2012/02/05

自主性秩序と暗黙知

ケインズとハイエクの論争は有名である、
端的に書けば自由社会と計画社会の対立だ。


ケインズかハイエクか: 資本主義を動かした世紀の対決ケインズかハイエクか: 資本主義を動かした世紀の対決
(2012/11/22)
ニコラス ワプショット

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極端な自由と極端な管理、この対立構図はどうしても起きる。
思えばアインシュタインとボーアも同じような概念だ。


そしてこの決着(統一論)は未だ提唱されていない。
そもそも両方は共に完璧ではないのであって、両立の模索が必要だと感じる。



「男性と女性はどちらが正しいか?」という質問はナンセンスである。
重要なのは、互いは補完しあう関係性だという認識を持つ事だ。


さて、経済は現在ケインズ主義である、アベノミクスは
政府が積極的に市場に介入するという、ケインズの経済理論そのものだ。


それは曖昧な期待と漠然たる不安の両方を与えている、
復興か?それとも破綻か?



当たるも八卦で考えれば、そのどちらにも可能性があるのだが、
概念として考えた場合、今の社会構造は戦後から全く変化していない、
つまり産業構造は老朽化していると考えられる。



その老朽化している状況を知らず、改革を行うという事は
例えるなら、瀕死の状態下でさらにショック療法を与えるようなものだ。



それは逆に均衡からはずれるような気がしてならない。
現在は資本主義の限界を包含しているのではないだろうか?



希少性という経済学の大前提が崩れ去った。
現在は過剰性から派生した「豊かさゆえの貧困状態」である。



ケインズの予想したのがこの「豊かさの中の停滞」であり、
まさに現在、人の関心が「モノ」に向かわなくなっている状態と同じである。



その「満腹状態」にさらに食事を与えているのが現在の資本主義であり、
政府の介入なのだが、当然それを喜ぶのは大食漢(大手企業)くらいだ。



その負担は末端労働者に向けられる。
それが約4%の失業率であり、ワーキングプア、フリーター、派遣労働であり、
産業空洞化や地方の疲弊なのである。



貨幣は徐々にマネーゲーム的なものとなりつつある。
それは競争して、勝ち抜けするだけのものである。



それと並行して人々は「何か別の価値」を探し求めている。
市場原理と我々の目的は間違いなく変わってきているのだ。



この限界とアンバランスさをいち早く知り、新しい価値へ転換した企業が
次世代をリードする役割をはたすのではないかと思っている。



そこに必要なのがポストモダンな価値の創出だ、
それは成長モデルではない、「脱成長モデル」なのだ。



そこでようやくハイエクの登場である、
中にはハイエクを「完全な個人主義の冤罪腑」と思ってる人がいるが、それは違う。


ハイエクにとって自由とは「強制しない事」である。
自主性秩序とは、非強制においても機能しうる人格のないメカニズムである。



駅のプラットフォームで、我々は足並みを揃えて電車へと乗り込む、
あの大震災では、自生的なコミュニティが生まれた事を実証した。



それは軍隊的に指導されたパレードではない。
指揮者もいなければ管理者もいないのだ。



それを派生されるように腐心するのでは本末転倒だ、
例えるなら精神的、つまり知的秩序を自らの手によって作るという事だ。




それには当然時間がかかる、また人によって概念も違う。
それらを感知し、包括・統合し全体を認知する様が「暗黙知」である。

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