2014/10/06

エシカルビジネスについて


今日はエシカルビジネスについて。


今までの欲望が生産、拡大するのに対し、
最近は「整理、縮小」へと向かっています。
断捨離しかり、ミニマリストしかり。
多分にそれは過剰な欲望への拒絶でしょう。


最近になって資本主義の限界が見えてきました。
人間にとっての「豊かさ」は物資的充足の最大化ではなかったのです。




当たり前のことですが、我々は充足された
状態からさらに充足を求めることはありません。
例えば満腹な状態で「何か食べたいものは?」
と聞かれたら、誰だってうんざりしますよね。



メディアはもっと欲張りになれ、最上を
目指せと「今の自分が劣等や欠如してる」
ようなイメージを植え付けてますが、
それは成熟期において不自然な宣伝だと言えるでしょう。


豊かさには物心両面が必須、
しかし今は肝心の「心」がない。


心がないから我々は他の種に対しやり過ぎている、と。


そんなことから、数年前から
エシカルビジネスというものが注目されています。



エシカルethical)とは「倫理的」、「道徳上」
という意味だと言われるがそうじゃありません。
そもそも倫理と道徳は似てて非なるもの、意味は全く正反対です。


道徳は他律であるに対し倫理は自律、
つまり倫理は「廊下を走るな」ように
誰かが決めたルールを守るものではなく
各個人が内省した結果である感覚的な
「後ろめたさ」であって、内部から沸き起こるものなんですね。



他律的(外部)な道徳にはこれがありません。
だからコンプライアンスを導入する企業さんが
たくさん増えましたが、不祥事ばかりじゃないですか。


真のエシカル消費は倫理によって実現するということ
長期的に見て有害になるような事や有害だろうと
思われる企業を「自分で見極め」購入しないことで
正しい持続可能性が生まれるんですね。


✍✍


本来、この国ではこうった倫理観を
いちいち説明する必要がありませんでした。
エシカルビジネスなんて名前を付けなくとも
稼ぎと努め当たり前のことだったんです。


それは伝統として息づく美意識の継承だと
個人的には思っています。だからこそ
時代を超えてなお、違和感や不快感を感じるのだ、と。


我々はただ、「それ」を思い出すだけで
十分実現できる。個人的にそう思ってます。



「後記」


ちなみに人格の完成を究極の目的とした
カントにとって、ベンサムの功利主義は最大の標的でした。


カントは功利主義(幸福の最大化)を認めない。
彼に言わせれば大勢の人で構成される市場や
そこでの消費選択は「真の自由ではない」と断言するのです。


「なぜ?僕たちは自由に消費してるのに?」と
思うかもしれません。しかしカントにとっては
その「満たされたいと思う欲望」こそ、
自分で選んでいない理由である、と言うのです。


なぜならそれは、より多くの快楽や少ない苦痛を
得ることが基準となっている以上、倫理性と
決別した世俗的なもの、つまり欲望から来る
対象が与える結果」に従っているに過ぎない、と。


我々がビールを手にする時、それは自由に選択した結果ではありません。


それはただ、「渇きの欲望」に従っているだけなのです。







神の見えざる天秤

坂口です、こんばんわ。


最近、寒暖の差が激しいので
体調を崩してしまう人が多いようですね。


体調管理は気をつけたいところなんですが、
風邪を引くのって、大事なことなんですよ。

実は、風邪とかお腹を下したりすることで、
体の大掃除が起きているんですな。


熱を出し、毒素を出し、
体を治そうとしている、と。


つまり、体のバランスが崩れかけた時、
その平衡を保つために起こるのが風邪や
下痢だったりするんです。



確かに、回復した後の爽快さといったら
それ以前と比べると全然違いますよね。


なるほどな、と思いました。
僕もそろそろ風邪を引かないと(笑)

逆を言えば「風邪を引かない体」とは
丈夫じゃなくて、「風邪すら引けない体」ってこと。



そうなると、正しいバランスを
取り戻すことができず、やがてドカンとした
病気が来るやもしれません。




前置きが長くなりましたが、
今日はリーフ理論についてです。









さて、世界に一つだけの・・・じゃないですが、
今の時代は個性と独自が求められています。



ビジネスでもナンバーワン(差別)ではなく
オンリーワン(独自)になれ、と言います。



確かにそう、しかし独自性とは、
非常に取り扱いが難しいものです。



unreveのリゾーム派生は個店主義による
画一化からの脱却を提唱していますが、

仮に自己表現を花とした場合、
花を咲かせるための環境が土であり、
根の部分である「動機」が必要なわけです。



よって本人に動機がないならば、
主体や独自は、内部から派生することはないでしょう。

ただこれって、全然悪くないんです。



そもそも論で言えば、花を咲かせる
必要性なんて、別にないんですよ。



自然の植物が全部花を咲かせたり、
実をつけているわけじゃないでしょう。



絶対的な価値もなければ
強制するものでもない。


見るべきものはそこではないんです。


☞ ☞


現在、地上の花だけに関心をとらわれて、
肝心の土や、隠れている根を見ていません。



その土とは何か、根とは何か。
そこには必ず、大前提があるはずです。



見えないから見ない、もしくは花だけしか
見たくない、と言うのは個人の自由ですが、



そのうちいやでも見るハメになる。
相補的である以上、必ずそう。



これは個人に関わらず、
あらゆる分野でもそうでしょうな、



たとえば現在、政治は根を隠し、
「経済成長」という全体最善という花を見せてます。


しかし、この国は現状、少子高齢化や
1000兆の借金、格差によってボロボロなわけです。



それは根ではなく、今までのシステムで
「咲いた花」、つまり全体最善の結果なわけでしょう。


じゃあその根はどこか?
それこそ、全体最善に見える
一部利権取得者の「部分」であって、

ここが変わらないと意味がない。
まさに人間の在り方の部分です。


現在、これと同じことをやってるのが、
日本の10倍以上の人口が存在する中国ですが、


一体、そこに何が咲いてるか。
同根による必然の花じゃないですか。



☞ ☞


全体の幸福をデザインすると、
途端に部分が不幸になるのは明らかです。
逆もまたしかり。



確かに、人権や自由など無視した方が
短期的には効率がよろしいでしょう。



それこそ、あっという間にインフラはできる。
一見、綺麗な花が咲いたかに見えます。



ただ、それを維持できるかどうかは、
全く別の所にある。


独断的な目的に全員が納得するわけがない。
それぞれの木が共生しながら、森ができてるんだから。


現在、たくさんのオルタナティブが
生まれていますが、まさに全体へ天秤が傾いた証拠でしょう。


つまり本来のバランスを取り戻すための
揺り戻しが 起こっている、と。




だったら早めに風邪を引いて、
引き始めに治すことを勧めますわ。



鎖国主義

unreveの坂口です、
お忙しい中、訪問ありがとうございます^^


ふむ、今日のテーマは
ちょっと「あうぇー」な感じですな。


まっ、気にせず書いちゃいます。


☞ ☞ ☞


さて、日本人ならほぼ全員が知っている
「鎖国」、一見マイナスなイメージです。


それによってこの国は発展が遅れた、と
今でもそう言う評論家がいますが、それは完全なる誤解です。


そう言っている人達は歴史学を知らないのです、
実際は逆、鎖国をしていたおかげで日本は近代化に成功したのです。


鎖国とは、貿易禁止ではなく「貿易制限」、
つまり、自国の保護が目的なんですな。


「遅れた日本」から「進んだ日本へ」という
スローガンは、維新政者にとっての都合の良い物語であり、


それが今の「TPP」にも使われている。
歴史というものは繰り返される性質を持っています。


実際は4つの口(長崎・対馬・薩摩・松前)を通じて平和に通商されていた。



現在、やれ自由な貿易だの、
開国だのいっているけれど、


見方を変えれば、この国はどんどん
独立単体として生存できなくなってきていると言えます。


コンサルも「成長するため、国内企業は鎖国をやめよ」とか、
坂本竜馬よろしく「夜明けは近いぜよ~」と煽っているのはいいとして、


国そのものが、欧米に都合のいい、
今のグローバル制度に参加する事はおかしい。


百歩譲って、自国でも十分に独立運営できて、
いつでも脱退できる状態であればいいでしょう。



まあ、そんなことしたら
アメリカというジャイアンが許さないでしょうな、
「お前のものは俺の物」ですから。


この国の政治家達はドラえもんにはなれません。




これを風刺画という 笑

独自の文化も、鎖国によって生まれています。
閉鎖することにより、世界から「悪影響」を受けなかったんですね。
(キリスト教を禁止したりとか)



鎖国によって約250年、(色々あったでしょうが)
平和な社会が維持できていました、歴史がそれを物語っています。


この国は自主独立でも問題ないんです。
情報は開かれているので、中国や北朝鮮みたいな国家にはならない。


まあ、輸出とか自給率とか色々課題はありますけどね。



☞ ☞ ☞



本来、この国は桜見て、寿司食って、
お茶を楽しみ、俳句を詠めば満足してた国です。
(ちょっと極端ですけど)



反面欧米は違います。
自分の正義を他人に押し付け、統一させないと気が済まない。


平等を勘違いしているのです。
本当の平等は「お互いの違いを認める事」なのにね。



さらに中国や韓国は日本に追いつき、追い越して
初めて自国のアイデンティティが満たされる国家。


つまり外部を変えて初めて、内部が満足する。
そんな標的にされたらたまりませんわ。



いっそのこと「鎖国するぞ」と
どっかの政治家が言ってくれないかな。


もし、「自給率を上げるぞ!」みたいなマニフェスト出したら
思わず、清き一票を入れちゃいそうです。



いや、入れないな笑


2014/09/23

モノサシと土俵

僕のような小さいコンサル業にせよ、
税理士にせよ会計士にせよ、これからは自分の「土俵」が必要だと思っている。


それは大なり小なり同じ業務(同業者)がいる限り、
「ここが僕の土俵です」というPRが必要になると言う事だ。



それは唯一無二の「世界観」とも言える。



情報だけを売る商売なんてまさに死活問題である、
だって情報なんてものは、やがて共有される運命なのだから。



ひとかどの職人、いわばプロフェッショナルは全員がそれぞれ
なにかしらの「世界」を作っている気がする。



その世界の王はまさに自分であり、てっぺんにいると言う事だ。
世界の規模は様々だがそれは関係ない、問題は世界を「作っている」と言う事だ。



それは自分の「モノサシ」を手に入れる事である。



それぞれの世界を作ったプロフェッショナル達は
誰か他人の土俵に足を踏み入れる事はないし、他人をその土俵に入れようとはしない。



その「テリトリー」が明確にあって、
自分でそれを見つけられた人だけが、これから生き残って行く気がする。



それを見つけられないと、一時的に脚光を浴びる事はあるけれど、
いつかは消えゆく運命なのかもしれない。



コネもカネも信用も、2代目のように基盤もない僕の中には、
そんな緊張感がいつもある。



☞ ☞ ☞


人生にせよ、経営にせよ、よく「登山」と例えられるが
僕は今の仕事を「麓から登っていつか頂上へ・・・」とは思っていない。



すでに頂上にいるのであって、
その山に誰も登ってこれないように強固にする。それだけである。



とても小さなものだが、僕には「世界=モノサシ」があって、頂上にいる。
今はそれで十分だと思っている。



よって、仕事としての「構築支援業」では歩み寄るつもりだけれど、
「世界観」の部分については他人に受け入れられるよう、こっちから歩み寄るつもりは一切ない。



仏教では「自分のモノサシで人を裁くな」と言われる、
それには100%同感だ、しかし自分の中には確固たる「モノサシ」は必要である。



いけないのは自分のモノサシを使って「他人の世界を測る事」であって、
自分のモノサシを持ってはいけないのではない。



逆にそれがないと他人のモノサシや
世間のモノサシで測られる運命になる。



つまりモノサシは「自分仕様」と「世間仕様」の2つが必要なのだ。



僕は自己中心的に作られた世界でやっているから
良くも悪くも理解されない場合が多い。



しかし自分の世界を構築した相手とは、とてもスムーズに事が運ぶ。
また、そういった人が僕を一番上手に扱ってくれる。



☞ ☞ ☞


「料理の極意は火と味の加減だ」と言われている、
僕の世界観の一側面が、この「加減の定義」である。



加減は体系化できないので科学的ではないし、経済的でもない。
だからコンサルとしては完全な異端者である。



一般的なコンサルとは、欧米的な論理化と体系化による視覚化である。
僕の場合、目に見えない部分を感覚で掴むという「概念化」である。



リゾームは「積極的な概念化」である以上、これ抜きでは何もできない。
よって簡潔に説明することもできないし、そもそも言葉では伝えられない。



ただ言える事は見えない暗黙知こそが本質、という事である。
見えないといえば「センス」、これに近いかもしれない。



センスは生まれ持った才能である。
努力した結果得る事ができるようなものではない、
例えるなら「条件反射」や「直感」のようなものだ。



現役の長島選手が「来たボールをひっぱたくだけです」と言ったように、
本来それは分析もできなければ体系化もできない。



世界観が明確な人は体系化を二の次とする。
なぜなら本質はその裏側に隠れた部分だと思っているからだ。



その見えないものを、僕は「空間ごと」えぐり取とうとしている。
仰々しい言い方だが、端的に書けばそうなんだろう。



そんな手法だから多くからは敬遠される。
安心感を与えるシンボル(根拠)なんて持ってないから。



もちろんそれを作れと言えば作れる、
プロポーザルのような、分厚いあのタイプだ。



しかし蓋を開けてみれば全く使い物にならない。
そんなもの、結果が出て初めて意味を持つ「後出しジャンケン」にすぎない。




こんな風に考えているから「不思議なヤツ」だと言われるんだろうなぁ(笑)
ただ自分の土俵がある以上、そこを降りる気もないし、他人の土俵に上がる気もしない。



ただあと3年、40で結果がでなければ潔く辞めようと思っている。
ここでいう「結果」はあえて書かないが、たぶん不可能ではない。



3年後ってことは起業してまる6年、
6年やって届かなければ、それは僕に才能がなかった、と諦めもつくものだ。
才能がないのに「好きだから」と言う理由でやるのだけは避けたい。

