2015/02/04

適当な幸福論

こんばんわ、坂口です
二月に入りましたね^^



如月の名の通り、
重ね着してこれ書いてますφ(.. )









さて、今年の僕の抱負は
動く年だとブログでも書いたんですが、



だからといって、バタバタやってる
わけではなく、いい加減で適当にやってます(笑)



「いい加減、適当」=「相応しさ」




現在、この言葉はネガティブな
イメージを持たれてますが、




僕は「いい加減」が大好きです( ̄▽+ ̄*)ニパッ




色々と動くのは大事ですけど、
考える事を辞めていいわけじゃない。




もし、直感だけを頼りに動けば、
それはそれで、気楽かもしれないけれど、
振り返ると虚しい時間にもなります。




下手すれば、流されるだけに
なってしまうでしょう。
��会社員時代の僕のように)




同時にやってこそ、充実する。




僕らは考える葦、
思考する生き物でもありますからね^^




☞ ☞


現在、「ひとり考える」ことが
とても難しくなっているように感じます。



ネットによって他人と
いつでもどこでも繋がれる
環境の中、我々は生活していますので、



外部との「境界線」が非常に
曖昧になっているのではないでしょうか。



それは、一人の時間というものが
どんどん失われていく、ということ。




故に、だからこそ
自己の向き合い方や内部対話が
より必要となってくる気がします。




それができる人は、
容易に道を間違ることはないでしょう。



もとい、間違えたとしても、
自分で修正ができる。



その修正とは、「自分の世界認識」。
自分だけが幸せになる世界ではないか、と。



これはちょっと、とんでも話なんですけど、



もしかすると、自分と他人の世界は
まったく別物なんじゃないかな、と
思っているんです。




我々は、同じものを見ていて、
同じ様に感じているのでしょうか。



ちょっと怪しくなってきましたな(笑)
まあ、最後まで書かせて下さい。


☞ ☞



例えば、自分だけの概念って
ありますよね。



10人中9人が「白だ」というのに、
どうしても「黒にしかみえない」。




おかしいな、なんでだろう。
僕はおかしいのかな、なんて。




そうやって世間の意見に
迎合してしまう人が大半です。
��もしくは二項に分かれるか)



でも、それってホントは正しくて、
その独自性を世の中に現すことが、
大事なんじゃないかなって思うんです。




だいぶ前に書いたように、
世界は真っ白なキャンバスなんで、
好きなように書いていくものだと思ってます。




それは言ってみれば
��自分だけの世界を可視化すること」。




それによって、まだ知らない
もしくはなんとなくの感覚を
目に見える形にできるかもしれない。




それってすごく大事だと思うんです。



☞



世間はみんなに見えるものだけを
大事にしなさいとか言うけど、




皆には見えないけど
自分だけが見えるものって必ずあって、




ここに幸せはくっついてるんじゃ
ないかな、と思ってるんですね。




ん。長くなりました。
次回に続きます。

2015/02/02

真理とは型

全員もれなく・・・とまでは難しいのですが、
共同体において、「明るい将来像」は希望を与えます。


我々はいつしか、そんな大きな夢を持てなくなりました。
長引く不況が原因なのでしょうか、
それとももっと前の、バブル崩壊後からでしょうか。


いや、もしかするとそれはもっと前、
欧米にキャッチアップし、経済大国になった時点かもしれません。


でなければ、バブル時の刹那的投機など
目先の利益を求めるような真似はしなかったはずです。


つまり国を上げての目標が実現した時、大半が
自分たちはどこへ向かえばいいか分からなくなった。


だからこそ、その不安から逃れるために
バブル投機の道へ進んだのかもしれません。



今日はそんな小話を。


☞ ☞ ☞


こんな時だからこそ、大きく明るい夢を持ちたいもの、
すぐに達成できそうな現実的なものでは不十分です。


マイナーチェンジを繰り返して辿りつくようなものは
新しい事をやらなくとも片付く以上、それが面白いわけがない。



人間には大きく分けて2種類のタイプがいます。
それは他人と同じ事をして安心するタイプと、
他人と違う事をやらなければ気が済まないタイプです。



今の時代、後者が求められているのは必然、
今までは「和を乱すもの」として、排除や教育対象でしたが
これからはこの能力が大変重要になってきます。



もちろん、加減を知らず何でもかんでも
他人と違っては機能しません。


ただ、その意識がある人と、ない人では
仕事に対する意識が全く変わってきます。


他人と同じようにやる人は、仕事とは「こなすもの」。
質は変わらないので、量だけの勝負となります。


反面、違った事をやる人は仕事は「楽しむもの」。
二番煎じでは満足できないので、必然的に質は向上します。


量から質、ダイヤモンドは希少だからこその価値であって、
仕事にも、我々にも、同じ事が言えるかもしれません。









さて、FCは同じ仕事をやるシステムである以上、
そこに大義名分があっても楽しくはないでしょう。



僕は新しいFCを提案しています。
それはFCであっても、仕事を楽しめる仕組みです。
(もちろん、各自が型を持ってから)



楽しめる、とは一体なんでしょう。
そもそも、「人と同じ事をして楽しい」などという人は
楽しさの本質を分かっていない。


それは楽しいのではありません、「楽(らく)」なのです。
ラクで楽しい仕事なんて、存在しません。



人と違う事をすれば苦労が伴うのは当然の事、
それを乗り越える過程があって、初めて「楽しい」のではないでしょうか。


前例のないものにチャレンジする事も楽しいものです、
前例(数字)がないものだからこそ、叩かれもします。



中にはその概念を批判的に考える人もいるでしょう。
大きな夢や概念を、過去から前例から考えるからです。



そんな人は相手にしなくていい、それは
会社員から独立する時に引きとめようとするタイプ、
彼らは自分が経験したことないものに対し、否定的です。



よく自分が理解できる範囲内において
アドバイスや助言をする方がいらっしゃいますが、
それを超えたら批判に転じる、よく見る光景。



聞くべき部分はそんな多数の声ではなく、
知識者、専門家の声ではありません。


メリットとデメリットを綿密に計算し、決断する。
この決断が成功の鍵を握ると仮定するならば、
それは一つの型(パターン)です。


そのパターンの中には前例を超える為の挑戦や
目の前にあるたくさんの課題をクリアするための試行錯誤がある。



真理は部分ではなく、そんな型(パターン)が
幾重にも重なった状態にあると個人的には思っています。



その型が暗黙知、言い方を変えれば静態的科学ではなく、
動的、経験科学とも言えるでしょう。


日本のアイデンティティ





さて、ガラパゴス化と言われるように、
どうもこの国は「特殊な国」だという
イメージが根強いのですが、




理解できないものを「特殊」にする
考えは、学者達の怠慢ですね。
「見えないもの」を見ようとすると、
こういった解釈になりがちです。




見えないものとは感じるもの。
日本はこの情緒こそ、根幹であって、



そんな繊細な精神性の「結果として」、
歌や詩が表現されていたのです。



誤解を恐れずに言えば、
この国の精神性は他より一段高い。



例えば、源氏物語は1000年前の
女性(紫式部)が書いたものですし、



国家「君が代」は、古今和歌集の
短歌を元に、作られています。



無形文化遺産である和食を見ても、
諸外国が手で食べていた時代に、
この国は箸を使って食べていたわけです。



それらは「モノゴト」ではなく、
人の「ココロ」から派生するもの。



形式ではなくその背景を知る、
それが伝統に触れる近道だと思います。









さて、以前書いた職人や
丁稚という継承智も、その時代から
すでに存在していたと書きました。



1000年以上続いている企業の
大半が日本にあるのは、こういった
継承性によるものでしょう。



日本と似たこだわりの精神を持つ
ドイツだって、100年以上の
企業数は、2000社程度だと言われます。



これが米国となればどうでしょう、
多分、数えるくらいじゃないでしょうか。



これは批判ではなく、外国の
インスピレーション型(理の型)が
短期的な志向性、横の拡大である半面、



この国は情緒(情の型)であり、
志向性は縦の向上なのだと思います。




終わりなき無と、終わりある有。
そして、その対角線上にある「間」と「境界線」。



そんな縦と横が織りなすことで、
中庸の世界が構成されるのかもしれません。



故にその「加減」を経験し、知ることが
縦横無尽な自由だと、個人的には思ってます。



☞ ☞


さて、こういった世界の雛型を
江戸時代ではすでに作ってたのですが、
実際のところ、あまり知られていません。



現在、「本当の歴史を知る」には、
ちょっと手間がかかるのです。



なぜなら、今の教科書に書かれている
歴史は、中国よろしく意図的に作られたものだから。



GHQは、戦後日本の文化や伝統を
つまらないものと思わせる為、
教育によって変え始めたんですね。



結果、文化や伝統、精神性を否定し、
自我こそ「じぶん」だと信じてしまった。



自分にとって損か得か。
自分にとって有利か不利か。




そんな部分の最適を目指す姿勢は
勝ち組や負け組という概念を作りました。



勝ち組こそ絶対的幸福だと
一神教的な考えを盲信してしまい、



それによってピラミッド構造が生まれ、
支配・被支配の二極化へ向かってしまった、と。




まあ、「一見」成功したかに見えますね。



☞ ☞



現在この構造がことごとく
崩壊しているのが分かるでしょう。



教育しかり、経済しかり、宗教しかり。
現在「揺り戻し」によって転換しています。



後はオセロと同じです。
角さえ変わったら、一気に変わるでしょう。



その「角」の目星は付いているのですが、
書くのはちょっと控えますf^_^;




