2015/09/18

思想は呑んでも呑まれるな!



書を読まずして、何故三年も心法を練るか。
書の真意を知らんが為である。


それほどよく古典の価値は信じられていた
事を思わなければ、彼等の言う心法という
言葉の意味合はわからない。


彼等は古典を研究する新しい方法を
思いついたのではない。心法を練るとは、
古典に対する信を新たにしようとする苦心であった。


仁斎は「語孟」を、契沖は「万葉」を、
徂徠は「六経」を、真淵は「万葉」を、
宣長は「古事記」をという風に、


学問界の豪傑達は、みな己れに従って
古典への信を新たにする道を行った。


彼等に、仕事の上での恣意を
許さなかったものは、彼等の信であった。


無私を得んとする努力であった。
この努力に、言わば中身を洞にして了った
今日の学問上の客観主義を当てるのは、勝手な誤解である。 



小林秀雄 「本居宣長」より





こんばんわ、坂口です(゜゜)
食欲、読書、芸術の季節ですね。




読書と言えば、これだけ情報が溢れているにも
関わらず、我々はさらに知識を吸収しようと
本を手に取り、ネットを検索します。




これって考えたら凄いですよね。
「何かを知ること」とは金銭欲と同様、
底が抜けてるんじゃないかしらん。




ただ、なんでもかんでも知ればいいって
もんじゃない、




なぜならそれは「手段」だから。




もちろん、小説のように読むこと自体が
目的になっているものもありますが、



端的に言えば、読書とは他人から
何かを考えてもらうことでもありますからね。




今日はそんなところから。。。









さて、ショーペンハウワーの著書「読書について」は、
まさにそのマイナス面を書いてます。



例えば、多読な人間は勤勉ではなく、
次第に自分の頭で考えることができなくなるのだ、と。



故に「いかに本(情報)から離れられるか」が
大事だと言います(僕の回帰論と同じですね)。




これは現代病理といえるでしょう。



学ぶことが目的となっている人にとっては、
耳が痛いでしょうが、学びは必ずその先に目的があります。



その目的を達成するのはあくまでも
「自分」である以上、学びとはその素材の一つに過ぎないのです。



ブログでも読書でもなんでもそうですが、
何かを読む行為とは、他人の考えた結果の
後追いをやっているだけであって、



今までの画一化、大量生産の時代であれば
そんな共通の正解を守ればよかったのですが、
これから必要となるのがこの「プロセス(主体的経験)」ではないでしょうか。



現在、合理・効率が重視されているため、
こういった「過程」をすっとばしたものが
重宝されているんですが、



過程をしっかり踏んでいる人と、そうでない人は
圧倒的に厚みが違う、話してみれば明らかです。



例えば、プロセスなく、他人の言葉に埋め尽くされた
人は簡単に断言してますね。



「ああすれば、こうなる」。
「これはこう、それはそう」と、容易く言い切ってしまう。



ただ、それはあらかじめ用意されたいた
「正解(っぽいもの)」を右から左に流しているだけ。



だからこそ、そこに疑問符など起こらず、
ハッキリと言い切れるんですね。



逆にきちんと考えた人は、流動性(編集)を是とします。
「正解など用意されていない、だからそれを作るのだ」、と。



しかも「その正解すら」いつか変わると思ってる。




まさに流れ(拍子)の中、即興的に変えることだけが
正解だと分かっているのでしょう。




日に新たに。
この精神、心構えが日本流です。




☞☞



ショーペンハウワーは他にも
「悪書は読むな、天才の作品を熟読せよ」と言ってます。



なるほど、小林が人から「何から読み始めればいいか」
と聞かれた際、トルストイから読めと言っていたのも
こういった理由からでしょう。




なぜなら精神とは科学のように
日進月歩のものではなく、居座っているものを
捕まえるようなものだから。



例えば、いくら時代が進歩したとしても、2千年以上前に
書かれた「論語」を超えるものが出てこないように、
それは進歩とは違うところにあるんだと思います。



よって時代が古かろうが、精神は古びてない。
むしろ、今だからこそ輝くものだってあります。



逆もまた然り。
昨今の「最新」など、サイエンスで十分です。








我々は咀嚼がないままの状態で特定の人が
書いたものを読み続ければ、その書き手の
考えや、思想に必ず影響を受けます。



好むと好まざるとにかかわりなく、そうなってしまう。



これを共感と呼ぶ方もいるのですが
どうして、結構危険なものですよ。



なぜならそれは見るのではなく「見入る」。
見入るとは「魅入る」ことと同義です。



見入ってしまえば、影が響く。
あり方そのものが変わる可能性があるんですね。
(プロパガンダなど、まさにそう)



本来、そういった他人の思想を
知る事とは、本来の自分(根幹)を理解する為。



他人という鏡を使わなければわからない。
そのための「素材」なんですね。




サイズの合わない服を着た時、
なんとなく感じる着心地の悪さは
誰もが経験したことがあるでしょう、




読書もまた、他人との差異、「違和感」こそ
注目すべき部分じゃないでしょうか。




もちろん、似たようなタチの人が
書いたものは共感するのですが、





言ってる事を全部、共感してるのなら、
まず魅入ってるといえますので、そこはご注意をば(゜゜)




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