2014/09/22

飼い慣らされた思考とプリコラージュ論



人類学という分野から構造主義を広めた
レヴィ・ストロース氏の「野生の思考」に
書かれているブリコラージュ論。それは
抽象的概念や専門用語などを使わずに
具体性、すなわち色、音、感情や感覚に訴えるものを対象とします。


知性の奥に潜む野生の思考構造、
氏は我々の揺らぐ感性に注目したんですね。


野生の思考/みすず書房

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野生と書くと語弊がありそうですが
我々はこういったことを日常経験しています。
例えばレシピに沿って作る料理ではなく、
冷蔵庫の中のあり合わせで作ることもブリコラージュです。


そんな即席、即興性は理論や設計を
基軸としたエンジニアとは対照的ですね。
一見無価値、無意味なものを「直感で」拾い上げ、
その寄せ集めで一つの「意味」を作り出すのです。


なるほど。多様な対象を差別(区別)する
ことなく「巻込む(統合)」と。プライマルな
全体観がなければこの思考はできないでしょう。
なんだか野蛮で知性のない、まるでジャングルに
住む原住民的な本能のようですがそれは個人の
経験を超えた非時間的な直接表現なのかもしれませんね。



☞ ☞


近代、飼育された思考(栽培された思考)が
現在の社会を動かしてきました。マス時代の
「マーケティング」や「ブランディング」などは
全てこの「飼いならされた思考」の産物でしょう。



しかしそれは「だれかの」設計者によって
植え付けられたもの。「飼育された思考」が
完成されればもはや異論が異論でなくなってしまい、
本人に無許可で行動や思考の「パターン」を頑強に
作り上げてしまいます。



私たちが思い込みによって排除していることは
たくさんあるということ。




自分の否定的な考えや選択肢を「まず疑うこと」が大事ですね。



「後記」


村上春樹氏の著書「ねむり」では
近代社会の中で制度化され、飼い馴らされ
劣化した「ねむり」をテーマにしています。
短編ながら「制度」を実にうまく表現してます。


(ネタバレになるんですが)本書の中の女性は
制度という檻から出る手段として17日間眠りませんでした。
結婚した事で眠らせていた「本音の自分」を取り戻す為、
つまり目覚める為に眠らなかったのでしょう。


睡眠を拒否するとは死を拒否すること。
ある意味現実逃避です。しかし彼女は
パターン化され劣化していく人生に対し
抵抗を必死に抵抗したのです。





2014/09/09

魅力と魔力



今宵はスーパームーンだそうな。




月はいつの時代も神秘的・美術的、
そして呪術的なシンボルであった。



いつの日か人類は月面に降り立つだろう、
その時、永続的であった月の神秘性は失われてしまうのだろうか。



今日はそんな小話でも。



人類が永遠に続くのではないとしたら/新潮社
¥2,484
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最近、上記の本をパラパラと読んでみた。


地球の有限性に対し、経済は無限性を前提にしている、
といった所から本題は入っている。


(ある意味)我々の世界は無限の可能性世界ではあるが、
住んでいる場所は限りがある、これには批判はないだろう。



マルチでもネズミでもなんでもそうだが、
西洋的なビジネスの前提には「無限∞」がある。


枯渇しようとしても、外部を内に取り込むことで、
さらなる発展飛躍となる、これがあちら側の言い分である。


なるほど、彼らからすれば願望は良き事であり、
自然は永遠に豊かであって、尽きる事はない、と。


多分、そう思いたいのだ。



そんな無限性は魅力的であり、魔力的でもある。



まるで月のようにその姿を変える。











もちろん、誰だって我慢はしたくない。
第一、我慢する生活はちっとも楽しくない。



それよりも楽しくダンスを踊ろうじゃないか、
例えそれが沈みゆく船中だとしても。



今までは、そんな楽観的原理でやってきたのだが、
それがただの願望だったと気付くより先に、
アメリカの経済は歪に膨れ上がり
借金は、すでに1.5京円を超えてしまっていた。



中国の中心部はもはや人が住めない状態となっている。
日本でもバブルは弾け飛んだ。



人類は、自力ではどうすることもできない所に
足を踏み入れてしまっているじゃないか。



それでも経済はリミッター解除を勧める。




「もっともっと!」、「まだまだ!」





☞ ☞



閑話休題
この本のテーマは「有限性」と人間の「欲望」の
積極的な肯定であり、哲学的な考察でもある。



よって様々な哲学者が登場する。
ホッブスにジョルジョ・アガンベン、見田宗介、


ヤスパースに吉本隆明に中沢新一に
アリストテレスまでと、その幅は広い。
(吉本隆明は個人的に好きじゃない)



贈与論が出てくる、軸の時代が出てくる。
自我から自己へと、個人のライフスタイルを変える
仏教的なものまで感じる。



なるほど、これはシステム云々ではなく
精神革命が著者のテーマかもしれない。



内容が複雑化するのも当然だろう。
言葉に出すため、悪戦苦闘しているのが伝わってくる。



☞ ☞



多分に、今が大転換の時代だからこそ、
我々は未確定から確定へと作り上げている最中なのだろう。



今日の満月はそんな我々の必死の変化を
気にも留めないんだろうな(笑)




2014/09/08

マニュアルパンチ

こんばんわ(^O^)/
unreveの坂口です。


年末から今年に入ってすでに成果報酬の案件が
5件、ツールが3件、プロジェクト支援が1件。
あと待ちが2件;;;;スイマセン。


さすがに頭から煙が出てきました
煙というよりも狼煙です・・・・・(x_x;)



助けてクマモン


ただ、「経営者と同じように考え、
同じ気持ちで支援する」がunreveの選ばれる理由なので、
手を抜かずに行きまっせo(^▽^)o


※連絡や対応が遅れる場合もありますので、
各クライアント様よしなに・・・・あせる



☞ ☞ ☞

さて、今日はマニュアルについての小話です^^




フランチャイズだけに限らず、
社会全体に「マニュアル」が横行しています。


「マニュアル」と「型」は似てて非なるもの、
型は主体性を伴いますが、マニュアルにはそれがありません。


確かに、マニュアル通りにやれば
責任を取る必要はありません。


上からしてみれば「言い訳」にもなります、
マニュアル通りにやっていた、ちゃんとマニュアルに従った・・・etc



これはある意味「思考の放棄」であって、
マニュアル管理社会がこのまま進んでしまえば、
我々の仕事の概念は機械と同じようになってしまいます。



例えば飲食店で「この料理、ちょっと薄味じゃない?」と、
お客さまから言われたとします。


そこで「いや、私達はマニュアル通りにやってますから
と言われたら場合、どう思うでしょうか。


僕が客ならまず耳を疑います。
多分、二度と足を運ぶ事はないでしょう
(もちろん、かなり薄味だったと思った場合ですよ)

☞ ☞ ☞


当然の事ですが、顧客から「味が薄い」と言われたら
まず全員で確かめますよね。


そして本当に薄いと感じたら顧客にお詫びし、
今後、分量を多くするはずです。
決して「こっちはマニュアル通りに~」とは言えない。


「マニュアル通りに」を正当化してしまっては
間違いなく、フランチャイズでは成功できません、
他の仕事でもそうですよね。



現在、そんな中途半端なシステムのせいで
本来の接客である「ケースバイケース」」ができていません。


接客がある業種に「お客様窓口」という部署は不要です。
本来窓口は現場であって、その場で解決しないと意味がありません。


譲歩して黙らせるなんてことをやっているから
鬱憤が晴れず、ネットで苦情を出しているのです。


☞ ☞ ☞


もちろん、中にはモンスタークレーマーもいます。
そんな人を相手にしては、従業員の身が持ちません。







鶏が先か卵が先かを言いだすなんてナンセンス、
大事なのは自ら判断できる力です。



接客とは文字通り「顧客に接する」という意味であり、
顧客の意図を判断し、決定すると言う事、



自分で判断するには当然「モラル」が必要ですし
基本的な「型枠」がないといけません。



言うまでもなく、その型とは暗黙知。
「形式・マニュアル主義」ではないのです。



自立と自律は時代のキーワードですよ(^O^)/




「最近の教育、押しつけばかりかも・・・」という方は
office unreveの公式ホームページ から、ぜひご連絡ください!


2014/08/21

情報に変化をつける

unreveの坂口です、
お忙しい中、訪問ありがとうございます^^


現在、広告の反応率は下がる一方ですね。
せっかく高額な宣伝費を使っても回収できていません。


FC展開や代理店募集でも、数百万の予算をかけた結果、
問い合わせ0、という話はよく聞きます。


そこで今日はリゾーム派生の「拍子」についての小話でも。


☞ ☞ ☞

さて、どんな有名店でも、メディアに取り上げられたお店でも、
CMをバンバン売っても奇抜な看板を出しても、


今の時代はすぐに忘れてしまいます。
これは自分を消費者側に置き換えれば分かりますよね。


ドラッガー著書「ネクストソサエティ」で説く
新しい社会とは、組織から個人の時代だと言われます。


それは知識労働者が生み出す生産が、そのまま直接
企業の生産性につながるようになり、


知識の価値(知価)が企業の新しい資本となるのだ、と。
これは概ね外れていません。


情報量が膨大になって忘れやすくなったと書きましたが、
これは情報量から情報価値(量から質)へ、


そして固定から流動化しているものに
人は注目している、ということでしょう。


☞ ☞ ☞
そもそも人の認識(知覚)とは
固定しているものをあえて認識しようとは思いません。



例えば、彼女が髪を切ったりイメチェンをすれば
鈍い男性陣でも、その変化は分かります(笑)


しかし彼女のほくろの位置を見て
「あっ、ここにほくろがあるんだ」とは思いません。



企業の情報発信も同じです。
いつも通る道にある看板を見て毎回、
「あっ、ここに看板がある」なんて思いませんよね。



つまり情報が増えれば増えるほど、
固定した情報は無視されるのです。


広告宣伝にお金をかけても、やがて一部となる。
デジタルサイネージにせよ、屋外看板にせよ、HPにせよ、
複数回振り返す同一情報は、今後反応しないのです。


大手はマネジメントによって統制・管理しすぎています。
だから中小の「個の発信」が出来ません。


ここが大手が手の届かない「隙」なのです。
また、その隙は組織構造上、埋められません。


☞ ☞ ☞
形式化された自社、自店の味のこだわりだけを発信しても
消費者からすれば、その違いが分かりません。



大手のように、投資回収期間や収益モデルだけ示しても
結局は数字(損得)だけで判断されてしまいます。



ブログ、HP、その他SNSなど、媒体は何でも良いです。
あくまでもそれは手段、大事なのはその内容と流動化です。



何も書かない、何も言わないと言う人もいるでしょうが、
例えば会社の中にそんな人がいたらどう思うでしょう。



「一体何考えてるんだろう、この人・・」と思いますよね。
そこからコンタクトを取ろうとは思わないはずです。


商品の情報発信だけでは、身長や体重や
持ってる資格だけを話しているようなものです。


自分の事を話す、個人を発信する。
「こんな人なんだ」と思えば、ネットであれ距離は少なからず縮まります。



絵に描いた餅ではない、あなたの想いを発信しましょう^^



最後までお読み下さってありがとうございます。
この話が少しでもお役に立てれば幸いです。


2014/08/04

窓際のジッドちゃん

ども、unreveのグッさんです。





今日夢の中で「ジッド」という言葉が出てきまして(笑)

アンドレ・ジッドの作品を読んだのはずいぶん昔、あまり記憶になかったんですが・・・( ̄_ ̄ i)???