今でも理性による正しさの追求を、
力の証だと思っている人を見かけますが、



そもそも論(前提)が間違っている。
これも前回「漢意」で説明しました。



理性を使えば、弁護士よろしく
殺人だって正当化できるわけです。



そんな正しさ、間違ってる。
我々の心が、納得しないのです。



それがだんだん形になっているからこそ、
変化の時代だと言われているのでしょう。



unreveでは、これを変化ではなく
回帰だと捉えています。



☞ ☞


現在、幸いにも日本の本来は
この国を訪れた外国人の著書によって
「ある程度」知る事ができます。



情緒がよく分からないからか、
見たままを書いているのですが、
絶賛している人がとても多い。



教科書をはじめ、御用学者や
教師の多くは、一番大切なことを
教えなかったわけです。




いつの時代でも、情報を丸ごと信じず、
自分で見極めろと言ってるのは、



こういった恣意的な「教」が
情報にあるからなんですね。



自分の心の声を信じましょう^^




【後記】


数学者である岡潔は、数学の世界でも、
感情に満足を与えるのは
理性や知性ではない、と言います。



矛盾がない、ということは
矛盾を感じない、ということであり、



本質的な理解は「感情」、
心の部分なのだ、と。



そこから彼は自分の生き方を
以下のように答えています。






宗教の世界には自他の対立はなく
安息が得られる。


しかしまた自他対立のない世界は
向上ももなく理想もない。


人はなぜ向上しなければいけないか、
と開き直って問われると、


今の私には「いったん向上の道に
いそしむ味を覚えれば、それなしには
何としても物足りないから」としか答えられないが、


向上もなく理想もない世界には
住めない。


だから私は純理性の世界だけでも、
また宗教的世界だけでもやっていけず、


両方を兼ね備えた世界で生存し続けるのであろう。


2015/01/28

花伝書「破」

日本人にはアイデンティティがない、

これはずいぶん昔から言われる事です。







しかし、これは厳密には異なります。

本来は、場の空気をアイデンティティより優先させているのです。







ルース・ベネディクトの「菊と刀」でも、

この国に脈々と流れる精神性が露わになっています。







それは美であり醜の根源性でもあります。

ここにこそ、我々に必要な答えが隠されているのです。







全体の俯瞰によってその欠片を探してみましょう。









と言う訳で、リーフ理論、花伝書「破」、開演でござーい











さて、この国は、取り入れ、問い、編集し、出す、

を繰り返す事によって、常に変化し続けています。





この国が「方法の国」と言われるのは、こういった

同一主語を繰り返し回帰し続けているからです。









丸山眞男は外来思想を度々修正する、という

変化の仕方が変化しないのがこの国の特徴であり、





その意味で日本人は常にキョロキョロしている、と指摘します。







つまり、常に新しいものを外部に求めながらも、

その求めている自分自身は一向に変わらない、と。









これがこの国の「振る舞い」であり、

この国の基本パターン、と言う事です。







☞ ☞







「いや、俺は完全に自分ルールで生きている」と

反論する人もいるでしょう。







しかし、この「いや、俺は・・・」のような

反応こそが、なによりの証拠なのです。





本当に自分ルールだけで動いている人間は

「外部の意見」なんて、気にも留めないし、反応もしません。

こういったブログも見る事はないでしょう。





そんな事から、この国は外部の世界の変化に

対応することに、なんら躊躇いがありません。





それは自己同一性の精神が高い為、

自己と他者の境界線が曖昧になっているのです。







鬼畜米英から、アメリカ万歳、と。

その変わり身の早さはピカイチなのです。







これが欧米のような絶対的な原理や、厳密性を

追及するようなものであれば、必ず対立するでしょう。







それが絶対であればあるほど、その溝は埋まらず、

訴訟であったり、力によって押し通そうとします。







反面、この国はその「溝」を重要視しているのです。







己の一貫性よりも集団の場の親密性、

長いものに巻かれる、という態度は日本人のお家芸、







それは受動的な態度による親密度の表れであり、

丸山眞男の言う「超国家主義の心理」の事です。









絶対的な価値対象に「寄り添う距離」によって、

自分の役割や力関係を決定する、と。









自分で正しい道を探し、判断を下すのではなく、

「正しい判断をしてくれる人」を探し、その身近にいることを優先するのです。



☞ ☞





こんなことは何年も前から分かってます、

多くの研究者が指摘してきているのです。







しかし、そんな貴重な意見や知恵を自己に取り入れ、

繰り返し言及することがなかった。







常に「より新しい情報」ばかりに目が向き、

それを取り入れる事だけが目的化してしまった。







つまり、常に新しいものを探しまわり、

それに対し「そこそこの編集する」、







そんな日本人の本質は変わっていないのです。









不幸な事に、世界の基準には順応できるけれど、

肝心の自己からは「世界基準」を提唱していない。









相対的な優劣性や劣等性が養われた反面、

絶対的な価値対象を自ら提示することができない。







外部には答えはない。それでも外部に求めてしまう日本。











実にもったいないとは思いませんか?















さて、いよいよ次回、これを一刀両断、断絶します。













花伝書「急」、お楽しみあれ。








2015/01/27

花伝書「序」

さて、我々人間には動物の生き方と、

植物の生き方の2種類があります。

それは「農耕」と「狩猟」の違いでもあります。





動物の生き方とは、例えば自ら目標を決め、行動し、

未来を開拓します。





空腹になれば他の動物と戦います。

力の差によって制する事もあれば、制される。





これが動物の生き方であり、今までのビジネスモデル。

男性社会とも言われるものです。





反面、植物の生き方とは女性性の生き方、

植物は自らが望んでその場所に生えたわけではありません。





誰かが植えたのか、それとも種子が風に乗って落ちたのが

「たまたま」その地だったのか。





自らの意志でその場所に、生まれているのではありません、

場合によっては劣悪な環境の時もあるでしょう。





しかし、いったん根を下ろせば、全力で大きく根を張り、

水や栄養を自らで吸収します。





枝を伸ばし 葉を広げ、そこから太陽の光を受けることで

静かではあるけれど、力の限り努力をします。





これが植物の生き方です。










木から離れ、独立している葉っぱというのは

あり得ません、構成する全ては木(全体)の一部です。





にも関わらず、我々は自分が独立した一生命体だと

時おり誤解してしまいます。





unreveではそれを「自我中心(ego)」と呼んでいます。

それは、我々にこんなことを囁き続けます。





「成長しなくてはダメだ」



「もっと強くあるべきだ」





常に不足感をもった「それ」は満たされることがなく、

お金、名誉、地位などで埋めようとしますが、

決して満たされることはありません。





「まだダメだ」



「もっと必要だ」





そう言い続ける自我とは樹木に対しては反の位置、

動物的な生き方といってもいいかもしれません。





だから動物には消えない欲求があるのです。

食べなくてはいけないし、寝なくてはいけないのです。



それに対して「自己中心」とは

樹木と「合一し、一(非)となる」ものです。





自分が「ある側面からすれば」他に全面的に

依存している完全な理解であって、

独立して生きていない、という絶対的な証明です。





それによって自我は根こそぎ否定されます、

まさに絶対自己否定からの「植え替え」が起こるのです。





この理解度が低いと、

怪しい宗教になるのでご注意のほど(笑)





☞ ☞





このように、利己的に、自己肯定的(自己正当化)で考え、

語り、行動するということはまさに独立した「葉っぱ」である以上、



独立した個人ではないと完全に理解すれば、

そういった考えはなかなかできないことです。





故に「動物の生き方」という独立した個人(男性性)の時代は

終焉(転換)を迎えている、のではないでしょうか。



☞ ☞



さて、この自我否定によって、

肯定的な自己は出てきようがない、と書きました。





しかしそれでは自己肯定感が低いじゃないか、と

思われる人も多いでしょう。





もちろん、これで終わりではありません。

なぜなら、自我中心であっても、全体として

反逆した一部としても、我々は生きていけるからです。





見れば、どこまでも我を通し、反逆する自我の世界と、

その自我をそのまま受け入れている世界があります。





ありのまま「の」自分を承認してくれている反面、

ありのまま「が」自分ではないと否定している。





言わば「否定の否定」、主役であり脇役、主体かつ客体。

これは(端的な)絶対矛盾的自己同一であり、



三浦梅園の剖対反比図一合、一即多、多即一の原理。





あらゆる宗教はその主人に神を持ちだし、

精神世界では宇宙とやらの大いなる意志を持ちだし、

科学ではその主人に数式を取り入れましたが、





上記のどちらも「100(絶対)」の証明であって、

同時や矛盾(無常)を絶対(常)としていないんですね。





悟りとか、目覚めとか大層なことをせずとも

そんな感覚さえ持っていれば、人に優しくできそうだと思いませんか?





長くなりましたが、

以上、花伝書「序」でした^^


2015/01/21

経営哲学について

経営哲学とも言える回帰論に関して前日書いてみました。


こういったものを書いているのは、
今後、芯の通った経営が求められると予想しているからです。


それは決してコンプライアンスなどのドグマを絶対化した
非人間化・非個性化・画一化の道ではありません。


それは相手に強制するものではなく、人間中心設計、
個性・多様といった多彩なものを表現する為に
己の色を明確に打ち出す、ということです。

マス最大化の時代は終焉を迎えつつあります、
また、利益を追求することが第一目的としている企業では
これから先、苦戦を強いられるのは間違いないでしょう。



ひたむきさを取り戻す、と書くと大げさですが
それがこの国ならではの強み、独自化の第一歩です。


今日はそんな小話を。

仕事の哲学 (ドラッカー名言集)/ダイヤモンド社
¥1,512
Amazon.co.jp
岡山県にあるデニム販売会社「KAPITAL」、
この会社は高級ジーンズを生産販売している企業です。

代表は平田俊清氏、根っからの職人気質で、

例えば主要商品であるデニムを「作品」と呼び、
藍染めには一か月以上染色するというこだわりようです。


また、新入社員にはまず半年間、工場で製品を作らせ、
そこで実際の製造工程を学んでから各ショップへと配置されるようです。


作り手から売り手へ、という教育フロー。
もちろん、その無形効果は言うまでもありません。


そのこだわりは世界へ広がり、
かのベッカム選手も愛用したのだとか。


僕も一着だけ持ってます(写真は別もの)



さて、そんな平田氏は哲学がまず先にあって、
その結果として圧倒的なファンが増えたのです。


哲学なき企業とは戦略なき戦術のようなもの。
軸なき理念では、「自分を生きた」という軌跡そのものが信じられません。


だから自分の色が分からない、
分からないから他の成功者の出す色に染まりやすいのですが、
それはその人の色であって、自分が馴染むとは限りません。


また、それは「強み発掘」でもありません、
強みは戦術レベルにおいて、その効果が発揮されます、
つまり短期的な目標レベル達成において意味があるのです。


逆に戦略は構想であり理念、あるいは価値判断の基準です。
その戦略の段階で「最善だ」と言えるものを作るのが「リーフ理論」です。

だからこそ、それを考えるのはとても価値があることですし、
それは自分でやらなくては意味がないのです。


組織内に置いては短所とも言える反骨心や謀反心は
この場合においては長所と言えますね。


2015/01/20

根をもつこと



女性哲学者は、その数こそ少ないけれど
その思想には、ある深淵さがあります。


それは多分、女性性の方が男性よりも
見えないものや抽象的な物事である本質を
掴みやすいからかもしれません。



しかし、「巫女薄命」というべきでしょうか。
神がかり的な女性ほど短命です。


池田晶子氏が46歳、シモーヌ・ヴェイユ氏は34歳、
金子みすゞは26歳・・・・あまりにも早い死です。


今日はそんなヴェイユの小話。

根をもつこと(上・下) (岩波文庫)/岩波書店

池田晶子はカントのように人間の義務は
善への志向性としました。


同じくヴェイユもそうでしたが、その志向性は
ちょっと語りにくいもの。


そのまま、ありのまま。
そんなラディカルな美の形而上哲学とも言えます。


強いから、美しいから、
善いから愛するのではなく、
愛すべきものを自己に取り込もうとするのではない。



対象への支配ではなく逆であり、
(自己)否定からくる(自己)無化的な
人格を純粋な美(善)としたのでしょう(多分)



美意識は千差万別ではあるけれど、本質的な
それ(美)は真理へ至る道だとヴェイユは言います。


☞☞


彼女からすれば、金や名誉、権力などの
享楽への美や愛は単なる享楽であり、間違った美しさです。



本質の美とは、何かを加えたり、
減らしたいと思わないもの。



つまり理由が一切なく、
それ自体が目的として存在している、と。



例えば、自然のありのままの美しさを見た時、
「もっと美しいものがあるはずだ」と比較することはありません。



なぜなら、それ自体がすでに目的として
存在しているという絶対的なものなのですから。




端的に、それを「全力の表現」 と
言えるのではないでしょうか。



☞ ☞ ☞



最近涙もろくなったせいか、小さな子供たちの
運動会を見ていても涙が出そうになります(笑)


