2015/09/13

直観的ということ




こんばんわ、坂口です(゜゜)



最近、あるブログを見てると
僕の弥栄概念にかなり近いことを
書いてたんで驚きました。



しかも、最近よくある体験から発していない
情報の寄せ集めではなく、全人的なもののようで。



すごいなあ。
僕の葛藤を直観で軽く飛び超えてる。
(だからシンプルな表現なんでしょう)




うーん、お見事。
多分に、精神の痒いところに直接
手が届く人なんでしょうな。




注目したのは、そこにある「あいだ」。



多分に、正確に「描くことができない」のでしょう。
(ここも同じかもしれませんね)




ということで、今日は僕流の「直観」でも。。。。









さて、ベルグソンでいう直観は「直接に観ること」。
観察者ではなく「対象そのものになって観る」という
通常と逆の立場である。




例えば過去に書いた作品を眺めたり、読むといった
「観察側(客体)として相手を理解する」のではなく、
対象(書き手)と一体化し、そこから眺めるということ。



外から眺めるのではなく、内から捉え捕まえる、
相対的に知るのではなく、絶対的な認識だといえるだろう。



ベルグソンに傾倒した小林秀雄の批評方法は
まさにこの「同一化」からの視点であって、



本居宣長の視点、フロイトの視点、ゴッホの視点
「そのもの」になり、そこから批判するという方法を
小林は確立したのだ。



☞☞



逆に観察とは分析であって、帰納的科学であるが、
理性や知性では、実在の周辺しかわからない。



なぜなら、目に見える記号(言葉や数字)とは
「視覚」という部分に頼っているだけであって、
本質(実在)の一部しか示すことができないのだから。



植物の種をいくら細かく分析しても
「なぜ芽が出て、成長するのか」は分からない。
それと同じことだろう。


ロックやヒュームやのような経験主義も
主観的な経験や体験ではなく、客観的な「もの」として
観察しているのであって、直観(経験)ではない。



ベルクソンの視点は「もの」ではなく「こと」にある。
これが有機体哲学と言われる所以である。



☞☞☞



有機体哲学では時間もまた、時計などで
客観的に計測されるものではなく、意識によって
持続的に直接働きかける性質だという。



過去は現在と切り離されているのではなく、
全体の部分として持続している、ということだ。



そこに直観と持続の相互浸透がある。
ベルグソンはこれを「純粋持続」と呼んだ。



(ここは長くなるので割愛するが)
伝統や本来の保守も、この構造だと言える。



歴史を丸暗記して学んだところで、当然それは
見つけることはできず、テクストにはならない。



対象を真に理解するのは頭ではなく、
対象を真に説明できるのは言葉ではなく、



それを習慣的に使用する「わたし」を
限りなくゼロにすることによって、
対象(実在)が入る「余白」から自然派生している。



考えて見れば、ビジネスを始め、
あらゆるアイデアというものはこういった
理性を超えた「余白」から派生するのではないだろうか。



ある日突然、正解が「降りてくる」。
むしろ、それによって直観は直観たらしめるのだ。



古来の巫女が内部に虚無を所有することで、
神懸り的な存在となるのも、そう。
まさに内部の内部からの派生、超克であろう。



それを理屈や根拠などで説明できるわけがない。
言葉で表現しようとすると、途端に観察者となり
本質は消えてしまうのだから当然である。



逆を言えば、それが見えている人にとって
外部(テクスト)はひとつの素材に過ぎない。



神しかり、アイデアしかり、ノウハウしかり、
見えない人が外部を切実に希求するのだ。



☞



ただ、これは「見えるもの」と「見えないもの」、
主体と客体の二元論ではない。



日本流の神髄は三元論、ここに「間(あいだ)」を観る。
「見えるが見えず、見えないが見える」状態であり、
それは円環の精神によって支えられる。



例えば光は粒子(見える)であり波(見えない)が
これもまた、我々の認識が境界線となってる(はず)だ。




そういえば最近、宇宙は認識されるまで存在しないことが
オーストラリアの量子力学研究で明らかになった。



量子論は時間も空間もない「無(真空)」は、
全く何も存在しない空間ではなく「揺らぎの空間」である。



そんな多様で振動された揺らぎの波に満ちている状態が
「無」であって、そこから認識によって「有」へ成るということは、



成せばそのように成り、なさねばそのように成るという
存在と非存在の「あいだ」を我々が決定しているのではないだろうか。



全てがあって、全てがないというパラドクス。
意識と無意識の境界線、間に生まれた我々である。



☞



これを固定した形式で説明することは不可能だ。
そして説明できないこととは、コントロールできないことと同義である。




冒頭に書いた方も、同じような
感覚に陥ってるんじゃないかしらん。




まあ、彼女なら飛び越えそうですけどね(゜゜)




上手に語れる経験なぞは、経験でもなんでもない。
はっきりと語れる自己などは、自己でもなんでもない。

~小林秀雄~



2015/09/11

オタクのちから





以前、社会的に閉じられた製作者が
オタクであり、開かれたものが経営者だと書きました。



個人的にはそのオタクパワー(笑)を
社会的流れに乗せることが大事だと思ってまして、
そこで初めて価値は価値たらしめるのだと思ってます。




オタクパワーと書くと変ですね(- -)
unreve的に言えば、自己中心・内部派生な行為、
順番はまず「自分が先」です。




例えば、お父さんが日曜大工で作った椅子や、
お母さんの「今日はこれをやってみようかしら」で
作る夕飯自体は社会的には独立していますが、
それは見返りも報酬もない、純粋な行為と言えますよね。



そこで、その作った椅子に誰かが座ったり、
誰かが食べることで初めて、その行為は
社会的行為の中に組み入れられます。



つまり椅子や夕飯を「作りたい」という、
内から発するエネルギーが、「座る・食べる」という外部と
相互に結びついているんですね。



では、ここに「強制」が入ってしまったり
権力行使側の「命令」によって成立してしまうと、どうなるか?