まあ、これも記事にするのは面白いと思ったので

勝手に書いてみます(いつものことです、スイマセン)



さて、読んだ記憶のあるのは、代表的な「狭き門」とか「法王庁の抜け穴」とか「贋金つくり」ですが、古本屋に全部売っぱらったんで、思いだしても「無償の行為は・・・」しか思い浮かばない(笑)





ただ、ジッドは「自分が自分である権利」というのにかなりこだわっていたような。



若い頃のジッドは、結構なナルシストで、

自分で日記を、それを観察することに夢中になってたんですよね。





つまり「自らを読む」という、語り手でもあり、受け手でもあった。

まるで最近のグッさんのやってる事みたいです( ̄∇ ̄+)レベルハヒクイヨ





また、ジッドがしきりに言ったのは「共感」という自分と他人の共存の在り方。

同じものを共に見る事ができれば人は理解しあう事ができる」と言ってます。

(だいぶ切迫した、ある種の強迫観念に近いのですが・・・)



共感とは言葉だけが一人歩きしてますが、

集団によってはちょっとずれてます。





その「ズレ」の部分を僕なりに推測してみます。

あくまでも個人的な意見なので盲信なく、です(・ω・)b





さて、僕らは共同体の共通感覚(空気)を読みながら

それに付随するように言葉を使用する、という習慣があります。





だから、その枠を超えた評価ができなかったりします。

言ってみれば「村社会」の共同性です。



会社というのも一つの「枠」として存在してますし、

全てのコミュニティはこういった「見えないけれど制限された枠」がある。



枠に自分の価値観をはめ込んでみても、

ネジ穴に針を入れるようなもんで、ピッタリとは固定しません。



そもそも人の価値観っていうのは簡単に言えば「自分の好き嫌い」であって

長い人生を生きてく中での「これは好き~」と「これ嫌~い」の取得選択の結果生まれたものです。





一人一人が違う「枠型」を持っているので

共感とは言ってみればその「枠型」を理解しないと始まらない。



そう言った人と違った考え方、見方を理解しなくてよい「コミュニティ内での共感」、

そんな気がします。





日本人の意思伝達とは、分かってくれる人だけの「限定会話の成立」をコミュニケーションと感じているのではないでしょか?





やりとりが下手なのは政治家の外交をみれば明らかなんですが、 協調なのか従順なのか分からない感じです。





協調=全てが同じ、じゃないですよ、だって画一化って人間性の欠如ですから。
逆にそんなのが協調なら、集団に属していても心は孤独です。



また、共感とは心の動きであり、相手の対象全てに共感はできません。







例えばグッさんは食べるのが大好きです。

デパ地下のお惣菜なんか見るとワクワクします( ̄∇ ̄+)テラヤバス





「ここの●○が美味しいんだよ」と友人に伝えるとします、しかしその友人は以前食べてあまり美味しくなかった。





「そうかな?そんなに美味しくないと思うけど・・・」と言った場合、

僕は自分が好きだから好みとして伝えてるですが、中にはそこで「なんで?」と言う人がいます。





「そんな訳はない、ここの●○はこんな味付けでこんなに新鮮でこんなに・・・・」と、





それが美味しい(正しい)と言う事を相手に認めさせるのが基準の会話です。



それがエスカレートすると同じものが好きな人を集め、多数派となったりします。





何が言いたいかというと、自分の気持ちが相手に伝わらない事への悩みの原因が、自分の「美味しい」に対する判断が、ただの好き嫌いなだけなのに「全ての人が認める事実」じゃないのが納得できないからです。



「全員が同じ判断をする訳がない」という基本原則が村社会の日本には欠如しています。

これが心に根付いていないから他人を認める事が難しいんです。





結果、価値観の違う人を排除するという方法や、多数決=民主主義みたいな勘違いが起きます。





右へならい従うか、真逆の位置として反対・批判者になるか、

ずいぶん極端な選択が多く、受容の幅が小さいままです。





僕はよく「自分中心で行こう、小さな自分の価値基準を大事にしよう」と言ってますが、

内部と外部の違いを理解していないとさっきの言葉が「言ってる事が違うじゃねーか」になります。





寛大さは美徳です。「周りに我慢できない人は、だいたい自分にも我慢できない人だよ」とどっかの本に書いてましたが、僕もそう思います。





まとめると異常な画一化、非個性化が幸福だというのは、比較対象を奪い、幸福だと信じこませられているだけで、それは孤独から生まれたコミュニティの帰属に対する一時的な欲求なだけです。





ここでの比較は「個性の比較」であって、比較から来る競争原理ではないです

上記の様な幸福が、希望と信頼と「無知」によって作られているという事実をジッドは批判したような気がします。





ここまで書いても、なんで夢にジッドがでてきたのか皆目見当がつきません(笑)

もしかしたらシド・ビシャス・・・・なわけないですね。





取りとめのないテーマでしたね(本当に)

ではでは、また次回。



Bless youアップ


2014/07/14

陰陽の役割を知る

「形而上のもの、これを道と謂い、形而下のもの、これを器と謂う」
これは老子の道徳経である。


形而上とは普遍であり無形である。
近代は、形ある物によって無形である道を実現しようとする。
つまり科学は形式主義である。


道を知らぬものは(非道・外道・邪道)は
今でも使われている言語だ。



なるほど、現代は非道・邪道・外道の世界、
それを自己正当化する、自我の暴走世界である。


近代技術では精神を救えない。
近代医療で肉体を治す事はできるが、魂は救済できない。


科学で心の病は治せない。
技術で人の心は動かない。


そんな当たり前のことを忘れている昨今、
今回はそんな小話。



☞ ☞ ☞


無形である道とは、「無い」のではない。
道とは形へと「変化する以前」のものである。



そしてその変化には、普遍的な法則があるのだ。
例えば、春夏秋冬は必ず起こる。



つまりすべてのものは変化するが、
その「変化そのものにある普遍の法則」が隠れているのだ。




例えば季節には役目がある。
春や夏には植物は盛んに成長する「陽」の季節だが、
秋と冬は枯れる「陰」の季節である。



その陰陽の季節が互いに呼応し合い、
活かし合うことで、持続性を保っている。




これを継ぐ者は善なり、これを成す者は性なり。
仁者はこれを見てこれを仁と謂い、
知者はこれを見てこれを知と謂い、
百姓は日に用いて知らず。故に君子の道は鮮し。




上記は仁者や知者(原理を知る者)は
この陰陽に善悪を付けず、農家の人はこの
道理を日々の生活の中で実践し、無意識に感じていると言う意味だ。



道を知る者はすなわち道理(原理)を知るもの、
本質を見る目を養うとは、この見えない道理を知ることである。



☞ ☞ ☞



やがてそれは形となり目に見える「器」になる。



器とは、我々の身体によって現れる行動や言葉であり、
このような「器」を通し、我々は「道」を学ぶ。



現在、「幸せ、楽しい、楽、便利」と
陰陽の「陽」ばかり欲しがっているが、



それは原理を知らない証拠でもある。
私だって寒い日は嫌だが「冬が無くなればいいのに」とは思った事が無い。



つまり陰の側面を「どう感じるか」が問題なのだ。


2014/07/13

リゾーム構造基本講座③

こんばんわ、unreveの坂口ですo(^▽^)o

現在、広島お好み焼きを全国に広げているのですが、
クライアント様かこんな記事の切り抜きを頂きました。



なんと世界進出目



良いですね、実に良い。
今のグローバリズムとは違う情熱を感じます。




てなわけで(?)
今日は基本講座の最後です。







さて、サッカーでも日本を特徴付けるのは組織力での戦い方。
その為にも多様性を争うことなく発揮できる環境がイノベーションには求められます。



ただ、経営トップは口ではイノベーションを求めながらも
実際はリスクを恐れ、せっかくの芽を摘んでいるのが現状です。
(イノベーション・ジレンマ)
リゾームの目的は、相互の関係性(プロセス)構築であって、
創発やイノベーションが起りやすい環境を目指すこと。


よって、思考イナーシャ(慣性)による一方通行型や
1+1を積み上げる階層的な手法では成り立ちません。

また、そのプロセスとは情報伝達の際、
受け手が感じ、編集したものをつまびらかにできる事。


つまり伝達→編集→伝達だけでなく、
それが非連続性になっている状態を指します。



進歩自体はある一定の軌道を描きます。
しかし、新しい技術は既存の軌道上にはないのです。



経済学者であるシュンペーターが
「馬車を何台つなげても汽車にはならない」と言ったように、
建前の意見を何度つなげてみても本音にはなりません。



余談ですが、脳のネットワーク伝達は、シナプスの
一方通行の情報伝達だと言われてきたのですが、
最近の研究では、自己回帰性情報伝達だという説もあります。


シナプス伝達も編集からの再構築です


閑話休題。
さてさて、組織には4つのマネジメントタイプがあると言います。
それは独裁的権威型と温情的権威型、
そして相談型、最後は参加型です。


創業者が健在な組織は「独裁・温厚型」だといいます。
これは創業期のエネルギーから考えれば納得ですよね。


アップルは独裁的権威主義でしたが、
晩年、ジョブス氏は新しい組織理論を考え続けていたそうです。

それがリゾーム的なものかどうか分かりませんが、
自分がいなくても機能する組織だったのは間違いありません。
(でなければ新しい独裁権威者を育てるはず)


つまり、独裁的なトップが「いなくとも」回る組織。
ボトムアップから継続したイノベーションを起こせる組織。


unreveは自立・自律・自己組織化に加え、
散逸と方向性(ポジティブ・フィードバック)が必要だと考えます。
(記事が消えちゃったんで和田さんから引用)



ちなみに参加型は一番理想的だといいます。
ではどうやってその参加型の「仕組み」を作りだすのか。


これ以上は基本講座から外れますので
続きは「リゾーム応用講座」ということで(笑)


「ビビビッ」とアイデアが降ってきたおかげで完成しました。
どうでっか、試してみたい企業さん、いまへんか。
今ならお値引きしますどすえ(笑)




☞ ☞ ☞



イノベーションは、その内容から考え、
どうしても既存形態を破壊するイメージがあります。


だから安定を求める所からすればリスク要因なのです。
リゾームもそう、せっかくキレイに系列化した組織を
一旦バラバラにするなんて真似は怖くてできません。


ただ、これらは実際の破壊ではなく、言わば
企業の生存を脅かすような潜在的脅威があった場合の
「転ばぬ先の杖」です。



そんな時に旧来の慣行をスムーズに変化させ、
新しい行動様式を創造する事ができる、言わば「意思決定論」なのです^^




「応用まで書け!」という方は
office unreveの公式ホームページ も、ぜひ一緒にご覧ください!


2014/07/12

リゾーム構造基本講座②

こんばんわ、unreveの坂口ですo(^▽^)o
前回に引き続き、リゾーム基本講座、2回目です。





さて、unreveは脱マネジメントであるリゾームを提唱しています。
従来の階層型からくるリーダーシップではなく
階層を超えた意見を交わす場の創造です。



そこで大事なのは個人の価値観ではありません。
(価値観が必要ないという意味ではなくて)



必要なのは、価値観ではなく「方向性」です。



ここからその根拠を説明しますが、
今回は、「方向性」だけ理解できれば見なくても大丈夫です(笑)



☞ ☞ ☞


そもそも人間関係の問題を聞けば、意見が違うとか
価値観が違うということが原因となっていますが、


意見や価値観の違いは対立の要因ではなく、
価値観を統一したいという「思惑」が原因です。


例えばカップルや夫婦が別れる理由に
「価値観が違ったから」というものがありますが、
価値観が全く同じ人なんて、この世の中にはまずいません。


まったく同じ家庭環境で育ってきた兄弟でも性格が違うのに
それを「他人に求めてしまうのが問題」であって、



その作られた常識を一度チャラパーにして
下地(風土)から作ります。

方向性を決め、場を作り、間拍子(リズム)を合わせ、
必要に応じ、あそびとゆらぎの加減を都度取り入れる、

プロセスが流動性である以上、概念ベース。
また、unreveの立ち位置はニュートラルです。


☞ ☞ ☞



リゾーム構築において、各自が
「根茎(リゾーム)の目的」を知る事から始まります。


そもそもリゾームとは縦横無尽で掴みどころのない
「状態」を指しているのですが、観察すれば明確な方向性があります。



それは「幹や茎を固定する為」です、
固定する為の方向性がそれぞれ異なっているのが分かります。



つまり一見、縦横無尽、勝手気ままな行動に見えるのですが、
実は一つの明確な目的に向かって、それぞれが行動しているのです。



土の上に出てしまった根っこなんてありません、
抜けないように地中深く伸びるか、柔軟性を出すために横に伸びるか、です。


全体を見れば、土を境界とした
フラクタル構造(相似)だということが分かります。


面白いですね、上である枝葉(リーフ)も
下である根茎(リゾーム)も、大地を境に広がっているのですから。



リンゴのように「上」で実をつける場合もあれば、
種イモのように「下」で実をつける場合もあります。

実に神秘的だと思いませんか^^?





