多様性に伴い、「自分らしさ」が重視されている。
これは同時にオリジナリティの創出でもあるだろう。
これは同時にオリジナリティの創出でもあるだろう。
しかし、オリジナリティや独自性とは、
これまでなかったものや斬新なアイデアを出したり、
奇抜性を狙うものではない。
そもそもオリジナリティとは今あるものから、作られるのだ。
そこからの「自己概念のフォーマット化」、
一つの「型」として確立しているか否かである。
例えばピカソの作品は一目でわかるくらい
独特なものであるが、
当初は、青の時代のような描き方であって、
そこからセザンヌの画法を取り入れている。
それは単なるコピーではなく、
主語は常に自分だった。
つまりピカソのキュビズムは
様々な作品の編集によって、
一つの「スタイル」を生み出したと言えるだろう。
ビジネスではこれを「ブランド」と呼び、
文学や哲学ではこれを「思想」と呼ぶ。
これが実に難しい。
誰だかは忘れたが、9割9分の人間が
文学や哲学ではこれを「思想」と呼ぶ。
これが実に難しい。
誰だかは忘れたが、9割9分の人間が
この「型」を作れないまま、生涯を終えている。と言っていた。
なるほど、
現在、生き残っている思想やブランドの
数の少なさから、その確立が困難であるのは間違いない。
それは一番最初に持っている自分の「種」を
どこまでも見つめ、肯定していくことの困難さでもある。
なるほど、
現在、生き残っている思想やブランドの
数の少なさから、その確立が困難であるのは間違いない。
それは一番最初に持っている自分の「種」を
どこまでも見つめ、肯定していくことの困難さでもある。
生涯の思想は処女作に向かって成熟する。
本質的にそこに「すべてがある」のだ。
例えば、マルクスの思想体系の全てが二十代の
「ヘーゲル法哲学批判」を発表した時期あったように。
☞ ☞
さて、もうひとつの型に「パターン」がある。
世阿弥の「序破急」、茶道などの「守破離」、
身近な例でいえば「起承転結」。
これらはパターン(拍子)そのものを型としている。
(ちなみに対話も一つのパターンである)
僕は「守破離」を模倣して、そこから
本質的にそこに「すべてがある」のだ。
例えば、マルクスの思想体系の全てが二十代の
「ヘーゲル法哲学批判」を発表した時期あったように。
☞ ☞
さて、もうひとつの型に「パターン」がある。
世阿弥の「序破急」、茶道などの「守破離」、
身近な例でいえば「起承転結」。
これらはパターン(拍子)そのものを型としている。
(ちなみに対話も一つのパターンである)
僕は「守破離」を模倣して、そこから
リーフリゾーム、やり方と在り方である全体観、
といった統合(調和)を型としているのだが、
だからといって作らないままだと、
今度は逆に「型にはまってしまう」。
だからこそ「守破離」の順序が必要だ。
だからその度、我々は新しい側面に
魅せられるのだろう。
といった統合(調和)を型としているのだが、
その理由は簡単、本部にはすでに
「らしさの型」があるので、
加盟店は「パターンの型」を覚えれば、
「らしさの型」を崩さずに独自性を出せるのだ。
加盟店が型を作るのはまだ先のこと、
自分なりの哲学が必要となる以上、
現実の経営が追いつかない。加盟店が型を作るのはまだ先のこと、
自分なりの哲学が必要となる以上、
だからといって作らないままだと、
今度は逆に「型にはまってしまう」。
だからこそ「守破離」の順序が必要だ。
今のフランチャイズはビジネスの
目に見える「作業」をフォーマット化し、
マニュアル化にしているが、これがそもそもの間違いである。
目に見える「作業」をフォーマット化し、
マニュアル化にしているが、これがそもそもの間違いである。
本来のFCのフォーマット化は型の創出、
つまりブランドとして成立する「らしさ」を
いかに共有させるかであって、
決して作業オペレーションの精度ではない。
いかに共有させるかであって、
決して作業オペレーションの精度ではない。
だからこそ「対話」が必要となるのだ。
☞
ピカソの絵にはピカソらしさがあり、
シャネルのバッグにはシャネルらしさがある。
シャネルのバッグにはシャネルらしさがある。
小林秀雄の小林秀雄らしさ、
サザンの音楽のサザンさしさ、
ジブリアニメのジブリらしさ、だ。
(宮崎駿氏の場合)
サザンの音楽のサザンさしさ、
ジブリアニメのジブリらしさ、だ。
(宮崎駿氏の場合)
そんな型を持つアーティストの作品は
奇抜な作品を生みだとしても、一貫性がある。
だからその度、我々は新しい側面に
魅せられるのだろう。
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