全力があまりに神々しいからかもしれません。
ヴェイユ自身書いてはいないのですが、
全身全霊こそ美しさではないでしょうか。



それくらい、力いっぱいというものは人を惹きつけるものです。








ただ、これだけではヴェイユを語ったといえません。



彼女は自己を無化すると同時に
形而上の善へと向かう「人格」があった。



それは「ない」ものを求める「存在がある」という
パラドックスでもあります。



ストイックなまでに真理を追及したヴェイユにとって、
それは耐えがたいものだったのでしょう。



多分に、「根を持つ」ことだけではなく、
「枝を伸ばすこと」も必要であって、




地に足をつけることと、羽を生やすことという
相反する状態が補完的である証拠ではないでしょうか。




ただ、これを書いちゃうと
内容が変わってきますね(笑)




ん・・・・ちょっと書く気がなくなっちゃいました(・・。)ゞ



また機会があれば記事にしようと思います、はい。
(全力で書け)


2015/01/12

自然派生と揺らぎ・遊び

こんばんわ、坂口です。
先日は綺麗に月蝕が見れましたな。



月をゆっくり見るなんて久しぶりです。
忙しい時は空すら見ることもない。



気が付けば年の暮・・・にならないように
したいものです(笑)




前置きが長くなりましたが、
そんなわけで、前回の続きでも。







さて、ビジネスにおいての「守」とは
芸道のような高尚な形式美でなく、


人が学ぶ際、すべてにおいて通じる
学習のプロセスを指します。



我々が身につけるには反復あるのみです。
ギターに一回だけ触れただけでは演奏なんて
できない、これは議論するまでもありません。



こういった、学ぶ基本である反復において
必要なのが「型」、というわけです。
プロセスであってゴールじゃない、と。


例えるならば、脱皮するヘビみたいなもの、
成長にはこの「型」が邪魔になるんです。


そういやニーチェは脱皮できないヘビは
滅びると言ってました。



なるほど、成長の定義は違えど
言い得て妙ですな。



☞ ☞
これを現代人は間違えて捉え、
完全にマニュアル「至上主義」になりました。

マニュアルとは始点であり終点、
変わらない原理ってこと。


今のオペレーションなんて、完全に
機械と同じことさせようとしてるでしょう、
あれじゃそのうち、本当のロボットになっちゃう。


「これをすればこうなる」と、
あらかじめ正解が用意されてるわけです。



当然そうなってしまうと、
自ら考える余地なんてありません。


やっても怒られるのがオチです。
特にチェーン店は例外を嫌いますから。


ただ、それで創意工夫は生まれますか?
生まれるわけがありませんよ。



だから前回書いたような「正常」って
概念が生まれてくるのも、ある意味当然ですわな。


その状態では統計的に数字も取りやすく
管理だってしやすいでしょう。



しかしそれ以上のパフォーマンスは
一生起きないわけです。



そんな状態にさせておいて、今さら
「主体性」とか「イノベーションを」なんて、
ことを言ってるのが今の組織なんですが、



いやいや、主体性を無くし、
思考停止でも稼働するシステムを
作ったのは、あんたらでしょうが、と(笑)




こうなると、組織は進化したのか
退化したのか、分かりませんよね。




だから守の次には創意工夫である
「破」が必要なんです。




ん、長くなりましたな。
次回へ続きます。


2015/01/06

型にはまる

こんばんわ、坂口です。


新潟行きが、ちょっと延びそうですが、
寒くなる前に行きたいものですな(笑)



さて、前回に続き3回目となりました
守と、自然派生の揺らぎ・遊びについて。



相変わらずの長文ですが、ではでは・・・




☞ ☞



守とは言わば型であり元であって、
自然には派生しない、とお伝えしました。


そこから来る「破」であり「離」こそ、
自然派生であり、主体的な創意工夫なわけです。



よって守だけ、型だけで固定してしまうと
今のような「答えを欲しがる人」が増えてしまう。



これが「型にはまった」状態です。
それが楽だから、安住してしまう、と。



ただ、世の中答えがないものが大半ですし
幸せは「型」の中にはありません。



それでも楽な「型」を選んでしまう。
これは現代病なのかもしれませんな。





今の時代は片手で結果が出る時代、
マウスをポン、スマホをポン、チャンネルをポン、です。



下手すれば人との関係性でさえも
「イイネ」をポン、と押せば出来ると思ってる。



そんなバカなことはありません。
それで繋がる関係性って、脆いもんですよ。



だから頭だけでなく、実践によって
体験することにこそ、守の意味がある、



僕はそう思っています。



☞ ☞ ☞



これは教育の土台でもあります。
言わば、今ある議論のもっと前の部分です。



だって教育は思想の建造物ですから、
思想が変に偏っていたら、教育も変に偏るわけです。


じゃあ、その変な偏りとは何なのか?というと
なんと、国家の偏在でもあるんですな。



戦後教育とか言うじゃないですか。
あれで国民の意識がゴロっと変わったわけです。



意識が変われば社会は変わり、
やがて無意識的な型を作りだします。



親がそのまま「型」にはまれば、
当然、子供もそうなります。



だから初めは型ありき、なんです。
モラルの欠如とか言われますが
モラルなんて、まさに共通した「型」でしょうが。




よって、「正しい型」を共有した多様性、
これが正しい。


☞ ☞


最近「子供は抑えつけないで自由に」と
言ってますけどね、正しいのは半分以下ですよ。

だってそうでしょ。
頭に入ってない状態で脳が勝手に
「善悪の区別」を作りだせるわけない。


野良ネコみたいに道路に飛び出すし、
高層マンションのベランダに出たりと
危なっかしくて目が離せません。


だから最初は教え込むわけです。
これはやったらダメ、これは危ない、ってね。



「ちゃんと座って食べなさい」とか、
「お行儀よくしなさい」とか、
いちいち、わざわざ、繰り返すんですが、



子供って親の言う事は聞かない反面、
親のやることは、言われなくとも上手に真似します(笑)


つまり「躾」とは頭にいれる知識じゃなくて
身体的な「表現」ということ。



よく「様になる」っていうでしょ。
それって、その人の立ち振る舞いから
形式美を、感じてるわけです。



それは面影として残ります。
子供はそれをベースにして、模倣するんです。


☞ ☞



身体と心は繋がってますから、
精神的なものは、高度化されます。
それがいわゆる「恥」という概念です。


「これをやっちゃー、人としてお終めーよ」
ってやつ、いわゆる応用です。



なぜなら「人として」という型がある、
ただ、肝心の「ヒト」の定義が分からないと
身につきません。



これも人工的でもあり、自然なもの。
だから昔は「恥」を教え込んだんです。



今はどうでしょうな。
どうも自由に負けちゃってる気がします。


☞


村上春樹の「アンダーグラウンド」には
駅員のインタビューが書かれてましたが、
なるほど、言い得て妙です。


駅員が掃除し、掃き終えた所に
タバコをポイ、と捨てる人がいる。



そんな社会でサリン事件が起きたのは、
不思議な事じゃない、と。



現代はモラルより自我主張が強い、
結局はそこに繋がる気がしますわ。


とまあ、最後は仕事の守とは全く違う
方向に行ってしまいましたが、



まあ、ブログは僕の部屋ってことで、
ひとつご勘弁のほど・・・(笑)


縁と所縁(ゆかり)

この間、千葉雅也氏の著書
「動きすぎてはいけない」をamazonで購入しました。

動きすぎてはいけない: ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学/河出書房新社
¥2,625
Amazon.co.jp

サブタイトルはリゾームの生みの親である
ジル・ドゥルーズ。

内容紹介にはこう書かれています。

もっと動けばもっとよくなる
もっともっとつながりたい



……動きすぎ、関係しすぎて、ついには身動きがとれなくなった世界でいかに生きるか。待望のドゥルーズ入門。


なるほど、過剰接続と言われる
SNS社会の警告でもあるようです。
(まだ届いてないんですよね)


今日はそんな繋がりについての小話を。





さて、人類がまだ農耕をしらない時代では祖先を同じと信じる者同士が寄り集まり、部族を形成したと言われます。



男は狩猟、女は採取。共通項の神話や伝承があり、象徴や紋章を結集の証として、同族意識を高めました。これは今もなお、未開の地に住む遊牧民に見る事ができます。


やがて文明が生まれ、農耕が伝わります。農耕の起源はいくつも諸説があるのでここでは省きますが、それによって共同体の形態が一変します。



今まで血縁をモニュメントで色濃く繋いでいたのが、それよりも同じ土地を耕す者同士を結ぶ「地縁」が重要になったのです。


それは形而上とも言える「創作的繋がり」から、生産手段としての「合理的繋がり」という、形而下での結合。


農耕社会はこうやって「場所的な繋がり」を色濃くし、排他性を持ちます。それがいわゆる「村社会」です。


なるほど、「水は血よりも濃い」という言葉は
土地と水利を守っていた時代を象徴していますね。






そこから産業革命により血縁や地縁に縛られた人達は解放されました。否、崩壊と言うべきでしょう。マルクスのいう「何物をも持たないという意味で自由な労働者」です。



ただ、我々は経済だけで繋がるほど強くありません。物質や労働力の交換とは違う「共有意識」が必要です。それが血縁や地縁に代わる新しい縁(職縁)なんですね。単なる労働交換の場ではなく、公私が入り混じった共同体です。


これが一番馴染んだ(?)のがこの国だと言われます。なぜなら、この国には宗教意識が非常に薄い事が考えられます。また民族性が単一に等しく、人種差別もない。話す言語も(方言はありますが)共通です。


多くの人が都市部へ向かった高度経済成長期には
地縁も血縁も、あっという間に崩壊したんですね。


逆を言えば拠り所にする場が「職縁」のみ、となったのです。


昔、「24時間働けますか」というコピーがありました。サラリーマンが仕事熱心なのは企業への忠誠心や勤勉気質だけではありません。それは職場と言う共同体に「安心感」を求めているのです。


帰省ラッシュの様子




ただ最近のリストラや倒産、企業30年説を見ればこの「職縁」も崩壊しようとしています。だからでしょう、冒頭のような「過剰接続」は無意識的に、どこかに安心感を求めているような気がします。



現在、そのどこか(インフラ)がないまま
SNSによって「繋がる」インフラが先に作られています。



そこで生まれたのは緩やかな「全体主義」かもしれません。



もっと動けばもっとよくなる
もっともっとつながりたい


動きすぎ、関係しすぎて、
ついには身動きがとれなくなった世界でいかに生きるか



昔は「しょーがない奴だな」で片付いていたのですが、
批判、吊るし上げ、炎上は日常茶飯事です。



自由に縁を生み出せるツールも
場合によっては監視・管理の手段となります。
適度な距離感(ほどほど)が一番難しい。



それは、安心できる拠り所がないまま繋がることで起こる
一種のジレンマなのかもしれません。




新しいインフラは何でしょう。
僕らを縛るもののない共同体は何でしょう。




それを提示する為にも多様を認め合うリゾーム派生を考えてたりします。






2015/01/01

分と加減2

前回に引き続き「分と加減」です。



僕が伝えている加減の定義とは色々な意味を含んでいるものをメタファーとしています。それは最適化であり分別であり了見の事です。この分別の「分」というものは、この国ならではの美意識です。それは暖簾分けの「分」であり、自分であり、気分であり、分担を表します。