ちなみに、これは宇宙の大規模構造とよばれるものです
中心の部分から対象的に広がっていますよね。



これは創造のプロセスである圧縮と膨張、
概念からの創造は全てこれで説明できます。
��無から有へ)


ℂunreve


また、ゲノム解読から分かったという、
発生と進化の関係性を定式化した「発生砂時計モデル」。



ℂRIKEN, Japan



構造のフラクタル、これがリゾームの基本概念です。
根っこや枝葉(価値観)はどこを行ってもいい。
逆に、根っこが全部、同じ方向に向かっては大変です。



目的を果たす多様な枝葉や根茎と、
それを支える一つの幹(あるいは境界)。



その幹の部分が理念やビジョン、経営哲学であり、
それを本音として確立させ、浸透した状態がリゾーム構造です。



それらがあれば、あらゆる人事制度を導入する際、
一貫した整合性を取ることが可能です。


次回は最終回です(^O^)/


To Be Continued
☞ ☞ ☞


2014/07/11

リゾーム構造基本講座①

こんにちわ、unreveの坂口です^^
今日はリゾーム派生組織についての基本講座です。


・人事システムをせっかく導入したのにうまく回っていない・・・
・コンサルに新しい人事制度を教えてもらったのに失敗した・・・


そんな声をよく聞ききます。
これは、ある完成モデルをそのまま当てはめた結果、起こります。


つまり完成度が高いがゆえに
実態としてうまく整合しない、ということです。
伝わってますでしょうか。



そこには導入のプロセスが原因だと考えられます、
それは人間である以上、無視できない部分です。


☞ ☞ ☞

これまでの企業がやっていた管理制度とは、
評価基準を統一させ、他の制度との整合性は
持っていませんでした、いわゆる「プロセス飛ばし」です。



僕が以前勤めていた会社でも、スキルアップや
モチベーションアップの為に、多くのOJTやOFF-JT、
通信教育や泊りがけの研修、QC活動を導入していました。



ただ、これを上手に活用する社員は少なく、
形骸化していたなぁ、と感じます。



企業方針と従業員の認識との大きな乖離、
これは企業が大きくなるにつれ、必ず起こる問題です。


それは乱雑かつ複雑になる管理をどうにかしようと
合理性や効率性を中心に考えすぎた結果起きるもの。


それをやってきけば必然的に「企業風土」が失われ、
人は目の前にある形式だけを、何とか、こなそうと考えます。


そこに、さらなる新しさを求めて
制度を導入してしまっても、それは一向に根づかないのです。






砂上の楼閣と言われるように、
これから先、積み上げ式では結果は変わりません。


よって組織を構成する一番のコアである
「人」を中心に考える必要があります。


当然ですが、人とは単純な機械ではありません、
そしてビジネスとは、その複雑な人間同士が織りなす結果です。


それを単純・単調・シンプルという画一の制度を作れば、
ある意味「コピー」を増やすように生産性が上がると
信じられてきましたし、確かに戦後では生産性が上がったのです。



今はまず無理です。仮にできたとしても、
そこには持続性は生まれません。


持続性(サスティナビリティ)を内包するには
流動可能な「器」を作ることであって、
その為には複雑系を組み込まなくてはいけないのです。



この「複雑系」がキーワード
です。複雑系で有名な創発などは、
現在物理学を始め、生物学、情報科学、社会学、経営学など
幅広い分野で用いられています。




この創発までのプロセスを
取り入れられないか、
と考えた結果、概念として完成したもの
」がリゾームです。





基本講座、次回に続きます^^

To be continued


2014/07/09

梅雨明けと阿諛

ようやく九州が梅雨明けした。
先日の海の日は晴天だったこともあり、
3連休は賑わっていたようだ。




ようやく夏本番、である。




今年は浴衣でも買おうかな




僕は小さい頃、夏に曾祖母の家に行くのが楽しみだった。
すぐ隣には川が流れていて、そこで沢ガニを捕まえたりしていた。


暗くなるとたくさんのホタルが夜空を舞い、
それを眺めながら縁側でスイカを食べた思い出がある。



今になっても忘れないものだ。
多分、心から楽しんでいたのだろう。



☞ ☞


さて、夏といえば(毎度の事であるが)
電力会社が一斉に電気料金の値上げを叫んでいる。


原発を稼働停止すれば、火力発電によって
燃料費がかかりますよ、と。


まあ、要は再稼働の為の「恫喝」である。
負担したくないのなら、稼働させろ、というわけだ。



ただ、賢明な読者の方ならご存知だろうが、
実際は原発を止めたとしても値上げにはならない。



沖縄電力などは原発を持っておらず、
その大半が火力である。



では沖縄の電気料金が日本一高いか?
と言うとそうではない。多少割高ではあるが、それは国土規模のせいだ。



つまり電気料金が高いのは、原発のバカ高い維持費を
我々の電気料金に転嫁しているだけなのだ。



今マスコミやら何やらを使って報道しているのは、
全て国策、再稼働させるための布石である。



☞ ☞

「嘘をついても人は信じる、ただし権威をもって語る事だ」


ロシア作家のチェーホフはそういったが、
自国のソ連では、権威の語る嘘が常態化し、誰も信じなくなった。



現在、この国も、同じ道を歩んでいる。
歴史は常に学ぶ機会を与えてくれるが、


悲しいかな、誰も学ぼうとはしない。


否、学んだとしても、利権構造上
どうにもできないのだろう。

ここ九州には九経連を始め、色々と団体があるが、
九電はそういった各団体の主である。


九電の子会社は約60社、関連会社は29社。
さらに取引企業数は2336社、そこには二次取引は含まれていない。



前回の繰り返しになるのだが、多くの地場企業が、
その優秀な理性を使い、阿諛追従していると言う事だ。



まるで半ば逃げ腰、へっぴり腰ながら
作り笑いで火遊びをしているかのよう。



そんな連中が経済界にたむろしている。




☞ ☞



きっと、もうそろそろ何かが起きる。
誰もがそう考えつつ、逃げるタイミングが掴めていないのだろう。



ただ、火遊びの始末は己でするものだ。
選択と責任はセットである。




そして、原発は個人が責任を負える代物ではなかった。
これはごく最近の過去の出来事である。
歴史と呼ぶにはまだあまりにも日が経っていない。




それすら忘れてしまってるのであれば、
きっと彼らの頭の中には、良質な消しゴムが入っているのだろう。





さてさて、今年の夏はどうなることやら。
幼少の頃の夏が異様に美しく感じる、今日この頃である。


2014/07/01

オオカミ少年を信じるな





人材教育関連の人が必ずと言っていいほど
使う「人罪」「人材」「人在」「人財」という言葉。



なぜ人に「罪」を使ってることに抵抗がないのか。
そっちの方がよほど罪深いではないか。



なるほど、彼らは人生の代表者になっていると
勘違いしてしまっているのかもしれない。



「私から学びなさい」とまでは言わないけど、
それに近い精神になってしまう。



今のコミュニティを見れば、
そうなっていることが容易に分かりますね。





「他の人が言ってることは全部ウソだ。
人生の真理・真相は俺の頭の中にある」




右も左も同じことを同じように
わーわー言ってますが、



それは自分の孤立を意識しなかった人が抱えた
一種の「夢」に過ぎない。




つまり非常に孤立した技術だということ。
成功哲学や自己啓発の大半はそうでしょう。



☞☞



オオカミ少年よろしく、注目してもらうために
脅かすことを生業にしている人が、どんどん増えています。



しかし、そんな声に耳を傾けてはいけない。
余計な不安に脅え、注目してはいけない。




彼らに足元を掬われては、いけない。










2014/06/09

厨二病とナルシシズム

unreveの坂口です、
6月です、今年の折り返しとなりましたね^^


今月は僕と、unreveの誕生日です。
片やアラフォー38歳、片やよちよち歩きの満4歳。


なんだか子供みたいですなぁ。
親子2人っきりで祝おうと思います(ヤバイヤバイ)

思えば、自己中心理論である「リーフ論」を書き出したのが
ブログを書き始めた4年前でした、


しかし、その生き方を選択したのは20代半ば。
ずいぶん長い自己中ですわ(笑)



面白いもので、以前は自己中心と書けば
それだけで非難の対象となっていたのですが、



今ではちょっと違うような気がします。
若者が(良い意味で)社会のリミッターを切ってくれそうです。


よかった、よかったε=(。・д・。)
これから僕も、のびのび書けそうです笑



ただ、「自我」と「自己」をまだ同一視している人も
いるような気がしないこともない。


そんなわけで今日は、
久々の登場「リーフ理論」について。



長いので、お暇な方だけどうぞ。


☞ ☞ ☞


さて、この自己中心理論、
心理学でいう自我心理学派と自己心理学派の
違いじゃ~ありません。


フロイトとかピアジェとかヴィゴツキーとか
長くなるので隣に置いておきます(笑)


僕が定義する自己は以前書きました
それは「自分視点の自分定義」と「他者視点での自分定義」でもあります。



先日、免疫系の曖昧な境界線について書いたのですが、
「A且つB」という、主体と客体とは全体観(メタ)の事です。

部分観と全体観、内部と外部。
これが自我中心との大きな違いです。



自我中心は言わば、援助交際を咎められた際に、
「自分の体なんだから好きに使っていいじゃない」というような
一種の「個別化」です。


個別化と個性は似てて異なります。
個別化とは承認不要の無人島でのみ、適応されるような野放図です。
(多様性のような、合わせ重ねができない)


言わばサッカーで手と足を使ってやるようなもの、
ルールを守ってこそ、自由が定義できるんですね。
(詳しくは「枠と加減の定義を参照)」


☞ ☞


さて、僕らは物心がつきだすと、自我が芽生え
「自分は何者であり、何をなすべきか」なんて考えたりします。
これがいわゆる厨二病です笑


それは自己と他者を区別するプロセスであり、
イメージとリアルな自分を同一にしていくものでもあるんですな。

当然、イメージと同一できるわけもなく、
葛藤や妥協を繰り返しながら、成長するわけですが、



大人になってもこの同一化をやってしまい、
とっても苦しんでいる人がいたりします。



その同一化する前提を疑う事がないんですね、
これは純粋な意志とは異なった「外部」からの影響です。


その点、小さい頃は何にでも憧れることができますし、
それになりたいという純粋な「内部」の意志があります。



「大人になったら怪獣になる」と真剣に言えちゃうんですが、
それで良いんです(笑)




ようは、そこで綺麗に着地ができるかが大事です。

☞ ☞

その着地点を小さい頃にできた人が、
才能がある、と言われます、イチローが良い例ですね。


自己の「自」とは、「みずから」という意味、
これが自(おのず)から、では他者視点です。


「自(みずか)ら」を知り、決定し、同一化する。
これが自己中心理論、リーフの骨子です。


例えば、僕はすごい気弱な人間なんですが、
周囲の人から「すごい頼りになるわ~」と言われたとします。
(言われないでしょうけど、仮にねw)

自己からすれば、「自分は気弱だ」と思っていても、
周囲から見た自分は「頼りになるヤツ」なのです。



「頼りになる」と評価された場合、
「僕は周囲から頼りになると言われるけど実はすんごい弱いんだよね~」と



「自己」を正確に理解し、「己を自ら」
コントロールしなくてもいい状態、これが「自己中心」です。


逆に自分は気弱なのに、「頼りになるヤツだ」と
思い込んでしまった場合、これがちょっと厄介なんです。



それは外部によって「おのずから」そうなっていく。
心からそう思わず、思考でコントロールして作り上げる自分、

これが自我中心です。


当然それでは、性格が分裂してしまいます。
経営者やリーダーなど、責任のある立場の人に多い。
(母親とかもそうですね)

そんなことを続けていると「無意識の抑圧」が生まれ、
「無意識の葛藤」が始まります。



そんな他者からのイメージを演じているんだから
当然、まあ、すごい(無意識的に)疲れるわけです。



だって本当の自分じゃないんですもん。
でもそれを今さら出せないから隠してる。


社会的な立場があるため、結構根が深いんです。
また、特徴はすぐに分かります。


まず人より上位に立とうとします、教えたがります、
救いたがります、役に立とうと必死になります。


抑圧からの自我中心とは欠如感ですから、
他者を巻き込むことで、それを埋めようとするんです。

これ、全部「他人に映った自分というイメージ」を
同一化しようとする行為なんですね。



それをやってる限り、自己(本来の自分)は
ずー・・・・・・っと抑圧された(隠された)まんまです。

抑圧とは風船と同じですから、やがて破裂します。
否定批判に弱く、他者からの指摘を極度に嫌う傾向もあります



だって、うまくいっている時の自分じゃないと
自分の事を認められないし、好きになれないのです。


これがナルシシスト(ナルシシズム)の原理です、
自分に陶酔したいんですね。

言い換えれば、他者の目を鏡として、
それを通して見る自分自身の姿だけが好きなのです。



三島はナルシシズムの強さから、肉体を改造した。



自分の軸を持て、と言ってるのは
自分の存在自体をひっくるめて認め、愛することです。


すなわち、本来の自分を理解できた状態です、
長所だけでなく、欠点なども含めた自分が肯定できる。

そんな軸がある人は、正確な自己評価ができますので、
自信と安定感があります。

「何それできるから、これそれの自信がある」といった、
「外部」に拠り所を求めないんですね。

こういった他者視点の自分定義が人を悩ませ、
自分にとって不要な目標や強迫観念的な成長志向の原動力です。



そんなものは暖炉にくべてしまいましょう、
楽になれますよ^^


「後記」
実はリーフ理論にはまだ続き(裏)があるんですな。

それがブラフマン・アートマンから
梵我一如(ウパニシャッド哲学)を批判した
釈迦からの自己中心なんですが、



流石にこれはマニアックすぎるので止めときますわ(笑)