今日はそんな所から。。。。









さて、今の資本主義では内から発する「する力」が
強制力を持つ「させる力」の管理下に置かれ、
歪みが起こっています。



これは社会主義のように国有化されても同じこと。
個々の自然派生的な「行為」が「強制力」に
従属している構図はまったく変わりません。




好きなことを商売にするのが
難しいという理由は、まさにここにあるわけで。



例えば絵を描くことが好きで
漫画家になった、歌が好きで歌手になるのは
ある意味、夢が叶ったようですが、



編集者に締切や内容の変更を強制されたり、
常に新曲をリリースしなけれはいけない環境になると、
途端に内部の「する力」が失われてしまう。



もちろん、「届けたい」が「する力」であれば
問題ないでしょうが、そこまでの没頭(無死)の
境地に至る人は稀でしょう。



上手なアーティストは活動を休止したり、
一時解散して個人のやりたいことをやってますが、
それでバランスを取っているのかもしれません。



小林が本居宣長を完成させるまで
要した歳月は実に11年。



これは早い遅いの問題ではなく、
自らの拍子(ペース)でなければ、彼(本居)を
捕まえることができなかったと覚悟してたのでしょう。




☞☞


閑話休題
消費社会において個人の「したい力」は
強制力を持つ「させる力」負けてしまいます。



歴史を見ても、この強制力(させる)の
取り合い合戦ばかりが繰り返されていますが、
これは間違った自由への道だといえるでしょう。



革命だってそう、それをやったところで
権力が消えるわけはなく、「させる力」が移行しただけ。
マルクーゼよろしく、それは「抑圧からの解放」にすぎません。



その結果、解放の後が「引き受ける側」に
自動的になってしまう、と。
ミイラ取りがミイラになる原理がここにあります。




「これからは女性原理の時代だ」とか、
「女性性を解放せよ」とか言われてますけど、



抑圧の「反」が自己崩壊を内包している以上、
倒した時点で、倒した相手と同じになるのは
必然じゃないかな。









さて、unreveのリゾーム派生は既存の組織の
アンチテーゼですが、それ自体が独立して存在できるなど思ってません。



そんなものを理念にしてしまうと痛い目に見る。
自分たちの掲げる道こそ、正しいのだと
思い込めば思い込むほど、です。



素朴に考えればわかりますが、
強制的な観念からの脱出を
同じ強制的な観念で実現できるわけありません。
コーチングしかり、コミットしかり。



目には目を使ってしまうのが、
革命であり、安保であって、それは排除と
選民的な優越思考によって支えられてしまう。



セミナーも似たようなもので、自己実現や
自己解放を求めてもそこに恣意的な「強制力」が働けば
同じ輪の中。ただ向きだけが変わっているのです。



僕はカリスマや教祖的な経営者が信者を
作ろうとしているのが死ぬほど嫌いなんですが、
それは上記と同じことやってるから。



ある概念、ある認識を持っている人が
それを持っていない者に対し、啓蒙だと称し
教育指導した時点で、すでに関係性は固定されてしまう。



結果、その概念、認識を持つ人の情報の
「強制力」は「共有認識」として、ますます正当化され、
権力を持ち出してくるでしょう。



つまり、内部にいると本来の場の形成ではなく
「空気(強制)的」な場になってしまうんですね。



自分の個性を認識した人にはそんな
同調圧力の空気など通用しませんし、
すぐさま境界線に逃げ込むでしょうが



正解探しをやってる人は、その場から
離れられず、だんだん息苦しさが常態化してしまう。



もっとその「息苦しく感じる自分」を
大事にしてもいいんじゃないかしらん。



いくら合わせようと努力しても
どうしても合わないものが個性ですからね。



☞


閑話休題
長くなったのでまとめます。



リゾーム派生が「協業」や「共創」の原理を
守っているのは、こういった背景から。



普段の、日常の、リアルの生活から生まれる
声を出発点にする、つまり「設計書なし」からのスタートです。



それを主体的に考え(自立)、
責任を取り進む(自律)ことで、創造性が開花するのではないか。



僕はそう思ってます(゜゜)



2015/09/09

クエリ的





その抑制を生みだしている原因とは
まさにその抑圧から解放されようとして発する
「言葉自体」である。





例えば「本音で生きる」を選んだ時点で、
その水面下ではそれ以外の言葉である
「建前を使う」を抑圧してると言えるだろう。




なるほど、この国で訳された「抑圧」とは
本来「追放」であるという指摘は正しい。




つまり言挙げし、語れば語るほど
「もうひとつ」はどこかへ追いやられるのだ。




今日はそんな「言挙げ」についての小噺。







ヴィトゲンシュタインよろしく、語ることを止めれば
抑圧こそないが、不可知の中に潜ってしまう。
故に、知ることは抑圧から逃れることはできない。



このもどかしさは
多分に、誰もが経験あるのではないだろうか。




池田晶子は主語なしの「生きるとは」を
生涯求めた結果、カント(真善美)へ回帰した。



しかし、真善美を人類が全員求めているわけではない。
つまりそこには「私にとっての」という主語、
「個別的な問い」が抜け落ちているのである。



さらにアンチ・カント(偽悪醜というべきか)である
自分は無意識的に抑圧されてしまうのだ。



もちろん、真善美を求めるのは素晴らしいことだ。
いじくり回さず、きちんとした哲学的手法で
真っ向から格闘した結果だったのだろう。



しかし演繹的出発でも、帰納的出発でも
その類の解は出て来ないのではないだろうか。



いわばその限界とは、ロラン・バルトで言う
ラングによるものだろう。



普遍性とはあらゆる個別化された
正解を統合し、一つの言葉に断言することであるが、



まさにその「断言した言葉」によって
必然的に「もう一つの解」が抑圧されてしまう。



ラカンはそれを「情報それ自体が堕落である」と
断言したのだが、そういった意味なのかもしれない。



しかもそう断言するラカンもまた抑圧している、アンチノミーである。



そこで日本ならではの大転換である。
二つの意味を統合し、一つの言葉にした。



それが「感謝」であり、「結構」であり「加減」である。
どちらも内包しながら、志向性は上を向いているのだ。



☞☞




個人的に、一方だけで断言できるものは
幸福だけであると思っている。
その他はもう一つが抑圧(もしくは追放)されてしまう。




アベノミクスがマクロ経済において(一応)
功を奏していると言えるが、それもまた片手落ち、内需(ミクロ)の回復が完全に抜け落ちている。


東芝も利益だけに向かってしまい、あのような結果となったのだか、一極へ向かえば起こる必然の流れである。





2015/09/07

肉男(にくお)降臨①







どーも。














肉男です。















あっ、間違えました。
失礼しつれい。




















肉男です。














さて、この間買った本に載ってる店を
片っ端から制覇しようと決めまして、







まずは「お肉大好きたにもと」さんへ
行ってきましたぜ(´▽`)









