~私はただ人間、そして人間性というものの必然の生き方を求め、自我みずから欺くことなく生きたい、というだけである。私が憎むのは「健全なる」現実の贋(にせ)道徳で、そこから誠実なる堕落を恐れない事が必要であり、人間自体の偽りざる欲求に復帰することが必要だと言うだけである。人間はもろもろの欲望とともに正義への欲望がある。私はそれを信じ得るだけで、その欲望の必要的な展開については全く予想がつかない~(堕落論p128)
安吾氏が様々な思想や哲学によって回帰した答えではあるけれど、僕は賛同できません。結果論から見れば、これは単なる快楽主義です。「堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない」というのが自論だった坂口安吾は49歳にして亡くなりました。はたして、彼は自らを救えたのでしょうか。
プロセスは分かる、けれど拒絶する・・・
そんな矛盾した答えが僕の中にあります。
今回はそんなとこから分と加減の小話を。
西洋思想の根幹をなすエゴ(自我)は人間の一部であり全体である以上、捨て去るものではなく、向き合わなくてはいけません。問題はその「向き合い方」、エゴは拡大するだけで加減を知りません。
料理で例えるならば、アメリカは塩をドバっと入れてその帳尻を合わせるためにまたドバっと水を入れるようなもの。必然的にアメリカは大味で、それを良しとしている所があります。基本的に加減を知らない為、繊細な味は出せない(出したくない)。ボリュームとカロリーだけはやたらと高い(笑)
そんな帳尻合わせが大の苦手なもんだからグローバル化したりFRBで無尽蔵にお金を刷ったりしながらでもどうにか合わせる(合わせるけれど重ならない)。
「微妙で曖昧」なものを、「チマチマしている」と思っているので、食べ放題、取り放題、やりたい放題というものが自由だと思ってしまってる、端的に言えば彼らは「放題」が大好物なのだ。だからぶつかればお互いの主張は強いし、止まらないので弁護士が白黒付けないと気が済まない。「しつけ係」の宗教でさえ、取りこんでしまっているのだから、余計にタチが悪い。
ただ、この方向性が上手く行けば、ロケットとか特効薬とか新技術をバンバン作る「革新」になるし、排他的・閉鎖的じゃないオープンな関係性だって作れる。大事なのは方向性です。
日本の生活様式も今まではデジタル化、いわゆる白黒論を優先していました。それは
多様な自我を最善へと向ける。
そんな矛盾したものを合一させるのはこの国のお家芸です。
二宮尊徳の思想「報徳」は裏を転じて表にするという循環性を説きました。元々は論語から来ています。報徳には勤労、分度、推譲の3つのルールがあり、分度とはunreveの加減。自ら判断し、ブレーキをかける事で、そういった自律的な加減をこの国では「裁量」とも呼んでいます。
そんな自我を抑える自己、利己を抑える利他はマクロもミクロも過去も今も変わらず続いているのですが、継続性を考えると「分や裁量」という自律の精神はこれから大事になってくるのではないでしょうか。
長くなったので次回に続きます^^
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