2014/05/12

エクリチュール



リゾーム派生をさらに深く追及する為、
ドゥルーズだけでなく、ガタリの著書も読んでいるのだが、



毎回理解に時間がかかっている。
このペースからすれば、今年中にようやく腑に落ちる感じですな(笑)



まだ、本書を説明できるレベルではないが、
この「記号に従属する」で思い出したのはロラン・バルトだ。



ロラン・バルトは言語を「ラング・スティル・エクリチュール」の
三階層に分け、エクリチュールを「書く事」あるとした。



それは自己を「書き変える行為」と言えるだろう。
今日はそんな小話でも。


☞ ☞



ラングとは、我々が使う日本語や、
アメリカ人が使う英語のような「母国語」、
いわゆる国語のことである。



国民は、共通言語(ラング)を用いた
言語共同体というわけだ。



よってこのラングとは強制的なものでもある。
当然、我々は母国語(ラング)を選ぶことはできない。


母親が、父親が話している言葉のみが
選択肢である以上、我々は生まれてすぐ、
母国語の中に閉じ込められていると言えるだろう。



毎日、たくさんの言葉(ラング)のシャワーを浴びることで、
生まれたばかりの子供はその言語で思考し、その言語で主張し、


やがてその言語によって新しい概念を創造する。
その思考はラングの領域から超えることはない。



そう思うと、他国のラングを知るのは大事なことである、
なぜなら、文化を知ることにも繋がるからだ。



☞ ☞




「スティル」とは文体であるが、
それは嗜好性の伴ったものであり、
あくまでも、いち個人的なものだ。



例えばこのブログのようなものは
僕の好みがハッキリした、「スティル」と言える。



キチキチに詰まった記事を好む人もいれば、
スペースを入れた方が良いという人もいるだろうが、



「僕は」こうやって書くのが好きなのだ。
(話を変える時☞☞を使うように)



つまり私的な偏在がスティルである。
長さ・リズム・改行・余白など、個人心地良い文体は
それぞれ異なる。



そして最後がエクリチュール。
冒頭に書いた「書くこと」とは、言わば記憶すること。
「局所的に形成されたもの」である。



これはラングのように選択不可避のものではない、
自ら選べるものである。



例えば大阪に住めば、やがて大阪弁になるのは
こういった選択の自由があるからにほかならない。



地元の言葉で話すのも、大阪弁で話すのも
それは個人の自由意思によってどうにでもなるからだ。



若者言葉も、コンサルのロジカルな話し方でも、
政治家のような曖昧な話し方でも、全て我々は選ぶことができる。



ただ、それは所属する共同体の差異が激しければ
激しいほど、同一化する傾向があるということ。



つまり言語(エクリチュール)によって、
我々は無意識的に既存のカテゴリーにスッポリと収まっているのだ。



ここが個人主義を主張している人にとって
嫌悪される所なのだが、事実そうである。



☞ ☞


例えば、ヤクザが政治家のような話し方だったり、
寺の住職がセールスマンのような話し方だと変である。




僕が「女性言葉」を使うと、間違いなく
そっち系の人だと思われるだろう(笑)



つまりエクリチュールとは選択こそ可能であるが、
一度選べば、カテゴリー化されるものなのだ。



これは言語だけではない。
エクリチュールを選べば、その人の社会性はおろか、
あらゆる価値観でさえも、変容してしまう。



ファッションも表情も、意識も、
全部ひっくるめて「エクリチュール」なのだ。



つまりこの概念はある種の「相応しさ」を希求するということ。




だからこそ、無理のないブランディングを勧めている。
あまりにも自己と乖離した聖人君主モデルでは、
疲れてしまうじゃないか。




☞☞




ちなみに私は個人的な「揺らぎ」を試みている。
ブログの文体がコロコロ変わるのは、そんな人体実験でもある。



そのカテゴリーの中から「与えられたセリフ」を
さも独創的だと思いながら語っているのだと認めたくはない。



端的に言えば僕は「カテゴリー」に入ることで
個体識別されたくはないのだ。



「個体識別」とは「変わりがいくらでもある」と同義、
それが僕には耐えられない。



だからこのブログはアナグラム的な「あそび」でもある、
「窶し(やつし)」ではないが、「崩し」を内包している。



これが俗に言う「かまってちゃん病」というのなら、
その「かまってちゃん病」というカテゴリーからも外れたい。




自由が故に、束縛されるという矛盾したものが
社会にはたくさん、存在しているのだ。





2014/05/11

棲み分け

こんばんわ、坂口です。
これがアップされた頃は新潟にいるでしょう(笑)



さて、今日は「変化」についての小話。
お暇な方だけどうぞ。


☞ ☞ ☞


現在の進化論は統合説が主流です。
例えば、ネオ・ダーウィニズムは自然選択と
突然変異によって生物は進化すると言われます。



この原理の隙のなさは、いったん通過すれば
それが採用され、最終的にそこへ回帰してしまうこと。


つまり円環が閉じられるわけです。
結果、あらゆるものを取り込んで
どんどん大きくなる、まさに統合説の所以でしょう。



一見、綺麗で美しい理論なんですが、
僕はこれがどうも、嫌いなんですな(笑)



この理論で言えば、外部環境が起因ではない
偶然に変化したもの(突然変異)は
決して行き残るために生まれた訳ではない。


ただ、その変化は生存競争の中、
「自然選択」の結果として淘汰され、
生き残ったものだけが、世界に介入する、と。



そんな突然変異と、自然選択の繰り返しが
この理論の根っこにあるんです。



つまり変化や変異は偶然であるけれど、
そこからの競争原理は、必然だ、と。



ここが嫌いなんです。
なんで競争原理が必然なんですか。


確かに、遺伝子、生物学的に言えば
そう「見える」かもしれません。


しかし、人間。ことさらビジネスにまで
この理論を 持ってくる方々、一度考えて頂きたい



「人間=生存競争」じゃないでしょう。
もっと素朴に考えませんか。



☞ ☞


最近「適応者こそ強者」という内容の
経営セミナーで賑ってます。



生存力がある大資本が「強者」ではなく、
環境に適合した者=「適者」こそ強い、と。



よって、変化の激しい今の時代では、
意思決定が速く小回りのきく中小企業が
適者(強者)の要素を含んでいる為、



それを活用するビジネスモデルが
今後必要になってくる、というものです。



僕はモデルに対しての批判はありません。
リゾーム型FCも「個」と「最適」がコンセプトですから。



ただ、ここで無意識的に使ってる
「強者生存」、これが気に食わない。




変化したもの「だけ」が生き残る?



もしかして、自分だけが生き残る
ために「変化」を取り込もうとしてるのでしょうか。



それって「変化こそ優れている」という
競争原理、優勢劣敗の考え方じゃないですか。



だったら次のシナリオは確定しますわ。



「より変化した者だけが生き残る競争原理」
これに尽きます。



市場の拡大が目的である以上、
避けられない、そうでしょう?



☞ ☞


僕はその分野の専門家ではないですが、
変化とは、棲み分ける手段だと思ってます。



たとえば、山へ向かった種が我々で、
海に残った種がクジラとかイルカですが、



どっちも生き残ってるわけでしょう、
本来、海と山、きれいに「棲み分け」が起きているわけです。



魚が劣っていて昆虫が
優れているなんて、言いませんよね。



陸に上がった方を進化と定義しているのは
結局は人間の目線なわけです。



比較して嬉々としているのは
人間くらいなもんですわ。



☞ ☞

鳥だってそうですよ。
別に生き残るために空を選んだわけじゃない。



さらに言えば、飛ぶために羽が進化したのか、
「羽が進化した結果、飛ぶことができた」のか
分からないじゃないですか。



つまり、種の進化的な変化であって、
生存の有利不利とは断定できない。



偶然の自然選択とは違った
種としての意志の出所は置いといて、



生存に有利な「形態」、という考えは
どうも我々の勝手な解釈にしか見えないんです。


つまり進化論は人間の頭の「投影」であって、
世界の実体ではない。


☞ ☞



ダーウィンの語る世界が正しいというのは、
つまり、ダーウィンを神としてるのと同じ事でしょう。


それだったら、僕は今西錦司氏の
言うような「共生」の理論を選びます。


一つづつの自然なんてものはない、
その全てが繋がった「一つの自然だけ」がある、と。



氏は、自然の中では最適者が生き残れる
のではなく、「運がある者」であると言います。



運だけはどうにもすることができない、
ただ、こっちの方が、よほど等身大です。



それを超えた理論なんて、
大体が 頭で作られた偽物のような気がしますね。


2014/05/01

僕は道楽者



さてGWとあって、ここ福岡でも
たくさんのイベントがあるんですが、


北九州私立美術館で、3日から
「美味道楽七十年 魯山人の宇宙展」が開催されますo(^▽^)o




アニメ「美味しんぼ」のモデルで有名な魯山人、
本人はその人生を「美味道楽七十年」と回顧していますね。




書家であり篆刻家であり、陶芸家。
さらには料理評論家でもある氏だからこそ言えます。




なるほど、美と味の「」を「楽しむ」。
今日はそんな「道楽」の小話。


☞ ☞




さて、普通「道楽」といえば、「道楽息子」と言われるように
放蕩的な人の事を指すのですが、




もともとは仏教用語であって、
「仏道を求める」というのが本来の意味です。




道楽は「どうらく」ではなく「どうぎょう」と読みます、
楽とは「願う」、つまり仏の道を楽(ねが)う人の事です。


人生を酸い・甘い・辛い・渋い等と例えますよね。
仏教では、人生の色んな味をちゃんと味わいながら、
それを楽しみなさいよ、と説いています。




そんな悟りの道(人生)の楽しさが「道楽」ということです。
本来は世間で言われるような「快楽」が道楽ではない。



仏典を見れば「楽に二種あり、俗楽と道楽となり」と
書いてます、昔から俗楽に流される人は多かったのでしょう。



しかし、魯山人はあえて「俗楽」を求めます。
それはひとえに俗の中の「真善美」を発見したからでしょう。



実は、道楽に関しては僕もそっち派なんですな(笑)



真剣な遊び(道楽)は本質に繋がる、
僕はそう思っているタイプの人間です。




「人を感動させよう」、とか「満足させよう」
などは一切ない、完全な自己満足・自己中心の行動原理。



あるのは徹底した食道楽の追及。




本職じゃなかろうと、専門知識がなかろうと、
好きなもんを好きにやる、それでいいんですよ。
(人に迷惑さえかけなければ)






僕も進みますぞ、オタク道(ちがうか)
てなわけで、3日に北大路魯山人展に行って来ます(^O^)/


2014/04/15

矩を喩えず

何だか世間が忙しい。



まるで通勤ラッシュ時の
プラットフォームにいるかのようです。



閉塞感、焦燥感、切迫感。
これはこの国だけに限った話じゃない。



たとえば、アメリカの人達は
少なくとも、人生で10回は転職するだろう、
と言われています。



この流れがこの国に入るか否かは
なんとも言えないのですが、



少なくとも、企業寿命はどんどん
短くなるだろうと予測しています。
安心の担保はどこにもない、と。



そんな時代を生き抜くため、
各自が新しいスキルを学んだり、
副業を始めたりしています。

ノマド的な起業に憧れる若者も増えました。
定住せず、自由な環境に身を置くことで、
最終的には、自由な人生を手に入れたい,、と。



なるほど、「社畜」ってスラングが
定着するわけです。



自分のやりたいようにやる自由かぁ。。。




ただ、自由って、そんな意味だったっけ。



☞ ☞



もし、あなたが自由にやる権利を
貰えたとした場合、


果して、本当に自由に
振る舞うことはできるのでしょうか。

多分、多くが首をかしげてしまう。
そうではありませんか。


逆にそうなれば、中国の大気汚染も、
原発も、特定秘密も、ヘイトススピーチも
自由の結果です。


「そんな自由、間違ってるだろ」
と思うでしょう、



では、正しい自由とは一体何か。
これが定義され、共有されないと、
そこは単なる弱肉強食の世界にすぎない。


嫌だったら自由にブロックできるのは、
ネットだけの話でしょう。

☞ ☞



現在、自由がひとり歩きしていますが、
本来は、集団逃避による自由じゃなく、
共同体にいても手に入る自由が望ましい。



心の欲するところに従えども矩を喩えず。
矩とは正道であり枠なわけです。

自由な枠は、個人と世間で作り広げるもの。
チームワークだって、同じ事です。



例えば、サッカーの例でいえば、
中田と本田、それぞれが優秀な能力を持ってます。



ビジネス的に言えば、彼ら自体が資本であり、
代替不可能な独自性を持っていて



その資本は環境が変わっても通用する。
だから、彼らは自由に移籍ができる。



しかし、中田のパスを本田が決めた場合、
これはどうでしょうか。



自分の能力であっても、自分では
所有してない(できない)ものですよね。



☞ ☞



このように、他者と関係で成り立つ
場の形成は、代替可能な業務であっても、
代替は不可能になります。



マニュアルが伝えられない部分は
まさにここなんです。








自己組織化によるポジティブフィードバック
これが場の形成の最大のメリット。



常にメンバーが入れ替わるような
短期的なプロジェクト・チームでは
この効果は期待できないでしょう。



流動化しながら固定する素材が生まれる、



ん・・・これ以上は説明できませんな
適切な言葉が見つからない(笑)


☞ ☞



個人の定義を全体への否定とするならば、
それはとても寂しいものになってしまう。



アルフォンソ・リンギスではないけれど、
何も共有していない共同体はコムニタス に過ぎない。



それは傷つきやすく、脆いもの。
自己完結の世界は自由じゃありません。



与える、受ける、返すことで、
人間は存在する為の仕方を問う。



まさにドゥルーズの説く反復であり、
差異であり、贈与なのでしょう。


2014/04/14

お金儲けの何が悪い?

