢な資源があるわけでもないが、




それは打ち上げ花火であって良い理由にはならないのだ。







嘆賞や悲哀である「ああ、はれ(あはれ)」は
その感情を越えた時、賞賛の意味である
「あっぱれ(天晴れ)」となる。




つまり公家の美意識的文化である(あはれ)が
武家の存在によって新しい美意識へと変化したのだ。



他者との相関関係によって自己は変化流動され
二つの軸を内包しながら統合へ向かう、まさに日本流である。






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