前回、二宮尊徳は仕法と分度の思想を伝えたと書きました。収入を上回る支出は必ず破綻する。よって「分を弁え」それに応じた生活や事業を行う事が分度の意味です。




例えば、8代目将軍である徳川吉宗は庶民的な感覚、質素倹約の精神を持っていたと言われ、享保の改革を行いました。改革を行った理由は商人達を抑える為だといいます。家康も江戸の活性化の為、商人(商売)に重心を置いていた反面、商人を一番警戒していたと言われています。


商人が諸外国の貿易によって分を超え拝金主義へ傾き、お金によって人を支配するようになることを恐れていたのです。人の心性なんてものは今と何ら変わらないのですね。



その後、家康の予感は当たり、商人が起こした江戸資本主義によって今の政治家ともいう立場の武士は金を湯水のようにつかい、幕府の財政はどんどん悪くなっていきます。これをどうにかしようとして行った改革が享保の改革なのです。



そもそも江戸時代の国作りの基礎となっていた「士農工商」は身分差別ではなく、それぞれが分度のように「分をわきまえる」事が目的。お互いが尊敬し、各自がお互いの役割に誇りを持つことで、調和するためのものでした。よって(武士以外)希望すればどの職業にでもなれたのです。


吉宗の政治は一部の問屋商人からは嫌われた将軍なのですが、庶民の声を聞く目安箱を見るように、積極的に下の声に耳を傾ける人でその功績から後に「中興の祖」と言われます。まあ、吉宗には色々と黒い噂はありますが、結果として潰れそうになった幕府を立て直した名君ですね。



ちなみに織田信長も活性化の為に商人の楽園を作った人です。有名な「楽市楽座」は安土に来た商人は無税とし、商人達にとって楽園のような場所にしました。まるでコモンズの悲劇ならぬ喜劇です。その影役者には蒲生氏郷という天才経営者がいて、彼が西川利右衛門を始めとする近江商人や会津商人を育てたと言われます。



蒲生氏郷がまた男から見ても惚れそうな仁義の持ち主で、有名な話に「蒲生風呂」というものがあります。蒲生氏郷は貧しい大名時代でも、たくさんの優秀な家来をもっていました。当然、他の大名は不思議に思います。なぜ給料が満足に払えないのにそんな優秀な家来がたくさん集められるのか、と。
なぜ集まったか、というと蒲生は誠意を家来に示していたのです。手柄を取った家来を家に呼び、自ら風呂を沸かし、湯加減まで見ていた。今でいう社長の立場である人がそうやって態度で示したのです。当然、家来達は心を打たれた。蒲生の家来達は結束力が抜群に高かったそうです。



先ほどの商人たちが金に狂ったのと同様、
人の心は何年経とうが変わらないですね^^


☞ ☞


最近、右だ左だ、やれ中央だと世間がやかましいのですが、どっちにせよ、極へ向かえば悪くなるのは世の常、理です。歴史振り返れば、自我欲求による勢いが強まる時、必ず方向性を最善にする動きが起っています。振り子は必ずバランスを保つ、中空構造でいう「ゆり戻し」です。それはまるで日本版の「神の見えざる手」のよう・・・理性だけではなくこういった人間精神では説明できないものがあるんだと、最近思います。




余談ですが、カントは理性を批判し、ヘーゲルは理性側に着きました。個人的にはカントの方が分を弁えていたように見えます。哲学の限界を知り、その境界線をスパッと引いたのですから。






「吉宗って聞くと暴れん坊将軍が出てくる・・・」と思った方は
office unreveの公式ホームページも、ぜひ一緒にご覧くださいませ(笑)


分と加減

無頼派文豪である坂口安吾は裕福な家に生まれながらも、薬物中毒で躁鬱病でギャンブル好きという破天荒な人生でした。自我だけを愛し、自我と共に生きることを正当化した著書が「堕落論」です。


~私はただ人間、そして人間性というものの必然の生き方を求め、自我みずから欺くことなく生きたい、というだけである。私が憎むのは「健全なる」現実の贋(にせ)道徳で、そこから誠実なる堕落を恐れない事が必要であり、人間自体の偽りざる欲求に復帰することが必要だと言うだけである。人間はもろもろの欲望とともに正義への欲望がある。私はそれを信じ得るだけで、その欲望の必要的な展開については全く予想がつかない~(堕落論p128)


安吾氏が様々な思想や哲学によって回帰した答えではあるけれど、僕は賛同できません。結果論から見れば、これは単なる快楽主義です。「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」というのが自論だった坂口安吾は49歳にして亡くなりました。はたして、彼は自らを救えたのでしょうか。



プロセスは分かる、けれど拒絶する・・・
そんな矛盾した答えが僕の中にあります。


今回はそんなとこから分と加減の小話を。








西洋思想の根幹をなすエゴ(自我)は人間の一部であり全体である以上、捨て去るものではなく、向き合わなくてはいけません。問題はその「向き合い方」、エゴは拡大するだけで加減を知りません。



料理で例えるならば、アメリカは塩をドバっと入れてその帳尻を合わせるためにまたドバっと水を入れるようなもの。必然的にアメリカは大味で、それを良しとしている所があります。基本的に加減を知らない為、繊細な味は出せない(出したくない)。ボリュームとカロリーだけはやたらと高い(笑)




そんな帳尻合わせが大の苦手なもんだからグローバル化したりFRBで無尽蔵にお金を刷ったりしながらでもどうにか合わせる(合わせるけれど重ならない)。
「微妙で曖昧」なものを、「チマチマしている」と思っているので、食べ放題、取り放題、やりたい放題というものが自由だと思ってしまってる、端的に言えば彼らは「放題」が大好物なのだ。だからぶつかればお互いの主張は強いし、止まらないので弁護士が白黒付けないと気が済まない。「しつけ係」の宗教でさえ、取りこんでしまっているのだから、余計にタチが悪い。



ただ、この方向性が上手く行けば、ロケットとか特効薬とか新技術をバンバン作る「革新」になるし、排他的・閉鎖的じゃないオープンな関係性だって作れる。大事なのは方向性です。



日本の生活様式も今まではデジタル化、いわゆる白黒論を優先していました。それは合理的で効率的な選択しなのですが、そういった判断は、無味乾燥なものと表裏一体です。だからでしょう、最近、白黒ではなく灰色といった曖昧な答えや、それに伴った「気遣い・心配り」が目立ちます。



多様な自我を最善へと向ける。
そんな矛盾したものを合一させるのはこの国のお家芸です。



二宮尊徳の思想「報徳」は裏を転じて表にするという循環性を説きました。元々は論語から来ています。報徳には勤労、分度、推譲の3つのルールがあり、分度とはunreveの加減。自ら判断し、ブレーキをかける事で、そういった自律的な加減をこの国では「裁量」とも呼んでいます。


そんな自我を抑える自己、利己を抑える利他はマクロもミクロも過去も今も変わらず続いているのですが、継続性を考えると「分や裁量」という自律の精神はこれから大事になってくるのではないでしょうか。


長くなったので次回に続きます^^


unreveの事業内容について




                        
グッさんの一期一会ブログ
                                

初めまして、中小・個人向けフランチャイズ支援を行っているunreveです。



では簡単にunreveが支援する内容をご説明いたします。

少しの間お付き合いください。





゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚ 飲食店経営(Bさん)の場合 ゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚





グッさんの一期一会ブログ

「うーん・・・最近倒産が多いな・・・・」




グッさんの一期一会ブログ



「開業して5年・・・今はとりあえず安心だけど・・・」






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「大手がここら辺に進出すれば競争だろうし」






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「結局資本がある所が強いんだよな・・・。」






グッさんの一期一会ブログ

「ん?フランチャイズ展開か・・・・そんなノウハウも知名度もないよな・・・」



「・・・・けど、どこでも最初は個人自営だったりするもんな」



「・・・・。」







「聞くだけ聞いてみるか・・・。」






グッさんの一期一会ブログ



「どーも、担当の○○です」



「宜しくお願いします」



「大丈夫ですよ、フランチャイズの事ならお任せ下さい」





グッさんの一期一会ブログ


「え!構築費用1000万!?」




グッさんの一期一会ブログ



「社長、契約書のリーガルチェックからシステムからマニュアルまで作るんですよ。確かに高額ですけど一度作ればFCという資産が出来あがるんですから」。




グッさんの一期一会ブログ



「うーん。。。しかし失敗した時を考えると・・・・・」




グッさんの一期一会ブログ



「そんな弱気でどうするんですか」



「あわわ・・・・」



「大丈夫、当社にお任せください」



「や、ちょっと・・・・・」



「加盟金を高く設定すればすぐに回収できますって」



「・・・・・・。」



「さあ、今ならモニター価格で安くしますから」



「・・・・・・えっと・・・ごめんなさい」



グッさんの一期一会ブログ

「ヤバいヤバい。FCの知識が足りなかった」





「契約書は確かに大事だな・・・・・」





「急激な展開をして失敗、訴訟問題か・・・そりゃそうだ」





グッさんの一期一会ブログ




「加盟店の売り上げが上がって本部も成長するのが基本だよな」



「つまり加盟店とは運命共同体だ」



「構築費用なんて加盟店には関係ないもんな」



「とにかく実用主義で安くしよう」






グッさんの一期一会ブログ



「ども。unreveのグッさんです」





(・・・・なんだか頼りないな・・・・・)





「何だか頼りないな、と思ったでしょ」



「・・・・・・・」



「直接訪問でお話しを伺いますか?必要なければ費用は一切頂きませんので」



「はぁ・・・・。ではお願いします」



数日後
グッさんの一期一会ブログ





「宜しくお願いします」




(・・・・やっぱ頼りないな・・・・・・・)





「やっぱり頼りないな、と思ったでしょ」



「・・・・・・・」



「ちなみに加盟店募集営業はやってないんですよ」



「えっ?それは何故?」




「自論なんですが結婚相手を他人が探すのと同じような気がしませんか?」



「・・・・・」




「そもそも加盟店募集と教育こそがFCビジネスの基幹業務です。

これが
自力で出来ないというのであれば、 FC展開は難しいかも知れません」

「うー・・ん・・・じゃあ何をしてくれるんですか?」



「それ以外は全部します。成果報酬型なら募集もしますが」



(だからこんな価格設定なんだ・・・・)




「そうです。この形が一番理想だと思うんです」



(・・・)


「ロゴの製作、契約書、法廷開示書、各種マニュアル・プレスリリース・説明会プレゼン、研修資料、管理システム、名刺、ユニフォーム、SVの指導方法等、全てご用意できます」



「・・・・どうやって希望者を集めたらいいんですか?」




「それも含めてアドバイスします、強制は一切ありません」




(・・・・ちょっと期待できるかもしれんな)




「ちょっと期待できるかも、って思ったでしょ?」




「・・・・・・・」




「では、ヒアリングさせて頂きます」




゚・*:.。..。.:*・゚゚・*:.。..。.:*・゚




実際ここまで馴れ馴れしくはありません(笑)