場所は中央区の舞鶴。
親不孝通りにあるドラムロゴス沿いにあります。






さて、こちらのお店は赤身がメインでして、
備長炭で焼いてから藁で燻すというこだわりよう。




聞けば四国の郷土料理からヒントを得たとのこと。
肉の焼き方には絶対の自信があるということで、
非常~に楽しみです☆







赤身牛の炭焼きステーキを頼みました








写真では伝わり肉いんですが、
とにかく、ボリュームが凄い( ;∀;)ウレシー



塩と葉ワサビ、特製タレがついてます。






美味い肉は、塩やワサビが合いますな。







こりゃ美味い!
赤身ならではの旨みとジューシーさに痺れました。





ついでに気になった「肉握り」も注文。


バルサミコソースで頂きます。






ちょうど良いレアに炙ってますね~




こりゃまた美味い
メニューを一通り食べたくなりました。







というか、ここは肉の量が凄いです。
思わず原価計算したくなるくらい(笑)






だって、半分以上食べても
まだこんなにあるんですよΣ(゚д゚;)








これは男性陣には嬉しいですね。
しかもリーズナブル。







いやー、いい店発見しました。
オーナーさんもフランクな方ですし、
これから利用させてもらいます。






ありがとう、肉本(笑)







というわけで、一件目制覇なり( ー`дー´)!









次回はどこに行こうかな



2015/09/05

リゾーム派生概念「拍子」




リゾーム派生式超克理論について。



自然派生には必ず作用、反作用が起こる。
吸って吐く呼吸しかり、満ちれば引く海の潮しかり。



それは一つのリズム、拍子であって、
生命はそんな無常のリズムによって成立している。



そんな一つの性質が互いに統合され、
新しい何かが創造されているということは、



その素材は二つで一つではなく、
「一つの半分」だと言えるだろう。





片手だけで音は鳴る道理などない。
お互いの掌を衝突されることで「パンッ」と音が生まれるだ。











誰もが皆、どちらかの掌に偏る主義者であるが、
そんなもの、利き腕の違いを論じているだけである。



我々の定義する善悪の判断にしても同様、
そこに完全性はなく、保証することもできない。



なるほど、「善」が何かの圧力によって
最高の価値として観念化されれば、



その定義された「善」は必然的に
対立概念である「悪」も引っ張っくる。



つまり「極」になれないからこそ、
多様性は自然の拍子によって担保されるのだろう。



☞☞



必要なのはその結合認識である。
どちらの性質も蔑ろにしてはいけない。



商売で言えば、ビジネスとアート、
商売と学門といったものの領域を
分けて考える思考ではなく、繋げ方を模索するのだ。



三越を改革した高橋義雄が茶人であるように
商業と美術を結びつけようとする精神が
以前の産業界にはあったのだろう。



なるほど、商売を度外視したからこそ
成立され、持続性を持っているものは
探せばいくらでも見つけることができる。



そうした文化的経済サイクルが
これからの拍子であり、日本流である。




もちろん、ホトトギスが鳴くまで待てるほど
呑気でもないし、潤沢な資源があるわけでもないが、




それは打ち上げ花火であって良い理由にはならないのだ。



☞



嘆賞や悲哀である「ああ、はれ(あはれ)」は
その感情を越えた時、賞賛の意味である
「あっぱれ(天晴れ)」となる。




つまり公家の美意識的文化である(あはれ)が
武家の存在によって新しい美意識へと変化したのだ。



他者との相関関係によって自己は変化流動され
二つの軸を内包しながら統合へ向かう、まさに日本流である。






2015/09/04

仮面の下の下





ニーチェは人が書く行為とは
内部にある「本来」を隠すためだと言っている。




すべての哲学はさらに一つの哲学を隠している。
すべての意見はまた一つの隠れ家であり、
すべてのことばはまた一つの仮面である。
「善悪の彼岸」より。




個人の内部で「思考されたもの」と、外部で
「語られたもの、書かれたもの」は別問題ということだ。



ここを突っ込むのは多少野暮なことではあるが、
それは「振る舞い」によって示される場合が多い。



語る言葉ではなく、その人の行為によって
本質が分かるというのは、こういったことだろう。



なるほど、他者は自分で見ることのできない、
その「背中を見る」のだ。








ちなみに坂口安吾は「碁の打ち方」が
その人の性格を現しているという。



例えば、川端康成や三木清は
その思想や文学(文章)こそ紳士的だが、



碁を指す時には腕力でねじ伏せる喧嘩腰であり、
とても行儀が悪いものだと。



故に、その文学も腕力型の独断家という
視点で読んだ方が、正しいというのだ。




僕は碁を打ったことがないが、
確かに麻雀や将棋などを打っていると
その人の癖というか、性質が垣間見える。




「根幹(あり方)は細部(やり方)に宿る」ということだろう。



ちなみにだが、独断家で有名な小林秀雄は
定石ともいえる素直な碁を打っていたようだ。



実に行儀よく、綺麗に負ける、と。
安吾が小林を批判しながらも尊敬していたのは、
この内的な性格が文章よりも先に来たのかもしれない。



☞☞




これは現代で言う「ハンドルを握れば人が変わる」
と同じようなものだと言える。



普通に考えれば分かることだが、
人の性格がそんなに簡単に変わるわけがない。
それが「その人の本来」、もしくは「側面」だろう。



言葉ではいくらでも隠せるが、行為自体は
いつまでも装うことはできない。
長く付き合ってくるに従い、分かってくるもの。



逆を言えば「ネット内」だけで交わされる
文字だけの付き合いであれば、
十中八九、お互いは幻想の中、作られているだろう。




僕はそんな幻想遊びは好きではないのだが、
「思ったままのことを書いているな」という
ブログを発見するとつい、好んで見てしまう。



もちろん、それと同時に文章に隠された
「思想されたもの」までも見ようとする、とてもイタイ奴であるが(笑)


☞


単純に、現代社会で裏を切らないような
誠実な人がいると「思える」のは嬉しいことだ。




それが(勝手な思い込みであっても)
文章から「素朴なその人」が伝わってくると
心が温かくなる。



今のところ、そんな数名の方のブログを見るのが
毎日の楽しみである。




「後記」


ちなみに最近、この人のブログにハマってます(笑)





混沌と秩序(※2011年記事再アップ)

どもども、unreveのグッさんです。

あっと言う間の週末ですね。



さて、今日のテーマは
「SNSの混沌と秩序」




あくまでも個人的な意見なので盲信なく、です(・ω・)b






☞ ☞ ☞






さて、SNSは匿名性のあるものから
フェイスブックの様な実名まで様々ですが、



インターネットには、まだ秩序というものは
ハッキリと示されていません。



誰が何を書いても許されるわけではないのですが、
書く事自体までには制約はありません。
(アメブロは強制削除とかありますけどね)