あの堀江氏の「お金はいつも正しい」をパラパラと読んでみた。




お金はいつも正しい/双葉社


¥1,260
Amazon.co.jp



なるほど。ストレートかつ、的確。
熱烈なファンができるはずです。







ただ、「お金とは信頼である」というフレーズ、
私はどうしても賛同できない。




金銭至上主義が嫌いなのではない。信頼をベースにした
利益最優先、弱肉強食の市場論理が嫌いなのです。





それは私利私欲のために作られたシステムであり、
人をモノ扱いする非情な採算性でもあります。





お金=信頼と定義するのであれば、
なぜ過大な信頼の増加を人は求めるのでしょう。





この信頼を増やす為の行為が
我が国の食生活にまで、大きく影響してます。




例えば多くの人が利用するファミレスのドリンクバー、
ファーストフードなどは正直食べ物ではありません




食の安心を崩壊させているのは大きな資本(信頼)を
持っている企業です。




それでも「お金とは信頼だ」と言うのでしょうか?
上記のような事をやってる企業は信頼できるのでしょうか?







この私利私欲の生き方が、適者生存などで正当化され
どれだけ多くの弱者を犠牲にしているか。




そもそも日本の美徳の一つが
周囲との和であったはず。



日本語で広がった「カイゼン」とは、
リストラという名の首切りを、どうにか避ける為に生まれた言葉です。




人を大事にしようと言う思い遣りから、
先人の並々ならぬ苦労があったのです。






今はどうでしょう?「数百人をリストラ」と
新聞によく載っています。





将来は?家族はどうなる?
これで愛社精神なんて生まれる訳が無い。
海外へ技術が流出するのも当然です。





短期間で過大な利益を生む株主優先の経営は、
長い目で見ることができない。





グローバル化に伴い、進めば進むほどに
最終的には、一部の、限られた、巨大資本企業が残るだけです。



☞ ☞



昔、かのプータンの国王は、
将来を見据え、その経済の浸食を断固拒絶したと言います。





そして独自の文化を残し、今に至ります。
プータンは国民調査で世界一、幸福な国としています。
(最近、経済の波に影響されつつあるのが心配ですが)







日本も昔はそうだったんです、鎖国しても
我々はサクラを見て酒飲んで寿司を食べて芸者を見て
「あー幸せだな~」、という国内で独自の幸福を生み出す事ができる民族だった。







一億総中流の中、会社で年功序列・終身雇用という
可もなく不可もない生活にそこそこであるが満足できた。





少なくとも自殺者の数が三万人もいる状態ではなかった。
釣りバカ日誌の浜ちゃんみたいな人が許せる会社がありました。







反面、欧米などの諸外国は違います。他者、他国を制圧、
統一しないと自国のアイデンティティが満たされないのです。






その行き過ぎた競争原理、経済制度が行き詰まり、
我々は原点回帰に向かいつつあります。




欲望が原動力となり、この国はとても豊かになれました、
よほどのことがなければ餓死なんてすることはありません。





ただ、豊かではあるけれど、心が貧しくなった、
さらに欧米的な流れでたくさんの失業者が生まれました。





お金は正しい、お金は裏切らない。
それは人を信用できなくなった社会で生きる処世術のようです。




もちろんお金を全て否定してませんし、稼ぐ気は満々なんですが、
信頼の証とは思えないんですよね。






自分自身で信頼を作る、
それくらいの人間性を養いたい、今日この頃です。


2014/04/01

参謀の重要性



今年の初頭、セコムの共同創業者である
戸田寿一氏が亡くなりました。


以前の記事ではその組織論には触れただけですが、
セコムは現在、売上が約7,600億、経常は約1100億という、超優良企業。


本来、共同経営者は儲かっても儲からなくても
運営がうまくいかないというのが定説なのですが、


戸田氏は社長である飯田氏のサポート役に
徹したそうです。言わば名参謀ですね。



コンサルや外部の連携を考える方は増えました、
今回は参謀の重要性についての小話。


☞☞




さて、現在経営書でよく見かけるのはリーダーシップ論、
トップの、トップによる、トップの為の啓発本です。


テレビや雑誌などでも、やり手の経営者が対象となるのですが、
その後ろには必ずと言っていいほど「名参謀」がいます。


中小企業の経営者の多くは歴史好きですから、
参謀の大事さは、よくご存じです。


ただ、一方で経営者が社運を決めるという考えもあり、
優秀な参謀を求めながらも、自分で全ての舵取りを行っています。



余談ですが、この所クライアントさんからの紹介で、
FC支援案件以外の経営相談の機会を頂いています。


新規事業であれば特に外部からの意見が欲しい。
多くの経営者がそう思っているでしょう。


しかし外部である以上、超えれない一線がある、
ちょっとした相談相手は結構いないものです。



社内の参謀のタイプは時期によって変わってきます。
例えば創業期など、安定していない時に必要なのは
悪く言えば「イエスマン」、良く言えば「忠誠心の高い人材」ですが、



安定期に入り、成長、成熟と向かっていくと
後者参謀は変化対応が自分ではできません。




今を見極め、正しい参謀とチームを組みましょう。




2014/03/18

ヘビの味覚2




最近の若者は右傾化だと
メディアは騒いでるようですが、
そんなもの、甘党と辛党で
考えれば良いだけのことでしょう。



甘党が「常に」甘いもの「だけ」を
食べているわけはないし、「甘い」という
カテゴリーだけでも実に様々な種類が
存在するのは言うまでもありません。




いくら甘くとも「好きになれない甘さ」だってあるでしょう。
そんなところに実在なんてものはありゃしませんよ。



都合のよい事象を取り上げ、
スッキリとした答えを出すことで
間接的、暗黙的に仕向ける恣意的な意図。



その意図にあえて潜り込み、発信者の立場から
眺めてみてはいるのですが、そこで感じるのは合理的に
異質を排除しようという思惑ばかり。



そのようなプロパガンダは、
(思考停止した人間以外)全く意味がない。



否、たとえ思考が停止しても
「何となく」の違和感は消えることはないでしょう。




失礼、前置きが長くなりましたが、
前回に続き二回目でも。



☞☞




前回書いたように、我々は単一・凡庸的な
ロールモデルで原理を把握したい欲求を持っています。



ビジネスであれば「成功ノウハウ」、
思想家であれば「真理」、
宗教であれば「悟りへの道」など。



そういった、明快ですっきりした筋道を作り、
それを歩んでいくことが正しいと思うのですが、
必ずどこかで矛盾(壁)にぶつかってしまいます。



それは技術的なものでもそうだし、
精神的なものでもそう。



その「ぶつかり」というものは、
外部の筋道(型)の終わりであって、
「意味そのものが完全に分かった瞬間」なのです。




それは例えるなら、高い所にある本を
ハシゴをかけて「取った」ようなもの。
「取った」時点でそのハシゴは
潔く、降りなければいけませんわな。



アインシュタインの言葉を借りるのならば、
「世の中で一番分からないことは
世の中がわかること」。





なるほど、まさに至言ですね。


☞☞



そこで止まってしまうと
我々はどこにも行けません。
これがいわゆる「型にはまった状態」です。



型にはまれば思考は止まる。
安定した構造であればあるほど、そう。
しかし最終的に目指すべきは、形式美ではないでしょう。



つまり、外部とは理性の枠(檻)、
その檻の中に留まっていれば、我々はぶくぶく太ってしまう。



そういった肥満体たちが
今の権威構造のトップにいるからこそ、
自分たちの主観を押しつけるわけでしょ。




我々は教育プログラムの
意味や構造について、完全に
理解するのが目的ではない。




他人の理論理屈は、自己の
「外部」に置くものであって、
内部に留めるものではない。




(ここからが説明が難しいのですが)
しかし、この「外部」は「内部」でもある。


「その外部」があってこそ、
「この内部」が派生するのであって、
まさに、人生の主観が「揺らぎ」と
「遊び」によって動かされるわけです。




これって、考えたら不可思議なことですわ。



例えば、こうやってブログを書く、
もしくは書かないという些細な事を
外部に働きかけることによって、
バタフライ現象が起こってるわけでしょう。




例えば今この瞬間、
タバコに火を付けましたが、



極論、これだけの事を付け加え、
書いただけでも、僕の人生主観は変わってしまい、
そんな集積が人生を強制的に志向させてる、と。




多分に、それは意識を超えた意識。
無意識の奥にある意識。



2014/03/17

ヘビの味覚



西洋は必然、普遍、絶対な「理」を
取り扱い、「偶然」を避けてきました。



しかし、以前の日本は逆に、偶然性を
内包したまま肯定し、そこから必然へと向かう
姿勢(状態)だったのです。



たとえば、神社の中心には
鏡こそあるけれど、「御神体」は祀られていません。
中心は鏡があるくらいで何もない空洞なんですね。




なぜなら神社とは、多様な神が「偶然」
泊まりにくる宿であり、我々は本来、
その「偶然来た神」と出逢える可能性を期待し、
参拝していたのでしょう。



今日はそんな所から。








さて、冒頭に書いた「必然性」を
中心とした思想はたくさんあります。




「偶然」を「必然」とするために、
その隙を「理」というパテで
全て埋め、論理武装しているのですが、
目に見える補強をやればやるほど、綻びは出てくるもの。




タレスは「万物の根源は水だ」と
言ってますが、僕も、個人的には真理なんて
「水のようなもの」だと思ってます。



冷やして氷にして掴んでても、
そのうち溶けるんじゃないですかね。
もしくは蒸発して見えなくなるか。




☞ ☞



これは我々の持つ言語や五感覚の限界を
知ることによって、理解できます。




例えば、蛇は「味覚」がほとんど
ない動物だと言われますが、
その蛇に「食べ物にはこんな味があるんだ!
という真理は説明できませんよね。



仮に蛇とコミュニケーションがとれたとしても、
永久に蛇は味覚を理解できないでしょう。
なぜなら、蛇である以上味覚を経験できない。
多分、「甘味」という概念すら、想像できないと思います。



これが「蛇以外になれば」、話は別なんでしょうけど、
俗に言う「頭の良い人間」はそう思わない、思いたくないわけです。



☞☞



見れば現在、「真理」の大半は
理性と理論で作られた諸外国からの輸入です。




六四卦は太極から陰陽、四象、八卦へと
体系化を展開してますが、「当たるも八卦」が正しい。
すごく当たる人もいれば、全然かすりもしない人だっています。



現在、たくさんの真理が生まれているのですが、
それって、食べログと同じ理屈じゃないですかね。



もしそれが本当に「間違いない」ならとっくの昔に
「全員」が同じ結果になってないといけないわけで、
仮にそれが「成功の方法」ならば、グローバルスタンダード、
つまり「世界基準」になってるはず。



だったら世界はすでに理想郷、
ユートピアになってないといけないけど
実際はそうじゃないでしょう。
逆に、成功する人は一握りなわけです。





てなわけで、次回に続きます。


2014/03/10

否定の裏側

「俺って、弱いなぁ~」。


それを認めるまで、
ずいぶんと時間がかかりましたが、



それだけ同じ立場の人の気持ちが
分かるようになれました。



経験しないと絶対分からないこと、
矛盾したこの世界には、たくさんありますよね。


☞ ☞



隣の芝生はどれも青い。
他人と比べてもキリがない。



人目を気にするな、
ありのままの自分でいろ。
自分の意見を持て。




それができるかどうかは
また別のところにある。




それでも比べてしまう。
それでも自分を作ってしまう。
人の意見に流されてしまう。




そんな人はたくさんいるわけで。




答えは知ってる、でもできない。
やったらいけない、でもやってしまう。


「クヨクヨ悩むな、元気を出せ」。
誰だって、そうできるなら苦労なんてない。



経験しないと「弱さ」って分からないんです。



☞ ☞



綺麗なもの、正しいこと、強い事、
価値のあること、意味があること・・・



それは、弱い時にはとても眩しいもの。



それをしたくてもできない時は
そういったことをやっている人に対し、強く反発してしまう。



僕だって何度もありましたし、
今だって、そうなります。



しかも、反発しながらも同時に求めてる。
だからなおさら辛い。



もし、そんな人があなたの近くにいたとしたら、
寄り添って、そっとしてくれませんか。


反発ってことは、見方を変えれば
その対象に寄りかかっている、ということ。
身を預けているってこと。


だから押さないこと、
そうすると押し返さないから。




ちょっとずつ、ちょっとずつ、



一人で立とうと頑張ってるんだから。


2014/03/04

自己と非自己

unreveの坂口です^^




さて、東南アジアを旅行した人なら分かるでしょうが、
日本人が現地の水を飲むとお腹を壊しますよね。



しかし現地の人達は平気です、これは日本人が
弱いのではなく、現地の人に耐性がついてるんですね。
免疫の本質でもあります。




免疫学者である多田富雄氏は、
病気には部分(部品)と全体(関係)がある、と定義しました。




部分が治ったからといって、関係が治るとは限らない、と。
癌もそうですよね、切り取ったからといって治るとは限りません。



氏は自己組織化についての造詣も深く、
メタ的な視点からスーパーシステム論なるものも提唱されていました。
(もう氏の著書が読めないのが残念です・・・)