以上の流れでFC展開をしています。

損金計上なので税金対策で将来の資産を作ってみてはいかがでしょう。




仕組みを作れば将来の選択肢が増え、結果事業安定化に繋がります。

イメージが「一大事業」だと比例するように費用が上がるのが特徴のFC展開。




通常、同業界でのコンサルティング料金は、

¥3万~という相場設定。





実際に同業種の内容を調べてから依頼するのをお勧めしています。

当然金額だけなら、まだ安い所はあるかもしれません。






unreveはFC本部を構築・展開していくためのノウハウを提供し、

アドバイスをしながら、作業代行、経過チェックのサポートまで行います。





アフターフォローは3ヶ月です。

年間契約という縛りはありません。新規事業でお考えの場合、社員を雇用するとなるともっとコストとリスクは膨らむでしょう。




初心者の方や、業界へ興味を持ちながら参入への不安を感じている所は多いです。




特に、興味はあっても、なかなか周囲に相談できる人が少なく、壁が高かったと思います。



それがインターネットの普及によって、その壁は取り払われました。





当然直接会った方が理想です。

直接訪問、直接支援もスケジュールが合えば自ら出向かせて頂いています。

そこでご縁があれば時間の許す限り支援させて頂きます。




機密保持契約上、守秘義務を徹底していますのでご気軽にご相談ください。



2014/12/16

場の空気

「場の空気」が読めることを心理学では
社会的知能(ソーシャル・インテリジェンス)
と呼びます。なるほど、言い得て妙ですね。


ちなみに山本七平や丸山眞男はこういった
「場の空気」について考えました。日本人が
集団で何かを決定するとき、その決定に強く
関与するのは、提案の論理性でも、基礎づけの明証性でもなく、その場の「空気」である、と定義したのです。



~言うまでもないが、元来、何かを追求するといった根気のいる持続的・分析的な作業は、空気の醸成で推進・持続・完成できず、空気に支配されず、それから独立し得てはじめて可能なはずである。従って、本当に持続的・分析的追求を行なおうとすれば、空気に拘束されたり、空気の決定に左右されたりすることは障害になるだけである。持続的・分析的追求は、その対象が何であれ、それを自己の通常性に組み込み、追求自体を自己の通常性に化することによって、はじめて拘束を脱して自由発想の確保・持続が可能になる。空気で拘束しておいて追求せよと言うこと、いわば「拘束・追求」を一体化できると考えること自体が一つの矛盾である。これを矛盾と感じない間は、何事に対しても自由な発想に基づく追求は不可能である~

「空気の研究」より





「その場の空気」とか「あの時代の空気では」と、
空気を一種の不可抗力、言い訳のように使って
しまいがちですが、それを免罪符にしちゃダメですよね。



雅なる場と俗なる場

先月から今月にかけて、
あっという間に時間が過ぎてしまった。



約一か月であちこちお邪魔させて
頂いたからだろう、


広島、富山、新潟、愛知、京都、神奈川、
そして大阪である。


ふと思えば日本全国、
行っていない場所は片手に収まるようになった。



元来、放浪癖があるため
色んな場所に行くことは楽しみなのだが、



それは自分の居場所があってこそ、
外へ向かうのは内の世界が安定しているからこそ、



生活の臭いがある自分の部屋に帰ってくると、
高級なホテルより、やっぱりホッとするものだ。




今日はそんな所から。


☞☞☞




いくら高層ビルを無数に作ったとしても
それだけでは、全く面白みに欠ける。
大阪でも、名古屋でも、東京でも、
シンボリックな建造物があるのだが、
一度見れば飽きてしまうものだ、



我々がそこへ向かいたいと思う動機、
それは「俗的」なものであり、有機的な状態である。



それによって都会の先進的なものがさらに
「活気」を持つ、このコントラストに惹かれるのだろう。



例えば大阪あたりの路地裏を
ちょっと歩けば、途端にリアルな生活が見える。
自由で何も計画されていない、
そんな自然派生的な場所は淫靡な魅力があるのだ。



本能的な俗的魅惑と、理性への憧れ。



それらが混然一体としながら、街は作られている。








☞



チェーン店や設計された施設などは雅、
言わば「計画的に設計された景色」。
雅は俗の対立概念として俗を拒絶する。



その結果「独自の個性」を奪ってしまう。
生活の匂いを消してしまう。




僕はそんな同質的な街は嫌だ。
故にガウディは、それに対抗するのではなく、



なるほど、雅と俗がせめぎ合いながら
同居することで、有機的な「聖なる対象」は生み出される。




そんな内部の統合は誰もが持っている、
僕はそう思う。





2014/12/12

弥栄モデル

こんばんわ、坂口です、
今月もあっという間に半分が
過ぎようとしてますね。







クライアントさんの多くは来年に向けた
計画の骨子を完成し、晴れやかな気持ちで
今年を終えれそうです。









ん?僕ですか?
そうですね・・・・









・・・・f^_^;









☞ ☞ ☞







さて、unreveのFC構築の
根幹となるリゾーム派生、







このブログでは、抽象概念ばかりの
説明でしたので、具体的にイメージ
できない人もいたかと思います。







そこで、今回はこのリゾーム派生を
支える構造理論「弥栄モデル」を
実際に図で説明してみます。









それがこちら↓











上図の「赤と黄色」とは、対立二項。
言わばコインの「裏表」です。







それは「ニコイチ」である以上、
比率の変化こそあれど、一極にはなりません。







コインの表だけ、光だけ、朝だけ、
幸せだけ、女性だけ・・・・には、ならないんですね。







つまり、それが何を意味するか?






「絶対的な一つの表象」は
存在しない(認識できない)ということです。







これが西洋宗教の大きな間違い。
一神教とは、こういった「表だけ」を是とします。







しかし、幸せだけの人生、
強さだけで作られた人間なんて、
(現実では)ありえないわけです。





形而上では存在するかもしれない、
しかし、言語(言挙げ)した時点で
「対象A」には、必ず「NOT A」が生まれます。







故に、「これが絶対正しいんだ!」
という、思想は外部に出すもんじゃない。







証明不可能なものを、いかに
内部に持ち、それを「信じれるか」。
これに尽きます。






故に、「情熱」という、
「あなただけの羅針盤」が必要なんですね。





☞ ☞





現実はこういった内外の二項が交わり、
対立することで、「創造」されると思ってます。







以前、「三十字の理」で説明したように
男性と女性によって、「子」が生まれる、と。







言わば二項の「葛藤」ですから
創造には苦しみがセットなんですね。







釈迦は苦しみから逃れるため、
「中庸・中道」を説いたのですが、







それはこの世界になにも創造
しない、という訳ではない。







これはゲシュタルト、「眺める」ための
メタであり、面思考であり、縁起思想、







そこから「確実性」を作る決断こそ、
「自由(自らに由る)」ではないでしょうか。







☞ ☞







そこで「志向性」の登場です。
unreveはこれを「理念」とか「道」とか言ってます。







それらは目指すべき「月」であり、
容易に手が届く場所にはありません、
そもそも手に触れることはないでしょう。







よって、究めれば、究めるほど、
言葉はシンプルになっていきますが、







その背後には膨大な、膨大な
「葛藤と選択」がらせん状に起きているのです。







ここに目を向けたのが「回帰論」です。
上の図で言えばちょうど
左右対称の「円(まる)」になっていますよね。







これが続けば「8」の整数になり、
コロッと寝かせば「無限大(∞)」になる。







それをさらに繋げればどうなるか?





我々人間を人間たらしめる
DNAの螺旋構造が出てきます。





ちなみにこちら、医療のシンボルである
アスクレピオスの杖。










まるで二匹の蛇が対極の位置を保ち、
一つの「志向性」に向かい、「蛇行」しているようにも見えます。




この中央を突き抜ける「一つの志向性」とは何か?





そういや蛇って不思議なもので、
聖書には度々登場していますね。




こちらの動画を見ても面白いかもしれません(゜゜)









相似律と向かうべき志向性は
世の理かもしれない、と






当時、オタク真っ盛りの僕は
思ってたんですが、







今はちょっとだけ現実的・論理的に
話せますな(笑)




☞ ☞





閑話休題、
我々はこの「志向性」を通常、
意識することができません。







しかし、過去を振り返ってみた時、
絶妙なタイミングに驚く事があるでしょう。





それこそ掴むことのできない
「志向性の袖」ではないでしょうか。







ここを明確にするなんてナンセンス、
形式化なんて、できるもんじゃない。





まるで、その対象を描くのではなく、
輪郭や風景から描き始めるかのようです。







すると驚く事に、自分の目指すべき
志向性がうっすらと見えてくる。
もしかして、これが「中庸」かもしれません。




金や名誉を目的化している時は
まず、見える事はないでしょうが、







日本流の精神は(多分)

この「志向性(道)」を目指した。





これを継承する為に、(たまたま)
僕はFCを構築しています^^





最後はまた抽象的になりましたが、
皆さん、くるっと回帰できましたでしょうか?









もちろん、これだって「絶対」では
なく、「いちモデル」にすぎませんので、あしからず~パー


2014/12/02

馬車馬の理論

こんばんわ、坂口です^^



日本流事業継承、
練成講座の開設に伴い、


今日は、その基礎編の
一部を書いてみようと思います。








僕はFC構築をするだけに限らず、
個別対応、その人にあった方法こそ
一番大事なことだと思っています。



子育てをはじめ、教育と呼ばれるものは、
全てそうなんじゃないでしょうか。



人によっては、スパルタな方法が
最初は必要だ
、と言う人もいるでしょう、


それとは逆に、
いーや、自分が好きなように
やらせるのが一番だ
、という人もいます。



つまり、そのどちらもに「正しさ」が
ある、ということは、



本質はどちらでもあり、
どちらでもない「間」にある。




そこで、相手の相性や適性を
尊重しながら進めていくこととは、
両義的な意味を内包するということでしょう。




以前(本来の日本)では、寺子屋が
この「在り方」で教えてたんですね。









相性とか適性が大事だというと、
多くの人は「甘やかしではないか」と、
思うかもしれません。




なるほど、未熟な相手に合わせる、
ということは、単なる我儘の助長である、と。



もちろん、それも正しい。
故に、だからこそです。



見るべき部分は自我中心でも、
場所(他者)中心でもなく、根っこの部分、




つまり、大前提(根幹)に主体的な
「成長意思」があってこそ、
上記のような「相性・適正」が活かせるのであって、




その人の根幹に自分軸が無ければ、
当然、単なる「甘やかし」に陥るでしょう。



青年期は、この自分軸を形成する
段階の人が多いので、内部派生するまで
待たなくてはいけない。



若いころは生きるのに忙しくて、
「意味」を考えるヒマなんてありません。



もちろん、イチロー選手のように
若い時から「意味」に取り着く人もいますが、



そのような人は特別であって、
大半はまず、順番があるのだと思います。



この部分は一般論にするには
ちょっとデリケートな部分なので、




詳しくは講座で・・ということで(笑)




☞ ☞



成長したいという自分軸が
あるならば、それは甘やかしではなく
「最適な支援」となります。



点思考(甘い・厳しい)では
二項対立にしかならず、
正解は決して生まれないのであって、



そこにもう一つの視点を取り入れ、
「面思考」にすることが大事です。



これが内部派生、リゾームであり、
円環超克理論の骨子なんですね。




よく陥りがちな考えとして、
「我慢してやる」とか、
「気にならない心を作る」などがありますが、




これは経験上、無理。
それができりゃ、苦労しません。



無理を自己強制するということは、
「無理強い(むりじい)」ということです。



ガマンとか頑張るという心は、
本人が望んでやる積極的態度であって、
内部派生ではなければ、継続なんてできません。



近代、この国ではこの「無理強い」を
積極的に取り入れてきたんですが、



これは西洋式の合理的な方法であり、
実は、一番楽で簡単で、「間違えやすい」
方法なんですね。




つまり北風と太陽よろしく
外部派生にしようという恣意的な
思惑、これは「自我中心」です。




男性原理の固定理論ですから、
コンサルの多くはこっち側です。



恣意的である以上、理論によって
強固にし、普遍性を持たせようとしますが、



それが万人に通用すると
決め付けた時点でアウト、



それは単なる疑似科学です。



疑似科学である以上、かならず
その枠からはみ出る人が出てきます、
それは本来、正常なことなのです。



故に外部は、まず疑ってかかった方が良い。




もちろん、ここで書いているのも
もれなくそうです(笑)




☞ ☞



さて、上記の方法でやるには、
その人が欲しがる「ご褒美の洗脳」が
必要となります。




お金・恋愛・病気、人間関係など、
あらゆる悩みが解決できる、という



その人が欲しくて欲しくて
たまらない、「ゴール(欲望)」の設定です。



金持ちお父さんしかり、
天国言葉しかり、
自己啓発しかり、宗教しかり。




つまり、その「無理強い」は
「欲しいもの」に繋がる、という
理屈によって、動かされているのです。




だから、頑張っても頑張っても
欲しいものが手に入らない人は、




「もっと頑張らなきゃ」って
思っちゃう。




その結果、「新しい外部」をまた、
キョロキョロと、探し出すのです。




これは、僕の提唱する
自己中心理論とは真逆の性質であって、




単なる「馬車馬の理論」、
ニンジンを追っかけてるだけです。




外部の強制なんて、
結局そんなもんだと思えば、
ずいぶんと楽になりませんか^^?