さて、では秩序の反対はなんでしょ?
一般的に言えば、それは無秩序、「混沌」です。




では「混沌」は絶対的に悪く、「秩序」は完全な正義か?
という二択は成立するでしょうか。





そんな単純な2択ではありませんね。
なぜなら、無秩序とは生命のエネルギーでもあるからです。




■□■□■□■□



これは中国の神話では、5官が全て失われている
「混沌という怪物」の物語が実にうまく説明しています。



(端折って書きますが)
昔々あるところに、目も鼻も口もない
「混沌」という怪物がいて、日々暴走していました。




村人たちはこの怪物をどうにかする為、
色々と考えた末、



「目と鼻と口を開けてやればいい」と思い、
その怪物が眠っている時にノミを使って穴を開けたところ、



その怪物「混沌」は死んでしまった。
という話です。





つまり「混沌」とは生きるエネルギーであって、
そこに人が作った「秩序」を持ち込んだ為、
怪物は生きる力を失って死んでしてしまった、という事でしょう。




それは(一側面的な論ではありますが)納得できます。



なぜなら、人間的なエネルギーを強圧的な
「秩序」で抑え込まれた時、



我々は生きながらも、まるで
死んだような感覚に陥ってしまうのですから。



■□■□■□■□



思えば、20世紀の社会主義はまさにそうでした。




思考、感情を一つのイデオロギーで画一化され、
体制にたいする全ての批判が封じ込まれた。



当然、そんな自由も生命の躍動もない
国家が長く続く訳もなく、



1989年の東洋諸国にはじまったのを合図に、
91年にはソ連までもが連鎖的に崩壊しています。



人のイニシアティブを奪う事は
生きる力を奪うこととイコールであって、



規模の違いこそあれど、相手を支配しようと
思う精神とは、無意識に人の力を奪ってしまうんですね。



■□■□■□■□




しかし「じゃあ混沌がいいのか?」というと
そうだとも言えません。




例えば、同じ東欧のチェコスロバキアを見てみると、
劇作家であるハバル政権が誕生した際、徹底した自由主義を推進しました。




よかれと思ってか、すべてを
「好きにやろうよ」という国家にしたのです。




しかし、その結果どうなったか?というと
想像と全く違っていたのです。




町には性風俗が溢れ、膨大な数のマフィアが生まれ、
弱肉強食の無法社会となったのです。



なるほど、大きな混乱を引き起こす根幹は
やはり「無秩序」なんでしょうね。




上記の混沌もまた、長く続く訳がなく、
しだいに新しい法や制度が構築されています。





つまり秩序と無秩序とはシーソーゲームなんですね。
(あくまでも外部派生的なものとして)




新しい「秩序」はやがて新しい「混沌」の種となる。
つまり人間の歴史とは「秩序と混沌」の振り子運動を
繰り返しているのでしょう。




そう考えると、現在のインターネットはどうか。
僕はまだ、ネット歴1年程度ですから偉そうなこと言えませんが、





僕が思うのはフェイズブックのような
実名の繋がり自体もまた、
新しい混沌(影)を生む種となる気がするんです。





このブログの最近の規制だってそう。
秩序で抑えすぎると退屈な記事しか書けなくなります。




退屈な記事を誰が見るでしょう?
僕だったらまず見る気がしません。




だからとって無意識的エゴ、欲求の垂れ流しを
「これが私の直感だ、本音だ!」と正当化する
無意識のお化けにもなりたくない。



そんな無意識(無秩序)から何をするか
意識(秩序)的に選択し、決断するのが大事な気がします。





人との繋がりや関係性が重要視されつつある時代、
これからのSNSは秩序と混沌、どちらに偏るでしょうか。






僕はアナログですから、やはり実際に会って話したい人間です^^

ではでは。


2015/09/03

ご案内とか




こんにちわ、坂口です(゜゜)



さて、前回お伝えした案件ですが、
いきなり加盟表明が2社ありまして
幸先良く感じています。



そのうち一社はけっこうな規模。
スタートアップにしては素晴らしいご縁を頂きました。



特に、こういったモデルチェンジビジネスは
タイミングが大事ですから、なおさら嬉しいですね。



☞☞



「一極が極まり成熟飽和すると、
全く違う概念によって揺り戻しが起こる」
(by弥栄モデル)




例えば、世界のウォーターサーバー市場と比べ、
この国はまだpou(水道直結型)の普及が低く、
現在、全体の0.5%程度に過ぎません。



この状態はちょうど10年以上前、
この国で宅配水事業が知られていなかった時と
非常に酷似しているとクライアントさんは言います。



九州で最大手になった経験があるからこそ、
これから来る拍子を、肌感覚で感じているのでしょうね。







というわけで、僕の方でも先行予約を
受け付けてますので、



気になる方はこちらからどうぞ
(unreveのブログを見たと書くとスムーズです)。





みなさんも、三方良しのビジネス、
事業継承の輪に入りませんか^^




2015/09/02

理念の共有とは正解の共有ではない




「私にとっての幸せとは何か」



これは青臭い考えだと言われていますが、
まさに現代の悩みはこれに尽きるでしょう。



では質問。
その私にとっての幸せというその「私(じぶん)」とは、
一体何でしょう?