今日はそんな、免疫と自己組織化についての小話を。



生命の意味論/新潮社





さて、「免疫力を高めるには○○で!」などの
本やセミナーが巷で賑わっていますが、



免疫とは冒頭でいうような
「自分の肉体を守る」システムという側面の他に、



「自己でないもの(非自己)」から、
「自己」を区別し個体を決定する側面も持っています。



その自己とは曖昧な境界によって変容した状態です、
よって、自己と非自己の境界ははっきりしていません。



前回書いたように異物(非自己)が
排除されないのも、こういった曖昧さがあるからなんですね。



これはイリア・プリコジンの、
ゆらぎによる散逸構造(宇宙の仕組み)に類似しています。



システマティックのようでもあり、ファジーでもある
二項が同体することで、ダイナミズムな生命を表現している・・・



凡庸的な言い方ですが、
我々の体もまた、宇宙の相似(フラクタル)なのでしょう。








さて、氏によれば、免疫は脳よりも高次なものであり、
あらゆる自己は免疫によって決定される、と言います。



自己(思考)を支配している脳が決定しているようですが、
それは間違い、と言う事です。



免疫系によってその「意志」は
非自己」として排除されてしまう場合もある




脳は免疫系を拒絶できない反面、
免疫系は排除することができます。



どれだけ素晴らしい人の教義でも、
我々は素直に受け入れられないんですな。



つまり頭(脳)では分かっているけど、免疫が拒絶している、と。



そこで脳を「支配者」、免疫を「非支配者」と考えた場合
面白いことがわかります。



国家でも、企業でもそれを構成しているのは
リーダーではなく、フォロワー。言わば「免疫側」です。



その免疫力が下がれば、全体が低下します。
これは企業の衰退、国家の没落も同じでしょうy。



冒頭に書いたように、部分だけを排除しても、
肝心の全体を向上させないと意味がない。



まさにホリスティック(全体性)な視点が必要なんですね。
チェーン店は「免疫0」へ向かいつつあります、気をつけましょう。





ん、長くなりましたな。
次回、もうちょっと書いてみます。


2014/02/10

いのちの賑い




典型的な概念を持っている人が
大半であれば、その典型的な脳で作った
社会が常識の定義となりますが、




類似性が増せば、当然ながら独自性は減少します。
よって我々は逸脱しなくてはならない。



変わってる奴って言われると
ちょっと凹んでしまいますけど、



そんな生命(いのち)のにぎわいによって、
我々はロバスト性を持つのは間違いありません。









そもそも進化と言うものは
後になってしか知ることができない
「予測不可能な過去の検証結果」です。




そんな予知できない未来に対し、
種の将来を保障するには多様なケースを作らないといけません。



故に進化は多様化が絶対条件であり、
その多様化とは簡単に言えば「異質との共存」なんですね。




種の多様性が高く、生態系機能の
幅が大きければ大きいほど、



大きな環境変化が起こっても、
それに対処するだけの選択肢を持つことができるのです。




☞ ☞



例えば人間の遺伝子は全員が違っています、
ほんの僅かな違いですが、同じ遺伝子、同じ体質の人は存在しません。




その為、どんな恐ろしい病気が広がったとしても
人類そのものがそれによって滅亡することはありません。




その病気にかからない人が必ずいる、
そこからワクチンを精製し、克服できる。



これが画一的な遺伝子であれば
人間は一つの病気が原因で、
滅びてしまう可能性だってありますよね。



☞ ☞



個体の生存率や繁殖率を左右するような変異遺伝子は、
「自然選択」により増減すると言われます。




一方で、生存・繁殖率とは無関係な変異遺伝子の割合は、
偶然によっても変動し、これを「浮動」と呼びます。



つまり遺伝的多様性や独自性は、
このような偶然と必然の結果が複雑に影響しながら




長い時間をかけて形成されている、と。
決して「変化に対応できたもの」ではないんですね。





異質をもっと認めてもよろしいのでは、と。






2014/01/23

ハンズバーガーさんへ


坂口ですこんばんわ、
先日の続きですo(^▽^)o





社長に空港まで迎えに来ていただきました、
さっそくお店へと向かいます。







店長さんとごあいさつし、店の名前でもある
ハンズバーガーとテリヤキバーガーを頂きましたよ~♪







お客さんから「実物が写真と変わらないですね」
って、よく言われるらしいです。




なるほど、確かに。
本っ・・・当に、美味しかったです(*´Д`)=з



特筆すべきは、やはり天然酵母で作ったバンズ。
その日の気候によって、分量を変えているとの事。



語彙力が低く、ベタな言い方で恐縮ですが、
まさに「外はカリッと中はモチモチ」。








中にはシャキシャキのレタスやトマトや
オニオンなど、新鮮でたくさんの野菜、


そして手作りのソースをかけた、パテ。
あっという間に食べてしまいました。



「ナチュラル・ハンバーガー」というコンセプトと
大手のような大味と違った繊細な味、女性の方が馴染みますね。




ここまで手作り素材が入って
値段は大手ファーストフードと変わりません。
(もしくはちょっと安い)



お見事なコストパフォーマンス、
ブロガーさん達や食べログで好評なのも納得です^^



FC展開すれば、さらに良い素材を安く提供できます。
これこそが真のスケール・メリットなんです。



大量生産ではなく「良品生産」、
これからのFCでは大事なキーワードです。



最後にスタッフのみなさんと♪
あったかい雰囲気の中、店舗を後にしました。


山形周辺のみなさん、ぜひ一度食べにいらして下さいね^^



■□■□■□■□■□■□



スケジュール上、早めの店舗視察。
道路が凍結する前に、すぐさま宿泊先の仙台市へ。




長時間の運転、お疲れ様でした<m(__)m>



仙台に着き、繁華街で夜中まで飲みながら、
これからの事や思いを熱く語ってきました。



素晴らしい時間でした、クライアントさんとの
腹を割った対話をしている時、



「この仕事やってよかったなぁ~」、と思います^^
大げさですが「生きててよかった~」って思えます。



気付けば深夜、ホテルに着いた途端、
落ちるように就寝。





この日、分かった事が一つ。





山形の方は・・・・・お酒が強い!



2014/01/21

今を生き抜く力

unreveの坂口です、こんばんわ^^
一旦、福岡へ戻ってきました。



さて、この間から株式会社ハンズ様の店舗のある
山形へ行って来ました。



絶対経験したことない寒さだろうと思い、
完全防寒装備(あとホッカイロ×4)!!





















これで(多分)大丈夫!






平日だけあって、席はガラガラでした。
これだけ少ない飛行機に乗るの、初めてです。




昔、東京から車で行った時は7時間かかったんですが、
フライトは福岡から約2時間、早いものですね^^






☞ ☞



仙台空港では震災時の津波の高さを示した柱が。




その近くには慰霊石造「震災にたたずむ女神」が。

























暫く眺めていると
切なさがこみ上げてきました。



女神でさえ佇んでしまった、というのでしょうか、
まるで一人の人間のように空を見上げています。



そういや先日は阪神・淡路大震災から19年、
東日本大震災はもうすぐで丸3年を迎えようとしていますね。



☞ ☞ ☞



当時の僕はと言えば、起業して1年未満、
インターネットの事なんて、全く分かりませんでした。



そんな右も左も知らぬネット素人が
始めたばかりのtwitterを使い、寝ずに拡散していたことを思い出しました。






あの時は、何もできなかったなぁ・・・・






☞ ☞ ☞



地域活性化に繋がる優良なFCを構築すること、
様々なその事業が地域に根付き、継承されること。



近代の崩れつつある食生活や
商売そのものを見つめなおし、
将来を担う若者が、希望を取り戻す事。



和魂を繋ぐ、今にしてようやくですが、
僕なりの支援の形ができました。



これもクライアント様あってこそ、ご縁に感謝です。
長くなったので続きは次回ということで^^


2013/12/08

偉大なる解放者へ

このブログを書いている時、
ネルソン・マンデラ氏が亡くなりました、95歳だったそうです。



映画を見た人なら分かるでしょうが、
彼は信念の人であり、その人生は私達に勇気を与えてくれます。


今日はそんな偉大な指導者の小話。



☞ ☞ ☞



ネルソン・マンデラ氏は差別の法律である
アパルトヘイトの撲滅運動に生涯をささげた人物です。


今でこそ、黒人と白人は平等ですが、
昔は法律によって差別されていたのです。



住む場所も、医療も、公共施設も、
さらにはトイレまで違っていました。



それが理不尽だと思うのは当然の事です、
マンデラ氏はその法律を無くそうと働きかけます。


しかしその運動が政治への反逆だとして逮捕、
なんと27年もの間、投獄されます。


想像できるでしょうか?
何も悪くない、正しい事をやってて約30年間
家族や友人と離れ離れになり、一人牢獄に入れられるのを。



普通の人ならその恨み、消えるものではありません。
しかしマンデラ氏はそうではなかったのです。


☞ ☞ ☞


ようやく釈放されたマンデラ氏、
70歳となっていました。



それでも彼は諦めませんでした、
まさに信念の人というべきでしょう。



当時の大統領であったデクラーク氏に対し、
マンデラ氏はこう言ったといいます。


「異なる人種・集団が1つの国家に同じ忠誠心と愛を捧げるという、全世界にとっての輝かしい見本がここにある。国が抱える問題に一緒に取り組んでいきましょう」。



この器の広さ、寛大さが心を動かしたのでしょう。
やがてデクラーク氏と共に、アパルトヘイト撲滅を勧めます。



1993年にはノーベル平和賞を受賞、
そして翌年には南アフリカ初の全人種参加の大統領選挙により
初の黒人大統領となったのです。



☞ ☞ ☞



大統領に就任したマンデラ氏は
白人に対し、何も復讐しなかったといいます。



約30年の時間を奪い、牢獄で生活されられていたのに。
そして大統領と言う、最高権力を持ったにも関わらずに、です。



その後、権力に執着することなくわずか一期で退任。
退任後は様々な基金・財団を作り、子供や若者達の支援をしたのです。



まさに国の指導者の見本ではないですか。
日本の政治家達よ、利権に走る己の恥を知り、
その襟を正しなさい。



☞ ☞ ☞


人間は何に人生を賭けるか、それに尽きます。
それはやっている内容の大小ではありません。


家庭でもいい、仕事でも良い。
何でも良いから「情熱を注げるもの」を探してみませんか。



不埒な動機でない限り、
その情熱は人生を豊かにすると思っています^^




偉大なる指導者であるマンデラ氏のご冥福をお祈りします。
最後に私の好きな氏の言葉を。








門がいかに狭かろうと いかなる罰に苦しめられようと
私が我が運命の支配者 私が我が魂の指揮官なのだ。







2013/11/25

美意識と葉隠

今日は11月25日、
そういやあの事件はこの日に起こった。


今から43年前の1970年、知る人ぞ知る楯の会事件。
三島由紀夫は当時45歳であった。


もし生きていたとするなら現在88歳、
この豊かで貧しい時代を見て、三島は何を思うだろう。



今日はそんな小話。



☞ ☞ ☞


三島の文学の根幹は葉隠の思想。
日本、及び日本人の衰退に向けられた警告でもある。


武士道といふは死ぬ事と見付けたり。
二つ二つの場にて早く死ぬほうに片付くばかりなり。


三島はそこに人間(日本人)の気高い精神性を見た。


哲学は死への予行練習と言われるが
葉隠には存在理由と、その証明があるというのだ。



僕は未だにそれが人間の理想なのかどうか
分からない。



氏の言う
「本物の美は人々を沈黙させる」というのは理解できるけれど。


☞ ☞ ☞


戦後、アメリカに諂い、西洋思想へ向かう日本が、
三島の観念の中に存在する美しく強い日本と大きくかけ離れていく。



それが耐えがたいものだったのだろう。
そんな国粋思想はあの「金閣寺」以降、さらに加速していく。


矛盾、それがとにかく耐えきれなかったのかもしれない。



感性が鋭い人ほど、その鬱憤を何かに昇華させていた。
偉人の伝記を見れば、大抵感性の蛇口が壊れているのが分かる。


三島由紀夫にも同じ事が言える。
個人的な意見だが、文学による昇華だけをやってほしかった。



理由や思想はどうあれど、形而上を持ち出し
死んでしまうという結果自体、どうやっても覆らないからだ。


ただ、生前のあの異常な量の作品からすれば
三島には、それが不可能だったということも分かる。



内部を昇華する為には、ロゴスだけでは足りなかったのだろう。




三島が予想した無機質で空虚な経済大国論は
もしかしたら三島自身、それを否定していたのかもしれない。






こんな私にだれがしたとでもいいましょうか。
何者かがこうさせてしまったのです。私もこんなにはなりたくなかった。



2013/11/21

情理を兼ね、情理を尽くす。

こんばんわ、坂口です^^



今月も気付けば21日。
あっという間に終わりそうですね。




老い易く、成り難し。
昔の人は、実に上手く言ったもんだ。



とまあ、オッサンの呟きはこれくらにして(笑)
今日は練成講座の一部を
資料を元に、ご案内しようかなと思います。




☞☞



さて、unreveでは理念を重視していますが、
それを支える根幹は感性であり情緒です。



エモーショナルと言うよりも真心、
そんな経営をうちの方では「情の型」と呼んでまして、



逆に理念なんていらないよ、
経営はシステムであり方程式だよ。
って言う人を「理の型」と定義しています。




理の型の傾向が強い人は、
「やりたい・やりたくない」ではなく、



「売れる・売れない」という手段(結果)が目的なんですね。




必要なものを事前にリサーチし、
「市場」から、「短期的」に、「獲物」を、
「効率よく見つける」ことが最大の目的ですので、
「売りたいもの」よりも「売れるもの」を優先する、と。