☞ ☞





現代はストレス社会だと言われますが、
実はその「根幹」には、こういった
「無理強い」が定着しているからなんですね。




外部強制は、あらゆる
歪みを生み出します。


なぜなら、自己の志向性が働かず、
閉じているからです。




真面目な人、成長意欲が高い人ほど、
特にこのバイアスがかかりやすくなりますが、




本来、下地である基軸さえあれば、
相性の配慮によって、柔軟さが生まれるのです。




人を見て、その根を見て、
そこから環境を変える、




円環超克理論的に書けば、
「内の内」は「外」なんです。
��小冊子を見た人は分かりますよね)






故にunreveは「加減」を構築に
取り入れています。

2014/11/30

自己中心でいこう

FCを展開する際において、
一番大事なのはやろうとする意志です。


その為には「人からどう思われるか」、
を克服する必要があります。


もちろん、我々は社会性を持っているので、他人の視線が
全く気にならない人はいません。


つまり「ある程度」は必要であって、
それを完全に消す自分になろうというのもまた、間違っています。


完全主義者や感受性豊かな人ほど
他者の視線や意見が気になるもの。


しかしいつまでも自分を否定し、不足感から
完全なものを目指す道を選ぶのは避けたいものです。


☞ ☞ ☞


さて、中小のフランチャイズ展開とは、同業他社からすれば
少なからず注目を浴び、視線を受けるものです。



応援するという歓迎的な視線ならいいのですが、
今の経済社会は全体主義に近いものである以上、
決して好まれるものだけではないでしょう。



自社の事を一番よく分かっているのが経営者ですから、
そんな他者の視線を感じ、自社のマイナス面に気を取られたりしますが、
先ほど書いたように、弱みにフォーカスし、
それを克服しようとしても完全なものは不可能です。



逆に克服しようと思えば思うほど、
余計に客観的なものが気になってしまいます。



これでは何かをやろうとする前に
神経が参ってしまいますよね。


☞ ☞


ビジネスに限らす、人間にだって長所、短所があります、
長所だけ、という人はこの世界に存在しません。


長所を別の視点で見たら短所に映るもの。
物事には裏と表がある以上、一面だけは取れないのです。


コインの裏を消そうと思っても消えません。
両面を同時に受け入れ、認めなくてはいけない。


しかし、そんな弱さをも認めることは、決して悪い事ではなく、
逆にその人の魅力に繋がるのではないでしょうか。


よく「2:6:2」と言われるように、人の評価は曖昧で多様。
どんなに素晴らしい人でも必ず2割の人からは嫌われると言います。


逆を言えば、そんな自然の摂理があるからこそ、
僕らはその多様性を失わないのです。


間違っていけないのが、騙し欺くことや
支配、独占のようなものは短所ではありません。


それはただの厚顔無恥であって、
商売をやる以前の問題です。


☞ ☞

恰好が悪くとも、デザインが良くなくとも、癖があっても、
前向きに自分流を貫いている人は、魅力的です。


他者へ向けた正当性は時として争いのタネになるけれど、
自己へ向けた正当性は自信や情熱のタネとなる気がします。


2014/11/19

対話による場の形成理論

unreveは対話による「場の形成」を提唱してますが、
それは対話する「言葉の内容」が大事なのではありません。



大事なのはメールや伝達文書や電話ではなく
お互いがその場にいる事で発生する空気感。


こう書くとなんだか非現実的な感じですが
逆ではこれは生まれないのです。
(生まれない、というかネガティブ・フィードバックになる)


例えばネット、距離が離れた相手が
文字だけで空気感が生まれる事は、まずありません。


賛同者なら集まるでしょう、ただそれは各自が持つ
それぞれの価値観と一致しただけのこと。


例えば、この国でもFBによってデモが起きているけれど
それは個の集約ではなく、集団からの派生です。



今日はそんなリゾーム派生「場と対話」について。



ヤン・シュヴァンクマイエルの作品



さて、言語化とはその性質上、どうしても相対、二分されます。



例えばある対象「A」を言葉によって名づけた、とします。
対象は名詞(太郎)でも良いし、形容詞(楽しい)でも何でもいい。



それを名付けた(言語化した)時点で、世界には
必然的に「A」の他に、「NOT A」が生まれます。


「太郎」を名付ければ、それ以外は「太郎ではない」、
「楽しい」は「楽しくない」がセットです。

よって「正しい」を叫べば、必然的に「正しくない(間違ってる)」
が派生し、それが違いとしてではなく「悪」に転じます。



よって自己が正当化されると、その対極には
敵(NOT 自己)がいるのはこの言語世界の原理なのです。



そしてこれこそ、人が対立する根っこであり、核心。
我々は言語から支配されているのです。

☞ ☞

例えば、原理主義は「絶対」を生み出します。
しかし、歴史上それが万人に認められた試しはありません。
理由は上記を見れば明らかです。

この罠に陥らない為には、まず多元的・両義的にすることです。



ざっくりとした分け方では二項対立するだけ、
お金だって「必要」と「不要」に分けたら、おかしな対立となります。

必要だけど、それほど必要ではない。
そんな「最適」の状態は自分しか分かりません。

よってできるだけ多くの状況を想定し、
それら関係性が複雑に結びついている事を、まず知ることです。



そうすると、言葉(言語)というものが
ある種の「ネットワーク形態」を持ちだします。


この状態が、ご存じ「リゾーム派生」です。


その為に様々なニュアンスを用いる


そのネットワークの結節点や揺らぎの部分に、
自分にとって、最適な思考やあり方が見えてきます。



「私はこの部分は賛成だけど、ここは違うな」とか。



それを発見するプロセスが「会話」であって、
それを他者が理解することが「場」の役割なのです。



あるでもない、ないでもない。
白でもない、黒でもない。



当然、最初は朧であり、曖昧模糊としたものです。
ただ、それが圧縮していくと、自然に法則性が出てきます。



これが「大体の志向性」を持つことで
その場にいた全員が「最適な立ち位置」によって
抑圧なく、足並みがそろうこと。




これをunreveでは「自己組織化」と呼びます。


2014/11/17

有と無と道

リゾームと言う全人格的な人間の相互作用の働く場では、
「場の可能性」を孕んでいる。


例えば芸術や文学、宗教などは、象徴や比喩を自然発生させ、
それはかれらの全人格によって生まれる。


反面、カースト的な階級ないし序列の体系とは
安定感こそあるが、維持が目的の為、
法律、政治的構造ではその可能性は薄い。



今の時代に限らず、
現状維持とは後退していると同じ事なのだ。


上司がリスクを負って革新的な事業に向かうのは
ドラマか漫画の世界であって、本来はリスクを回避する傾向にある。



可能性とリスクはコインの裏表であって、
可能性を提案するということは、言わば「リスクを提案する」事だ。


情熱の伴わないトップダウンのリスク、誰も回避したがるだろう。
ボトムアップからでも途中の関門によって、保留されるか、消される運命だ。


保留された水は淀み、腐る。
流動性のない場は、この階層区別とリスク回避が原因だ。


☞ ☞ ☞


一体なぜだろう。
それは前者は、数(量)で人を見ているからだ。
政党のように、「多いか、それとも少ないか」で区別・評価する。


後者は、平等な個人で構成される未組織(非構造)、
かつ相対的に未分化なである。


共同体や仲間集団において、
相互に構成し合い、相互に必要不可欠のものである。


階層派ともいうべき相手から見れば、
リゾームの存在は危険な無政府状態に見える。


それは多分、アンリ・ベルグソンでいう「閉ざされた道徳」のように、
本質的に限定され構造化された排他的集団のもつ規範の体系だからだろう。



オウムはまさに「閉ざされた道徳譜」を持った集団だった。
ただ、そこには教祖をトップとした秩序ある「階層集団」だったのに気付く。


階層派は、規定や法律といったシステム化。
つまり禁止や条件づけの防壁によって、その状態を維持しているのだ。



聖職者とヒッピーの集団はどちらが危険か?
スティーブ・ジョブスはヒッピーであり、
ジハードを正当化するイスラム教徒は聖職者である。



先入的なイメージには答えはない、
我々は本質を認識しなくてはいけない。



☞ ☞ ☞


システム論の本質とは何だろう?
システム論はいわば自己維持を目的論的対象とする機械論という考えだ。
反面、我々は動的な関連の中にあってこそのシステムである。


��仮に)人間を集合論で片付けるならば
分析によって正確かつ、絶対的な組織法則が出来あがるだろうが、
一体、それはどこにあるというのだろう?