この最初の問い(根幹)が分からないまま、
別の問い(枝葉)を出している。
だから人は迷うのかもしれません。




というわけで、今日はunreveの
リゾーム派生式FC構築論、
「理念」についてのおさらいです。









さて、(極端ですが)科学は答えを導き出す
学問である反面、


哲学は答えではなく、上記のような
「問い」を立てる学問だと言えます。



現代はこの「問い」が面倒なようで、
すぐさま正解をセミナーやgoogleに求めてしまいがちですが、



「人生とは何か」みたいなものに
正解はありませんよね。



なぜならこれは「問い(問題)」だからです。
誰に聞いても分からないもの。



なるほど、ベルグソンは問題を出すこと自体が
一番難しく、うまく出された問題とは
すなわち答えでもある。と言ってます。



ベルグソンに傾倒した小林もまた、
「学生との対話」でこう書いていますね。



言葉ぐらい人間を助けているものはないけれども、
こういう便利なものはいつでも人間を惑わしますね。


いつでも、物には裏表があるのです。
理性はこんなに人間を助けているけれど、


人間は助けてくれるものの虜になるんです。


不思議です。
だが、こういう不思議を解く人はいません。解けないよね




近代は科学に傾倒しすぎたせいか、
定義できない、正解のないものに対しても、
同じように「正解」を探してしまうのですが、




この正解が「どこかにある」と思ってるから、
青い鳥探しになるんですね。




ただ、自分の代わりがどこにもいないように、
自分の幸福を誰かが代わりにやってるわけ、ありませんわ。



☞☞☞



そもそも答えを見つけることは簡単です、
1+1の解(2)を見つけるなんて、子供だってできます。



この「2を探すこと」に必死になってるということは、
「正解を早く知ろうと焦っている」心の現れでしょう。



しかしプログラムと違って、幸福には
正解もなければ、最短なんて概念もない。



例えば旅行ツアーに行ったとき、
最短で名所を回るルートは一つか二つでしょうが、



それに興味がない人にとっては、
回るルートは全然違うわけでしょう。




☞☞


閑話休題
本題に入ります。



今日のテーマにあるように、私の考える理念も
明確かつ数値的なものではありません。
それは単なる達成目標です。



数値的な達成目標なら、共有は簡単です。
「クラスで優勝を狙うぞ」のように、学校でもやってます。



しかしunreveでの理念とは「絶対的幸福」。
この絶対的幸福に正解なんてありません。



「絶対なのに正解はない?」と思われるでしょうが、
これは長くなるし、言葉で書くと濁ってしまうので
あえて書きませんが、




理念の共有とは、言葉じりをいじくれば
一度に全員が共有できるようなものではないんですね。



☞☞



そこで大事なのが「問い」です。
理念の共有とは各自が自分の内部に打ち出す
「問い」の中にあります。



それが生まれる環境を構築するのが「場の形成」です。
つまり理念の共有とは正解を共有するのではなく
「問いを共有すること」なんですね。



その志向性がマイナスに向かうわけありません。
たった一つの正しさを共有しようとするから、マイナスになるのです。



故に、そこに無秩序はなく、自然派生的な「秩序」がある。
それを僕は「自由秩序」と呼んでいます。



自分のフィルターで解釈したものを絶対とせず、
志向性さえ合わせれば、自由と秩序は対立しないんですよ。



☞☞



これは育児でも同じことがいえるでしょう。
「あれをするな」、「これはダメ」、「こうしなさい」と
子供は正解と不正解ばかり与えられます。



そこで「自分で自由に決める」という問いを
持たせることは、心の形成にとって重要なことです。



なぜなら「自分の事は自分で自由に決める」
という教育は大人になるにつれ、



「自分の人生もまた、自分で決める」という思想に
繋がるからです。



そこには必然的に「問題」が生まれますし、
問題が生まれれば、嫌でも問わずにいられないでしょう。



また、相手の決定した自由と
衝突することもあるかもしれません。




それ自体は悪いことではない。
悪いのはその衝突から「正解」を決めることです。




よって、先に答えを出してやるのは
優しさとは言えません。相互解決力を奪い、
正解依存になってしまう可能性がある。





とまあ、僕の支援はこんな感じでやってます。
あくまでも個人的な方法です(゜゜)





2015/09/01

九月突入~






こんばんわ、坂口です(゜゜)
9月に入りましたね、長月です。







ちなみに今日は「防災の日」ですが、
今ほど、この「災」の言葉が重くなっている時はありません。



首都直下型地震に加え、南海トラフ。
さらには火山の噴火など、いつ起こっても不思議ではない。




しかもいやでも目に入る9月の「災」。
今月は違う意味で「長い月」となりそうな予感が・・・





しません。
根拠はないんですがね、たぶん大丈夫でしょう。






古い物語に縛られるのはこれで終わり。
そこから作り出すのは我々の役目であり、
楽しみであり、希望です。






てなわけで諸君。
今月は特に気合抜いていきますかね(゜゜)







2015/08/31

決めました




こんにちわ、坂口です(゜゜)
秋雨のおかげで、こちらはずいぶんと涼しくなりました。




来月は待ちに待ったお祭り「放生会」や
藤崎八旛宮の例大祭、そして太宰府では
神幸式大祭が開催されるので、楽しみにしてます。












さて、私事で恐縮ですが、
来年40になる前に、行こうと決めたところがあります。







それはどこかといいますと











トルコ!
(ちなみにトルコライスは日本しかないのだ)








まあ、正確には「カッパドキア」に
行きたいんですね(´▽`)













あと、カムッパレとか。
 









そういや、今年に入ってカッパドキアで
「過去最大の地下都市」が発見されてるんですって。




数百の地下都市は、16層という深さがあり
10万人近くの人達が住んでいたと言われます。




これね、かなりミステリーなんですよ。
(話すと長くなるから止めますけどね)




アガルタ、シャンバラ好きな僕からすると、
もうたまりませんわ(笑)




☞☞




現実的なところで言えば、まるで
「リアル風の谷」みたいに岩と町が調和していますし、



食だけを求めて訪れる人がいるってくらい、
トルコはご飯が美味しいらしく、温泉も多い。



イスラム教だけど親日ってのも良いですね。
現地では日本語も通じるみたい。



そして何と言ってもトルコ共和国は
アジアとヨーロッパの「境界線」、





つまり(西洋と東洋)二項の間にある国なのであーる!






間と加減の概念を提唱する以上、
行っとかないとダメでしょ。




そんなわけで、30代最後の記念は
トルコに決定(20代はグアム)です。





☞




いつ行くか未定ですが、とりあえず
10日くらいは滞在したいですね(^^)







ちなみにヨーロッパは嫁さんと
一緒に行きたいので、一人じゃ行きません。









「一生行けねーじゃん」って言った奴、出てこい←幻聴







2015/08/30

コンサル批判




さて、今回は批判記事。
ちょっとばっかり「棘」のある記事です。



見られた方は気分を害さるかもしれません。
そこは一つ、ご了承の程(゜゜)







「スペックやこだわりでは売れない」と
豪語するコンサルがいるようです。



それよりも「コト」を売れ、と。
もちろん、それは確かに大事ではあります。



しかし、それと上記は全く別問題。
というよりも、その考え間違ってますよ(゜゜)



