宮本武蔵や世阿弥は一道(一芸)万芸、
すなわち「一つの道を究めれば、全ての道に通じる」と説いています。
徹底的な「一」と万芸である「多」は
同じ環の中にあり、繋がっている、と。
多分に、内に向かうことで外に抜ける
メビウス構造を、無意識的に知っていたのでしょう。
万物は流転して同一、
それを弁証法として捉える面思考、
これはunreveの弥栄モデルであり、
円環回帰であり、「一即多」の概念ですが、
こういった内部派生と外部派生の統合でもあります。
今日はリゾーム派生概念
「リーフ」について。
宮本武蔵「枯木鳴鵙図」
さて、徹底的な「一」とはどういうことでしょうか。
武蔵はそれを千日稽古(鍛)、
万日稽古(錬)だとしています。
以前書いたように、「稽古」というものは
「古(いにしえ)を稽(かむが)える」こと。
世阿弥の守破離も「型稽古」、
同じ様に一道へ向かう過程を表していますが、
どちらも初めに型がある。
この型は技術だけでなく、精神も含まれる。
故に形式知と暗黙知の習得が必要です。
そこから(自由)自在となる離へと
到達して初めて「一道」は「万芸」へ通じるのであって、
孔子が70歳にして辿り着いた範の境地、
「心の欲する所に従えど、範を超えず」なのでしょう。
これは芸道のような高尚なものではなく、
我々の日常にこそ、発見できると言います。
士農工商の時代においてもそう。
武士の武士道、商人の商人道とは
日々の生活によって形成されるのであって、
そこから派生した探求心である道心さえあれば
日常生活は何も問題ない、と最澄は説いています。
「道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし」
余計な心配は無用。
ただ、ひたすらに一隅を照らせ、と。
☞ ☞
以前、日本人は仕事を通じて自己を
見つめている、と書きました。
ユングよろしく表層的な自我(ego)ではなく、
もっと深い所にある自己(self)。
そこで出会うものこそ「無私」。
驚く事にそこには確固たる「じぶん」がない。
滅私ではなく(限りなく)無(に近い)私。
そんな固定した実体がないものが
「なぜだか」現象として生起され、成り立っている。
親鸞はこの「自(みずか)ら」と「自(おの)ずから」
から成り立つありのまま(自然法爾)を悟ったのでしょう。
自分と他人、偶然と必然の統合されたものによって
作られた「今」。
故に自他円満に導く精神を得てこそ「自在」。
商人道の「三方良し」はここから来ています。
【後記】
よく「自分には何の才能もない」と言う人が
天職やら自分の強みを発見できる、という類の
セミナーに行ってるようですが、
この「じぶん」というものを知らないまま、
答えを探すと言う行為とは、
「分からないものを探しに行く」ようなもの。
そもそも探すものすら分かってないのに、
どうやって探せるのでしょうか。
分類好きな西洋のメソッドによって
表層的な適職や強みなんてものは
簡単に出てきますが、それは星座占いのようなもの。
「あなたは魚座だからこんな仕事が適職です」
と言ってるようなものです。
相対的に「好き」だという、比較選択で
仕事をやるなら全然良いでしょうが、
徹底的な道へと向かう為の
前提(根幹)となる問いの立て方は
煎じ詰めれば、自力ではどうにもできない。
故に、
僕にはやっぱり簡単だと言えませんね。
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