つまりはFCに限らず、組織管理システムとは微分方程式、
「論理自体が非論理的」という笑えない話なのだ。



これからの組織論を考える際は、構成する「人」と、
「集合体」について再度認識を変える必要がある。


社会学者であるG・A・ヒラリーは、
「共同体」という言葉の定義を九十四種も再検討した。


そして、人々が共同体に含まれているという概念を超えては、
共同体の性質に関する完全な同意はない、と結論付けている。


リゾームが概念ばかりで、とらえどころがなく
はっきりと固定できない理由はまさにここにある。
それらは中心がない、中空的な構造をしているのだ。



老子はそれを車の車輪に例えている。
車輪を構成するスポークが集まっている中心は穴があり、そこは空所である。


車輪を動かすためには軸を入れる場所が必要で、
また、そこは無でなければ役に立たないのだ、と。


imagesCAA5PPI8.jpg


我々が日常使っているコップもそう、
真ん中に空っぽであるからこそ、中に満たすことができる。


水墨画の余白の間、枯山水の余白の間、
家でいう窓と扉、女性の子宮もそうだろう。



つまり無(空)は、単独で存在するのではなく、
有であるその物事に付き従って、その物事をしっかりと働かせていくという、
離れる事のできない「絶対的相互依存の関係」なのだ。



世の中の物は形あるものから生まれ、
形あるものは形ないものから生まれる、



老子の説く無とは「0」ではない。
あらゆる「1」を作る可能性をもつ「状態」なのだ。


☞ ☞ ☞



リーフ理論では「無(状態)」の概念として
「間・あそび・ゆらぎ」を取り入れている。



よって有である場所に「空間」を作ることで器が出来る、
否、勝手に出来あがる、というべきか。



空間は概念であるが、「強制しない状態」である。
やらざる場をつくるのではない、「やりたくなるような場」を作るのだ。



厳密には立場や役割りではなく、
老子で例えるならタオ(道)の働き。


名の無い「道」、そして名の有る「無と有」。
無は無でなく、無という名が「有る」。


やり方(方法)ではなく、在り方(状態)である。


反面、秩序だけで作ったものは中身がぎっしり詰まった
静的な立方体にすぎない。


そこに何が入ると言うのだろうか?
固定した部分になるしかないのは必然なのだ。


☞ ☞ ☞


労働基準法でいう「休憩1時間・週40時間労働」なんて決まりは
リゾーム化された場所では必要ない。


会議は1時間なんてものもないし、定例・定刻もない。
各々が思い立った時がまさに吉日だ。


このような非構造的な特質は中心が無い、
中心は無であっても、構造上の機能には「無」は絶対に必要なのである。



大手チェーンは手書きポップの活用が少ない、
現場を一番知っている店長の権限は少なく、会議は数字の発表会だ。



そんなチェーン店からは何も生まれる事はない。
中小のFCは逆にチャンスである。



他資本であるFCは(本質的に)リゾームに馴染む。
私はそう思っている。

2014/11/11

見えない秩序

知り合いの方から一冊の本を勧められました、
原広司氏という、建築の方が書いた本のようです。


集落の教え100/彰国社
¥2,625
Amazon.co.jp

これは建築論、というよりも哲学。
まるでレヴィ=ストロースのような切り口です。



読んでいる途中、この本を勧めた理由が分かりました。
僕の構築論を暗喩的に表しているかのようです。



「集落が好むのは、不動なるものではない。絶えざる変化であり、展開である」



この分野でシビれたのはガウディ以来です^^


☞ ☞ ☞
氏の作品である「ディスクリートな社会」とは
全ての個人が自立し、全ての集団が自由に組み込まれるという、個人と集団が対等である社会。


言わばオーバーレイ、「重ね・合わせ」の世界です。






単一のシステムで社会がコントロールできないならば、
無数の価値観によって、社会は流動していきます。



つまり個人の思想には興味を示さない時代、
全体の批評性が消えつつあるのです。


ただ、それは見えざる秩序によって統御されています、
見えない秩序「ナニカ」がある。


曖昧だけれど、野放図ではない、
そんな、見えない糸のような秩序が全体を覆っているのだ、と。


それがオーバーレイの原則だと言います、
つまり求心的な空間の様相を作りだしているのです。


計算されつくしたデザインは矛盾から秩序を作り、
偶然性や自然発生的なものとなる・・・。



曰く、近代建築がある程度終焉を迎え、
誰も新しいイメージを提示できなかった際、


2つの方向性に分かれたと言います。
一つは今までと変わらない権威的なアーキテクト、
つまり寺院や宮殿のように、作り手が「ハッキリ」しているもの。


もう一つが集落や民家の様な
特定できない共有人格的に作られるアノニマス。


氏はどちらも肯定していますが、
秩序の作り方を後者(アノニマス)に求めたんですね。


うーん、すごい分かります。
建築は同じようなものを作ってはいけません、
という教訓なのかもしれません。


以前書いた、地方のロードサイドが
どこも同じ景観というファスト風土化論を思いだします。


☞ ☞



そこには境界というものが重要になってきます。
単に重ねるだけでなく、空気をも作りなおす。


やはり、場所には力がありますね。
unreveの場の理論にも取り入れさせてもらいます。




ありがとう、Y君。
また良いのあったらよろしくね(笑)


2014/11/10

繋ぐ

「自分のものだ」という所有欲が強ければ
事業の継承は難しい。



だからといって全てを
「あなたのご自由に」とするのも、どうだろう。



全ては借りもの、預かりもの。
次の世代へ、どう繋げて行くか。



この視点が大事だ。


そう思えば、自分はどうすべきか
考えれるようになる。



より良い世界の轍となるために、
何を残し、何を捨てるか、考える。




それだけで、不思議と仕事が面白くなる。


気合い抜いて行こう~

こんにちわ坂口です。
みなさん、肩こりとかありますか^^?


僕は生まれてこのかた肩こりというものを
体験したことがなく、周り(特に女性)から羨ましがられます。


中には「グッさん、あんま悩みなさそうやからね」と、
間接的に「バカは風邪ひかないから」的な意見を頂くのですが、



悩みくらいあるわ、ボケ(・∀・)



というわけで、
今日はそんなリラ~ックスな小話を。









そもそも、僕らは無意識的にも何かしら、
考えたりしているものです。



無意識の思考は1日5万とも6万とも言われます。
ですから、常に力んでいたり、緊張したり、と
過剰な負荷がかかっているんですね。



重力と同様、我々は常に「負荷」がある、
それも自ら進んで、重い方を選んでいるんです。



身体が軽いとか、調子が良い時とかは
この「負荷」が取れた状態なんですね。



よく「羽が生えたようだ」と言いますが、
そうではなく、「もともと羽がある」のです。



☞ ☞



「軽率にならず、良く考えろよ」と言われたり
「気合い入れて行こうぜ!」と言われますが、


これは正しい言葉に見える「負荷」です。
僕もたまに言っちゃうんですけどね(笑)



中には毎日気合い入ってる人もいますが、
そこまでのポテンシャルはありません(笑)



だから基本的に省エネ、
大事なポイントだけ集中します。



例えば、僕のエネルギーが100あるとします、
それが緊張した時点では、すでに50消費した状態です。

そうなると全力である100を出しても
最初の状態と比べると、残りは50しかありません。

逆に緩和して20の力でいるとします。
そうなると全力を出した場合、残りは80。



経験上、対象を深める、もしくは高いパフォーマンスを出す場合
その緩急の差が大きければ大きいほど、高くなります。


舞台の本番や営業活動もそうではないでしょうか。
硬直や緊張をすればするほど、上手くいかないものです。

よって「ここだ!」と思った時、いかに集中できるか、
いかにエネルギーを出せるか。



これが僕なりの理想状態です。


野生の動物をみればそんな感じかも。

気合い抜いて良いと思います。
しかも、タイミングや機を逃さない
「最適な状態」に留まるって、以外に難しいんです。


「よっしゃ、やったるぞ!!」という状態は簡単、
だけど数日ですぐ電池切れしちゃう。



だから「ルンルン」くらいの状態を常に維持する。
これも一つの自己管理だと思います。

また、そんなリラックスが理想状態だからこそ、
それがリソースとして再度使えるようになる。



ビジネス風に書くとそんな感じです。



そんなわけで、
今日もルンルンでお仕事します( ´ ▽ ` )ノ


2014/11/04

キラキラした人生

最近「キラキラ女子」という言葉を
耳にしました、遅いですな(笑)



おしゃれで、かっこよくて、お金も持ってて、
セレブ男性たちとの交流にも積極的・・・
そんなイメージのようです。



なるほど。俗に言う
「スーパーマン」ってやつでしょうな。



ただ、みんなスーパーマンに
なりたいんでしょうか?僕には到底無理です。




そういや、それに合わせてこんな記事も
載ってましたね。



アムウェイにキラキラ・ロハス女子が急増中で新たな危険性を指摘する声




若者の「やりがい」を餌にする企業が
最近目立ちますが、結局は同じことでしょう。



ホスピタリティ・やりがい・キラキラ・ありのまま・・・・


もちろん、それは素敵なことですが、
時として、強迫的な原理になってしまいます。



ポジティブは使い手を選ぶ、と。
そんなわけで、今日は加減の定義と組織論について。










ミエミエ


さて、我々はどうしてもモノゴトを
ポジティブに捉えたがる傾向があります。



先ほどの件にしても、都合良く
使われているにも関わらず、



「やりがい」や「利他の精神」を求め、
別に欲しくもないものを追いかけてしまう。



これが、すごくしんどいわけです。
「綺麗でキラキラ」ってやつは
目的として十分だ、と思いがちですが、
そんなわけありません。



そもそも、過剰な正義や純粋や愛の
行き着く先は、めちゃくちゃ硬直化して、
めちゃくちゃ生きずらい世界だと思いませんか?



それを頭の中だけで作ろうと思えば、
人間離れした漫画のようなモデルさえ生まれます。



そこに我々(弱者)全てを同一性として
回収しようという「強者の意図」、


それにもう、いい加減
気づいたらどうですか、と。



☞ ☞ ☞



世界が矛盾を無限に繰り返す以上、
答えは常に手探り。これはもう、どうしようもないこと。



故に「揺らぎ・遊び」を経験しながら
自分という唯我を、独尊に仕立てるもんだと
「僕は」思ってます。


仮に、ポジティブが絶対的なものになれば、
誰も、それに対して異論を出しません。



正義は正しく、利他の奉仕は絶対価値であり、
愛は地球を救う、と。



そして、いったんそれが定義されてしまうと
我々は考えることを放棄してしまうのです。



しかし、意図的に思考停止させる、ってことは
逆を言えば、誰かが思考して「そうさせている」ってこと。


そんなものを持ちだした、全体化である
ナショナリズムなんて、個人化にすぎない。



そこに代替可能な「キラキラ」を出せば、
代替不可能な「苦しさ」は隠れてしまいます。




その結果、「個人の疑問符」は消えることなく、
頭に棲みつく。



つまり共同体内にいながらも
個人はバラバラのまま、ということ。



それって、一人より
さらに孤独になってしまいませんか。




だから僕はSNSの光だけでなく、
同時に影も見るんです。



☞ ☞



昔流行った(今もか)自己啓発だって
出来ない個人の持つ苦しさや葛藤は
置いてきぼりなわけでしょう、



キラキラできない、けど求める。
やりたくない、けど、やらないと自己が保てない。


まさにアンチノミーが起きてるわけです。
そんなものに人を結び付けるような力はありません。



その反動でエゴイスティックな個人が
「変わらない自分」に価値を見出そうとしてますが、



それは、異端・異質・ありのままという
対極に向かっただけであって、同じ環の中にすぎない。




☞ ☞


本来、こういった経験はめんどくさいし
イライラするし、投げ捨てたいものです。



世間が当たり前だと思われていることに
一つ一つクエスチョンを投げ入れ、


そこから妥協点を探し、自己を変容させる。
この変化のプロセスが「自己中心」ですから。

しかし、そこで掴んだものが
本来の「手前(自前)の考え」であって、



自分のものでもあり、他人のもの、といった
主客未分の「慣習」であり、境界線になるわけです。



それこそ、加減でしょう。
「これ以上やったらダメだな」って感覚で分かる、と。




その素材すら持たずすでにある完成品を
丸ごと受け入れるのが、今の流れではないでしょうか。


なるほど、確かに今の若者は
面倒なことに対し、全く興味を持たないけれど、



何らかの共同価値に帰属していないと
「取り残される」とういことだけは感じているようです。


しかし、そこで夢中で掴んだものが、
ナショナリズムならば、元も子もありませんわ。


☞ ☞


我々が、普通に生きて行くならば、
他者の意見を受け入れ、組み入れないといけない。



これが独立(特に講師業)になると
他者の意見を排除する傾向が高まります。



だって、自分が先生になって
その意見を一方通行で聞かせる仕事ですから、



参加者から「その意見はおかしい」
と言われると「だったら来るな」で片付くわけです。



しかし、組織(共同体)で生活すれば
「その意見はおかしい」なんて日常茶飯事です。



故に、場を形成する必要性を
unreveではお伝えしています。




全員が講師業で飯を食うなんてありえない。
故に、共同体・組織論は経営の永遠のテーマなのです。


2014/11/02

場の論理について

現在の経済下で起きている大きな潮流とは「解体と統合」である。
大手を始め、この流れが加速している。


解体とはリストラだけでなく価値の提供システムの機能解体である。
つまり、新しい価値を提供する為に、外部組織と再構築する事だ。


端的に書けばそれは関係性ともいえる。
関係性のベースとなるのは顧客へ「何を提供するか」が共通言語としてなくてはいけない。
この認識なくして解体も結合も成り立たない。