商品に「こだわり」は必要ない、ね。



ではお聞きしますが、そう言っているご自分の
「スペックやこだわり」は何もないと言うのでしょうか。




あるでしょう、絶対。
コンサルってことは、あなた自信が商品だから。



仮にもし、何もないというのなら
「こだわりがない」のが「こだわり」としてありますわ。



こういった矛盾を他人に説いて回りたければ
好きなだけやれば良いでしょう。



その代り、責任は取りなさいよ。
これでもう三回目ですし。



☞☞




確かに、今はどこでも商品に
「こだわり」というものを付ければいいと思ってる。



その多くは似たり寄ったりのこだわりです。
今の飲食チェーン店は自家農園をやってますし、
無農薬栽培を使うところもずいぶん増えました。



ただ、それは当たり前だけど
最近まで「失われていた価値」であって、
それを取り戻そうという流れが起きているということ。



見えないバンパーの下までも塗装するのは
この国ならではの相手(消費者)への心配りや
もてなしであって、



そんな無形の精神が、有形の商品となってるからこそ、
長年日本ブランドを支えていたわけでしょう。



故に、今までの利益先行型である
安かろう悪かろうが「本来へ戻っている」ということと、
売上が「上がる下がる」は全く別問題。




なのになぜ「こだわり=売れない」という
乱暴な方程式が出てくるのか。




それはあなたの難癖を付けた心理が、
手段と目的を一緒にしているから。僕はそう見る。




多分に「こだわり」をポップなど、全面的に
打ち出せというコンサルが一時流行ったので、
それに対する批判でしょうが、




それは集客の手段なんかじゃありません。
前提であり、土台なのであって、
それがあってこそ、手段が活きてくる。



その土台こそ、あなたが良く言ってる
「利他」の精神でしょう。違いますか?



☞☞




確かに、全員がやれば選ばれるという
特別な理由にはなりません。



しかし、それは商売をやる以上、
忘れてはいけないもの。



健康と同様、本当に大事なものは
なかなか気付きません。失ったときに分かるものです。



デフレ期でようやくその過ちに気付き、
国産を始め、安心安全なものを消費者に
提供しようという流れは、歓迎すべきものです。



無添加、無農薬といった安全性や
新鮮で生産者が分かるといった安心感。




これに「専用・専門」を入れたものを
unreveは「2A2S」と呼んでますが、




この2A(安心・安全)は「大前提」。
2S(専用専門)などの質的向上も
結果として「そうなってしまう」のであって、
独自性を狙ってやるもんじゃない。




「好きだから自然にこだわった」のか、
「世間体、集客としてのこだわりなのか」



それに気付かないほど、消費者は
バカじゃない。本当にこだわっているのか
そうじゃないかの違いくらい、分かりますわ。



☞



過去を決して振り返らず、前だけ見て進む人、
トリックスターのようにテクニックだけを好む人は
本来、学びを提供する側には向かない気がします。



なぜなら、学びとは新しい知識を
得ることだけでは成立しないから。



少なくとも、自分が得た知識を、反芻消化し、
確かなものにしていかなければならない。




少なくとも、僕はそう思いますね。
以上、批判終わり。



2015/08/25

○○は宅配から作る時代へ




こんにちわ、坂口です(゜゜)



最近ようやくクライアントさんの展示会が終わりまして、
本部構築も良い感じで進んでいます。







予想以上の反響だった。




さて、ここまで一般に普及するとは思わなかった
ウオーターサーバー業界。



その市場は約2000億弱、
ここ10年でかなり伸びましたし、
種類もずいぶんと多様化されました。



ただ、ミネラルウオーター自体は独自性が
難しい商品、



採水場所や環境配慮(リターナブル)といった
イメージで付加価値を付けてますが、



我々消費者からすれば、正直分かりませんよね(゜゜)




そんな中、うちのクライアントさんは
ものすごい反響があるんです。




なぜなら、今までのウォーターサーバーの
概念自体が全く違うんですね。






公式ホームページはこちらから





さて、このウォーターサーバー、
水を宅配する必要もないし、
家の方が交換する手間もありません。




水道直結型だから、一個いくらではなく「使い放題」。



携帯で言えば「パケ放題」のようなものなんです。




大体、一本(12リットル)で1200円~。




野菜を洗ってもいいし、
カップラーメンに使っても良し(笑)



ペットの飲み水に
使ってるお客さんも多いんですよ。




☞☞




こう書くと「それって、浄水器じゃないの?」と
思われそうですが、これは海水でも飲めるようになるという
逆浸透膜方式、純度99%「RO水」が作れちゃうんですね。







放射線だって除去できるんです。





「RO水タイプの浄水器」って、あるにはあるけど
めちゃめちゃ高いんですよ。
(初期費用も高いし、ランニングコストも高い)



しかも使い勝手も悪かったので、家庭用では
あまり普及しなかったんですね。




そこで、今までは「一本いくら」で
RO水を買ってたんですが、
これならどんどん使えるってこと。




☞☞



また「RO水は不純物を取り除きすぎて、
ミネラルも奪ってしまう」と言いますけど、



これはちょっと情報不足です。
そもそもミネラルはビタミンと違って「安全領域が狭い」。




ミネラルは体内で生成できないので
補う必要性はあるけれど、過剰症が起きやすい。
特に現代は、過剰になりがちなんですね。




気になる方は、一度調べてみるのも良いでしょう。
情報の鵜呑みは危険ですからね。




ちなみに、こんなデザインです。




さて、面白いのがこのウオーターサーバー、
水とお湯だけでなく「氷」まで作れちゃいます。




純度99.9%の氷。
ロックで焼酎とか飲んだら美味しいですよ~


社長の手だけ撮影(笑)





そんな感じで、メリットを挙げると
以下のような感じです。




・価格も既存のサーバーとそこまで変わらない、
・宅配の手間、交換の手間がない
・使いたい放題
・水の質、衛生面がだんとつに高い




普通に考えると、こっちが良いですね(゜゜)




高齢化を考えても、これから先は
宅配ではなく、交換不要型に変わっていくのは
間違いないんじゃないかな、と。




☞☞



さて、そんなウオーターサーバービジネスは
確実な売上げが見込めるストック型なので
新規事業だけでなく、個人の独立希望者にも人気なんですが、




実は、そんなに甘くないんですね。




知り合いを通じても、限度がありますし、
交換の人件費を考えると、利益率は低い。
(副業なんて、まず無理)




そんな中、クライアントさんは水事業をやって
約15年、販売トップクラス。企業母体も
120名規模になってます。




そこで長年蓄積されたノウハウをもとに
新ブランドを立ち上げ、僕はその立ち上げに
参加しています。



この調子でいけば、来年には完成予定ですね。
すてきなご縁ができるといいな。



もちろん、unreve流で構築してますので
低リスクで自由度も高いですよ(゜゜)と。







2015/08/24

残暑見舞い、もす!