もちろん、独立一本で食べていくには、
早いキャッシュフローが必要なので、
その理論を選択するのは正しいのですが、
今のように「集める」という概念が
非常に難しくなっている時代では
博打のようなものになる可能性があるんですね。




なぜならそこには感性、「動機」がない。
「これを広げていきたい」という原動力が
「売れないと」継続的に起こらないのです。



☞☞☞



反面、情の型は耕す場所を決めるまでに
けっこうな時間がかかる場合がありますが、
いったん「ここだ!」と決まったら黙々と
未開拓地を耕し、地道に育てて行くことができます。



つまり短期的な成功と言うよりも
「着実に実をつける」ことを目指しているということです。



そんな情の型のやってることは
理の型から見ると、あまり好きになれません。
(逆もまた然り)



個人の感情に左右されるし、
キャッシュに直結しない「無駄」がある、



それじゃボランティアじゃないか、
慈善活動じゃないか、自己満足じゃないか、と(笑)



それより市場を見よ、効率を上げよ、
システム化せよ、と合理的に進めたがるのです。



繰り返しになるんですが、これはある意味正しい。
というか、かなり正しい(笑)



正しいけど、持続可能な事業の根幹は
「情」からの派生ですから避けて通れないんですね。
仮に避けて成功したとしても、途中で必ず
「やりたいという気持ち」が必要になってきます。



これは経験しなくても分かりますよね。
やりたくないことをやってる社長なんて、
「雇われ」となんら変わりませんから。





不自由な成功者





コンサルとクライアントのミスマッチの多くも
こういった「情の型」に「理の型」が教えてしまうことが原因です。



心のフラストレーションを抱えてても、
未消化の問題であっても「手段」を優先させる、
これが後々大きな問題になってしまうのです。



もちろん、情の型のコンサルが
すべて正しいわけじゃない。




だからこそ、テーマの様に「情理を尽くす」ことが必要なんですね。




個人の「らしさ」を最大限に活かし、
想いを大事にしながらも、その想いが
「居着く」ことのないよう、情と理をバランス良く、兼ね備える、と。




この「情理を尽くすこと」こそ、
まさに二項の統合であり、加減です。





2013/11/05

キプロスと国家と器



キプロスの経常収支対GDP比の推移を
見るとずっと赤字、破綻する典型的な例ですね。
企業が赤字で倒産するように、結局は
国家の存続も金次第ということです。


デフォルトで国家の概念が消える・・
では、この共同体である「国家」とは一体なんでしょう?


国家の代表と言えば都市国家の走りであるアテネ、
すなわち現在のギリシャであり、イタリアであり、イギリスであり、アメリカです。


しかし国家の代表であるこれら全ての国が
どういう訳か、もれなく破綻状態にあるわけです。


破綻したらどうなるのでしょう?
見ればソビエトは破綻し消滅しましたが
ロシアとして今なお存続していますよね。


つまり破綻したのはあくまでも
「概念としての国家」という器であって、
そこに住む人や町(中身)が消えると言うことではないのです。


例えコップが割れたとしても中身
「水そのもの」が消えないように、
国家が消えることで実在的な存在が現れる、と。
つまり実態経済が現れてきます。


なるほど、ギリシャは完全に破綻状態にありながら、
高級車であるポルシェを一番多く保有する国でもあり、
裏経済(地下経済)は表経済を遥かに上回ってますね。


マネーロンダリング、資金洗浄、表に出てこない資金。


それをスイスを抜いて世界一の金融センターである、
シンガポールに逃避させている最大の国の一つが
実はギリシャなのです。



イタリアしかり、ロンドンしかり。
ニューヨークのウォール街しかり。
ぜー・・・んぶ、シンガポールを拠点にしてます。
裏経済は国家とは裏腹に健在(?)なんですね。


つまり概念としての器はすでに崩壊寸前だけれど、
実在経済はそうじゃない。なぜなら共同体(器)ではないから。


故に表社会(国家)が消滅する時代においては、
このマネーロンダリングが実在経済となるので、
今の格差社会とは比べ物にならない、
「超格差社会」が到来するということです。


「銀行は不倒だ」と言われた神話は崩壊しました。
銀行とは国家の心臓部、それが今や停止する時代です。


これを他人事だと思うでしょうか。
しかしこの「超格差社会」はやがて日本にも向かうでしょう。


景気は悪いけど物価が高い。
まさにスタグフレーション。



そしてアベノミクスとは、スタグフレーションのトリガーです。



2013/10/14

神の天秤、人は限度を知らず



最近ようやく国家の品格を呼んだのですが
非常に極端な意見のように感じました。


確かに日本は情緒の国ではありますが
それだけと言う訳ではなく能の伝承(花伝書)など、
論理体系化されたものがたくさんあります。


例えば禅宗は不立文字、教義的ではありませんが、
禅問答は言語体系化されているように。



それと同様、近代は論理一辺倒で人間的な
感情を抑えるような理不尽な扱いをされていましたが、
偏ったバランスは「どちらにせよ」自然に、
中空均衡(ゆりもどし)の原理が働くのであって、


感情側が同じように理不尽な感情面を
正当化するのであれば同じ穴のなんとやら、でしょう。


つまり極へ向かえば毒となる、と。


坂口安吾はそれを見抜き、看破しました。
綺麗事を言い過ぎるお前らは結局のところ
美名・美徳に隠れ、特別な存在だと
思いたがってるだけじゃないか、と。


なるほど、言い得て妙です。
まあ氏の選んだ生き方は僕にはできませんがね。


☞ ☞


思考のない感情(直感)だけでは動物的衝動であって、
感情のない思考(論理)では機械と同じです。


それらは常に主導権を争っている。


故に、だからこそ、
我々人間は悩む事を永遠に止めないのですが、
本来の主導権は「時と場合」で変わるもの、


そんな移り行く「時と場合」を貫く学問が
平和な秩序で支えられることは間違いないでしょうね。



原子バクダンを発見するのは
学問じゃないのです。子供の遊びです。

これをコントロールし、適度に利用し、
戦争などせず、平和な秩序を考え、
そういう限度を発見するのが、学問なんです。  


自殺は、学問じゃないよ。子供の遊びです。
はじめからまず、限度を知っていることが必要なのだ。


2013/10/08

幾何学的なナニカ



ピタゴラスが発見した三平方の定理のように
幾何学には少数の公理形から
全てを演繹するような合理的精神がある。



アテネにアカデメイアを創設したプラトンは、
神々が人間の魂の中に幾何学のイメージとして現れるとされ、
実際に神々を図形で表していたようだ。



プラトンは図形と言わず「イデア」と呼んでいた。
イデアとは真理であるが、もともとは「見られるもの」からきている。



つまりイデアとは「姿」や「形」を意味する。
見えないものを「見られるもの」として図形に示したのだ。








プラトンやピタゴラスが神秘的な対称性に
感動したもの、それが正立体である。



すべての面が同一の正多角形から
できている立体を正立体であるが、



調べれば世界には正立体が正四面体、
正六面体、正八面体、正十二面体、正二十面体の
合計五つしかない。



ケプラーは惑星が六しかないのは
惑星を含んだ各天球殻の間に五の正立体が
入るからだという抽象的(ある種幻想的)な結論を立てた。



ケプラーは神と宇宙とが関わる
デザインをそこに見出したのだろうが、
現在においても神の尻尾は未だに掴めていない。



☞ ☞



余談だが、プトレマイオス1世はユークリッド原論で
有名なユークリッドから幾何学を学んでいた際、
「もっと簡単に学ぶ方法はないのか」と訪ねた。




そこでユークリッドは「幾何学に王道なし」と答えた、
ここから「学問に王道なし」といった言葉が生まれたようだ。



プラトンが作ったアカメデイアの入り口には
「幾何学を知らぬ者くぐるべからず」と書かれていた。




王道(近道)はなく、幾何学を知らないと
学ぶ資格すら無い、と。




狭き門である。
しかし、真理探究にはそんな面もあるのかもしれない。



2013/10/07

原理衝突と窶し(やつし)

男性原理と女性原理のような異なる二項は
あらゆる分野においてその派生・構造が違います。


芸術分野ではバロック芸術がそれに近いでしょう。
ルネサンス期、秩序と運動の矛盾を超越しようとする運動がありました。



ルネサンス芸術が「永遠(常)」であるならば、
バロックとは「変化(無常)」という、アンチテーゼ。



バロック、ゴシック建築などを見れば、
それがよく分かります。







当時は、ヨーロッパでは宗教戦争の対立闘争が起こり、
国家や社会が分裂していました。



そんな混乱の中、頑強な秩序構造に対抗しながら調和するという
独特な心情的表現を現したのが「バロック」。



この2つを対比すれば、動的で変化する人間の感情と、
静的で固定する理性と秩序の激しいせめぎ合いが分かります、
これも原理同士衝突ですね。



ただ、バロックは二項同体に向かっているようでもあります。
バロック芸術は美しいのはこの為でしょう。



☞ ☞ ☞




男性原理は「作る」、女性原理は「生む」。
インフォーマルが馴染みやすいのはそんな理由からかもしれません。



ただ、男性原理が秩序・構造主義ではあるけれど
それ(秩序)を解体する動きも起きています。



例えば江戸の町人文化である「窶し(やつし)」。
この概念は実に深く、面白いものです。



☞ ☞


窶しとは、高貴な身分の人物が
あえて落ちぶれた様子を演じることで重層性や伝承性を高めるもの。


小野小町が江戸の娘に姿を変えるのも、
水戸黄門の水戸光圀が町人として旅をするのも「窶し」です。



裸の大将も、星の王子様NYに行くも、
ハウルの動く城もそう。


つまり窶しとはそのギャップによって
記憶に残すという工夫と言えますね。



現代で言えば、北野武氏は「窶し」。
「フォーマル」をあえて崩すという芸風だと感じています。



国際的に活躍する監督であり、
下町育ちのお笑い芸人でもある。



つまり「窶しにより固定観念を俗化させる」、
これは堅い言葉で書くと「転換による認識操作」でしょう。



高貴で近寄りがたいものを身近な「俗」にする行為、
かの石川淳は江戸の庶民にはそんな才能があった、と言います。



俗化する(固定観念を操作する)とは柔軟に捉えると言う事。
確固とした秩序に対立するものでなく「調和」に近い、



これは「ガチガチの秩序なんてやってらんないよ」という、
ちょっとした大衆の抵抗なのかもしれません。

今のお笑いはそこまで深くない、
芸風が、まるで「意図的な」大量生産のようです。


☞ ☞


マルチチュード である我々は
外圧的な強制力である秩序を嫌います。



教育のシステムが行き過ぎたからこそ
草の根運動であるオルタナティブが生まれ、



経済システムが行き過ぎているからこそ
ノマドが生まれる、これは必然の流れかもしれません。




☞ ☞


近代、西洋の文化が流入することで
理性(論理)と精神性(慣性)の原理衝突が
この国に起こり、西洋原理が優勢になっていました。



しかし今はそうじゃない、
どうも揺り戻しが起こってる。



リゾーム派生のフランチャイズはそれを見越したもの、
バロック的ともいえる「秩序との調和」です。



反対勢力では意味がありません。
リゾームとは役割を理解し、「同時に存在させる」事。



無法地帯でもカオスでも野放図でもない、
言わば「良い所どり」なんですよ^^