分散型で機能する組織を作ること、いわゆる相似的なアメーバではないだろうか。
各自が独立した機関として繋がる、それは一枚岩ではなく、何重もの層で構成されているようだ。


この分散型組織にとって重要なことは、外部との調和である。
なぜなら自律分散型は、それ自体では提供する価値に限界がある。


よって従来タイプであるヒエラルキー型の組織ではない。
私は従来とは違うその組織を、リゾーム型と呼んでいる。



これは観念・概念的特質から、定型がない。
よって体系化できないというイメージから理想論だと思われがちだ。



しかし本質はここにある。
今回はこの分散型の集団で成功している例をご紹介しよう。



それは指揮者のいないオーケストラとして有名な
「オルフェウス室内管弦楽団」である。


1972年にアメリカで創設され、「音楽界の奇跡」と呼ばれている。
奇跡と書かれると何だか例外みたいに扱われそうだが(笑)


ただ、この例は組織を運営する手法としても経済界でも注目されている、
楽団の名前を取って「オルフェウス・プロセス」と呼ばれている。


日本にもオルフェスと同じ指揮者がいない楽団がある。
東京アカデミーオーケストラ、「TAO(タオ)」である。



これら2つの楽団の共通点は実に興味深い。
なぜなら私のリゾームと(ほぼ)変わらないプロセスだからだ。



それは「リーダー不在」ではない。
むしろどの組織よりもリーダーが多いのである。



例えば対話、指揮者がいない為、全てを全員で話し合っている。
これは私の言う「対話と共創」である。


当初、タオは発言する人としない人が決まっていたらしい。
自分の演奏を棚に上げて他人に意見することに、ためらう人が多かったそうだ。


納得、実に日本的である。
この空気感による役割と責任の押し付けは日本ならではだ。
船頭は一人で言い、この罪的側面が組織では当たり前であった。



そこでタオは演奏だけでなく、運営も入れた表裏両面のマネジメントをそれぞれが担わないと、
結果は伴わないということを体験的に知ったのだ。



それは「同じ景色が見えているかどうか」、それに尽きる。
例えば全員で絵を描くとしよう。それには全員が全体像(完成図)を知らないと何もできない。


自分の与えられた部分だけ塗っても何を作っているのか分からない。
絵なのか、ただの落書きなのかの区別すら付かないだろう。


そこで対話によって共有する部分を増やしたのだ。
泥臭いが王道なしである。


その結果うまくいったか?と言えば、答えはNOであった。


曲の全体像はわかっていても、テンポやコントラストなどの
方向性は共有できない、それは実際に合わせていく過程で分かったという。



結果、始めにそれぞれが思っていたのと違う絵になったのだ。
このプロセスは私も体験している、実にもどかしいし、正直めんどくさい。
しかしタオのメンバーはそれを「そこが面白い」というのだ。


言わばここが文化と経済の決定的な違いである。
ビジネスに置いて、ここは面白さではなく「リスク」なのだ。



しかし、各自が自立した状態で協働すれば、考え方や意見の違いはつきものだ。
それを曖昧にせず、意見を伝え合うことが大切なのだ。



私はそれを「場の創造」と呼んでいる。
見えないし体系化できない「場と空気」、これをデザインする為、
私は哲学を用いているのだ。




さて、次にオルフェウス・プロセスの定義を見てみよう。
ここでは道徳的な「外律」を用いている。


オルフェウス・プロセスの8原則

(1)その仕事をしている人に権限を持たせる
(2)自己責任を負わせる
(3)役割を明確にする
(4)リーダーシップを固定させない
(5)平等なチームワークを育てる
(6)話の聞き方、話し方を学ぶ
(7)コンセンサスを形成する
(8)職務にひたむきに献身する


批判ではないが、経済学という「手法」で体系化すればこうなってしまう。
「在り方」を「やり方」にしてしまうのだ。



権限・責任・役割・変動(固定しないことから)
そして平等・対話・一致(コンセンサス)献身。


これは内部と外部の混合された状態だというのが分かるだろう。
さらに自立と自律ができないと、机上の空論である。



これを帰納法にはできない、責任と権限と役割が伴う以上、
自由ではないし、無私でもない。


これをどこでも使えるようにシンプルに編集する、
これがunreveの意義であり私が回帰した結論でもある。



私がなぜ、教育だけでなくビジネスにも多様性を追及しているのかは、
本質が多様を前提とした統一、西田氏の言う「絶対矛盾的自己同一」から来ている。


生命物理学、清水博氏の著書「生命知としての場の論理」内には
「場の情報は場所を超越的観点から見たときに、自己の中に生成する情報だ」とされている。


超越と聞けば首をかしげるが、つまり質のことである。
量から質へのシフトなのだ。



ただ、これに異論がある人もいるだろう、
「そんなの、結局仕事ができる少数精鋭の集団じゃないか」と。


つまり全員の能力が平均して高いからこそ、実現するのだと言いたいのだろう。
しかし私はこれに異を唱える、そんな単純なものではない。


能力がバラバラである事は、質の悪いリンゴの集まりではない。
リンゴだけでなく、ブドウやミカンやパイナップルの集まりとして捉えるのだ。


現在の人材マネジメントを見れば成果を出すために特化した「足し算教育」である。
リーダーやエリートの育成にばかり目が行き、成果重視である。


それを否定しない、否定しないが積極的に肯定もしない。
意見がないのではなく、それを編集し、日本に馴染ませるのが正しいのだ。


なぜなら我々日本人の多くは強引なことに弱い。
押し付けや強引さは窮屈に感じてしまい、どこか引いてしまう気持ちがあるだろう。


それはこれが我々の特質だからである。
されたら否定するはずが、現在は肯定的態度になっている。
この矛盾点に気づかなくてはいけない。



松岡氏には積極的な引き算という概念がある。
合理主義者の目から見れば、すぐにでも排除すべきものであるが、
その無駄があることで、モノ・コトとしてのありようが安定性、強靭性をそなえるものという定義である。



車のハンドルの「あそび」のように、引くことで本来導き出したいことをより引き出す。
私はこの意見に大いに賛同する。



当然、「あそび」は行き過ぎれば文字通りの「遊び」となる
映画「釣りバカ日誌」みたいにはいかない(笑)



だからこその編集作業だと思い、
私はsv不要、つまり「指揮者不在」というカリキュラムを作っているのである。



それは日本の美徳である。格差はあるが、差あるものを切り捨てない。
それを社会や集団という組織に組み入れていく、という寛容さがある。



現在それは競争原理の為、格差があらわになっている。
原因は男性原理である体制主義や保守、利己的なヒエラルキー構造だからだ。


ひとごと目線では誰もが「なあなあ主義」となる。
それは無縁社会で起こっている解体のような気がする。



解体と統合について書いてたら、いつものようにまとまらなくなってしまった。
言語化とはそんなものだ(笑)

みんなで孤独、何も共有していない者たちの共同体

最近、アルフォン・リンギス氏の著書、
「何も共有していない者たちの共同体」を読み終えたのですが、



心理学的観点から見た他者との関係性と、
哲学的観点から見た他者との関係性の対比は興味深い予測が生まれます。






はい、完全にオタク的な趣味です(笑)







今日は共同体にある社会対人について。
あくまでも個人的な意見です(。・ω・)ノ゙







マサチューセッツ工科大学の教授で臨床心理学者
Sherry Turkle氏は著書「Alone Together」でこう警告しています。




SNSなどのソーシャルテクノロジーが感情的な危険を犯さずに
人とつながることのできる関係を築く手助けをしてくれているようにみえる。



しかし、そんなのは完全な幻想であり、
実際にはより孤独であり、より精神的なプレッシャーを与えている。



また、自ら物理的で雑多な、混沌とした生活から
抜けだそうとすることによって、私たちは外に出て
新しいことに挑戦してみる姿勢を失ってきている、と。





みんなで一人(孤独)という言葉は
なるほど、的を得ていますね。



「みんなぼっち」ということでしょう。
繋がることで、僕らはますます孤独になる。



ちょっと極端かもしれませんが、
大事なのはその「繋がり方」、まさに方法でしょう。



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昔の血縁、地域縁、社会縁の組み合った共同体が
崩壊と言われずいぶん経ち、社会は現在、対人の社会サービス基盤を渇望しています。



関わり方がますます閉鎖的になると、
さらに加速するでしょう。




結局インターネットでは心の隙間、
人と人との「間」は補完してはくれないようです。



つまりツール(枝)であって、基盤(幹)ではない、と。



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今までは道路やらセクターやらの
産業重視の基盤を作ってばかり。



肝心の「対人基盤」を置き去りにし、
目に見えるインフラばかりに目が行ってました。



共同体のシンボルを所有することで人は必然的に満足するだろう、と。




ただ、家を買えば家庭円満にはなりません。
確かな基盤とは、見えないところから派生するのではないでしょうか。




そもそも「関係性」というものは
タダで安心できるものではなくてはならない。




ツールに目を向けても本質は変わらない、
必要なものはそれとは違う場所にある気がするんですね。





時には煩わしくもあるけれど、
安心できる場所。




この「安心感」はお金では買えないものだと思います。







2014/10/20

大須~

昨日に引き続き、名古屋編。
忙しいと、こんな手抜きブログになります笑





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帰る前に大須に寄りました。



大須と言えば、やはり大須観音。
やっぱり今日もハトの大群(笑)



ラピュタか





お昼ご飯は有名な「橋本」さんへ。


今回はそこまで待たなくてよかった。




橋本さんと言えば「ステーキのひつまぶし」。
これをやってる店は全国で数店しかありません。






食べ方は鰻と同じ。
そのまま、薬味、最後はお茶漬けです。





とにかくお肉がベラボーに美味い。




しかし絵面は汚い(笑)




これ、QBCの通販で売りたいけど、
原価が合わないので見合わせてるとのこと。



納得。しかも焼き方とかシチュエーション
ありきだからなぁ。



まあ、そんなこんなで
腹いっぱいのまま、帰りました。




大須で唯一のお買いもの、黒ぶちメガネ(笑)





来週は京都どすえ~