こんばんわ、坂口です(゜゜)
今年の夏も節電されることなく終わりそうですね。





暑さに弱い僕からすれば
ほっと一安心です。





勢い余った(笑)








最近ようやく、朝晩が涼しくなりましたが、
秋が来るまで、もうしばし。





皆様もご自愛くださいね~



甚平と扇子という、ベタな代表



2015/08/22

近況とか






この間、ショッピングモールに買い物に行った時のこと。




夕方だったんですが小腹が空いたので
超久しぶりに「サブウェイ」に入ったんですが、




時間帯もあるんでしょうが、
客は僕一人(゜゜)




とりあえずBLTを注文。
パンを選ぼうとしたら新しいのが出てました。



フラットブレッドってやつ。
なんか、ピタパン的な感じでした。




ちなみに何を選んでも
僕はシーザードレッシングです(笑)



野菜多めで。




ただ「久しぶりだから美味しい~♪」はなかった。




最近、個人さんの店のレベルが
高いのもあってか、相対的に見てしまいますね。



「これだよ、この味!」ってのがない。



☞☞





こういったモールって契約上、
どこに行っても同じようなチェーン店ばかり。





接客もやってる感しかないし
味もセンターキッチンでやってます感、強い(゜゜)





デロペッパーの方。
どうでっか、うちのクライアントさんの店、
使ってみまへんか?




ヘビーユーザーになること、確実ですわ。
お客さんだって、ぎょうさん増えまっせ?




ここでは書けない機密保持的なところも・・・







すんまへん、入ってましたな(笑)





☞☞



そんなこんなで、買い物も終わったんで
帰りぎわに本屋に寄ったんですが、




そこで凄い雑誌を発見したんです。
もうね、題名からしてすごかった。





つーかこれ、刺激的すぎでしょ。








なになに・・・






(*゚∀゚)=3 ムッハー






こっ・・・・、こんなに生々しくていいのか。
これじゃまるで・・・・







けっ、けしからぬ。
じつに破廉恥ですぞ!











・・・・・・パラパラ・・・ピタッ。









パラ、ピタ。
ペラ(戻り)。









・・・・パタム。









(。-`ω-)



















か・・・・買います(; ・`д・´)イクラデスカ










というわけで、これまた久しぶりに
雑誌を買ってきてしまいました。








やばいわー、これ。
ずっと見てしまうわー。











眠れんわー。





























2015/08/21

珍しく。。。。







アクセサリー買っちゃいました!






オレンジれんじゃー!








夏っぽいです。
麦わら帽子くらいサマってる。








そしてお値段なんと、1200円なり~









良い買い物した(´ー`)
来週の集まりにしていこ~♪










2015/08/18

自然から学ぶ幸福論



ハイポニカのトマトをご存知ですか?


たった1つのトマトの種から1万個以上の実をつけるという、
常識の栽培方法では出来ないトマト、それがハイポニカのトマトです。





一体どうやったらここまで成長できるのでしょうか?
今日はそれついての小噺でも。


トマト、好きじゃないんですけどね(笑)




さて、実はこのトマト栽培、バイオテクノロジーなどの
科学的なやり方ではなく、水気耕栽培と言われる
方法で育てられているようです。



成長を阻害となる土を無くし、安定した環境で
栄養素や酸素、水を十分与え栽培するという、
いたってシンプルな方法なんですが、
それには大切な条件が2つあると言います。



まず一つが苗の時から水気耕栽培置すること。
植物は周囲の環境を認識し、それに適応して
成長するということ。


故に、成長してから水気耕栽培にしても
うまくいかないらしいですね。ある程度育つと
以前の環境に対応した成長しかできなくなってしまう。



なるほど、紐に繋がれた像と同様、
植物もまた、限界を作ってしまってるのでしょう。



☞☞



さて、そしてもう1つの条件なんですが、
これが実に非科学的なんですね
(非科学、大好きですが)



それは「トマトを信頼するという事」。
育てる人の信じる心が重要だ、というのです。




心配したり、疑いながら育てたりしてもダメ、
また「大きくしてやろう」とコントロールしようとしてもダメだそうです。



これは知識人と言われる人々を悩ませました。
一体何が違うのだろうか?と。
このトマトを研究しようとして栽培にあたった
科学者達の多くが失敗しました。



根が病気になったのを見て、薬を使ったりでもしたら
100%上手く行かなかったし、農家など栽培に
精通している人がやっても成功することができません。




ただそんな中、とても上手に
育てているグループがいたのです。




さて、皆さんは
どんなグループだと思いますか^^?




なんと、一番成功してたのは小学生の
グループだったんですね。







2015/08/17

近況とかつぶやきとか。



こんばんわ、坂口です(゜゜)



やれやれ。お酒飲んで書くとダメですね。
まあ、そう言いながらもやっちゃうんですけどね。




前回の記事、お昼の12時にアップしようと
いつもの感じで予約配信してたんですが、



深夜0時にアップしてたようです。



しかも読んでて、文章が全然繋がってない。
なにこれ。日本に来たばっかりなの?




書いてる時は、すごく良い感じだったのにな・・・
久しぶりのやっちまった感。からの消去。



0時になったら消えるなんて、シンデレラみたいですね。







見られた方、お時間奪っちゃってすいません。




しかしまー、最近あれですね。
良いニュースぜんぜん聞かないですね。



桜島は爆発しそうですし、
安保で国民の怒りは爆発してますし、




中国を見ればホントに爆発してるし。
そりゃ芸術だって爆発しますよ。





もっとこう、ぼーっとしたいもんです。
「将来よくするぞ!」って意気込まなくてもいいくらい。



本来は自然にそう思えるはずですが
たまに不自然に気合入ってる自分がいて、
それに違和感を覚えるんです。



☞☞☞



反面、人生はエキサイティングな遊びだって
言う、タフなハートを持ってる人も多いみたいですね。



ジェットコースターやおばけ屋敷と一緒だから、
心配いらないから、全然大丈夫だからって。



すんごい強いの。
スター取ったマリオくらい、ポテンシャル高い。




「つーか俺、あれ食えば無敵だから」って。
いや、ちゃんとしたもん食えっ!



