2015/09/29

否定し離れるか、それとも肯定し寄り添うか②





前回に続き二回目です。
一回目はこちら




人間万事塞翁が馬。
昔の人は、実にうまいことを言ったもんだ。



我々の(外部の)吉凶・禍福は常に
変転するものなので、予測することはできない、



所為はおかげに、おかげは所為になる
これは後から振り返って初めて、分かるもの。



部分(現在)を切り取り、禍福を決める
決定論者はいつの時代も一定数存在するが、



それは表層的、客観的出来事に対し、
一喜一憂したり、さも悟ったと思い込んでいるだけである。



なるほど、常に自分の頭とのおしゃべりを
やめない人からすれば、予想通りの結果であるが、



物事は直線と曲線という、相反する
二つが補完されることで形成されている以上、




それは一つの動きを切り取った「写真」にすぎないのだ。



これだけ見ても、何も分かりませんよね





前置きが長くなりましたので、
そろそろ本題へと。




☞☞☞





坂口安吾は著書「堕落論」において、
その自意識(堕落)の境地を描いているのだが、
安吾自身も現実(自我)を完全に肯定していたわけではない。



自我がどうしようもなく下らないのは
小林同様、十分に解っていた。



しかし、それと真剣に向き合うこともなく
人間社会は理解することなんかできない。



その自意識の「どうしようもなさ」から
作られているのが、近代のリアルな現実である以上、



その「どうしようもなさ」を真に理解することを
止めて(逃げて)しまえば、その知識にはなんら
価値がないと、安吾は確信していたのだ。


故に自ら堕落し底を眺める、と。
これが安吾の覚悟である。




だからこそ、自意識の摩擦から逃げた小林を
「教祖と変わらないではないか」と批判したのだろう。



まさにそれは、小林と坂口の前提、根幹の
決定的な違いである。




☞☞☞



シモーヌ・ヴェイユの「根を持つこと」とは、
魂の根源からくる生命的欲求であるとし、
アランはその魂は肉体を拒絶している「ナニカ」だと言っている。



小林も同様、肉体五感を伴った
「自意識の基礎」は、基礎として不十分だとした。



自我を中心とした葛藤をいくら深く掘り下げて
言葉に描いたところで、そんな文学は何の役も立たない、と。



小林は現実が観え過ぎていた結果、
現実を見下して(見限って)しまったのだろう。




小林は誤解や批判ついて
誤解されない人間など薬にも毒にもならず、
そういう人は、何か人間の条件において、
欠けているものがある人だ、と言っている。



「毒」になれないものなど「薬」になることもできない、と。




なるほど、我々一般大衆からすれば、
スピリチュアルやら宗教やらにハマっている人たちは
正常ではなく、異常な思想だと思うのだが、



それを盲信する信者からすれば
むしろ一般大衆こそ、狂っているという立場を変えないのは
似たようなものである。




しかし、単に盲信するのでは
バランスの喪失に他ならない。



オウムしかり、テロしかり、独裁政治しかり。
自意識は正気と狂気の間を彷徨ってしまい、
そのベクトルはメビウスの環よろしく反転する。



科学者や哲学者は発狂寸前で
宗教(形而上)へ向かう人が多いのだが、



それは鮮明な理論(正解)を求め、突き詰めた人が
もれなく陥る落とし穴である。




大事なのはそのどちらもを理解した上で
自らの個性によって決定された肯定的「意思」ではないだろうか。



まさに毒を喰らわば皿まで、である。








僕は今いる「あいだ」という位置を
結構気に入っている。



なぜなら、毒にも薬にもならない状態とは
毒も薬もいつでも選べる自分という、可能性の担保なのだから。



よって自我も自己も大肯定はしない。
各自めいめい、好きにすればいいだろう。



そのどちらからも眼を逸らしてしまえば
大事なものが得られることもないと思っているが、



真に大事なものは、意識的に掴もうと思わなくても
勝手に気付くものだという深い確信がある。




深海に素潜りする気はない。
浜辺で貝殻を拾うくらいで(今は)丁度いいのである。




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