2015/05/15

超克と信②



前回に続き超克と信、
二回目です。




よし、まずメガネはずせ





超越的な他力の深信とは特定の他人を
あてにするものではなく、



「人間、一人では生きていけないのだ」という
端的な現実社会の説明でもありません。



それは相互に関係して離れない自己の
本質的な確信であって、



自己主体に軸をおいて生きる独立独歩の
「自ら」を徹底した時に「自ずから」派生した
経験に服従することでしょう。




その純粋経験こそ、以前書いた「無心」、
まさに日本流の「在り方」です。



☞ ☞



プロ野球の長嶋・王選手の監督である
川上哲治氏は訓練の為、寺で座禅をさせていたと言います。



ビジネスの世界ではスティーブ・ジョブス氏や
稲盛和夫氏が禅に傾倒していますね。



座禅をしてホームランをかっ飛ばす。
売上を伸ばす、商品を創り出す。



西洋人にはこれが理解できない。
頭でどう「考えても」結びつかないのです。
(ちなみに座禅と瞑想は違います)



それは心技体の統合を目指す志向性、
つまり没頭するくらい集中した積極的な態度のことであって、



そんな一心不乱の鍛錬による「三昧」が
「不二の妙道」へ至る、と。



言葉で書けばそんなものでしょうが、
やはり、最終的には「自ら」が得る
「自ずから」の経験への信。それに尽きます。




教外別伝、不立文字、直指人心見性成仏と・・・。





☞ ☞




今回のような禅を始めとした
「道」と名の付くもの(茶道・華道・柔道)は
もれなく、形式である「型」を大事にしています。



茶道などはそれこそ細かい動きまで
決まっている。



矛盾していますが、日本流の「自由」へ
至る道というものは、まず「束縛ありき」なのです。



しかし、その形式(型)へ没頭し、
形式を形式だと頭で考えないくらい
徹底された時初めて、本来の自分自身が発揮される。




これが「守」の目的なんですね。



頭の中で「どうする、こうする」と
考えている間こそ、束縛され続けている。



我々は日常、「こうしなければならない」とか、
「こうしてやろう、ああしてやろう」と考えています。



その主語はあくまでも「自分が」です。



しかし、本来の自然、本質的な
「ありのまま」というのはむしろ逆であって、



主語である「自ら」を捨てることで初めて、
「自ずから」出てくる性質のものなんですね。



これがunreveの自然派生。



悲しいかな、その精神は戦時中は
イデオロギーによって神風特攻へと向かい、


戦後の高度経済成長期には
家庭を顧みない、企業戦士となってしまいました。



原因は一つ。
目的が利他(共同幻想)から作られたものだった。



方向性・志向性は自ら掴むもの。
故に理念と自然派生はワンセットなんです。



「後記」



(とあるアニメ映画のせいか)
最近、「自分が」から派生する「ありのまま」が
受け入れられているのですが、




どうして、自然派生とは
そんな理性の産物などではない。




故にありのままの状態は、他人には
決してコーチ、コンサルできないのです。




少なくとも、僕はそう思いますね。



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