☞☞




ただね、ビビりから言わせると
その言葉って(半分)間違いなんですよ。




それって前提が安心安全だから
楽しめるわけでしょ。



ジェットコースターは安全バーがある。
作業員が毎日点検してるから、乗れるんです。



おばけ屋敷だって、憑りつかれないでしょ。
だって人だし、アルバイトだし。



つまり僕らは安心しつつ、
ワーワーキャーキャー言ってるってこと。



これが安全じゃない絶叫マシーンとか
お化け屋敷だったら、どうですか。




まず叫び声から違いますって。



地声出る





そう考えると、僕らは必死になって遊んでる。
正確に書くならこれが正しい。




不安になるのはごく自然なことです。
ピクニック好きなら、なおさらそう。




だからまず、安全安心っていう土台を
作ることが、最優先だと思ってます。




それが何かは答えられないんですが、



「金の稼ぎ方」じゃないのは確かです。






2015/08/15

三方良し、分かち合う心




消費活動において合理的という
価値観が強くなれば、他の価値が見えにくくなります。



仮に他の価値を感じたとしても、
継続的に利用するのは難しいでしょう。



これは地方と都市、商店街とショッピングモールを
比べてみれば、分かりやすいかもしれませんね。



例えば商店街が無くなるのは寂しい、
だけど商店街で買い物をする機会は少ない。



地方の良さは分かっているけれど、
都会と地方どっちかに住めと言われれば、
大半が都会を選ぶんじゃないでしょうか。



良い悪いという話ではなくて、僕はそんな
二律背反的な揺らぎに注目しています。



品質や価格や利便性や合理性で選ぶのが
賢い選択であるのにも関わらず、



商店街や地方が衰退し、
無くなってしまうのは困ると感じているという「揺らぎ」。



そんな頭では説明できない「心の声」に
耳を傾けるには、どうアプローチしたらいいのかな、と。





多分に、それは最大公約数的な市場の声、
多くの人の中に潜在されたものではないでしょうか。



もし、進化、洗練することに
絶対的な意味があるという価値観であるならば、



次々と目新しいものが生まれないといけないし、
常に心が刺激されるような体験が「外部」にないと、
その社会は価値が低いものとみなされます。



そうなると昔ながらの商店街は
なくなった方がいいでしょうし、


田舎にばんばんチェーン店が出来て
同じ風景になっても構わないはずです。



しかしそうじゃない。
なんだか「味気」がなくなってくるんです。



つまり、ノスタルジックなものと
フューチャリズムは同一線上ではなく、
別のところにあって、



それらが重なった多層的なものを
我々は求めているのかもしれません。



☞☞☞



僕が日本流を市場に投じ、問いかけているのも、
そんな今の価値観に対するアンチテーゼというよりも、
もう一つの素材に近いもの。



今の共同体で蓋をしてしまいがちな「感じる心」。
活気とか、馴染みとか、和気とか、心地のような
内部派生のビジネスをもっと広げたいんですね。



もちろん、実利なくして(今の)商売は語れない。
精神論や感情論だけでは成り立たないし、
マンネリズムに陥らないための新陳代謝は必要だと思います。



ただ商行為を初め、我々の住む世界は
人を媒体として成立しているという根幹は変わりません。



最新のロボットも、資本主義も
結局は人が作り出したわけでしょ。



そう考えると、今の盛隆と衰退は
必然的な自然淘汰のようなものではなく、



個々の価値の再定義次第で
揺り戻しが起こるんじゃないかしらん。




☞☞



消費が全てオートメーション化されるなら、
合理的な判断だけで決定されるでしょう。
より安くて、より高性能なものを選ぶだけです。



しかし我々は機械ではない。
さらに言えば、上記価値は相対的なもの。



祭りや旅行先で財布の紐がゆるくなるのは、
価値判断が一定ではない証拠ですよね。




また、我々は自分以外の人や物に対し、
考えることができる利他の精神があります。



それは感情論ではなく、それ以前にある。
誰だって当たり前に持っている根っこの部分です。



だから、それが完全に失われそうになると
「寂しい」と感じるんじゃないですかね。



成熟期の新しい概念は、新しさの中ではなく、
そんな以前からあったものの中に眠っているんじゃないかな。




例えるなら
錆びていたものを磨く、みたいな。



☞


突き詰めれば、それは内と外の統合を目指すこと。
利己と利他、どっちも共存させること。




昨日は君、今日は僕。
そして、明日は知らない誰かになれるってこと。





2015/08/13

盆じゅーる(・ω・)ノ




こんばんわ、坂口でございまする。



お盆ということで、地元に帰省されてる方も
多いでしょうね。帰省ラッシュご苦労様です。




ちなみに当事務所では今日からお休み。



夏を満喫しきれてないので
どこぞに行こうかと思ったんですが、



買って手を付けてない本が溜まりだしたので
それを読みながら、ゆっくり過ごそうと思ってます。




盆明けからすぐ、新規案件の着手。
がんばるぞイ




筆がボロボロだったので買い換え。書きやす~




2015/08/09

お祭り日記




こんばんわ。







祭り男です。






熊本の「火の国まつり」に行ってきましたぜ(・∀・)






そしてこの日は珍しく、友人と一緒です。










センターちょ、石やん
(これでも一部上場企業の管理職なのだ)





実はこの日に行く予定が
延期になりまして、





誘ってみたら来てくれました。
おかげで飲める(∩´∀`)∩ヤタ





というか、アラフォー男ふたりで祭りって、
とてもシュールですね(笑)





☞☞




さて、開催場所は熊本の中心部、
電車通りで行われます。





このように、メインストリートが封鎖され、






そこに大勢の祭りっ子たちが躍り出てきます(笑)






どんどん増えてきましたね~
観客も増えてきてます。






増えt






増えすぎ





でも楽し。



祭りは老若男女、
国籍関係ないから良いですね。


 




ビアガーデンからの写真。
向こうにはライトアップされた熊本城が見えます。

風情がありますな





そういや、くまモンも踊ってました。



この暑さの中、あの着ぐるみを・・
個人的に、くまモンがベストオブ・イヤーです。




☞☞




さて、祭りを楽しんだあとは食の楽しみ。
最近、どっちがメインか分かりません(笑)




行ってきたのは「呑み処 山口屋」さん。
熊本名物を堪能できるお店です。







まずはやっぱり馬刺しから!




とくじょ、美味~(*´Д`)




からの溶岩焼き!
牛、馬、鳥と、一気に焼いていきます







塩か、ポン酢とゆず胡椒で食べます。
味わい深いですね~。




からのイペリコ豚バラ!
いつものように、タバコと比べてます(笑)








このように、
お酒にとっても合う料理ばかりなんですが、

















ハンドルキーパーは
ひたすら食ってましたw






ありがとね~(´▽`)次回もよろしく