2014/03/18

ヘビの味覚2




最近の若者は右傾化だと
メディアは騒いでるようですが、
そんなもの、甘党と辛党で
考えれば良いだけのことでしょう。



甘党が「常に」甘いもの「だけ」を
食べているわけはないし、「甘い」という
カテゴリーだけでも実に様々な種類が
存在するのは言うまでもありません。




いくら甘くとも「好きになれない甘さ」だってあるでしょう。
そんなところに実在なんてものはありゃしませんよ。



都合のよい事象を取り上げ、
スッキリとした答えを出すことで
間接的、暗黙的に仕向ける恣意的な意図。



その意図にあえて潜り込み、発信者の立場から
眺めてみてはいるのですが、そこで感じるのは合理的に
異質を排除しようという思惑ばかり。



そのようなプロパガンダは、
(思考停止した人間以外)全く意味がない。



否、たとえ思考が停止しても
「何となく」の違和感は消えることはないでしょう。




失礼、前置きが長くなりましたが、
前回に続き二回目でも。



☞☞




前回書いたように、我々は単一・凡庸的な
ロールモデルで原理を把握したい欲求を持っています。



ビジネスであれば「成功ノウハウ」、
思想家であれば「真理」、
宗教であれば「悟りへの道」など。



そういった、明快ですっきりした筋道を作り、
それを歩んでいくことが正しいと思うのですが、
必ずどこかで矛盾(壁)にぶつかってしまいます。



それは技術的なものでもそうだし、
精神的なものでもそう。



その「ぶつかり」というものは、
外部の筋道(型)の終わりであって、
「意味そのものが完全に分かった瞬間」なのです。




それは例えるなら、高い所にある本を
ハシゴをかけて「取った」ようなもの。
「取った」時点でそのハシゴは
潔く、降りなければいけませんわな。



アインシュタインの言葉を借りるのならば、
「世の中で一番分からないことは
世の中がわかること」。





なるほど、まさに至言ですね。


☞☞



そこで止まってしまうと
我々はどこにも行けません。
これがいわゆる「型にはまった状態」です。



型にはまれば思考は止まる。
安定した構造であればあるほど、そう。
しかし最終的に目指すべきは、形式美ではないでしょう。



つまり、外部とは理性の枠(檻)、
その檻の中に留まっていれば、我々はぶくぶく太ってしまう。



そういった肥満体たちが
今の権威構造のトップにいるからこそ、
自分たちの主観を押しつけるわけでしょ。




我々は教育プログラムの
意味や構造について、完全に
理解するのが目的ではない。




他人の理論理屈は、自己の
「外部」に置くものであって、
内部に留めるものではない。




(ここからが説明が難しいのですが)
しかし、この「外部」は「内部」でもある。


「その外部」があってこそ、
「この内部」が派生するのであって、
まさに、人生の主観が「揺らぎ」と
「遊び」によって動かされるわけです。




これって、考えたら不可思議なことですわ。



例えば、こうやってブログを書く、
もしくは書かないという些細な事を
外部に働きかけることによって、
バタフライ現象が起こってるわけでしょう。




例えば今この瞬間、
タバコに火を付けましたが、



極論、これだけの事を付け加え、
書いただけでも、僕の人生主観は変わってしまい、
そんな集積が人生を強制的に志向させてる、と。




多分に、それは意識を超えた意識。
無意識の奥にある意識。



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